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39 大貴族の落日8(アルフォンス視点)
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結局、父を説得できないまま、今日という日を迎えてしまった。朝から父とともに取引所を訪ねた私は、貴族用に設えられた個室のソファに腰かけた。
相場をはる貴族というのは珍しくない。競馬やカードのように、賭け事として楽しむわけだが、ギャンブルとしてはいささか地味なきらいがいなめない。結果が出るまでに数時間から下手をすると数カ月かかることもあるからだ。
一方で、一度でも取引を当てたら、やみつきになってしまうものも多いのだ。熱狂に包まれる取引所の、その雰囲気ごと好きになってしまうらしい。とはいえたいていの場合、海千山千の商人にしてやられて損をするのだが。
「勝ちはすでに決まっているのだ」
そう父は断言する。たしかに今日まで、市場には綿花が出回っていない。ラングハイム家が裏から手を回して、南部からの今年の出荷を抑え込んでいるからだ。ゆえに、いまの時点ですでに綿花相場は高騰しはじめていた。
「あとは上がり続けるしかないのだ。儂が潤沢な資金で強引な買いを続けるのだからな。アルフォンス、ラングハイム家は今日、市場の綿花をすべてさらうぞ」
果たしてそう上手く行くだろうか。目の前のローテーブルに広げられた、右肩上がりのグラフに目を落とし、私は不安を拭いされなかった。
個室の壁は、一面がガラス張りになっており、取引の様子が高みから見下ろせるようになっている。そこで、ふとこちらを見上げているひとりの男と目があった。どこかで見覚えがある━━私は帝国内の要人の顔はひととおり覚えるようにしている。どこかで一度見かけたら、忘れないようにしているのだ。
思い出した。あれはシェーンハイト商会の会頭…たしかマルコ・シェーンハイトといったか。
シェーンハイトは帝都三大商会のひとつだ。私が財界の重鎮の顔を見忘れることはない。年賀の挨拶で顔を合わせたことがあって覚えていたのだろう。むろん、ラングハイム家の取引一切は、ガイガー商会が独占しているから、本当に挨拶程度のことだったはずだが。
マルコに会釈されて、私は鷹揚に応えた。それにしても、シェーンハイトの会頭自らが取引所に出向くなど、今日は何か大きな取引でもあるのだろうか。
そうこうしているうちに、今日の取引が開始される。さざ波のようにはじまった取引だが、10分もたたないうちから、取引所の中は怒号のような喧騒に包まれた。数こそ少ないものの、わずかずつ綿花の売りも出はじめる。
「買いだ、買えっ。いくらでもかまわん、綿花はすべて買え!」
乱暴な買い方で、父は手元に綿花を集める。こうなると売り手も盛り上がるのだろう。信じられないほどの高額で、綿花が続々と市場に売り出された。
2時間後、デニス・ガイガーが個室を訪ねてきた。デニスは取引に熱中する父に無視されながら挨拶を済ませると、ふと罫線図に目を落として、みるみるうちに青ざめはじめた。
「な、なんという上がりかただ…」
そして私に向き直ると、詰問口調で訊いてくる。
「公爵閣下は、いったいどのような買い方を?」
私は気まずい感じで首を横に振るしかなかった。
「いくらでもかまわん、とにかく買えと」
「馬鹿なっ、いくら資金が潤沢とはいえ、限りがあるのですぞ」
もはや暴騰といっていい綿花相場の盛り上がりを、デニスは恐怖する眼差しでみつめる。
「閣下は、やはりあの件を軽視されたままなのですか?」
「はい、父は伯爵家など歯牙にもかけぬという態度です。やつらが裏切るはずがないと、断言されて」
「たった一家でも裏切ったら、ラングハイム家は破産するとしてもですか?」
「えっ」
さすがにそれは意外なひとことだった。だがデニスの表情は真剣だ。
「私も閣下が、これほどの買い方をされているとは思いませんでした。見てくださいアルフォンスさま。ラングハイム家以外からも、綿花の買いが出はじめています。今買って、2時間後にラングハイム家に売りつければ、どんな額でも売れると、彼らは理解しているのです。ラングハイム家はカモにされているのですよ」
今度は私が青ざめる番だった。デニスは不安をにじませながら言う。
「取引がはじまってまだ2時間ですが━━すでにラングハイム家の財産は、半分が綿花相場につぎこまれております。このあとの上がりかたから予想すると、いまの資金ではギリギリもいいところ。なんとかすべての綿花を市場からさらうことができたとして、どこかの伯爵家が裏切ってしまえばもうおしまいです。あらたに出回った綿花すべてを、ラングハイム家が買い切ることなど不可能でしょう」
「ならば今すぐ父を止めて━━」
デニスが首を横に振る。
「なんと言って止めるのですか?いま止めれば、ラングハイム家の大損で終わるのです。それを閣下がご承知めされるとお考えですか?」
「うっ」
私は言葉をつまらせた。
「私も止めました、アルフォンスさまも止めました。ですが閣下はお聞き入れくださらなかった。我々が閣下をお止めする根拠は、とどのつまり南部の伯爵家が裏切る可能性です。そのことをご理解いただけない限り、損を承知で取引を切り上げることなど、閣下が良しとされるはずがございません」
室内には父のかすれた声が響いている。顔を真っ赤にし拳をふりあげて叫び続ける、動物じみた父の姿に、ぞっと寒気がした。
「買えっ、買えっ、買えっ、買えっ、買いつくせぇえぇっ!」
いまとなってはもう、南部から裏切りが出ないことを祈るほかない。すべての綿花をラングハイム家がさらいきれば、異常な価格の木綿をグレッツナー家に押しつけることができる。だが、グレッツナー伯がラングハイム家以外から木綿を買える可能性を残してしまえば、我が家は売りぬくことも不可能な高額の綿花を抱えたまま、家も財産も失くして路頭に迷うしかないのだ。
どうしてこんなことになってしまったのだ。
私はなお熱狂する取引を見つめながら、胃の痛みがともなう吐き気を、必死にこらえていた。
相場をはる貴族というのは珍しくない。競馬やカードのように、賭け事として楽しむわけだが、ギャンブルとしてはいささか地味なきらいがいなめない。結果が出るまでに数時間から下手をすると数カ月かかることもあるからだ。
一方で、一度でも取引を当てたら、やみつきになってしまうものも多いのだ。熱狂に包まれる取引所の、その雰囲気ごと好きになってしまうらしい。とはいえたいていの場合、海千山千の商人にしてやられて損をするのだが。
「勝ちはすでに決まっているのだ」
そう父は断言する。たしかに今日まで、市場には綿花が出回っていない。ラングハイム家が裏から手を回して、南部からの今年の出荷を抑え込んでいるからだ。ゆえに、いまの時点ですでに綿花相場は高騰しはじめていた。
「あとは上がり続けるしかないのだ。儂が潤沢な資金で強引な買いを続けるのだからな。アルフォンス、ラングハイム家は今日、市場の綿花をすべてさらうぞ」
果たしてそう上手く行くだろうか。目の前のローテーブルに広げられた、右肩上がりのグラフに目を落とし、私は不安を拭いされなかった。
個室の壁は、一面がガラス張りになっており、取引の様子が高みから見下ろせるようになっている。そこで、ふとこちらを見上げているひとりの男と目があった。どこかで見覚えがある━━私は帝国内の要人の顔はひととおり覚えるようにしている。どこかで一度見かけたら、忘れないようにしているのだ。
思い出した。あれはシェーンハイト商会の会頭…たしかマルコ・シェーンハイトといったか。
シェーンハイトは帝都三大商会のひとつだ。私が財界の重鎮の顔を見忘れることはない。年賀の挨拶で顔を合わせたことがあって覚えていたのだろう。むろん、ラングハイム家の取引一切は、ガイガー商会が独占しているから、本当に挨拶程度のことだったはずだが。
マルコに会釈されて、私は鷹揚に応えた。それにしても、シェーンハイトの会頭自らが取引所に出向くなど、今日は何か大きな取引でもあるのだろうか。
そうこうしているうちに、今日の取引が開始される。さざ波のようにはじまった取引だが、10分もたたないうちから、取引所の中は怒号のような喧騒に包まれた。数こそ少ないものの、わずかずつ綿花の売りも出はじめる。
「買いだ、買えっ。いくらでもかまわん、綿花はすべて買え!」
乱暴な買い方で、父は手元に綿花を集める。こうなると売り手も盛り上がるのだろう。信じられないほどの高額で、綿花が続々と市場に売り出された。
2時間後、デニス・ガイガーが個室を訪ねてきた。デニスは取引に熱中する父に無視されながら挨拶を済ませると、ふと罫線図に目を落として、みるみるうちに青ざめはじめた。
「な、なんという上がりかただ…」
そして私に向き直ると、詰問口調で訊いてくる。
「公爵閣下は、いったいどのような買い方を?」
私は気まずい感じで首を横に振るしかなかった。
「いくらでもかまわん、とにかく買えと」
「馬鹿なっ、いくら資金が潤沢とはいえ、限りがあるのですぞ」
もはや暴騰といっていい綿花相場の盛り上がりを、デニスは恐怖する眼差しでみつめる。
「閣下は、やはりあの件を軽視されたままなのですか?」
「はい、父は伯爵家など歯牙にもかけぬという態度です。やつらが裏切るはずがないと、断言されて」
「たった一家でも裏切ったら、ラングハイム家は破産するとしてもですか?」
「えっ」
さすがにそれは意外なひとことだった。だがデニスの表情は真剣だ。
「私も閣下が、これほどの買い方をされているとは思いませんでした。見てくださいアルフォンスさま。ラングハイム家以外からも、綿花の買いが出はじめています。今買って、2時間後にラングハイム家に売りつければ、どんな額でも売れると、彼らは理解しているのです。ラングハイム家はカモにされているのですよ」
今度は私が青ざめる番だった。デニスは不安をにじませながら言う。
「取引がはじまってまだ2時間ですが━━すでにラングハイム家の財産は、半分が綿花相場につぎこまれております。このあとの上がりかたから予想すると、いまの資金ではギリギリもいいところ。なんとかすべての綿花を市場からさらうことができたとして、どこかの伯爵家が裏切ってしまえばもうおしまいです。あらたに出回った綿花すべてを、ラングハイム家が買い切ることなど不可能でしょう」
「ならば今すぐ父を止めて━━」
デニスが首を横に振る。
「なんと言って止めるのですか?いま止めれば、ラングハイム家の大損で終わるのです。それを閣下がご承知めされるとお考えですか?」
「うっ」
私は言葉をつまらせた。
「私も止めました、アルフォンスさまも止めました。ですが閣下はお聞き入れくださらなかった。我々が閣下をお止めする根拠は、とどのつまり南部の伯爵家が裏切る可能性です。そのことをご理解いただけない限り、損を承知で取引を切り上げることなど、閣下が良しとされるはずがございません」
室内には父のかすれた声が響いている。顔を真っ赤にし拳をふりあげて叫び続ける、動物じみた父の姿に、ぞっと寒気がした。
「買えっ、買えっ、買えっ、買えっ、買いつくせぇえぇっ!」
いまとなってはもう、南部から裏切りが出ないことを祈るほかない。すべての綿花をラングハイム家がさらいきれば、異常な価格の木綿をグレッツナー家に押しつけることができる。だが、グレッツナー伯がラングハイム家以外から木綿を買える可能性を残してしまえば、我が家は売りぬくことも不可能な高額の綿花を抱えたまま、家も財産も失くして路頭に迷うしかないのだ。
どうしてこんなことになってしまったのだ。
私はなお熱狂する取引を見つめながら、胃の痛みがともなう吐き気を、必死にこらえていた。
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