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偽物婚約者(8)
二人きりの部屋は気まずかった。
昨日の今日、ということもあるのだろうけれど、それ以上にアンリの視線が落ち着かない。
コンラート様もレーア様も戻ってくる様子はなく、静かな部屋に、紅茶の湯気だけがゆらゆらと揺れる。
「……その」
沈黙に耐えられなかったのは私の方だ。
膝の上で両手を握り合わせ、熱を持った頭から、どうにか会話の糸口を探し出す。
「う、上手くいくでしょうか、マルティナの計画。……フロランス様やコンラート様がついてくださっているのに、不安になるのも恐れ多いのですけれど」
「どうだろうな。父上があんな調子だし」
私の言葉に、アンリは肩を竦めて返す。
顔に浮かぶ表情は苦々しい。思わず、と言いたげに漏れたため息には、諦念がにじんでいた。
「俺の想い人は、オレリアではないと言い続けていたんだけど、わかってくれなかったみたいだ。否定すればするほど、俺が意地を張っているんだと勘違いさせてしまったみたいで」
そう言ってから、彼は「でも」と首を振る。
「君の名を出すわけにはいかなかったから」
「…………」
「君の名を出せば、フロヴェール家に――君の父親にも、話が届いてしまう。それはたぶん、君の本意ではないだろうから」
膝で握る手に力がこもる。
頭に浮かぶのは、かつての父の犯した罪と、今なお続くという父の不審な動きのことだ。
アンリの想い人として私の名前が出れば――もしも、私が王子妃となるかもしれないと知れば、父はどう思うだろう。
――利用しないはずがないわ。
王子妃の父という身分があれば、今よりずっと影響力は強くなる。
国の内部に入り込むこともできるだろう。勇者であるアンリにも近づきやすくなる。
そうしてきっと、父はまた――人間を、裏切るために動くのだろう。
――私が。
私が――アンリの傍にいるせいで。
「……ミシェル。俺がマルティナの計画を考えたのはね」
知らず肩を震わせる私に、アンリは静かな声で言った。
顏を上げれば、深い海のような瞳と視線が合う。
「君を、あの家から離したかったからなんだ。君がミシェル・フロヴェールではなくて、まったく別の誰かになれたなら、って」
細められた青い目は、優しくて、それと同じだけ苦しそうだ。
紅茶の湯気がくゆる。少しだけ、アンリの輪郭がぼやけて見える。
「君がフロヴェール家から離れられたなら――過去も身分もない、ただ一人の君としてなら、俺の求婚を受けてくれるんじゃないかと思っていた」
――ただ、一人の。
アンリの言葉を、私は頭の中で反芻する。
フロヴェール家ではない、ただ一人の私でいられたら。父のことも、罪のことも忘れられたなら。
そうなれたらと、何度思ったことだろう。
私がミシェル・フロヴェールでなければ、話は簡単だった。
アンリを待たせることも――きっと、悲しませることもなかったはずだ。
でも。
「俺は君から答えを聞いているし、この婚約も偽物だ。それはわかっているつもりだけど――」
未練がましいな、と言って、アンリは恥ずかしそうに頬を掻く。
それから改めたように姿勢を正し、私に向き直った。
「今でも、この婚約が本物になればいいって思っているんだ」
「――――わ」
私も――とは、言えなかった。
続く言葉を呑み込んで、私は逃げるように目を伏せる。
――別人には、なれない。
伏せた視線の先、赤い紅茶の水面に、遠い記憶の父の姿が浮かぶ。
魔族に与し、人間を裏切り、アンリの命さえ狙った父は、今も罪を問われることなく存在し続けている。
――それに、私が忘れたとしても。
きっと、父は私を忘れてはくれない。
アンリの傍にいる私を、利用する機会をうかがい続けているはずだ。
蛇のような父の目に見られている気がして、私は肩を震わせた。
昨日の今日、ということもあるのだろうけれど、それ以上にアンリの視線が落ち着かない。
コンラート様もレーア様も戻ってくる様子はなく、静かな部屋に、紅茶の湯気だけがゆらゆらと揺れる。
「……その」
沈黙に耐えられなかったのは私の方だ。
膝の上で両手を握り合わせ、熱を持った頭から、どうにか会話の糸口を探し出す。
「う、上手くいくでしょうか、マルティナの計画。……フロランス様やコンラート様がついてくださっているのに、不安になるのも恐れ多いのですけれど」
「どうだろうな。父上があんな調子だし」
私の言葉に、アンリは肩を竦めて返す。
顔に浮かぶ表情は苦々しい。思わず、と言いたげに漏れたため息には、諦念がにじんでいた。
「俺の想い人は、オレリアではないと言い続けていたんだけど、わかってくれなかったみたいだ。否定すればするほど、俺が意地を張っているんだと勘違いさせてしまったみたいで」
そう言ってから、彼は「でも」と首を振る。
「君の名を出すわけにはいかなかったから」
「…………」
「君の名を出せば、フロヴェール家に――君の父親にも、話が届いてしまう。それはたぶん、君の本意ではないだろうから」
膝で握る手に力がこもる。
頭に浮かぶのは、かつての父の犯した罪と、今なお続くという父の不審な動きのことだ。
アンリの想い人として私の名前が出れば――もしも、私が王子妃となるかもしれないと知れば、父はどう思うだろう。
――利用しないはずがないわ。
王子妃の父という身分があれば、今よりずっと影響力は強くなる。
国の内部に入り込むこともできるだろう。勇者であるアンリにも近づきやすくなる。
そうしてきっと、父はまた――人間を、裏切るために動くのだろう。
――私が。
私が――アンリの傍にいるせいで。
「……ミシェル。俺がマルティナの計画を考えたのはね」
知らず肩を震わせる私に、アンリは静かな声で言った。
顏を上げれば、深い海のような瞳と視線が合う。
「君を、あの家から離したかったからなんだ。君がミシェル・フロヴェールではなくて、まったく別の誰かになれたなら、って」
細められた青い目は、優しくて、それと同じだけ苦しそうだ。
紅茶の湯気がくゆる。少しだけ、アンリの輪郭がぼやけて見える。
「君がフロヴェール家から離れられたなら――過去も身分もない、ただ一人の君としてなら、俺の求婚を受けてくれるんじゃないかと思っていた」
――ただ、一人の。
アンリの言葉を、私は頭の中で反芻する。
フロヴェール家ではない、ただ一人の私でいられたら。父のことも、罪のことも忘れられたなら。
そうなれたらと、何度思ったことだろう。
私がミシェル・フロヴェールでなければ、話は簡単だった。
アンリを待たせることも――きっと、悲しませることもなかったはずだ。
でも。
「俺は君から答えを聞いているし、この婚約も偽物だ。それはわかっているつもりだけど――」
未練がましいな、と言って、アンリは恥ずかしそうに頬を掻く。
それから改めたように姿勢を正し、私に向き直った。
「今でも、この婚約が本物になればいいって思っているんだ」
「――――わ」
私も――とは、言えなかった。
続く言葉を呑み込んで、私は逃げるように目を伏せる。
――別人には、なれない。
伏せた視線の先、赤い紅茶の水面に、遠い記憶の父の姿が浮かぶ。
魔族に与し、人間を裏切り、アンリの命さえ狙った父は、今も罪を問われることなく存在し続けている。
――それに、私が忘れたとしても。
きっと、父は私を忘れてはくれない。
アンリの傍にいる私を、利用する機会をうかがい続けているはずだ。
蛇のような父の目に見られている気がして、私は肩を震わせた。
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