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魔王の心(1)
王宮は魔族に乗っ取られ、兵たちは洗脳された。
王宮に詰めているはずの官吏の行方はわからず、貴族たちも取り残されたまま。
王都の人々は正気のようだったが、それも時間の問題だろう。
その上――。
「その、魔王の心とでも言うべきものが、アンリの中にある――というのですね」
日の暮れかけたころ。
ようやく離宮に戻った私たちの報告を聞いて、フロランス様は険しい表情を浮かべた。
「どうりで、ミシェルを遠ざけようとするわけだわ」
苦々しく歪む口元を扇子で隠し、フロランス様は頭を振る。
痛ましいその姿を、私は末席から窺い見ていた。
現在、私がいるのは、フロランス様の私室だ。
部屋には私の他に、部屋の主であるフロランス様と、アンリ、アデライト、コンラート様だけ。
事情が事情のため、大臣たちも遠ざけての極秘の話し合いだった。
「ミシェルを避けていたころから――つまり、このグロワールに戻ってきたときには、すでに自覚はあったということね。……どうして、こんな大事なことを黙っていたのです」
フロランス様の視線がアンリに向かう。
咎めるようなその視線に、彼は目を伏せた。
「……言えませんよ」
出てくる声は自嘲めいていた。
口元さえも歪めて、アンリは重たく息を吐く。
「俺は勇者です。この世で、俺より強い相手は知りません」
アンリの言葉はうぬぼれでもなんでもなく、ありのまま事実だった。
彼は、誰も倒せないと言われた史上最悪の魔王を打ち倒した、勇者なのだ。
剣技で右に出る者はなく、数多の精霊の祝福を受け、そのうえ桁外れの魔力まで持っている。
アンリ自身は暴走を恐れて魔法を封印しているが、おそらく魔法でも他の追随を許さない。
アンリに対抗できるのは、共に旅をしてきた仲間たち――聖女オレリア、剣士クロード、賢者マリユスの三人くらいだろうか。
だけど彼らといえども、魔王の力まで加わったアンリに敵うとは思えない。
「俺の存在は、人間にとっての絶望です。……自分でも、わかるんです。今の俺に勝てる相手は、人間にも、魔族にも存在しない」
「…………」
フロランス様は無言のまま、眉間のしわを深める。
扇子を握る手の震えが、言葉にならない彼女の感情を教えてくれた。
魔王に侵攻された世界で、アンリは希望だった。
増え続ける魔物に、絶え間のない魔族の襲撃。人間の国はいくつも魔族に滅ぼされ、このグロワールの民も多く傷ついた。
その希望が、絶望に裏返ったことを、どうして伝えることができるだろう。
最悪と呼ばれた魔王よりも、さらに強い魔王が現われたとき――人間は、再び希望を持つことができるだろうか?
――……言えないわ。
多くの人々に称えられながら、アンリは自分を『卑怯者』と罵った。『軽蔑するだろう』と私に言った。
あのとき彼の抱えていた重さを、今さらながらに思い知る。
軽蔑なんて――どうやっても、できるわけがなかった。
「……事情はわかりました。ですが、一人で抱えていられるものでもないでしょう。魔族のこともありますし――あなた自身についても」
長い沈黙のあとで、フロランス様は押し殺した声で言った。
震える手をもう一方の手で押さえつけ、瞳だけは凛としてアンリを見る。
「魔王の心を抱えて、あなたに問題はないの?」
「……落ち着いているときであれば、今のところは」
アンリはそう言って、確かめるように自分の胸に手を当てた。
「普段は、俺としての意識が強くあります。冷静でいる間は問題ありません。よほど腹でも立てない限りは、魔王としての側面を見せないようにできます」
――魔王としての側面を……『見せない』?
思わず聞き流してしまいそうな、さりげない彼の言葉に引っかかる。
魔王の心を『抑える』でも『封じる』でもなく、『見せない』。
その言い方だと、まるで――。
――魔王である方が、本当みたいに聞こえるわ。
頭に浮かんだ想像を、私は慌てて振り払う。
それでも、どうやっても、嫌な予感は消せなかった。
王宮に詰めているはずの官吏の行方はわからず、貴族たちも取り残されたまま。
王都の人々は正気のようだったが、それも時間の問題だろう。
その上――。
「その、魔王の心とでも言うべきものが、アンリの中にある――というのですね」
日の暮れかけたころ。
ようやく離宮に戻った私たちの報告を聞いて、フロランス様は険しい表情を浮かべた。
「どうりで、ミシェルを遠ざけようとするわけだわ」
苦々しく歪む口元を扇子で隠し、フロランス様は頭を振る。
痛ましいその姿を、私は末席から窺い見ていた。
現在、私がいるのは、フロランス様の私室だ。
部屋には私の他に、部屋の主であるフロランス様と、アンリ、アデライト、コンラート様だけ。
事情が事情のため、大臣たちも遠ざけての極秘の話し合いだった。
「ミシェルを避けていたころから――つまり、このグロワールに戻ってきたときには、すでに自覚はあったということね。……どうして、こんな大事なことを黙っていたのです」
フロランス様の視線がアンリに向かう。
咎めるようなその視線に、彼は目を伏せた。
「……言えませんよ」
出てくる声は自嘲めいていた。
口元さえも歪めて、アンリは重たく息を吐く。
「俺は勇者です。この世で、俺より強い相手は知りません」
アンリの言葉はうぬぼれでもなんでもなく、ありのまま事実だった。
彼は、誰も倒せないと言われた史上最悪の魔王を打ち倒した、勇者なのだ。
剣技で右に出る者はなく、数多の精霊の祝福を受け、そのうえ桁外れの魔力まで持っている。
アンリ自身は暴走を恐れて魔法を封印しているが、おそらく魔法でも他の追随を許さない。
アンリに対抗できるのは、共に旅をしてきた仲間たち――聖女オレリア、剣士クロード、賢者マリユスの三人くらいだろうか。
だけど彼らといえども、魔王の力まで加わったアンリに敵うとは思えない。
「俺の存在は、人間にとっての絶望です。……自分でも、わかるんです。今の俺に勝てる相手は、人間にも、魔族にも存在しない」
「…………」
フロランス様は無言のまま、眉間のしわを深める。
扇子を握る手の震えが、言葉にならない彼女の感情を教えてくれた。
魔王に侵攻された世界で、アンリは希望だった。
増え続ける魔物に、絶え間のない魔族の襲撃。人間の国はいくつも魔族に滅ぼされ、このグロワールの民も多く傷ついた。
その希望が、絶望に裏返ったことを、どうして伝えることができるだろう。
最悪と呼ばれた魔王よりも、さらに強い魔王が現われたとき――人間は、再び希望を持つことができるだろうか?
――……言えないわ。
多くの人々に称えられながら、アンリは自分を『卑怯者』と罵った。『軽蔑するだろう』と私に言った。
あのとき彼の抱えていた重さを、今さらながらに思い知る。
軽蔑なんて――どうやっても、できるわけがなかった。
「……事情はわかりました。ですが、一人で抱えていられるものでもないでしょう。魔族のこともありますし――あなた自身についても」
長い沈黙のあとで、フロランス様は押し殺した声で言った。
震える手をもう一方の手で押さえつけ、瞳だけは凛としてアンリを見る。
「魔王の心を抱えて、あなたに問題はないの?」
「……落ち着いているときであれば、今のところは」
アンリはそう言って、確かめるように自分の胸に手を当てた。
「普段は、俺としての意識が強くあります。冷静でいる間は問題ありません。よほど腹でも立てない限りは、魔王としての側面を見せないようにできます」
――魔王としての側面を……『見せない』?
思わず聞き流してしまいそうな、さりげない彼の言葉に引っかかる。
魔王の心を『抑える』でも『封じる』でもなく、『見せない』。
その言い方だと、まるで――。
――魔王である方が、本当みたいに聞こえるわ。
頭に浮かんだ想像を、私は慌てて振り払う。
それでも、どうやっても、嫌な予感は消せなかった。
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