55 / 76
魔王の心(2)
しおりを挟む
「あなたそのものが変わるわけではないのですね」
少しだけほっとした様子で、アデライト様は息を吐く。
「今こうして話していても、私の知るアンリと変わらないわ。……でも、まったく影響を受けないわけではないのでしょう?」
「……はい」
わずかなためらいのあとで、アンリはそう答えた。
それから言葉を迷うように一度口を閉ざし、視線をさまよわせる。
「感覚的なことなので説明がしにくいですが……魔王の心があっても、俺の意志や考え方が消えるわけではありません。魔王の本体は明確な意志を持つ存在ではなく、ただ少し――思考を引っ張るだけなんです」
「引っ張る?」
問い返すフロランス様に、アンリは頷いた。
「魔王らしい思考……と言うのでしょうか。魔物を恐れなくなったり、魔族に対して親近感を抱いたり。あとは――」
言いかけて、アンリは慌てて自分の口元を押さえる。
失言をしそうになったのだと、傍から見てもわかった。
「あとは、なんですか」
「…………」
「言いなさい、アンリ」
沈黙を許さず、フロランス様は強い視線をアンリに向けた。
アンリは口に手を当てたまま、それでも答えようとしない。
互いに険しい顔を突き合わせ、少しの気まずい沈黙が流れた。
「…………です」
先に視線を逸らしたのは、アンリの方だった。
彼は一度、部屋にいる全員を見回してから、もう一度告げる。
「楽しいんです」
――楽しい……?
その言葉は、今のアンリの様子とはまるで似合わない。
眉をひそめ、顔をしかめ、感情を抑えるかのように、彼は押し殺した声で続ける。
「笑ってしまうんです。抑えよう、抑えようと思うのに――あまり目障りなことをされると、かえっておかしくて」
口元を隠す手は震えていた。
言いたくない、と態度が伝えている。
なのに、一度吐き出された言葉は戻らない。
「ああ、あれを踏みつぶしたら、気持ちがいいだろう、と。鬱陶しい虫でも潰すような気分です。どうせなら、羽をもいでみようか。足をもいでしまおうか。そうしたら、どんな声で鳴くんだろう。面倒ならいっそ、全部まとめて潰してしまおうか――――」
アンリの空いた手が、虫を潰すように軽く握られる。
王宮で聞いたアンリの笑い声を思い出し、私は耳をふさぎたくなった。
コンラート様も、アデライトも、フロランス様も絶句している。
それでもアンリは、歌うように語り続ける。
「傷つけるのも、虐げるのも、楽しいんです。誰かの悲鳴が、心地良いんです。自らの心のまま、意のまま、嘆きの声など聞く気もありません。――魔王の心を得て、俺の中で変わったのはこれだけです。それだけで、人は魔王に変わることができる」
アンリはそこまで言い切ると、周りの視線から逃れるようにうつむいた。
きっと、自分の今の顔を見られたくないのだろう。
口元を隠し、視線を落とす彼の姿を、私はそれでも見つめていた。
……きっと、目を離すことができなかったのだと思う。
「怒ると攻撃的になるからか、特に感情が引っ張られます。今はまだ、魔王になることを拒んでいられますが――もし、一度でも完全に魔王の心を受け入れれば、きっと戻ることはできません」
それが、アンリが『器』から本当の魔王になるときだ。
魔族はそれを望み、陛下やオレリア様を利用してアンリの怒りを呼び覚まそうとしたのだ。
そして――。
「アンリの怒り、ね。要するに今回のことで、魔族は一番いい方法を見つけてしまったということね」
フロランス様の視線が私に向かう。
鋭い視線にぎくりとするけれど、想像はついていた。
「私が……アンリ様が魔王にならずにいられる『枷』なんですね」
ええ、とフロランス様は頷く。
彼女が告げるのは、嘘やごまかしのない、残酷なまでの事実だ。
「あなたはアンリが力を抑えたがる原因で、アンリの怒りを確実に買う存在。魔族があなたを放っておく理由はないわ。――次は、確実に狙いに来るはずよ」
少しだけほっとした様子で、アデライト様は息を吐く。
「今こうして話していても、私の知るアンリと変わらないわ。……でも、まったく影響を受けないわけではないのでしょう?」
「……はい」
わずかなためらいのあとで、アンリはそう答えた。
それから言葉を迷うように一度口を閉ざし、視線をさまよわせる。
「感覚的なことなので説明がしにくいですが……魔王の心があっても、俺の意志や考え方が消えるわけではありません。魔王の本体は明確な意志を持つ存在ではなく、ただ少し――思考を引っ張るだけなんです」
「引っ張る?」
問い返すフロランス様に、アンリは頷いた。
「魔王らしい思考……と言うのでしょうか。魔物を恐れなくなったり、魔族に対して親近感を抱いたり。あとは――」
言いかけて、アンリは慌てて自分の口元を押さえる。
失言をしそうになったのだと、傍から見てもわかった。
「あとは、なんですか」
「…………」
「言いなさい、アンリ」
沈黙を許さず、フロランス様は強い視線をアンリに向けた。
アンリは口に手を当てたまま、それでも答えようとしない。
互いに険しい顔を突き合わせ、少しの気まずい沈黙が流れた。
「…………です」
先に視線を逸らしたのは、アンリの方だった。
彼は一度、部屋にいる全員を見回してから、もう一度告げる。
「楽しいんです」
――楽しい……?
その言葉は、今のアンリの様子とはまるで似合わない。
眉をひそめ、顔をしかめ、感情を抑えるかのように、彼は押し殺した声で続ける。
「笑ってしまうんです。抑えよう、抑えようと思うのに――あまり目障りなことをされると、かえっておかしくて」
口元を隠す手は震えていた。
言いたくない、と態度が伝えている。
なのに、一度吐き出された言葉は戻らない。
「ああ、あれを踏みつぶしたら、気持ちがいいだろう、と。鬱陶しい虫でも潰すような気分です。どうせなら、羽をもいでみようか。足をもいでしまおうか。そうしたら、どんな声で鳴くんだろう。面倒ならいっそ、全部まとめて潰してしまおうか――――」
アンリの空いた手が、虫を潰すように軽く握られる。
王宮で聞いたアンリの笑い声を思い出し、私は耳をふさぎたくなった。
コンラート様も、アデライトも、フロランス様も絶句している。
それでもアンリは、歌うように語り続ける。
「傷つけるのも、虐げるのも、楽しいんです。誰かの悲鳴が、心地良いんです。自らの心のまま、意のまま、嘆きの声など聞く気もありません。――魔王の心を得て、俺の中で変わったのはこれだけです。それだけで、人は魔王に変わることができる」
アンリはそこまで言い切ると、周りの視線から逃れるようにうつむいた。
きっと、自分の今の顔を見られたくないのだろう。
口元を隠し、視線を落とす彼の姿を、私はそれでも見つめていた。
……きっと、目を離すことができなかったのだと思う。
「怒ると攻撃的になるからか、特に感情が引っ張られます。今はまだ、魔王になることを拒んでいられますが――もし、一度でも完全に魔王の心を受け入れれば、きっと戻ることはできません」
それが、アンリが『器』から本当の魔王になるときだ。
魔族はそれを望み、陛下やオレリア様を利用してアンリの怒りを呼び覚まそうとしたのだ。
そして――。
「アンリの怒り、ね。要するに今回のことで、魔族は一番いい方法を見つけてしまったということね」
フロランス様の視線が私に向かう。
鋭い視線にぎくりとするけれど、想像はついていた。
「私が……アンリ様が魔王にならずにいられる『枷』なんですね」
ええ、とフロランス様は頷く。
彼女が告げるのは、嘘やごまかしのない、残酷なまでの事実だ。
「あなたはアンリが力を抑えたがる原因で、アンリの怒りを確実に買う存在。魔族があなたを放っておく理由はないわ。――次は、確実に狙いに来るはずよ」
11
あなたにおすすめの小説
断罪まであと5秒、今すぐ逆転始めます
山河 枝
ファンタジー
聖女が魔物と戦う乙女ゲーム。その聖女につかみかかったせいで処刑される令嬢アナベルに、転生してしまった。
でも私は知っている。実は、アナベルこそが本物の聖女。
それを証明すれば断罪回避できるはず。
幸い、処刑人が味方になりそうだし。モフモフ精霊たちも慕ってくれる。
チート魔法で魔物たちを一掃して、本物アピールしないと。
処刑5秒前だから、今すぐに!
婚約者を奪い返そうとしたらいきなり溺愛されました
宵闇 月
恋愛
異世界に転生したらスマホゲームの悪役令嬢でした。
しかも前世の推し且つ今世の婚約者は既にヒロインに攻略された後でした。
断罪まであと一年と少し。
だったら断罪回避より今から全力で奪い返してみせますわ。
と意気込んだはいいけど
あれ?
婚約者様の様子がおかしいのだけど…
※ 4/26
内容とタイトルが合ってないない気がするのでタイトル変更しました。
【完結】私ですか?ただの令嬢です。
凛 伊緒
恋愛
死んで転生したら、大好きな乙女ゲーの世界の悪役令嬢だった!?
バッドエンドだらけの悪役令嬢。
しかし、
「悪さをしなければ、最悪な結末は回避出来るのでは!?」
そう考え、ただの令嬢として生きていくことを決意する。
運命を変えたい主人公の、バッドエンド回避の物語!
※完結済です。
※作者がシステムに不慣れかつ創作初心者な時に書いたものなので、温かく見守っていだければ幸いです……(。_。///)
※ご感想・ご指摘につきましては、近況ボードをお読みくださいませ。
《皆様のご愛読に、心からの感謝を申し上げますm(*_ _)m》
【完結】財務大臣が『経済の話だけ』と毎日訪ねてきます。婚約破棄後、前世の経営知識で辺境を改革したら、こんな溺愛が始まりました
チャビューヘ
恋愛
三度目の婚約破棄で、ようやく自由を手に入れた。
王太子から「冷酷で心がない」と糾弾され、大広間で婚約を破棄されたエリナ。しかし彼女は泣かない。なぜなら、これは三度目のループだから。前世は過労死した41歳の経営コンサル。一周目は泣き崩れ、二周目は慌てふためいた。でも三周目の今回は違う。「ありがとうございます、殿下。これで自由になれます」──優雅に微笑み、誰も予想しない行動に出る。
エリナが選んだのは、誰も欲しがらない辺境の荒れ地。人口わずか4500人、干ばつで荒廃した最悪の土地を、金貨100枚で買い取った。貴族たちは嘲笑う。「追放された令嬢が、荒れ地で野垂れ死にするだけだ」と。
だが、彼らは知らない。エリナが前世で培った、経営コンサルタントとしての圧倒的な知識を。三圃式農業、ブランド戦略、人材採用術、物流システム──現代日本の経営ノウハウを、中世ファンタジー世界で全力展開。わずか半年で領地は緑に変わり、住民たちは希望を取り戻す。一年後には人口は倍増、財政は奇跡の黒字化。「辺境の奇跡」として王国中で噂になり始めた。
そして現れたのが、王国一の冷徹さで知られる財務大臣、カイル・ヴェルナー。氷のような視線、容赦ない数字の追及。貴族たちが震え上がる彼が、なぜか月に一度の「定期視察」を提案してくる。そして月一が週一になり、やがて──「経済政策の話がしたいだけです」という言い訳とともに、毎日のように訪ねてくるようになった。
夜遅くまで経済理論を語り合い、気づけば星空の下で二人きり。「あなたは、何者なんだ」と問う彼の瞳には、もはや氷の冷たさはない。部下たちは囁く。「閣下、またフェルゼン領ですか」。本人は「重要案件だ」と言い張るが、その頬は微かに赤い。
一方、エリナを捨てた元婚約者の王太子リオンは、彼女の成功を知って後悔に苛まれる。「俺は…取り返しのつかないことを」。かつてエリナを馬鹿にした貴族たちも掌を返し、継母は「戻ってきて」と懇願する。だがエリナは冷静に微笑むだけ。「もう、過去のことです」。ざまあみろ、ではなく──もっと前を向いている。
知的で戦略的な領地経営。冷徹な財務大臣の不器用な溺愛。そして、自分を捨てた者たちへの圧倒的な「ざまぁ」。三周目だからこそ完璧に描ける、逆転と成功の物語。
経済政策で国を変え、本物の愛を見つける──これは、消去法で選ばれただけの婚約者が、自らの知恵と努力で勝ち取った、最高の人生逆転ストーリー。
逃げたい悪役令嬢と、逃がさない王子
ねむたん
恋愛
セレスティーナ・エヴァンジェリンは今日も王宮の廊下を静かに歩きながら、ちらりと視線を横に流した。白いドレスを揺らし、愛らしく微笑むアリシア・ローゼンベルクの姿を目にするたび、彼女の胸はわずかに弾む。
(その調子よ、アリシア。もっと頑張って! あなたがしっかり王子を誘惑してくれれば、私は自由になれるのだから!)
期待に満ちた瞳で、影からこっそり彼女の奮闘を見守る。今日こそレオナルトがアリシアの魅力に落ちるかもしれない——いや、落ちてほしい。
悪役令嬢がヒロインからのハラスメントにビンタをぶちかますまで。
倉桐ぱきぽ
恋愛
乙女ゲームの悪役令嬢に転生した私は、ざまぁ回避のため、まじめに生きていた。
でも、ヒロイン(転生者)がひどい!
彼女の嘘を信じた推しから嫌われるし。無実の罪を着せられるし。そのうえ「ちゃんと悪役やりなさい」⁉
シナリオ通りに進めたいヒロインからのハラスメントは、もう、うんざり!
私は私の望むままに生きます!!
本編+番外編3作で、40000文字くらいです。
⚠途中、視点が変わります。サブタイトルをご覧下さい。
運命に勝てない当て馬令嬢の幕引き。
ぽんぽこ狸
恋愛
気高き公爵家令嬢オリヴィアの護衛騎士であるテオは、ある日、主に天啓を受けたと打ち明けられた。
その内容は運命の女神の聖女として召喚されたマイという少女と、オリヴィアの婚約者であるカルステンをめぐって死闘を繰り広げ命を失うというものだったらしい。
だからこそ、オリヴィアはもう何も望まない。テオは立場を失うオリヴィアの事は忘れて、自らの道を歩むようにと言われてしまう。
しかし、そんなことは出来るはずもなく、テオも将来の王妃をめぐる運命の争いの中に巻き込まれていくのだった。
五万文字いかない程度のお話です。さくっと終わりますので読者様の暇つぶしになればと思います。
悪役令嬢に転生したので地味令嬢に変装したら、婚約者が離れてくれないのですが。
槙村まき
恋愛
スマホ向け乙女ゲーム『時戻りの少女~ささやかな日々をあなたと共に~』の悪役令嬢、リシェリア・オゼリエに転生した主人公は、処刑される未来を変えるために地味に地味で地味な令嬢に変装して生きていくことを決意した。
それなのに学園に入学しても婚約者である王太子ルーカスは付きまとってくるし、ゲームのヒロインからはなぜか「私の代わりにヒロインになって!」とお願いされるし……。
挙句の果てには、ある日隠れていた図書室で、ルーカスに唇を奪われてしまう。
そんな感じで悪役令嬢がヤンデレ気味な王子から逃げようとしながらも、ヒロインと共に攻略対象者たちを助ける? 話になるはず……!
第二章以降は、11時と23時に更新予定です。
他サイトにも掲載しています。
よろしくお願いします。
25.4.25 HOTランキング(女性向け)四位、ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる