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真夜中の嵐(3)
「俺にとって、君の意志なんてたいして重要じゃないんだ」
アンリは言いながら、私に向けて手を伸ばした。
強張る私を、彼は見向きもしない。そのまま強い力で、私の腕を取る。
「やろうと思えば、いつでも君を押しのけられる。――あるいは逆に、連れていくこともできる。今日みたいに」
「き、今日……?」
「そう。叔父上が言っていただろう? どうして君を逃がさなかったのか、と」
「それは……魔王にならないためで……」
アンリにとっての『枷』として、私が必要だった。
アンリ自身がそう言っていたはずだ。
――だけど。
アンリのその言葉に、コンラート様はこう尋ねていた。
『本当にそれだけか』――と。
「ミシェル」
低く名前を呼ぶと、アンリは目を細めた。
青白い月の光の下、輝きを失った青い瞳が私を映している。
ひたすらに静かなその笑みは、昏く、底知れなく――凄惨なまでに美しかった。
「君があの場にいれば――」
触れるほどの距離から、アンリはさらに体を寄せる。
影が重なり、アンリの顔が間近にあるのに、私は動けなかった。
視線は、アンリから離せない。
魅入られたように立ち尽くす私に、彼は顔を寄せた。
唇さえも触れるほどの距離で――。
「俺が魔王になっても、君を逃がさずに済むだろう?」
吐息が頬に触れる。
底なしの瞳が私を招いている。
恐怖さえ突き抜けた先にあるのは、心を壊すような魅了だった。
息が止まる。
掴まれた手から、闇に引きずり込まれるような気がした。
アンリにはもう――あの場で、魔王になる覚悟ができていたんだ。
「――怖かった?」
アンリは私から手を離すと、ふっと笑うように息を吐いた。
「魔王がどんなものか、わかっただろう」
その姿に、先ほどまでの異常な魅力はない。
心臓が恐怖を思い出したように脈打ち、全身から冷や汗が滲み出した。
「魔王は他人の心なんて知ったことじゃない。欲しいものは手に入れる。要らないものは踏みつぶす。それで誰が嘆いても、かえって愉快なくらいだ」
青ざめ、荒く息を吐く私を見下ろし、アンリは顔をしかめる。
笑っているのか、苦しんでいるのかは――その表情からは読み取れない。
「俺が本当に魔王になったら、君になにをするかわかるか?」
私は首を横に振る。
怯え、竦み、声も出せず首を振る私に、彼は目を細めた。
「めちゃくちゃにするよ、心も、体も。――きっと、死んだほうがマシだと思うくらいに」
暗い瞳の奥には、かすかな欲望がある。
その欲望を瞬きの間に消すと、彼は私から視線を逸らした。
「わかったなら、行かせてくれ。見逃せるのは、きっと今だけだ」
アンリの視線は、離宮の外に広がる暗闇に向かう。
立ち尽くす私にはもう目を向けず、そのまま足を踏み出した。
アンリが横を通り抜ける。
そのまま闇に消えていくアンリに、私は――。
「――ミシェル。なんのつもりだ」
私は、手を伸ばしていた。
反射的に、去っていくアンリの手を握りしめる。
「離してくれ。俺の話を聞いていただろう」
「聞きました、でも」
「君のためでもあるんだ」
アンリの髪が風に揺れる。
夜風ではなく――アンリの魔力のせいだ。
――怒っている。
聞き分けの悪い私に、苛立っている。
この魔力は、私自身に向けられているのだ。
「俺を行かせてくれ」
「……嫌です」
「いい加減にしてくれ。あまり俺を怒らせるな」
風が強さを増していく。
アンリの髪が風に揺れ、夜の闇に溶ける。
アンリは振り向かないままに、静かな怒りを口にする。
「君に俺を止める資格があるとでも思っているのか」
「それは……ですが……」
「俺を拒み続けていたのは、君の方だろう……!」
吹き抜けたのは突風だ。
アンリの怒りに呼応するように、鋭利な風が私を裂く。
頬に痛みが走り、じわりと熱を持った。傷ついているのだ。
「ミシェル、手を離せ」
見えないとわかって、私は首を横に振る。
風はますます強くなり、私の肌を傷つけていく。
それでも、この手は離さない。
「離せ。さもないと――」
いつまでも手を離さない私に、アンリはもはや、押し殺すこともできない怒りの声を吐き出した。
風が吹き出す。一瞬、目の前が眩んだ――次の瞬間。
「――君ごと連れて行ってやるぞ! 俺はそれだって構わないんだ!」
私は肩を掴まれていた。
振り向いたアンリの顔が見える。
魔力を暴走させないため、普段は感情を抑えている彼の顔に――あらわな激情が浮かんでいた。
「アンリ様……!」
「アンリ『様』!」
嘲るように吐き捨てると、彼は怒りに顔を歪めた。
私の肩を、指が食い込むほどに握りしめ、嵐のような魔力を暴走させながら、彼は叫んだ。
悲鳴のように。
「俺の求婚を拒み、逃げ続けたのは君の方だろう! そんな君が、俺になにを言えるって言うんだ!!」
アンリは言いながら、私に向けて手を伸ばした。
強張る私を、彼は見向きもしない。そのまま強い力で、私の腕を取る。
「やろうと思えば、いつでも君を押しのけられる。――あるいは逆に、連れていくこともできる。今日みたいに」
「き、今日……?」
「そう。叔父上が言っていただろう? どうして君を逃がさなかったのか、と」
「それは……魔王にならないためで……」
アンリにとっての『枷』として、私が必要だった。
アンリ自身がそう言っていたはずだ。
――だけど。
アンリのその言葉に、コンラート様はこう尋ねていた。
『本当にそれだけか』――と。
「ミシェル」
低く名前を呼ぶと、アンリは目を細めた。
青白い月の光の下、輝きを失った青い瞳が私を映している。
ひたすらに静かなその笑みは、昏く、底知れなく――凄惨なまでに美しかった。
「君があの場にいれば――」
触れるほどの距離から、アンリはさらに体を寄せる。
影が重なり、アンリの顔が間近にあるのに、私は動けなかった。
視線は、アンリから離せない。
魅入られたように立ち尽くす私に、彼は顔を寄せた。
唇さえも触れるほどの距離で――。
「俺が魔王になっても、君を逃がさずに済むだろう?」
吐息が頬に触れる。
底なしの瞳が私を招いている。
恐怖さえ突き抜けた先にあるのは、心を壊すような魅了だった。
息が止まる。
掴まれた手から、闇に引きずり込まれるような気がした。
アンリにはもう――あの場で、魔王になる覚悟ができていたんだ。
「――怖かった?」
アンリは私から手を離すと、ふっと笑うように息を吐いた。
「魔王がどんなものか、わかっただろう」
その姿に、先ほどまでの異常な魅力はない。
心臓が恐怖を思い出したように脈打ち、全身から冷や汗が滲み出した。
「魔王は他人の心なんて知ったことじゃない。欲しいものは手に入れる。要らないものは踏みつぶす。それで誰が嘆いても、かえって愉快なくらいだ」
青ざめ、荒く息を吐く私を見下ろし、アンリは顔をしかめる。
笑っているのか、苦しんでいるのかは――その表情からは読み取れない。
「俺が本当に魔王になったら、君になにをするかわかるか?」
私は首を横に振る。
怯え、竦み、声も出せず首を振る私に、彼は目を細めた。
「めちゃくちゃにするよ、心も、体も。――きっと、死んだほうがマシだと思うくらいに」
暗い瞳の奥には、かすかな欲望がある。
その欲望を瞬きの間に消すと、彼は私から視線を逸らした。
「わかったなら、行かせてくれ。見逃せるのは、きっと今だけだ」
アンリの視線は、離宮の外に広がる暗闇に向かう。
立ち尽くす私にはもう目を向けず、そのまま足を踏み出した。
アンリが横を通り抜ける。
そのまま闇に消えていくアンリに、私は――。
「――ミシェル。なんのつもりだ」
私は、手を伸ばしていた。
反射的に、去っていくアンリの手を握りしめる。
「離してくれ。俺の話を聞いていただろう」
「聞きました、でも」
「君のためでもあるんだ」
アンリの髪が風に揺れる。
夜風ではなく――アンリの魔力のせいだ。
――怒っている。
聞き分けの悪い私に、苛立っている。
この魔力は、私自身に向けられているのだ。
「俺を行かせてくれ」
「……嫌です」
「いい加減にしてくれ。あまり俺を怒らせるな」
風が強さを増していく。
アンリの髪が風に揺れ、夜の闇に溶ける。
アンリは振り向かないままに、静かな怒りを口にする。
「君に俺を止める資格があるとでも思っているのか」
「それは……ですが……」
「俺を拒み続けていたのは、君の方だろう……!」
吹き抜けたのは突風だ。
アンリの怒りに呼応するように、鋭利な風が私を裂く。
頬に痛みが走り、じわりと熱を持った。傷ついているのだ。
「ミシェル、手を離せ」
見えないとわかって、私は首を横に振る。
風はますます強くなり、私の肌を傷つけていく。
それでも、この手は離さない。
「離せ。さもないと――」
いつまでも手を離さない私に、アンリはもはや、押し殺すこともできない怒りの声を吐き出した。
風が吹き出す。一瞬、目の前が眩んだ――次の瞬間。
「――君ごと連れて行ってやるぞ! 俺はそれだって構わないんだ!」
私は肩を掴まれていた。
振り向いたアンリの顔が見える。
魔力を暴走させないため、普段は感情を抑えている彼の顔に――あらわな激情が浮かんでいた。
「アンリ様……!」
「アンリ『様』!」
嘲るように吐き捨てると、彼は怒りに顔を歪めた。
私の肩を、指が食い込むほどに握りしめ、嵐のような魔力を暴走させながら、彼は叫んだ。
悲鳴のように。
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