神聖な国

空川億里

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第2話 アンジェラ

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「どうしたの」
 助手席にいたアンジェラがただならぬ気配を感じて、達也を不安そうに見つめる。
 彼はそれには返答せず、運転席に乗りこむと、すでにアンジェラがゲートの脇にあるボタンで開けていた門から車を出庫させ、自動車の速度を上げた。
 ミラーに写る達也の顔は、暗色に塗りこめられている。
(もうちょっと話がわかると思ってたのに……)
 怒りや悲しみや悔しさや、その他もろもろのネガティブな感情があいまって、殺伐とした気持ちのまま達也はアクセルを踏みしめた。やがて車は同じ渋谷区内にある、自分のマンションへ到着する。
 渋谷区と言ってもその物件は、JR新宿駅の新南口から近い場所に建っていた。マンションの駐車場に車を止めてそこから降りると、二人は達也の部屋へ向かう。
 ここを出た時と違い、足取りはまるで、高重力の惑星に来たように重かった。マンションは十五階建ての建物で、築四〇年は経過している。
 実家を出る時母親に、春山食品の系列会社の不動産部門が運営してる新築のタワーマンションを薦められたがそちらに行かず、ここにしたのだ。達也の部屋は二〇一号室だ。
 玄関の鍵を開け、中に入る。ワンルームの壁にかかった額に納まった母親と達也の二人がツーショットで写った写真をじっと見る。フォトグラフの母子は笑顔を浮かべていたが、破り捨てたい激情にかられた。
「お袋、結婚に反対だって」
 ずっと沈黙を守っていた達也だが、部屋に入ってしばらくして、ようやく胸の奥底から、振り絞るように言葉を出した。アンジェラが、まつげを伏せる。
「いっそ、二人で駆け落ちしよっか」
「待って。やっぱりお母さんの許し得てから結婚したい。あわてないで説得しよう」
「あの年齢で、頑固な性格変わらないよ。普通の家よりちょっと金があるだけなのに、プライドばっかり高くてさ」
 思わず、達也は毒舌をまきちらした。その後佳代子から、何度か電話が彼のスマホにかかってきたが、腹が立ったので、出ずに切る。達也の怒りは、当分静まりそうにない。彼の中で、ふつふつと殺意が沸いてきた。
 人を殺したいと感じたのは今までにもあったが、母親を殺したいと考えたのは初めてだ。
 どうやったら、お袋を殺せるだろう……思わず、そんな空想にふける。深夜母親の住む家に侵入し、強盗に襲われたと見せかけて殺せば、達也に疑いはかからないのではないか。
 が、あの家にはホーム・セキュリティを入れてあるので、夜間外から侵入すれば、ばれてしまう。何か理由をつけ、お袋にホーム・セキュリティのスイッチを切らせるのはどうか。
 冷静に考えれば、殺さなくていい。強盗を装ってお袋の家にある金庫から金を奪う。それを元に駆け落ちしたっていいじゃないか……もっとも達也は金庫の暗証番号を知らないし、アンジェラが駆け落ちに乗り気でないので、現実的な話じゃないが。 
 彼女は強情な性格なので、考えを変えないだろう。そんな強気の性格も魅力的に映るのだ。
 母親の差別意識も問題だが、達也にとって、アンジェラの『夫』額田(ぬかた)の存在も喉にささった小骨のように気になっていた。彼女の話では同居してるだけの偽装結婚で肉体関係ないそうだが、本当なのか。
 一緒に長く暮らせば、お互い情がわく可能性もあるんじゃないか。本当に契約期間が切れれば離婚するのか。考えれば考える程、鎌首のように、不安が胸にもたげてくる。
                   
 それから間もない5月21日日曜の朝。達也は昨日の土曜レンタカー屋で借りてきた自分の車と種類も色も違う車に乗っていた。
   ミラーには黒いサングラスをかけ、マスクをした達也の顔が映っている。早朝から京王線代田橋駅近くにあるアンジェラのアパートそばのコインパーキングに駐車し、運転席にもたれている。窓は少し開け、どんな音も逃さぬよう耳をそばだてながら。
 以前額田が不在の時にアンジェラと来た時はあるが、一人では初めてだ。アンジェラから額田は月曜から土曜まで運送会社で働いており、日祝だけ休みと聞いている。
 土曜の夜は外で飲んでくるらしく帰宅せず、アルコールの抜けた翌日日曜の朝か昼に帰るそうだ。
 額田はワゴン車で通勤しており、アンジェラの話が本当なら特別な事情がない限り、今日の朝か昼頃までに車で帰宅するはずだった。
 今いる場所からアパートの庭が見えるので、額田が戻れば、必ず達也の視界に入る。
 彼の腕時計が朝の七時をさした頃、眼前を白いワゴンが通過した。ボディに運送会社の名前が表示されている。
 それは以前恋人から教わった、額田の勤務先である。やがてワゴンは、アパートの庭にすべりこむ。
 庭と道路を隔てる境界に柵がないので、車はそのまま、庭に入った。狭いので、この一台だけが駐車を許可されてると聞いていた。やがて白いワゴンから、
 一人の男が現れる。多分身長は180センチぐらいあるだろう。筋肉質で、ガタイがいい。
 顔には人の良さそうな笑みを浮かべている。年齢は40歳前後だろうか。
 少なくとも自分の方が若いし、顔もこいつより(多分)イケメンなはずだから、その点では負けてないと、達也は思う。
 額田はあくびをかみ殺しながら、アパートの階段を2階へ上がり、自分の部屋の鍵を開けて中に入った。
 とりあえずパッと見だけど、額田がどんな奴かはわかった。
    あくびをしてたぐらいだから、このまま自分の部屋で寝てしまうのだろう。
 感情のままに来てみたが、今後どういう動きに出たらいいのか自分にもわからなかった。
 昨夜は遅くまで残業だったのに、この日のために早起きしたので眠くなっている。
 目をつむると、いつしか眠りに落ちこんだ。
 達也はその時はまさか、その後あんな展開になるだなんて、考えもしなかった。
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