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二章
二章⑫ 無法魔術師と錯乱女
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「誰……?」
三番区の外れにある集合住宅の一室にヘレナ・ベスティアはいた。
どれだけ外から呼びかけても返事がなかったため、最終的にはライラが大家さんに頼んで鍵を開けてもらっての対面である。
ヘレナはベッドの上に座ったまま、落ち窪んだ焦茶色の目でジッと壁を見つめていた。
部屋の床には空になった酒瓶がいくつも転がっており、溢れた酒が床に染みを作っているのを発見した大家さんが部屋を出ていくときに嫌そうな顔をしていたのが印象深い。
ここ数日はシャワーも浴びていないようで、栗色のその髪は何処か脂じみて見える。
ただ、それでも不思議とあまり不衛生な感じがしないのは、一日二日程度ならシャワーを浴びなくてもそう変わらないということだろうか。
「自治警察のライラ・プラウナス准尉だ。あなたの安否を確認しにきた」
「あたしの安否……? それより、警察なら、ハワードを殺した犯人は捕まえたの?」
ヘレナはギョロリと目線だけを動かして、ライラの顔を見る。
「いや、それについては目下捜査中だ」
「はぁ? いつまで時間かけてんのよ。犯人なんてあの女で決まりでしょ?」
「あの女?」
「アレスとかいうあの男みたいな名前の女よ。あいつがハワードを殺したに決まってるじゃない。さっさと捕まえなさいよ」
苛立たしそうにそう言って、ヘレナが膝を抱え込むように座りなおしながらギリギリと爪を噛みはじめる。
口調自体はしっかりしているが、明らかにまともな状態ではない。
ハワードの死によっていろいろと思い詰めているのだろうが、それにしたってこれは少しいきすぎている気がした。
あるいは愛する人の死というのは、ここまで人を焦燥させるということか。
「アレス・R・フランチェスカ氏が殺害したという証拠はまだ見つかっていない。何の確証もなく逮捕することは……」
「あの女以外に誰がいるって言うのよ! ハワードの心を弄んで、苦しめて、そのくせ自分のものにならないからって殺して! 早く捕まえてよ! あの女に裁きを与えなさいよ!」
「ちょ、ちょっと」
興奮した様子のヘレナが急に立ち上がり、ベッドを降りてライラに掴みかかろうとする。
慌てて僕が間に入ると、ヘレナは掴みかかれるなら誰でもよかったのか、そのまま僕の胸ぐらを掴んでギュッと絞り上げてきた。
ヘレナは明らかに正気ではなさそうだったが、女性の握力なんてたかがしれてるし、ひとまず落ち着くまではやりたいようにさせておこう。
それに、僕のほうも彼女には少し訊きたいことがあった。
「自分のものにならないならって、どういうこと?」
「あの女は、ハワードのことを狙ってたのよ! あたしからハワードを奪おうとしてた!」
「アレスって人は、むしろハワードさんに交際を申し込まれたって言ってたけど」
「そんなわけないでしょ!? あの女が自分の都合のいいように捻じ曲げてるのよ!」
ユサユサと僕の体を揺さぶりながら声を張り上げる。
どう考えても自分の都合のいいように話しているのはヘレナのほうに見えるが、真実が何処に転がっているかなんて僕には分からない。
ただ、僕のすぐ後ろでは思った以上にライラが動揺した様子で、そちらのほうが少し気がかりではあった。
「あいつは自分がハワードと交際してるなんて噂を流して、そうやってハワードを混乱させてた! ハワードもだんだんその気になりだしてきちゃって、でも、絶対にあの女だけは危ないからってあたしが説得して、それでハワードもなんとか踏みとどまってくれた! それなのに、あの女が!」
唾を飛ばしながら、さらにヘレナが捲し立ててくる。
あまりに大声で喚くので何を言ってるのかいまいち要領を得なかったが、彼女の中ではアレスのほうがハワードに言い寄っていて、交際の噂を流したのも彼女自身であるということになっているものらしい。
「あ、あなたの発言は、フランチェスカ氏のものとかなり相違があるように思えるが……」
やや気後れした様子で、僕の後ろからライラが言った。
そんな彼女に、ヘレナが容赦なく唾を飛ばしながら怒声を張り上げる。
「あの女がなんだっていうのよ!? ハワードを殺したあの女が本当のことを話すわけないじゃない! なんで恋人を殺されたあたしより、あんな女のことを信用するのよ!」
「そ、それは……」
「確かにあの女は信じられないくらい美人で頭も良さそうで、だけど、だからこそハワードだって最初は逆に引いてたてたのよ! それが、あんな噂が流れるようになってハワードもその気になっちゃって、そのときからあたしはずっと怪しいと思ってた! 絶対にあの女がハワードの心を揺さぶるために自分でそういう噂を流したんだって!」
かなり無茶な論法だが、とはいえ、まったく筋が通ってないということもないか。
つまり、実は最初に好意を抱いていたのはアレスのほうで、彼女はハワードに自分を意識させるためにすでに交際しているといった内容の噂を流していた。
一方、それを当初から怪しんでいたヘレナは心を揺らすハワードを必死に説得し、何とか彼の心変わりを阻止しようとした。
そして、その努力が実を結んでハワードはヘレナのもとにとどまったが、結果的にそのことに業を煮やしたアレスがハワードの殺害に及んでしまった――と。
(まあ、筋が通っているだけで無茶な話には違いないな……)
ヘレナ自身も明らかに冷静ではないし、やはり彼女のほうが自分の都合のいいように事実を捻じ曲げていると考えたほうがよさそうか。
「……か、彼女は……」
——と、ここにきて少しライラの様子がおかしいことに気づく。
ジッと自分の足の爪先を見つめたまま、拳を握りしめながら肩を振るわせていた。
「アレスは、そんな浅ましい人間ではない!」
そして、精一杯に肩を怒らせながら声を張り上げる。
どうやら憧れの人を汚すような発言の数々に、ライラの堪忍袋の尾も限界のようだ。
――だが、これまで彼女は常に論理的な対話を心がけていたはずだ。
そんな彼女が一時の感情に任せて声を上げたところで、その勢いはたかがしれている。
「あんたに何が分かるって言うのよ!」
ヘレナはすぐに言い返してきた。こちらのほうが何倍も大きな声だった。
「ハワードはあたしのすべてだったのに! あの女さえいなければハワードは苦しまずに済んだのに! 死ぬこともなかったのに! あの女がいなければ! あの女が!」
大声で喚きながら僕を突き飛ばすと、今度は足許の酒瓶を拾い上げて、あろうことかそれをライラの顔に向かって思いっきり投げつけた。
僕は咄嗟に手をかざし、魔術による念力でその軌道を逸らす。
幸いにもライラの顔に触れる直前で方向を変えることはできたが、受けとめることまではできず酒瓶は後ろの壁にあたって破砕した。
瓶の中に残っていた琥珀色の蒸留酒がべっとりと壁に染みを作っており、これは大家さんがみたら嫌がるだろうな――などと暢気に考える。
「ぜんぶあの女のせいだ! ハワードを返して! あたしにハワードを返してよぉ!」
一方、ヘレナのほうはその場にくずおれて慟哭しはじめ、そんな彼女を見下ろすライラは完全に言葉を失ってしまっていた。
勇ましく口火を切っては見たものの、完全にヘレナの気迫に押し負けてしまったらしい。
ここはいったん引き下がろう。
この状態ではもうまともな話を聞くことだって難しいだろうし、いちおうはメディアの依頼である安否の確認は果たせている。
僕は牙を折られたように縮こまっているライラの肩を無理やり抱き寄せながら、そそくさとヘレナの部屋をあとにした。
三番区の外れにある集合住宅の一室にヘレナ・ベスティアはいた。
どれだけ外から呼びかけても返事がなかったため、最終的にはライラが大家さんに頼んで鍵を開けてもらっての対面である。
ヘレナはベッドの上に座ったまま、落ち窪んだ焦茶色の目でジッと壁を見つめていた。
部屋の床には空になった酒瓶がいくつも転がっており、溢れた酒が床に染みを作っているのを発見した大家さんが部屋を出ていくときに嫌そうな顔をしていたのが印象深い。
ここ数日はシャワーも浴びていないようで、栗色のその髪は何処か脂じみて見える。
ただ、それでも不思議とあまり不衛生な感じがしないのは、一日二日程度ならシャワーを浴びなくてもそう変わらないということだろうか。
「自治警察のライラ・プラウナス准尉だ。あなたの安否を確認しにきた」
「あたしの安否……? それより、警察なら、ハワードを殺した犯人は捕まえたの?」
ヘレナはギョロリと目線だけを動かして、ライラの顔を見る。
「いや、それについては目下捜査中だ」
「はぁ? いつまで時間かけてんのよ。犯人なんてあの女で決まりでしょ?」
「あの女?」
「アレスとかいうあの男みたいな名前の女よ。あいつがハワードを殺したに決まってるじゃない。さっさと捕まえなさいよ」
苛立たしそうにそう言って、ヘレナが膝を抱え込むように座りなおしながらギリギリと爪を噛みはじめる。
口調自体はしっかりしているが、明らかにまともな状態ではない。
ハワードの死によっていろいろと思い詰めているのだろうが、それにしたってこれは少しいきすぎている気がした。
あるいは愛する人の死というのは、ここまで人を焦燥させるということか。
「アレス・R・フランチェスカ氏が殺害したという証拠はまだ見つかっていない。何の確証もなく逮捕することは……」
「あの女以外に誰がいるって言うのよ! ハワードの心を弄んで、苦しめて、そのくせ自分のものにならないからって殺して! 早く捕まえてよ! あの女に裁きを与えなさいよ!」
「ちょ、ちょっと」
興奮した様子のヘレナが急に立ち上がり、ベッドを降りてライラに掴みかかろうとする。
慌てて僕が間に入ると、ヘレナは掴みかかれるなら誰でもよかったのか、そのまま僕の胸ぐらを掴んでギュッと絞り上げてきた。
ヘレナは明らかに正気ではなさそうだったが、女性の握力なんてたかがしれてるし、ひとまず落ち着くまではやりたいようにさせておこう。
それに、僕のほうも彼女には少し訊きたいことがあった。
「自分のものにならないならって、どういうこと?」
「あの女は、ハワードのことを狙ってたのよ! あたしからハワードを奪おうとしてた!」
「アレスって人は、むしろハワードさんに交際を申し込まれたって言ってたけど」
「そんなわけないでしょ!? あの女が自分の都合のいいように捻じ曲げてるのよ!」
ユサユサと僕の体を揺さぶりながら声を張り上げる。
どう考えても自分の都合のいいように話しているのはヘレナのほうに見えるが、真実が何処に転がっているかなんて僕には分からない。
ただ、僕のすぐ後ろでは思った以上にライラが動揺した様子で、そちらのほうが少し気がかりではあった。
「あいつは自分がハワードと交際してるなんて噂を流して、そうやってハワードを混乱させてた! ハワードもだんだんその気になりだしてきちゃって、でも、絶対にあの女だけは危ないからってあたしが説得して、それでハワードもなんとか踏みとどまってくれた! それなのに、あの女が!」
唾を飛ばしながら、さらにヘレナが捲し立ててくる。
あまりに大声で喚くので何を言ってるのかいまいち要領を得なかったが、彼女の中ではアレスのほうがハワードに言い寄っていて、交際の噂を流したのも彼女自身であるということになっているものらしい。
「あ、あなたの発言は、フランチェスカ氏のものとかなり相違があるように思えるが……」
やや気後れした様子で、僕の後ろからライラが言った。
そんな彼女に、ヘレナが容赦なく唾を飛ばしながら怒声を張り上げる。
「あの女がなんだっていうのよ!? ハワードを殺したあの女が本当のことを話すわけないじゃない! なんで恋人を殺されたあたしより、あんな女のことを信用するのよ!」
「そ、それは……」
「確かにあの女は信じられないくらい美人で頭も良さそうで、だけど、だからこそハワードだって最初は逆に引いてたてたのよ! それが、あんな噂が流れるようになってハワードもその気になっちゃって、そのときからあたしはずっと怪しいと思ってた! 絶対にあの女がハワードの心を揺さぶるために自分でそういう噂を流したんだって!」
かなり無茶な論法だが、とはいえ、まったく筋が通ってないということもないか。
つまり、実は最初に好意を抱いていたのはアレスのほうで、彼女はハワードに自分を意識させるためにすでに交際しているといった内容の噂を流していた。
一方、それを当初から怪しんでいたヘレナは心を揺らすハワードを必死に説得し、何とか彼の心変わりを阻止しようとした。
そして、その努力が実を結んでハワードはヘレナのもとにとどまったが、結果的にそのことに業を煮やしたアレスがハワードの殺害に及んでしまった――と。
(まあ、筋が通っているだけで無茶な話には違いないな……)
ヘレナ自身も明らかに冷静ではないし、やはり彼女のほうが自分の都合のいいように事実を捻じ曲げていると考えたほうがよさそうか。
「……か、彼女は……」
——と、ここにきて少しライラの様子がおかしいことに気づく。
ジッと自分の足の爪先を見つめたまま、拳を握りしめながら肩を振るわせていた。
「アレスは、そんな浅ましい人間ではない!」
そして、精一杯に肩を怒らせながら声を張り上げる。
どうやら憧れの人を汚すような発言の数々に、ライラの堪忍袋の尾も限界のようだ。
――だが、これまで彼女は常に論理的な対話を心がけていたはずだ。
そんな彼女が一時の感情に任せて声を上げたところで、その勢いはたかがしれている。
「あんたに何が分かるって言うのよ!」
ヘレナはすぐに言い返してきた。こちらのほうが何倍も大きな声だった。
「ハワードはあたしのすべてだったのに! あの女さえいなければハワードは苦しまずに済んだのに! 死ぬこともなかったのに! あの女がいなければ! あの女が!」
大声で喚きながら僕を突き飛ばすと、今度は足許の酒瓶を拾い上げて、あろうことかそれをライラの顔に向かって思いっきり投げつけた。
僕は咄嗟に手をかざし、魔術による念力でその軌道を逸らす。
幸いにもライラの顔に触れる直前で方向を変えることはできたが、受けとめることまではできず酒瓶は後ろの壁にあたって破砕した。
瓶の中に残っていた琥珀色の蒸留酒がべっとりと壁に染みを作っており、これは大家さんがみたら嫌がるだろうな――などと暢気に考える。
「ぜんぶあの女のせいだ! ハワードを返して! あたしにハワードを返してよぉ!」
一方、ヘレナのほうはその場にくずおれて慟哭しはじめ、そんな彼女を見下ろすライラは完全に言葉を失ってしまっていた。
勇ましく口火を切っては見たものの、完全にヘレナの気迫に押し負けてしまったらしい。
ここはいったん引き下がろう。
この状態ではもうまともな話を聞くことだって難しいだろうし、いちおうはメディアの依頼である安否の確認は果たせている。
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