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第9話 日常への浸食
しおりを挟むその後、どうやって服を着て、どうやってマンションを出たのか、記憶が曖昧だ。
ただ、身体の芯に残る熱と、下腹部の奥で脈打つ奇妙な余韻だけが、先ほどの出来事が夢ではないことを告げていた。
夜の帳が下りた街をタクシーが滑るように走っていく。
自宅に帰るといって歩き出した僕を捕まえて、狩野さんはタクシーを止め、一緒に乗りこんだのだ。
隣に座る狩野さんは、もういつもの涼やかな女王に戻っていた。窓の外を流れるネオンを眺める横顔は彫刻のように美しい。さっきまで僕の身体を弄り、壊して……あんなふう、にしたひとと同一人物とは思えない。
「……いい、ひより」
彼女は窓の外を見たまま、淡々と言った。
「ご両親と、担任の先生、あと養護教諭。この四人にだけは打ち明けるべきだから。身体のこと」
「……え」
「隠し通せるものじゃないでしょ。これから身体の変化はもっと顕著になる。それに、生理のたびに休んでいたら怪しまれるでしょう? 味方は作っておかないと」
「で、でも……なんて言えば……」
「わたしが説明する。君はただ、横で頷いていればいい」
彼女の言葉は提案ではなく、決定事項だった。
僕の人生の舵取りは、完全に彼女の手に握られてしまっている。
自宅の前にタクシーが止まる。
見慣れた我が家なのに、どこか他人の家のように感じられた。玄関の灯りがやけに遠い。
インターホンを押すと母さんの慌てたような声が聞こえた。すぐにドアが開く。
「ひより! あんた、電話も出ないで今までどこに……!」
心配で顔を歪めた両親。
僕は言葉が出せない。と、後ろに立っていた狩野さんが僕の前に歩み出た。
「夜分に申し訳ありません。クラスメイトの狩野と申します」
彼女は優雅に一礼した。その完璧な所作に、両親は毒気を抜かれたように立ち尽くす。
「ひより君のことで、大事なお話があります……上がらせていただいても?」
◇
リビングの空気は鉛のように重かった。
テーブルに置かれたお茶には誰も手を付けていない。
狩野さんの説明はとても簡潔でわかりやすく、そして残酷だった。
突然の遺伝子変異。性分化疾患の一種。男性から女性への不可逆的な遷移。
彼女は自分の身に起きたことを伏せ、あくまで一般論として、しかし専門家のような説得力を持って語った。
「そんな……まさか、ひよりが……」
「あり得る、のか……そんなことが……」
父さんは頭を抱え、母さんはハンカチで顔を覆って泣き崩れた。
当然だ。大切に育ててきた息子が、ある日突然、わけのわからない病気で女になってしまうなんて。
両親の嘆きを目の当たりにして、僕の心は軋んだ。申し訳なさで押しつぶされそうになる。
けれど、狩野さんは眉一つ動かさず、静かに言葉を継いだ。
「稀有な例ですが、決して前例がないわけではありません。適切な処置と、周囲の理解があれば、いままでどおりの日常生活を送れます」
「で、でも、わたしたちはどうすれば……」
「ご安心ください」
狩野さんは、す、と両親に向けて身を乗り出した。
誠実、ということばを表情にすればこうなるという顔で、小さく微笑む。
「わたしがついていますから」
力強い言葉。
「学校でのことはわたしがサポートします。必要な用品や身体のケアについても、わたしには知識があります。ひより君がひより君らしく生きていけるよう、わたしが責任を持って支えます」
「狩野さん……」
母さんが、すがるような目で彼女を見つめた。
地獄に垂らされた蜘蛛の糸。突然の告白に動揺し、精神の平常を失っているいまの両親にとって、彼女はまさに救世主に見えているのだろう。
「あ、ありがとうございます……どうか、この子を、ひよりを……お願いします!」
「はい、お任せください」
深々と頭を下げる両親。
それを見下ろす狩野さんの口元が、わずかに緩んだのを僕は見た。
満足げな、笑み。もちろん慈愛などではない。
日高ひよりの所有権が、親公認のもとで自分に帰属したことを確認した悦び。
横顔のラインが、ふと、あのベッドルームで見せた獣のそれと重なる。
彼女は僕を助けたんじゃない。僕という獲物を、社会的に、外堀から完全に埋めて捕獲したのだ。
ずきん。
不意に、下腹の奥が疼いた。
生理痛とは違う。もっと深く、粘膜が擦れ合うような甘い疼き。
ついさっき彼女の指で開発された場所が、その主の勝利を祝うように熱を持っている。
僕はとっさに太ももを擦り合わせた。
怖い。
なのに、彼女の言葉に安堵してしまった自分がいることが、何よりも恐ろしかった。
◇
翌朝、重い足取りで教室に入る。
空気の変化を肌で感じた。
昨日、早退したこと。そして今日、僕が少し遅れて登校したこと。それらが退屈を持て余したクラスメイトたちの格好の餌になっていたのだ。
「あ、日高来たー」
「おはよー、ひよりん。体調どお?」
派手めの女子たちがニヤニヤしながら寄ってくる。
悪意はないのかもしれない。でも、その無遠慮な好奇心が、今の僕には針のむしろだった。
「昨日さ、狩野さんが言ってたけど、マジで貧血?」
「顔白いし、なんか儚げ~」
「ていうかさ、噂聞いた? 男子トイレから女子が出てきたってやつ」
ドキリ、と心臓が跳ねる。
「なにそれ、まさかひよりん、女子と……シてた、とか?」
「ちがうって。なんか、お腹押さえてうずくまってたって」
「えー、ウケる。もしかして日高、生理来ちゃったんじゃないの?」
ドッ、と軽い笑いが起きる。
冗談めかした言葉。でも、それは図星だった。
股間に当てられたナプキンの違和感が、急激に主張を始める。
顔から血の気が引いていくのがわかる。何か言い返さなきゃ。笑い飛ばさなきゃ。
でも、喉が張り付いて声が出ない。
肯定も否定もできない沈黙が、場の空気を微妙に変えていく。
その時だ。
「くだらないこと言ってないで、席に着いたら?」
氷点下の声が、教室の空気を切り裂いた。
戸口に立っていたのは、狩野さん。
美しい立ち姿。けれどその瞳は、廃棄物を見るような冷徹さで女子たちを射抜いていた。
「か、狩野さん……」
「日高君は体調が悪いの。貧血は立派な病気でしょ。それをネタにして笑うなんて、品性を疑う」
静かな、しかし有無を言わせぬ圧力。
カースト上位の女子たちも、学年一の美貌と、学校の運営にも関わっているという噂のある名家の実家を持つ彼女の迫力には気圧されるしかない。
「べ、別に笑ってないし……」
「心配しただけじゃん、ねー」
ばつが悪そうに、蜘蛛の子を散らすように彼女たちは去っていった。
教室に日常のざわめきが戻る。
狩野さんは何事もなかったかのように僕の席に歩み寄り、机の端にそっと手を置いた。
「大丈夫?」
周囲には聞こえない、ささやくような声。
僕を見下ろすその目は、昨夜の獣のそれではない。守護者の色をしていた。
「……うん。ありがとう」
僕は小さく頷いた。
情けなかった。女として変化していく身体を隠し、女子たちの何気ないからかいに怯え、そして結局、すべてを知っている彼女に守られている。
男としてのプライドなんて、もうズタズタだ。
けれど。
彼女が教室に入ってきた瞬間、恐怖が消え去り、張り詰めていた糸が緩んだのも事実だった。
彼女がいれば、僕は守られる。
その安堵感は、麻薬のように甘く、僕の自尊心を溶かしていく。
「放課後、またわたしの家に来て……続き、しなきゃね」
彼女は唇の端だけで笑うと、ひらりと髪を翻して自分の席へと戻っていった。
続き。
その言葉が僕の下腹部をきゅんと収縮させる。
ぐちゃぐちゃの感情を抱えたまま、僕は自分の席に崩れ落ちるように突っ伏した。
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