16 / 18
第16話 境界の消失
しおりを挟む
体育祭の当日は、皮肉なほどの快晴だった。
秋とは思えない強い日差しがグラウンドを焼き、生徒たちの熱気が砂埃と共に舞い上がっている。
僕はクラス対抗リレーの補欠として待機していた。
けれど、その出番が来ることはなかったのだ。
生理、ではなかった。原因はよくわからない。でも、身体の変化のなにかによるものだろう。
日陰で座っていても全身から噴き出す汗が止まらず、目の前がちかちかと明滅し始めたのだ。締め付けられた胸が悲鳴を上げ、酸欠で意識が遠のいた。
僕は保健委員の手で、保健室に運ばれた。
養護の先生は不在だった。
カーテンを閉め切り、僕は荒い息を吐きながら制服のシャツを脱ぎ捨てた。コンプレッションシャツが汗でべっしょりになっている。引きはがすようにそれを脱ぎ捨てた。上半身になにもつけずベッドの端に座り、保冷剤を首筋に当てて、ようやく息が整ってきた時だった。
「おーい日高、大丈夫かー? 差し入れ持ってきたぞ」
クラスの男子たちの声がした。ノックもなしにがらがらと扉を開ける。
まずい、と思った時には遅かった。
シャッ、と勢いよくカーテンが開け放たれる。
「あ、着替え中だ……った……」
言葉が凍りついた。
僕はとっさに制服を持ち上げて胸を隠した。身体を捻り、彼らに背を向ける。
彼らの視線が、僕の無防備な上半身に突き刺さる。
男にしてはあまりに白く、滑らかな肌。骨格の浮き出た華奢な肩。そして、くびれを描く腰のライン。
それは、汗に濡れて艶めかしく光って見えたことだろう。
「あ……ご、ごめん……」
男子の一人が、裏返った声で謝った。
彼らは目を逸らし、顔を赤くして立ち尽くしている。
男同士の更衣室なら、「なんだよお前、白ぇなー」とからかいの対象になるはずの光景だ。
けれど、彼らの反応は違った。
見てはいけないものを見た。いや、見てしまったものに、オスとして反応してしまった。その動揺が、空気を通して伝わってきた。
「……っ……」
涙が勝手に溢れてきた。
悲しいわけじゃない。怒りでもない。
なのに、目頭が熱くなり、止めどなく雫が零れ落ちる。
(なんで……なんで泣いてるんだ、僕は)
男なのに、女に見られたから悔しいのか?
違う。
女として、無防備な姿を見られたことが、恥ずかしくて、怖いのだ。
まるで処女が乱暴に服を剥ぎ取られた時のような、根源的な羞恥心。それが僕の思考を塗りつぶしていた。
「ひ、日高……あの」
「なに、あんたたち」
と、凛とした声が響いた。
蓮菜さんだった。いつの間に入ってきたのか、彼女は男子たちと僕の間に割って入り、背中で僕を隠した。運動着姿。たぶん、僕が運ばれるのを遠目で見て、追いかけて来てくれたんだろう。
「体調不良のひとを覗くなんて、デリカシーがないよね。出て行って」
「あ、いや、悪気はなくて……」
「早く」
氷のような一言。男子たちは逃げるように保健室を出て行った。
僕と蓮菜さんは付き合っているということになっている。おおっぴらに宣言したわけではないけれど、公然の秘密という扱いになってるのだ。それもあるし、そもそも女王を冷やかす男子などいない。
静寂が戻る。
蓮菜さんは振り返り、震える僕の肩を優しく抱きしめた。
「大丈夫。もういないよ」
「……う、ううっ……」
「怖かったね。可哀想に」
彼女の腕の中は甘い匂いがした。
僕はその温もりに縋り付きながら自分に問いかけている。
僕は、なにになりたいんだろう。なにに、なれるんだろう。
男としてのプライドは涙と一緒に流れ落ち、後にはただ、守られることを望む弱い生き物だけが残されていた。
◇
その日以来、僕の日常は急速に形を変え始めたのだ。
食事が喉を通らなくなった。具合が悪いわけじゃない。食欲が落ち、量を食べられなくなったのだ。好みも変わった。母親が作る唐揚げやハンバーグの油の匂いが鼻につき、生野菜や果物ばかりを好むようになった。
自然と体力も落ちていく。腕も脚もみるみる細くなっていった。階段を昇るだけで息切れがするようになった。
それに。生理もどうやら、他の女子より重いほうらしかった。しかも、だんだん酷くなる。身体の奥をペンチで捻られるような激痛。たぶん、身体の構造が組み変わっている影響もあるんだろう。生理の間は学校にいけないことも多かった。
声変わりなどとうに終わっていた喉は、再び高いトーンへと戻りつつあった。ふとした拍子に出る声が、自分でも驚くほど高い。
そして、身長。ある日、ホームルームで起立した時、隣の席の男子の肩の位置が以前より高く見えることに気がついた。わずかに、けれど確実に、僕の身体は縮んでいた。
そのことが、きっと僕の心を圧迫していたんだろう。
ある日の、帰り道。秋の日は釣瓶落としで、もうあたりは薄暗い。
僕は蓮菜さんと並んで歩いていた。
あのホテルの日以来、日課だった「治療」――精液を搾り出す行為――は、自然となくなっていた。必要なくなったのだ。
僕の身体はもう、射精によって快感を得る構造ではなくなっていたから。そして、それに代わる悦びを、僕たちはあの夜、互いの身体に刻み込んでしまったから。数日にいちど、いろいろな場所で、僕たちは互いの身体を貪り合った。
「……蓮菜さん」
僕は足を止めた。
前を行く彼女が振り返る。夕闇の中、その表情は聖母のように優しく、そして悪魔のように美しかった。
「ん、なに? ひよりちゃん」
ぐ、と、息を呑む。
ときおり彼女がふざけて使う、その呼び方。ふだんはどうにも思わないのに、今日はなんだか、心に刺さった。
このままでは、僕は「日高ひより」というひとりの人間ではなく、彼女の付属品になってしまう。男でも、女でもない。彼女の望む形に作り変えられ、彼女なしでは息もできない生き物になってしまう。
「あの、さ」
拳を握りしめ、爪を食い込ませる。その痛みが僕を現実に繋ぎ止めていた。
「……しばらく、ひとりになりたいんだ」
蓮菜さんの瞳が、わずかに揺れた。
「ひとり?」
「うん……ちょっと、頭を冷やしたくて」
自分の輪郭を確かめたい。
どこまでが僕で、どこからが彼女によって作られた「メス」なのか。
それをちゃんと確認しないと、僕はもう、どんな意味でも人間ではなくなってしまう気がした。
「で、でも……蓮菜さんのこと、嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、その……あまりにも、色んなことが変わりすぎて。自分がわからなくなりそうで」
必死に言葉を探す僕を、蓮菜さんは静かに見つめていた。
怒られるかもしれない。泣かれるかもしれない。あるいは、もう用済みだと捨てられるかもしれない。
けれど、彼女の唇に浮かんだのは、寂しげな、けれどすべてを許容するような微笑みだった。
「……そっか」
彼女は一歩近づき、僕の頬にそっと手を添えた。
「急ぎすぎちゃったかな。ごめんね」
「ううん、蓮菜さんのせいじゃない。僕の問題だから」
「わかった。少し、距離を置こう」
彼女の手が離れていく。
その瞬間、猛烈な寒気が僕を襲った。温もりが消えることへの恐怖。
それでも、僕は頷いた。
「待ってるよ」
彼女は最後にそう言うと、背を向けて歩き出した。
振り返らない背中。
それが暮れかけた街の輪郭に溶けていくのを、僕はいつまでも見送っていた。
ひとりになった世界は、あまりにも広く、そして心細かった。
秋とは思えない強い日差しがグラウンドを焼き、生徒たちの熱気が砂埃と共に舞い上がっている。
僕はクラス対抗リレーの補欠として待機していた。
けれど、その出番が来ることはなかったのだ。
生理、ではなかった。原因はよくわからない。でも、身体の変化のなにかによるものだろう。
日陰で座っていても全身から噴き出す汗が止まらず、目の前がちかちかと明滅し始めたのだ。締め付けられた胸が悲鳴を上げ、酸欠で意識が遠のいた。
僕は保健委員の手で、保健室に運ばれた。
養護の先生は不在だった。
カーテンを閉め切り、僕は荒い息を吐きながら制服のシャツを脱ぎ捨てた。コンプレッションシャツが汗でべっしょりになっている。引きはがすようにそれを脱ぎ捨てた。上半身になにもつけずベッドの端に座り、保冷剤を首筋に当てて、ようやく息が整ってきた時だった。
「おーい日高、大丈夫かー? 差し入れ持ってきたぞ」
クラスの男子たちの声がした。ノックもなしにがらがらと扉を開ける。
まずい、と思った時には遅かった。
シャッ、と勢いよくカーテンが開け放たれる。
「あ、着替え中だ……った……」
言葉が凍りついた。
僕はとっさに制服を持ち上げて胸を隠した。身体を捻り、彼らに背を向ける。
彼らの視線が、僕の無防備な上半身に突き刺さる。
男にしてはあまりに白く、滑らかな肌。骨格の浮き出た華奢な肩。そして、くびれを描く腰のライン。
それは、汗に濡れて艶めかしく光って見えたことだろう。
「あ……ご、ごめん……」
男子の一人が、裏返った声で謝った。
彼らは目を逸らし、顔を赤くして立ち尽くしている。
男同士の更衣室なら、「なんだよお前、白ぇなー」とからかいの対象になるはずの光景だ。
けれど、彼らの反応は違った。
見てはいけないものを見た。いや、見てしまったものに、オスとして反応してしまった。その動揺が、空気を通して伝わってきた。
「……っ……」
涙が勝手に溢れてきた。
悲しいわけじゃない。怒りでもない。
なのに、目頭が熱くなり、止めどなく雫が零れ落ちる。
(なんで……なんで泣いてるんだ、僕は)
男なのに、女に見られたから悔しいのか?
違う。
女として、無防備な姿を見られたことが、恥ずかしくて、怖いのだ。
まるで処女が乱暴に服を剥ぎ取られた時のような、根源的な羞恥心。それが僕の思考を塗りつぶしていた。
「ひ、日高……あの」
「なに、あんたたち」
と、凛とした声が響いた。
蓮菜さんだった。いつの間に入ってきたのか、彼女は男子たちと僕の間に割って入り、背中で僕を隠した。運動着姿。たぶん、僕が運ばれるのを遠目で見て、追いかけて来てくれたんだろう。
「体調不良のひとを覗くなんて、デリカシーがないよね。出て行って」
「あ、いや、悪気はなくて……」
「早く」
氷のような一言。男子たちは逃げるように保健室を出て行った。
僕と蓮菜さんは付き合っているということになっている。おおっぴらに宣言したわけではないけれど、公然の秘密という扱いになってるのだ。それもあるし、そもそも女王を冷やかす男子などいない。
静寂が戻る。
蓮菜さんは振り返り、震える僕の肩を優しく抱きしめた。
「大丈夫。もういないよ」
「……う、ううっ……」
「怖かったね。可哀想に」
彼女の腕の中は甘い匂いがした。
僕はその温もりに縋り付きながら自分に問いかけている。
僕は、なにになりたいんだろう。なにに、なれるんだろう。
男としてのプライドは涙と一緒に流れ落ち、後にはただ、守られることを望む弱い生き物だけが残されていた。
◇
その日以来、僕の日常は急速に形を変え始めたのだ。
食事が喉を通らなくなった。具合が悪いわけじゃない。食欲が落ち、量を食べられなくなったのだ。好みも変わった。母親が作る唐揚げやハンバーグの油の匂いが鼻につき、生野菜や果物ばかりを好むようになった。
自然と体力も落ちていく。腕も脚もみるみる細くなっていった。階段を昇るだけで息切れがするようになった。
それに。生理もどうやら、他の女子より重いほうらしかった。しかも、だんだん酷くなる。身体の奥をペンチで捻られるような激痛。たぶん、身体の構造が組み変わっている影響もあるんだろう。生理の間は学校にいけないことも多かった。
声変わりなどとうに終わっていた喉は、再び高いトーンへと戻りつつあった。ふとした拍子に出る声が、自分でも驚くほど高い。
そして、身長。ある日、ホームルームで起立した時、隣の席の男子の肩の位置が以前より高く見えることに気がついた。わずかに、けれど確実に、僕の身体は縮んでいた。
そのことが、きっと僕の心を圧迫していたんだろう。
ある日の、帰り道。秋の日は釣瓶落としで、もうあたりは薄暗い。
僕は蓮菜さんと並んで歩いていた。
あのホテルの日以来、日課だった「治療」――精液を搾り出す行為――は、自然となくなっていた。必要なくなったのだ。
僕の身体はもう、射精によって快感を得る構造ではなくなっていたから。そして、それに代わる悦びを、僕たちはあの夜、互いの身体に刻み込んでしまったから。数日にいちど、いろいろな場所で、僕たちは互いの身体を貪り合った。
「……蓮菜さん」
僕は足を止めた。
前を行く彼女が振り返る。夕闇の中、その表情は聖母のように優しく、そして悪魔のように美しかった。
「ん、なに? ひよりちゃん」
ぐ、と、息を呑む。
ときおり彼女がふざけて使う、その呼び方。ふだんはどうにも思わないのに、今日はなんだか、心に刺さった。
このままでは、僕は「日高ひより」というひとりの人間ではなく、彼女の付属品になってしまう。男でも、女でもない。彼女の望む形に作り変えられ、彼女なしでは息もできない生き物になってしまう。
「あの、さ」
拳を握りしめ、爪を食い込ませる。その痛みが僕を現実に繋ぎ止めていた。
「……しばらく、ひとりになりたいんだ」
蓮菜さんの瞳が、わずかに揺れた。
「ひとり?」
「うん……ちょっと、頭を冷やしたくて」
自分の輪郭を確かめたい。
どこまでが僕で、どこからが彼女によって作られた「メス」なのか。
それをちゃんと確認しないと、僕はもう、どんな意味でも人間ではなくなってしまう気がした。
「で、でも……蓮菜さんのこと、嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、その……あまりにも、色んなことが変わりすぎて。自分がわからなくなりそうで」
必死に言葉を探す僕を、蓮菜さんは静かに見つめていた。
怒られるかもしれない。泣かれるかもしれない。あるいは、もう用済みだと捨てられるかもしれない。
けれど、彼女の唇に浮かんだのは、寂しげな、けれどすべてを許容するような微笑みだった。
「……そっか」
彼女は一歩近づき、僕の頬にそっと手を添えた。
「急ぎすぎちゃったかな。ごめんね」
「ううん、蓮菜さんのせいじゃない。僕の問題だから」
「わかった。少し、距離を置こう」
彼女の手が離れていく。
その瞬間、猛烈な寒気が僕を襲った。温もりが消えることへの恐怖。
それでも、僕は頷いた。
「待ってるよ」
彼女は最後にそう言うと、背を向けて歩き出した。
振り返らない背中。
それが暮れかけた街の輪郭に溶けていくのを、僕はいつまでも見送っていた。
ひとりになった世界は、あまりにも広く、そして心細かった。
0
あなたにおすすめの小説
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
春に狂(くる)う
転生新語
恋愛
先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/
カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761
小さくなって寝ている先輩にキスをしようとしたら、バレて逆にキスをされてしまった話
穂鈴 えい
恋愛
ある日の放課後、部室に入ったわたしは、普段しっかりとした先輩が無防備な姿で眠っているのに気がついた。ひっそりと片思いを抱いている先輩にキスがしたくて縮小薬を飲んで100分の1サイズで近づくのだが、途中で気づかれてしまったわたしは、逆に先輩に弄ばれてしまい……。
せんせいとおばさん
悠生ゆう
恋愛
創作百合
樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。
※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる