女王さまのオンナになった、僕。

臼井 さくら

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第16話 境界の消失

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 体育祭の当日は、皮肉なほどの快晴だった。
 秋とは思えない強い日差しがグラウンドを焼き、生徒たちの熱気が砂埃と共に舞い上がっている。
 僕はクラス対抗リレーの補欠として待機していた。
 けれど、その出番が来ることはなかったのだ。

 生理、ではなかった。原因はよくわからない。でも、身体の変化のなにかによるものだろう。
 日陰で座っていても全身から噴き出す汗が止まらず、目の前がちかちかと明滅し始めたのだ。締め付けられた胸が悲鳴を上げ、酸欠で意識が遠のいた。
 僕は保健委員の手で、保健室に運ばれた。

 養護の先生は不在だった。
 カーテンを閉め切り、僕は荒い息を吐きながら制服のシャツを脱ぎ捨てた。コンプレッションシャツが汗でべっしょりになっている。引きはがすようにそれを脱ぎ捨てた。上半身になにもつけずベッドの端に座り、保冷剤を首筋に当てて、ようやく息が整ってきた時だった。

 「おーい日高、大丈夫かー? 差し入れ持ってきたぞ」

 クラスの男子たちの声がした。ノックもなしにがらがらと扉を開ける。
 まずい、と思った時には遅かった。
 シャッ、と勢いよくカーテンが開け放たれる。

 「あ、着替え中だ……った……」

 言葉が凍りついた。
 僕はとっさに制服を持ち上げて胸を隠した。身体を捻り、彼らに背を向ける。
 彼らの視線が、僕の無防備な上半身に突き刺さる。
 男にしてはあまりに白く、滑らかな肌。骨格の浮き出た華奢な肩。そして、くびれを描く腰のライン。
 それは、汗に濡れて艶めかしく光って見えたことだろう。

 「あ……ご、ごめん……」

 男子の一人が、裏返った声で謝った。
 彼らは目を逸らし、顔を赤くして立ち尽くしている。
 男同士の更衣室なら、「なんだよお前、白ぇなー」とからかいの対象になるはずの光景だ。
 けれど、彼らの反応は違った。
 見てはいけないものを見た。いや、見てしまったものに、オスとして反応してしまった。その動揺が、空気を通して伝わってきた。

 「……っ……」

 涙が勝手に溢れてきた。
 悲しいわけじゃない。怒りでもない。
 なのに、目頭が熱くなり、止めどなく雫が零れ落ちる。

 (なんで……なんで泣いてるんだ、僕は)

 男なのに、女に見られたから悔しいのか?
 違う。
 女として、無防備な姿を見られたことが、恥ずかしくて、怖いのだ。
 まるで処女が乱暴に服を剥ぎ取られた時のような、根源的な羞恥心。それが僕の思考を塗りつぶしていた。

 「ひ、日高……あの」
 「なに、あんたたち」

 と、凛とした声が響いた。
 蓮菜さんだった。いつの間に入ってきたのか、彼女は男子たちと僕の間に割って入り、背中で僕を隠した。運動着姿。たぶん、僕が運ばれるのを遠目で見て、追いかけて来てくれたんだろう。

 「体調不良のひとを覗くなんて、デリカシーがないよね。出て行って」
 「あ、いや、悪気はなくて……」
 「早く」

 氷のような一言。男子たちは逃げるように保健室を出て行った。
 僕と蓮菜さんは付き合っているということになっている。おおっぴらに宣言したわけではないけれど、公然の秘密という扱いになってるのだ。それもあるし、そもそも女王を冷やかす男子などいない。

 静寂が戻る。
 蓮菜さんは振り返り、震える僕の肩を優しく抱きしめた。

 「大丈夫。もういないよ」
 「……う、ううっ……」
 「怖かったね。可哀想に」

 彼女の腕の中は甘い匂いがした。
 僕はその温もりに縋り付きながら自分に問いかけている。
 僕は、なにになりたいんだろう。なにに、なれるんだろう。
 男としてのプライドは涙と一緒に流れ落ち、後にはただ、守られることを望む弱い生き物だけが残されていた。

 ◇

 その日以来、僕の日常は急速に形を変え始めたのだ。

 食事が喉を通らなくなった。具合が悪いわけじゃない。食欲が落ち、量を食べられなくなったのだ。好みも変わった。母親が作る唐揚げやハンバーグの油の匂いが鼻につき、生野菜や果物ばかりを好むようになった。
 自然と体力も落ちていく。腕も脚もみるみる細くなっていった。階段を昇るだけで息切れがするようになった。

 それに。生理もどうやら、他の女子より重いほうらしかった。しかも、だんだん酷くなる。身体の奥をペンチで捻られるような激痛。たぶん、身体の構造が組み変わっている影響もあるんだろう。生理の間は学校にいけないことも多かった。
 声変わりなどとうに終わっていた喉は、再び高いトーンへと戻りつつあった。ふとした拍子に出る声が、自分でも驚くほど高い。
 そして、身長。ある日、ホームルームで起立した時、隣の席の男子の肩の位置が以前より高く見えることに気がついた。わずかに、けれど確実に、僕の身体は縮んでいた。
 そのことが、きっと僕の心を圧迫していたんだろう。

 ある日の、帰り道。秋の日は釣瓶落としで、もうあたりは薄暗い。
 僕は蓮菜さんと並んで歩いていた。
 あのホテルの日以来、日課だった「治療」――精液を搾り出す行為――は、自然となくなっていた。必要なくなったのだ。
 僕の身体はもう、射精によって快感を得る構造ではなくなっていたから。そして、それに代わる悦びを、僕たちはあの夜、互いの身体に刻み込んでしまったから。数日にいちど、いろいろな場所で、僕たちは互いの身体を貪り合った。

 「……蓮菜さん」

 僕は足を止めた。
 前を行く彼女が振り返る。夕闇の中、その表情は聖母のように優しく、そして悪魔のように美しかった。

 「ん、なに? ひよりちゃん」

 ぐ、と、息を呑む。
 ときおり彼女がふざけて使う、その呼び方。ふだんはどうにも思わないのに、今日はなんだか、心に刺さった。
 このままでは、僕は「日高ひより」というひとりの人間ではなく、彼女の付属品になってしまう。男でも、女でもない。彼女の望む形に作り変えられ、彼女なしでは息もできない生き物になってしまう。

 「あの、さ」

 拳を握りしめ、爪を食い込ませる。その痛みが僕を現実に繋ぎ止めていた。

 「……しばらく、ひとりになりたいんだ」

 蓮菜さんの瞳が、わずかに揺れた。

 「ひとり?」
 「うん……ちょっと、頭を冷やしたくて」

 自分の輪郭を確かめたい。
 どこまでが僕で、どこからが彼女によって作られた「メス」なのか。
 それをちゃんと確認しないと、僕はもう、どんな意味でも人間ではなくなってしまう気がした。

 「で、でも……蓮菜さんのこと、嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、その……あまりにも、色んなことが変わりすぎて。自分がわからなくなりそうで」

 必死に言葉を探す僕を、蓮菜さんは静かに見つめていた。
 怒られるかもしれない。泣かれるかもしれない。あるいは、もう用済みだと捨てられるかもしれない。
 けれど、彼女の唇に浮かんだのは、寂しげな、けれどすべてを許容するような微笑みだった。

 「……そっか」

 彼女は一歩近づき、僕の頬にそっと手を添えた。

 「急ぎすぎちゃったかな。ごめんね」
 「ううん、蓮菜さんのせいじゃない。僕の問題だから」
 「わかった。少し、距離を置こう」

 彼女の手が離れていく。
 その瞬間、猛烈な寒気が僕を襲った。温もりが消えることへの恐怖。
 それでも、僕は頷いた。

 「待ってるよ」

 彼女は最後にそう言うと、背を向けて歩き出した。
 振り返らない背中。
 それが暮れかけた街の輪郭に溶けていくのを、僕はいつまでも見送っていた。

 ひとりになった世界は、あまりにも広く、そして心細かった。


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