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枕元から、不思議な香りがする。
重い瞬きが終わって、心をかすめる声に記憶が昨晩から繋がった。
ここまで、心の侵入を許した相手はこの世にたった一人しかいない。
そういえば、『また明日』と言われて得も言われぬ気持ちが
沸き立っていた。
『失礼しますね。……あ、やっぱり』
「熱が、あるだろうな。」
『熱いですね。はぁ…、昨日あなたを預った時にちゃんと髪を乾かせてなかった。』
白島は私のベッドに腰掛けて、生温い手のひらで額に触れている。
首元の方へと下りて来る手を、視線で追いながら
「移ってしまう。」
『大丈夫ですよ、俺程になるともう風邪とかは引きもしませんし。』
「ん、でも…」
『最近、海外への渡航はありませんか?』
「え、あぁ。むしろ行きたいぐらい。ずっと、本の虫で…大学との行き来の図書館だよ。」
柔和な表情で触れられると、心がくすぐったくて反応に困る。
『胸元、ちょっと失礼しますね。』
寝巻の襟元を白島に緩められて、なるべく視線を逸らす。
あ、本当だ。髪が乾いていなかったせいで後頭部にまだ冷たさが
残っている気がした。
白島は何かを確認してから、襟元を直して
薄掛け布団をまた掛けてくれた。
「…なんだ?まるで医者の様に」
『あ、いいえ。一応念の為ですよ。巷で少し感冒だのなんだの流行っているのは、呉さんも知ってるでしょう?』
「そんなのは、もうずっとだよ。チフスに赤痢に。」
『不意に罹ったりもしますから。これでも、心配してます。』
これでもか。私が見える限り白島は、ただただ私の身を案じて
いつもどこからともなく現れて、と言った感じだろうに。
「肺を患いはしていないか?」
『…それよりも。少し瘦せましたね。あばらが浮いて見えそうですよ。ちゃんと食べて寝てください。』
「あぁ、元気になったらな。」
『俺が贔屓にしている料理屋なんかがいくつかあるんで、食べにも行きましょう。』
「ありがとう。じゃ、早く良くならないとな。」
部屋の窓が少し開けられていて、風になびくカーテン。
陽射しはこれから強くなっていく。
今何時だろう?
「仕事は、いいのか?」
『今は、記者をしてるんで。そこまで時間にはとらわれませんよ。』
「お前は、やっぱり去ったのか。」
『ここで、原稿したら迷惑じゃないですか?』
「まさか。迷惑なんかじゃない。ただ、寝てしまうけども…いいか?」
もちろんですよ、と白島の声が聞こえて
髪を撫でてくれる慈しみを帯びた手つきが、愛おしくてたまらなかった。
『もし、腹が空いていれば何か作りますよ。とはいえ、七分がゆくらいしか今の呉さんには
あげられそうにも無いですが。』
「水、か何か」
『生水はダメです。沸かし冷ましで良かったら。今、用意しますね。』
「ありがとう。」
随分と甲斐甲斐しくて、気が引けてしまう程だ。
体が熱い。熱にうなされる時は決まって悪夢を見た。
子供の頃以来だった。
理不尽で、遣る瀬無い心の痛む様な悪夢を。
当たり前の様に、白島が私の家の中にいる事が違和感を通り越して
むしろ嬉しかった。
何となく、逃げる様に離れてしまった事。
その後も、どうしたら良いのか分からなくて
忙しさを言い訳にして、過ごして来た。
会えばこんなにも、とめどない感情がこぼれて来て。
熱なんて出ていなかったら、私は…
『大家さん、心配していましたよ。ここの所忙しそうだったからと。』
「あぁ、治ったら少し顔を出してみるよ。」
『そうして下さい。少し、体を起こしましょうか。』
距離が近い事も、前は何とも思わなかったのに
何故か今となっては気恥ずかしい。
肌と肌の重なりが、妙に心地よくて。
白島に上体を預けながら、ゆっくりと体を起こす。
『コレを、腰に挟みましょうか。』
使ってない枕をベッドの裾から持って来て、立てた腰の後ろに
少しだけ支えとして枕が入って安定した気がする。
「…私は銭湯の風呂で、」
『多分、空腹からくるめまいでも起こしたんじゃないですか?で、溺れにかかって』
「覚えがある。確かに、腹が空いている状態で銭湯に行ったな。」
『それ、危ないんですよ。少しなにか食べてからが良かったですね。』
「へぇ…。」
『気をつけないと。そういうので事故に遭う事もありますし。周りも騒然としていましたよ。』
「…気を付ける。」
昔から、夢中になると寝食をついついないがしろに
してしまいたくなるのが悪い癖だ。
『呉さんは、自活できる人だと思ってますから。』
「そうは言うけれど、色々とやる事が多くて。」
『そんなにですか?』
「大学に通ってるんだよ、今」
白島はぽかんとした表情で私を見て
『…まだ勉強するんですか?』
と、少しだけ呆れ顔をした。
「上からの進言だ。無下にできなかった。しかもとある教授と共同研究まで…あ、これはあまり
人には話せない事になっているんだった。」
『俺は、口は堅いですよ。でも、興味あるなぁ…呉さんが携わる専攻分野なら察しがつきますし。』
「探ろうとしないでくれ。忘れるんだ、白島。」
湯呑に注がれたお湯の温度を両手で確認して、静かに飲んでみた。
「ん…、少し塩味がする。」
『はい、置いてある塩。良い物だったので少し溶かしておきました。』
「そうか、気遣いありがとう。」
『ちょっと、出掛けてきますね。』
「ぇ、どこに?」
『ちゃんと帰ってきますって。氷屋さんで、』
「あ、そうか…。すまない。面倒を掛ける。」
『俺には、こんな事しかできないんで。気にしないでください。』
白島はそう言って、外に出る支度を始めた。
白いシャツに、吊りズボンの後姿を見ているだけで
頬が緩むのが自分でも分かる。
「財布は私のを、机の上にあるだろう?そこから使ってくれ。」
『いいんですか?そんな…』
「だって、私の為に行ってくれるし。私が体調を崩したんだから当然だ。」
『……』
「金はあっても、最近使う暇さえも無かった。」
『分かりました。じゃ、遠慮なく使わせてもらいますね。』
私は頷いて、白島の背中を見送った。
重い瞬きが終わって、心をかすめる声に記憶が昨晩から繋がった。
ここまで、心の侵入を許した相手はこの世にたった一人しかいない。
そういえば、『また明日』と言われて得も言われぬ気持ちが
沸き立っていた。
『失礼しますね。……あ、やっぱり』
「熱が、あるだろうな。」
『熱いですね。はぁ…、昨日あなたを預った時にちゃんと髪を乾かせてなかった。』
白島は私のベッドに腰掛けて、生温い手のひらで額に触れている。
首元の方へと下りて来る手を、視線で追いながら
「移ってしまう。」
『大丈夫ですよ、俺程になるともう風邪とかは引きもしませんし。』
「ん、でも…」
『最近、海外への渡航はありませんか?』
「え、あぁ。むしろ行きたいぐらい。ずっと、本の虫で…大学との行き来の図書館だよ。」
柔和な表情で触れられると、心がくすぐったくて反応に困る。
『胸元、ちょっと失礼しますね。』
寝巻の襟元を白島に緩められて、なるべく視線を逸らす。
あ、本当だ。髪が乾いていなかったせいで後頭部にまだ冷たさが
残っている気がした。
白島は何かを確認してから、襟元を直して
薄掛け布団をまた掛けてくれた。
「…なんだ?まるで医者の様に」
『あ、いいえ。一応念の為ですよ。巷で少し感冒だのなんだの流行っているのは、呉さんも知ってるでしょう?』
「そんなのは、もうずっとだよ。チフスに赤痢に。」
『不意に罹ったりもしますから。これでも、心配してます。』
これでもか。私が見える限り白島は、ただただ私の身を案じて
いつもどこからともなく現れて、と言った感じだろうに。
「肺を患いはしていないか?」
『…それよりも。少し瘦せましたね。あばらが浮いて見えそうですよ。ちゃんと食べて寝てください。』
「あぁ、元気になったらな。」
『俺が贔屓にしている料理屋なんかがいくつかあるんで、食べにも行きましょう。』
「ありがとう。じゃ、早く良くならないとな。」
部屋の窓が少し開けられていて、風になびくカーテン。
陽射しはこれから強くなっていく。
今何時だろう?
「仕事は、いいのか?」
『今は、記者をしてるんで。そこまで時間にはとらわれませんよ。』
「お前は、やっぱり去ったのか。」
『ここで、原稿したら迷惑じゃないですか?』
「まさか。迷惑なんかじゃない。ただ、寝てしまうけども…いいか?」
もちろんですよ、と白島の声が聞こえて
髪を撫でてくれる慈しみを帯びた手つきが、愛おしくてたまらなかった。
『もし、腹が空いていれば何か作りますよ。とはいえ、七分がゆくらいしか今の呉さんには
あげられそうにも無いですが。』
「水、か何か」
『生水はダメです。沸かし冷ましで良かったら。今、用意しますね。』
「ありがとう。」
随分と甲斐甲斐しくて、気が引けてしまう程だ。
体が熱い。熱にうなされる時は決まって悪夢を見た。
子供の頃以来だった。
理不尽で、遣る瀬無い心の痛む様な悪夢を。
当たり前の様に、白島が私の家の中にいる事が違和感を通り越して
むしろ嬉しかった。
何となく、逃げる様に離れてしまった事。
その後も、どうしたら良いのか分からなくて
忙しさを言い訳にして、過ごして来た。
会えばこんなにも、とめどない感情がこぼれて来て。
熱なんて出ていなかったら、私は…
『大家さん、心配していましたよ。ここの所忙しそうだったからと。』
「あぁ、治ったら少し顔を出してみるよ。」
『そうして下さい。少し、体を起こしましょうか。』
距離が近い事も、前は何とも思わなかったのに
何故か今となっては気恥ずかしい。
肌と肌の重なりが、妙に心地よくて。
白島に上体を預けながら、ゆっくりと体を起こす。
『コレを、腰に挟みましょうか。』
使ってない枕をベッドの裾から持って来て、立てた腰の後ろに
少しだけ支えとして枕が入って安定した気がする。
「…私は銭湯の風呂で、」
『多分、空腹からくるめまいでも起こしたんじゃないですか?で、溺れにかかって』
「覚えがある。確かに、腹が空いている状態で銭湯に行ったな。」
『それ、危ないんですよ。少しなにか食べてからが良かったですね。』
「へぇ…。」
『気をつけないと。そういうので事故に遭う事もありますし。周りも騒然としていましたよ。』
「…気を付ける。」
昔から、夢中になると寝食をついついないがしろに
してしまいたくなるのが悪い癖だ。
『呉さんは、自活できる人だと思ってますから。』
「そうは言うけれど、色々とやる事が多くて。」
『そんなにですか?』
「大学に通ってるんだよ、今」
白島はぽかんとした表情で私を見て
『…まだ勉強するんですか?』
と、少しだけ呆れ顔をした。
「上からの進言だ。無下にできなかった。しかもとある教授と共同研究まで…あ、これはあまり
人には話せない事になっているんだった。」
『俺は、口は堅いですよ。でも、興味あるなぁ…呉さんが携わる専攻分野なら察しがつきますし。』
「探ろうとしないでくれ。忘れるんだ、白島。」
湯呑に注がれたお湯の温度を両手で確認して、静かに飲んでみた。
「ん…、少し塩味がする。」
『はい、置いてある塩。良い物だったので少し溶かしておきました。』
「そうか、気遣いありがとう。」
『ちょっと、出掛けてきますね。』
「ぇ、どこに?」
『ちゃんと帰ってきますって。氷屋さんで、』
「あ、そうか…。すまない。面倒を掛ける。」
『俺には、こんな事しかできないんで。気にしないでください。』
白島はそう言って、外に出る支度を始めた。
白いシャツに、吊りズボンの後姿を見ているだけで
頬が緩むのが自分でも分かる。
「財布は私のを、机の上にあるだろう?そこから使ってくれ。」
『いいんですか?そんな…』
「だって、私の為に行ってくれるし。私が体調を崩したんだから当然だ。」
『……』
「金はあっても、最近使う暇さえも無かった。」
『分かりました。じゃ、遠慮なく使わせてもらいますね。』
私は頷いて、白島の背中を見送った。
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