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第30話 三条院(4)
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朝食後の身支度の時間は最近、大した用もないのにキヨノさんを呼んでは出勤までの時間を惜しむように共に過ごしている。こんなにも時を一緒に過ごしたいと欲している自分に驚いている、というのが正直なところだ。
しかし今朝はそうもいかなかった。藤代が私が出かける前に話があると言ってきた。まあそうだろう。想定していたので驚きはしないが、短い時間でもキヨノさんと過ごせないのが残念である。
ノックをして私の部屋に入ってきた藤代が今朝のキヨノさんの様子を報告する。私はそれをカフスボタンを留め、ネクタイを結び、持っていく書類の確認をしながら聞く。
今朝、キヨノさんは寝坊をした。朝の掃除には5分程度遅れたくらいだったが、これまでそんなことが一度もなかったのと、おどおどしたり赤くなったり青くなったりして、歩き方もおかしく、とにかく挙動不審だったことが報告される。そして藤代は私にねっとりとした疑惑の視線を投げかけている。
「今朝のキヨノさんのご様子はとてもおかしなものでしたが、理由を尋ねてもなにもないと首を横に振るばかりで、もう少しお聞きしようとすると走って逃げてしまわれます。もしや、とも勘ぐってしまいますが、旦那様、キヨノさんに無体を働かれたのではないかと使用人一同心配しております」
ああ、やはり。
私は大きな溜息をついた。そして藤代に、昨夜眠れないというキヨノさんに自慰を教えたことを伝えた。
今朝目覚めたキヨノさんはまず寝坊したことに焦っていたが、次第に私との行為について思い出したようで挙動不審のまま寝室から飛び出していってしまった。その後も落ち着かないご様子で、朝食のときも上の空で味もおわかりになっていないようだった。
彼らが想像していた「無体」ではなかったが、性にまつわることだったので藤代は少し動揺していた。
「いくら私でも、今のキヨノさんにはなにもできないよ。あの方はかぞえで十四と言っていた。それも師走の生まれだという。あちらの歳の数え方だとまだ十二歳と数か月だ。まだ幼いキヨノさんに、それこそ無体な真似はできないよ」
「十二」
「生まれてから次の生まれた日が来てやっと一つ年を拾う数え方だよ。キヨノさんが生きてきたのは12年と数か月。わかりやすい数え方だね」
書類を革の鞄に丁寧に収める。
「身体の変化についてはここに来て心身ともに安定した証だと私は思っているよ。同い年くらいの子がここにいれば、そういった面の知識も少しは入るだろうが田村さんのところではからかわれて春画を少し見せられたくらいのようだったよ」
「はい」
「これからのキヨノさんには必要な知識だろう。おまえも中川も自慰はすると伝えてある。もし何か聞かれたら、適切に教えてあげてください」
「そんなことをキヨノさんにおっしゃったのですか」
「身体の反応が自分だけではないと知って、少し安心されたようだったよ。藤代がこの屋敷では一番キヨノさんに歳が近い男だから頼りにしているんだが」
「十は離れています」
「それでも、だよ。本当なら学校やどこかに通って、同い年くらいの子と一緒に過ごすのもいいと思っているが、キヨノさんがその気にならない」
「読み書きそろばんの勉強は順調です」
「まだここを出ていくとおっしゃっているか?」
「いいえ、それは一言も」
よかった。以前はこの屋敷を出て次の奉公先で役に立つようにと中川と藤代に読み書きそろばんを教えてくれるよう頼んでいた。初めてその報告を聞いたときは肝が冷えた。
おそるおそるのノックの音がした。
「どうぞ」
私が声をかけると思っていた通りにキヨノさんがそっと入ってきた。
「なりあきさま、そろそろお時間ですが大丈夫ですか」
「キヨノさん、わざわざありがとうございます。藤代との話は終わりましたよ。出かけます」
「お鞄をお持ちします」
「はい、お願いします」
私が片手で渡した革の鞄をキヨノさんは両手で受け取り、大切そうに抱えた。藤代が上着をハンガーから外してきたので、私は腕を通した。前のボタンを留める。キヨノさんはぼんやりそれを見ている。
まだぼぅっとされているようだ。衝撃的な体験だったと思う。キヨノさんの痴態をありありと思い出しそうになり、私は思考を止めた。
「キヨノさん、どこかおかしなところはありませんか」
「いいえ。なりあきさまはいつでもご立派です」
灰色を帯びた目で真摯に答えるキヨノさんを見て嬉しくなり、頬が緩んだ。
「ありがとうございます。では出かけましょうか」
私が言うとキヨノさんが大きくうなずいた。
藤代が開けたドアから私が出ると、鞄を抱えたキヨノさんがついてきて、その後を藤代が続く。
そして玄関までくるとキヨノさんから鞄を受け取り「いってきます」とハグをした。いつもならここで小さなキスをするところだが、今朝は止めておいた。性的なことは避けたほうがいいかと思った。
なにもせずキヨノさんから身体を離そうとしたとき、キヨノさんがぐっと私の腕を引き前かがみになった私に背伸びをして頬に春風のようなキスをして俯きながら「いってらっしゃいませ」と消え入るような声で言った。私は今日の出勤を止めようかと思うほどだった。しかし佐伯と中川がそれを許すはずもない。
「今日はなるべく早く帰ってきますね」
そう告げるのが精いっぱいだった。キヨノさんは黙ったまま深くうなずいた。私は後ろ髪が引かれる思いで出勤した。
***
ブログ更新 「キヨノさん」第30話更新と今後、ときどきお知らせ
https://etocoria.blogspot.com/2019/11/kiyonosan-30.html
しかし今朝はそうもいかなかった。藤代が私が出かける前に話があると言ってきた。まあそうだろう。想定していたので驚きはしないが、短い時間でもキヨノさんと過ごせないのが残念である。
ノックをして私の部屋に入ってきた藤代が今朝のキヨノさんの様子を報告する。私はそれをカフスボタンを留め、ネクタイを結び、持っていく書類の確認をしながら聞く。
今朝、キヨノさんは寝坊をした。朝の掃除には5分程度遅れたくらいだったが、これまでそんなことが一度もなかったのと、おどおどしたり赤くなったり青くなったりして、歩き方もおかしく、とにかく挙動不審だったことが報告される。そして藤代は私にねっとりとした疑惑の視線を投げかけている。
「今朝のキヨノさんのご様子はとてもおかしなものでしたが、理由を尋ねてもなにもないと首を横に振るばかりで、もう少しお聞きしようとすると走って逃げてしまわれます。もしや、とも勘ぐってしまいますが、旦那様、キヨノさんに無体を働かれたのではないかと使用人一同心配しております」
ああ、やはり。
私は大きな溜息をついた。そして藤代に、昨夜眠れないというキヨノさんに自慰を教えたことを伝えた。
今朝目覚めたキヨノさんはまず寝坊したことに焦っていたが、次第に私との行為について思い出したようで挙動不審のまま寝室から飛び出していってしまった。その後も落ち着かないご様子で、朝食のときも上の空で味もおわかりになっていないようだった。
彼らが想像していた「無体」ではなかったが、性にまつわることだったので藤代は少し動揺していた。
「いくら私でも、今のキヨノさんにはなにもできないよ。あの方はかぞえで十四と言っていた。それも師走の生まれだという。あちらの歳の数え方だとまだ十二歳と数か月だ。まだ幼いキヨノさんに、それこそ無体な真似はできないよ」
「十二」
「生まれてから次の生まれた日が来てやっと一つ年を拾う数え方だよ。キヨノさんが生きてきたのは12年と数か月。わかりやすい数え方だね」
書類を革の鞄に丁寧に収める。
「身体の変化についてはここに来て心身ともに安定した証だと私は思っているよ。同い年くらいの子がここにいれば、そういった面の知識も少しは入るだろうが田村さんのところではからかわれて春画を少し見せられたくらいのようだったよ」
「はい」
「これからのキヨノさんには必要な知識だろう。おまえも中川も自慰はすると伝えてある。もし何か聞かれたら、適切に教えてあげてください」
「そんなことをキヨノさんにおっしゃったのですか」
「身体の反応が自分だけではないと知って、少し安心されたようだったよ。藤代がこの屋敷では一番キヨノさんに歳が近い男だから頼りにしているんだが」
「十は離れています」
「それでも、だよ。本当なら学校やどこかに通って、同い年くらいの子と一緒に過ごすのもいいと思っているが、キヨノさんがその気にならない」
「読み書きそろばんの勉強は順調です」
「まだここを出ていくとおっしゃっているか?」
「いいえ、それは一言も」
よかった。以前はこの屋敷を出て次の奉公先で役に立つようにと中川と藤代に読み書きそろばんを教えてくれるよう頼んでいた。初めてその報告を聞いたときは肝が冷えた。
おそるおそるのノックの音がした。
「どうぞ」
私が声をかけると思っていた通りにキヨノさんがそっと入ってきた。
「なりあきさま、そろそろお時間ですが大丈夫ですか」
「キヨノさん、わざわざありがとうございます。藤代との話は終わりましたよ。出かけます」
「お鞄をお持ちします」
「はい、お願いします」
私が片手で渡した革の鞄をキヨノさんは両手で受け取り、大切そうに抱えた。藤代が上着をハンガーから外してきたので、私は腕を通した。前のボタンを留める。キヨノさんはぼんやりそれを見ている。
まだぼぅっとされているようだ。衝撃的な体験だったと思う。キヨノさんの痴態をありありと思い出しそうになり、私は思考を止めた。
「キヨノさん、どこかおかしなところはありませんか」
「いいえ。なりあきさまはいつでもご立派です」
灰色を帯びた目で真摯に答えるキヨノさんを見て嬉しくなり、頬が緩んだ。
「ありがとうございます。では出かけましょうか」
私が言うとキヨノさんが大きくうなずいた。
藤代が開けたドアから私が出ると、鞄を抱えたキヨノさんがついてきて、その後を藤代が続く。
そして玄関までくるとキヨノさんから鞄を受け取り「いってきます」とハグをした。いつもならここで小さなキスをするところだが、今朝は止めておいた。性的なことは避けたほうがいいかと思った。
なにもせずキヨノさんから身体を離そうとしたとき、キヨノさんがぐっと私の腕を引き前かがみになった私に背伸びをして頬に春風のようなキスをして俯きながら「いってらっしゃいませ」と消え入るような声で言った。私は今日の出勤を止めようかと思うほどだった。しかし佐伯と中川がそれを許すはずもない。
「今日はなるべく早く帰ってきますね」
そう告げるのが精いっぱいだった。キヨノさんは黙ったまま深くうなずいた。私は後ろ髪が引かれる思いで出勤した。
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