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第33話
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あれからナメカワ様はちょくちょく姿を見せるようになった。決まって薪割りのときで、甲高い声で「キヨノー!」と突然現れる。そして俺が斧をふるったり、水汲みをしたりするのを見ている。
お陰で、というのはへんだけど焚口の前にはナメカワ様用の小さな石を見つけて置いた。平たくてすべすべしている石が見つかってよかった。漬物石だったらどうしよう。洗えばいいか。川崎さんに叱られるのは仕方ない。ナメカワ様は短いズボンだからすべすべの石でないと危ない。
だがナメカワ様は滅多に焚口の前に座ることはない。決まってその前に「くちょーっ!使えないねずみめぇっ!」と叫びながら「またな、キヨノ」と走り去ってしまう。
そしていつも俺が座る石の上に餡子玉が四つ置かれている。
「一緒に食べようと思って」とちょっとだけ口をとがらせて丁寧にズボンのポケットから竹の皮の包みを大切そうに取り出す。ぷくぷくの指、まるいほっぺたをまじまじと見てしまう。
餡子玉を一緒に食べたことはなく、いつも俺ばかり食べるのでナメカワ様になにかしたいと思った。
でもいつ来るかわからないから俺が餡子玉をこっそり買うわけにもいかず、キャラメルはこの暑さでとけるし、せんべいは湿気そうだ。そもそも寄り道厳禁になってしまってできないのだけれど。
ぱれすに住む天子様でおじさんだとは信じられない。
今日も俺が薪割りをしているのをじっと見ている。
一緒に餡子玉食べたいな。あんなに入りたがっているから、お風呂にも入っていだだきたいな。
俺は一秒でも早く風呂を沸かすことができないか、やれることはやってみることにした。前日少しだけ薪を多く割っておく。桶に入れる水の量を少しでも多くして井戸へ行く回数を減らす。力をつけるために飯をいっぱい食べる。
風呂桶を水でいっぱいにし、焚口の前にナメカワ様と並んで火が安定するまで必死に番をする。ナメカワ様はすべすべの石にちょこんと座り、いい子にしている。
しばらくすると火が安定した。俺は焚口のふたを一旦閉めた。横を見るとナメカワ様は緑の目をくるくるとしてわくわくしていらした。それからポケットからぷくぷくの指でそっと竹の皮の包みを取り出し俺に渡す。
俺は恭しくそれを受け取り、そっと開く。今日も餡子玉四つ。
「食べろ、キヨノ」
「ナメカワ様、お先にどうぞ」
「せーので取るぞ」
掛け声に合わせて餡子玉を指でつまみ、また掛け声で同時に口の中に入れた。
「うまい!」
初めてだ!
俺は餡子玉にもうっとりしたが、やっとナメカワ様と餡子玉を食べることができた。これはすごい。
「うまいな、キヨノ」
「はい」
ナメカワ様も桃色になったほっぺたを両手で覆い、ほわほわと餡子玉を食べていらっしゃる。うまい。
それからはぽつりぽつりと話をした。
多くはナメカワ様からの問いに答えるものだった。俺の問いは「言えぬ」「知らぬ」「わからぬ」で大体が終わってしまう。
「キヨノはこの屋敷での生活に満足しているのか」
「はい。とてもよくしていただいています。贅沢もさせていただいています」
「おまえの歳なら学校に行くのもよかろうに」
「それは私がご遠慮しました。しかし読み書きそろばんを習っています」
「どこまでできる?」
「カタカナはすべて覚えました。ひらがながもう少し。漢字は…。そろばんは足し引きはできます」
「ふーん」
「三条院はどうだ?」
「なりあ……旦那様ですか。よくしてくださいます」
「おまえにむたいを働かないか?」
「むたい?」
「嫌がることを無理矢理することだ」
「前は赤さんみたいに扱われるのが嫌でしたが、俺…私のことを赤さんではないとわかっていただいているのを知って安心しました」
「……そうか。他には?」
「ほか……?特にありません。いつも気にかけてくださってありがたいです」
「なんだ、面白くない」
「おもしろく?」
「いや、こっちの話だ。
キヨノ、抹茶の餡子玉も食べたい」
「はい」
俺が竹の皮を差し出すと「おまえも食べろ」と言い、ナメカワ様は緑の餡子玉をつまんで口の中に放り込まれたので、俺も同じようにし、竹の皮は焚口のふたを開けて中に入れて燃やした。
しばらくは話をしていたがナメカワ様がこっくりこっくりと船を漕ぎだした。俺は慌てて小さなナメカワ様の身体を支えた。どうしよう。
どうしようもなく、俺は固まるしかできなかった。
結局、短い時間は許してもらうことにしてそっと俺の座る石の上に寝かせると、作業場からあまり汚れていないむしろを持ってきて敷いた。わらくずが服につくかもしれないが地面に直接寝かせるよりいいだろう。
小さな寝息を聞いて、俺は焚口のふたを開けた。そして薪をどんどん入れた。
早く風呂を沸かそう。
***
「キヨノ―!!!入るぞー!」
「お一人で入ってください」
「なぜじゃ。二人で入るぞー!」
風呂が沸いた。
嬉しくなってナメカワ様を揺り起こすと、ナメカワ様はぱっと飛び起きた。そして元気いっぱいになって脱衣所に俺をひっぱっていき、ぼんぼんと勢いよく服を脱いでいく。
「キヨノ―、ボタンがひっかかったー!」
「あー、そんなに無理にひっぱったらぼたんが取れます」
「やってくれー」
「はい」
「キヨノ―、一緒に入るぞー!」
「入りません」
「キヨノは私が溺れてしまってもいいのか」
「おぼ…?!」
シャツのぼたんに手間取っていると物騒なことを聞いた。
「わたしは小さいから湯船で溺れるかもしれぬ」
あ、と思った。
なりあきさまが入る風呂を沸かしてしまった。そうだ、子どもには深い。
「たらいに湯を汲みましょう」
「それでは風呂ではない。行水だ」
「キヨノ―、早く早く!」
俺がボタンを外すとナメカワ様はシャツを脱ぎ、ズボンも下着もどんどん脱いで真っ裸になってしまった。
「キヨノも脱げーっ!」
「いや、それは」
俺が困ってあわあわ言ったときだった。
「騒いでいるのはどなたかと思いましたら、珍しい方がいらっしゃいますね」
脱衣所の引き戸ががらりと開き、声がした。
う。
姿勢のいい中川さんがにっこりと笑って立っている。
「キヨノさん、お客様がいらしたら次からはわたくしか藤代にお知らせ願えますか」
「は、はいっ」
中川さんはうなずき、次に真っ裸のナメカワ様を見た。
「こんなところでお会いできるとは。お久しぶりです、滑川様」
「う、うむ」
ナメカワ様はほっぺたをぷくーぷくーとふくらませて中川さんを見上げている。
「なにが紛れ込んでいるのかと思えば、あなた様でしたか。
それでご入浴したいのですね」
「中川はいらぬ!キヨノと入る!」
「なにをおっしゃいますやら。キヨノさんはうちの奥様です。お客様の背中を流す必要はありますまい。わたくしがいれて差し上げます」
「やだー、キヨノ―!!」
「いつぶりですかね。懐かしい」
ナメカワ様が逃ようと走り出したがその前にひょいと中川さんの小脇に抱えられてしまった。
「きれいきれいに洗ってあげましょう」
「中川、離せー!キヨノ―!!」
手足をばたばたさせてナメカワ様が暴れる。お餅のようなお尻がぷりんぷりんと揺れる。
「キヨノさん、ここはわたくしにお任せくださいますね」
「は…はい」
「キヨノーーーーー!!!」
ナメカワ様を抱えた中川さんは湯殿の引き戸を開けて中に入ると、ぴしゃりと閉めた。
ざばーんっ
ざばーんっ
「きゃあああああ」
「よくよく洗ってから湯に入りましょうね」
お湯の音。ナメカワ様の甲高い声。
「湯船に入ったら肩までつかって百まで数えますよ」
「いやだー!」
「お髪も洗いましょう」
ざっぱーんっ
「ぎゃあああっ」
中から聞こえてくる声と音と、そして中川さんの笑っていない目が怖かったことと。
俺はそこに呆然として立っていた。
が、ぽんと肩を叩かれひどく驚いて振り向いた。
そこには藤代さんが立っていた。
「ここは中川さんにお任せして、いきましょう」
「……はい」
「その前に衣服が乱れていますよ」
ナメカワ様に脱げ脱げと服をひっぱられたせいだった。慌てて服を直す。それを見届けてから、なんだか怖い雰囲気の藤代さんのあとをとぼとぼとついて、脱衣所から出ていった。
**
夕方、なりあきさまが屋敷に戻り車から下りると俺のところに駆けつけ、そしてぎゅっと抱きしめられた。
「お、かえりなさい」
「キヨノさんっ!」
「ませ?」
「どこもなんともありませんかっ?」
「はぁ」
「よかった」
なりあきさまの腕の力が抜けた。こんなに慌てて、なりあきさまはどうされたんだろう。
「中川から連絡を受けたときは肝が冷えました」
「すみません…」
藤代さんのあとについて脱衣所から出た俺は自分の部屋にいるように言われた。なにか重大なことをしでかしたらしいのは、厳しいふりをしてああだこうだと言ってくれる藤代さんが無言のままだったので、感じていた。
なので俺はおとなしく部屋にいた。
仕方ないので、じゅうたんの上でごろりと横になった。べっどの上は自分が汚れているのでやめておいた。
なりあきさまのお帰りだと藤代さんに呼ばれ、玄関にお出迎えに出て、それでこれだ。
「お風呂、勝手なことをして申し訳ありません。すぐに沸かし直します」
俺はなりあきさまに謝った。
「とんでもない!あの御仁が入った風呂など当分使い物になりませんよ。よかった、一緒に湯船に浸かっていたらどうなっていたか。
まったくあの御方もわかっていらして、こんなことを!」
「?」
「キヨノさんになにかあっては大変です。しばらくは風呂焚きは藤代に任せてください」
「え」
「うちに中川がいたからよかったようなものの、本来なら風呂場を取り壊して建て直しをしなくてはなりません」
「そ」
「いいですか、キヨノさん」
なりあきさまは俺から離れ、俺の両肩に手を置いて怖いくらいの真剣な目で俺を見るものだから、恐ろしくなってきた。
「あの御仁はただびとではありません。それをよくよく覚えていてください」
「はぁ」
「いいですね」
「……はい」
「では銭湯に行きましょう。梅雨前の蒸し暑いときに汗が流せないのはつらいでしょう」
なりあきさまはそう言うと、シノさんから竹で編んだ籠と風呂敷包みを受け取ると、佐伯さんの運転する自動車に俺も乗せ、銭湯へ向かった。
銭湯の大きな湯になりあきさまと並んで入ると、温泉に一緒に行ったときのことを思い出した。壁に描かれた大きな富士の絵を見ながら、俺は溜息をついた。
「どうしました」
「……えっと……」
うまく言葉にならなくて困っていると、なりあきさまが手助けしてくれた。
俺はなりあきさまと背中を流し合ったり、湯船につかりながらぽつぽつとまとまらないことを話した。
なにがそんなに大事だったのか、まだよくわかっていないこと。
大変なご迷惑をおかけしたらしいこと。
風呂焚きの仕事がなくなって、しょんぼりしていること。
なりあきさまと温泉に行ったときのことを思い出したこと。
初めての銭湯で、初めて壁の富士を見たこと。
全部話し終えたときには、俺たちは風呂から上がって身体を拭き、シノさんが準備してくれた浴衣に着替え終わっていた。
銭湯の外には佐伯さんが待っていてくれたが、なりあきさまは荷物を預けて俺に言った。
「歩いて帰りませんか。また汗をかいてしまうかもしれないけれど」
「はい」
佐伯さんは俺の返事を聞くと、自動車を走らせた。
「広い湯船はいいですね。銭湯なんて久しぶりです」
なりあきさまが少しはしゃいだようにおっしゃった。
「しかし暑いな。ラムネを飲みましょう。お飲みになったことはありますか」
俺が首を横に振ると、藤代さんと餡子玉を買っていた駄菓子屋でらむねを買ってくれた。綺麗な水で作ったような奇妙な形をした瓶だった。
「ふたを開けたらすぐに飲んでください」と言われ、よくわからないがうなずいた。
口には丸いガラス玉がはまっていたが、なりあきさまが棒で器用に押すと中から泡が溢れてきた。
「早く飲んで!」
慌ててその泡に口をつける。
え。
冷たくて、甘いのにからい。
困ってしかめた顔を見てなりあきさまが笑う。そしてご自分のらむねのガラス玉を中に落とすと泡が溢れる前に口をつけおいしそうにらむねを飲んだ。
「ああ、冷たくておいしいですね」
なりあきさまは俺を見てにこっとお笑いになる。
「どうされました?もしかしてラムネを飲むのは初めてですか」
「はい」
「からかった?」
「はい」
「お好きではなかったかな」
「いいえ。からいけど甘いです」
「炭酸というんですよ。刺激的でびっくりしますね。飲まなくてもいいですよ」
「いいえ、飲みます」
俺は瓶を傾けた。
「あれ」
「ん?」
「なりあきさま、出てきません」
「ああ。ラムネを飲むにはこつがいるんですよ。この二つのくぼみが下になるように持つんです。こうやって手前にくるようにね」
なりあきさまはご自分の瓶でやって見せてくれながら、俺の手の中の瓶も動かす。
「こうすると傾けても中のビー玉が動かないんです」
「なるほど」
「どうぞ」
なりあきさまは再びビー玉がはまってしまったらむね瓶の口を棒で押し、ビー玉を下に落としてくれた。俺は教わったようにそろそろと瓶を傾ける。
ぱちぱちしてからくて甘い。
「飲めました!」
「よかったです」
なりあきさまもまたらむねを飲み始めた。
俺は飲み終わったあとの瓶を逆さにして振った。思うようにいかないので、また振った。
「どうしたの?」
「中のビー玉がほしくて。出そうで出ない」
なりあきさまは笑った。
「キヨノさん、ラムネ瓶のビー玉は出ないようになっているんですよ。本当にほしいなら瓶を割るしかない。割りましょうか」
「いえっ!そこまでしなくてもいいです」
水を固めたような、こんなきれいな瓶、割るなんてもったいない!
俺たちは暑いのに手をつないで帰った。
手を引かれながら俺はきょろきょろとしてしまった。なりあきさまにどうしたのかと聞かれ、恥ずかしくなってしまったが正直に答えた。
「湯気が出てないかと思って」
「もしかして、蒸し饅頭の?」
うなずくとなりあきさまがまた小さく笑った。
「また温泉に行きましょう、キヨノさん」
「はい」
「蒸し饅頭も食べましょう」
「はい。また射的も見せてください」
「ええ、もちろん。私のことを格好いいと思っていただかなくては」
「なりあきさまは普段から格好いいですよ。俺なんかが言うのもおこがましいですが」
「キヨノさん?」
「?」
急に立ち止まったなりあきさまに驚いた。と思ったらぎゅうううと抱きしめられた。
暑い。
**
騒動は一日では治まらず、なりあきさまとの銭湯通いも数日続いた。
やっとお屋敷の風呂が使えるようになり、俺の仕事がまた戻ってきた。中川さん藤代さんをはじめ、小林さん川崎さん佐伯さんにまで、今回のようなことがあったらすぐに報告するように言われた。
シノさんとハナさんからは直接は言われなかったが、やたらと「変わったことはございませんか」と聞かれるようになった。
ある夕方、水汲みを終え、焚口に座ろうとしたとき、緑がかった白い大きな蛾がふわりふわりと粉をまき散らしながら飛んできた。ぼんやりと光っているようにも見え、驚いてじっと見ていると急に羽を動かさなくなり、ぽとりと俺の足元に落ちた。慌ててよく見るとそれは四つ折りにされた紙になっていた。
恐る恐る開いてみる。
『キヨノ江
マタ フロニ ハイリニ イク
ツギハ イッショニ ハイロウ
ナ』
俺が読めるように全部カタカナで書いてある。
俺は数回読み直し焚口の中に放り込んだ。そしてその手紙ごと焚き付けに火をつけた。
お陰で、というのはへんだけど焚口の前にはナメカワ様用の小さな石を見つけて置いた。平たくてすべすべしている石が見つかってよかった。漬物石だったらどうしよう。洗えばいいか。川崎さんに叱られるのは仕方ない。ナメカワ様は短いズボンだからすべすべの石でないと危ない。
だがナメカワ様は滅多に焚口の前に座ることはない。決まってその前に「くちょーっ!使えないねずみめぇっ!」と叫びながら「またな、キヨノ」と走り去ってしまう。
そしていつも俺が座る石の上に餡子玉が四つ置かれている。
「一緒に食べようと思って」とちょっとだけ口をとがらせて丁寧にズボンのポケットから竹の皮の包みを大切そうに取り出す。ぷくぷくの指、まるいほっぺたをまじまじと見てしまう。
餡子玉を一緒に食べたことはなく、いつも俺ばかり食べるのでナメカワ様になにかしたいと思った。
でもいつ来るかわからないから俺が餡子玉をこっそり買うわけにもいかず、キャラメルはこの暑さでとけるし、せんべいは湿気そうだ。そもそも寄り道厳禁になってしまってできないのだけれど。
ぱれすに住む天子様でおじさんだとは信じられない。
今日も俺が薪割りをしているのをじっと見ている。
一緒に餡子玉食べたいな。あんなに入りたがっているから、お風呂にも入っていだだきたいな。
俺は一秒でも早く風呂を沸かすことができないか、やれることはやってみることにした。前日少しだけ薪を多く割っておく。桶に入れる水の量を少しでも多くして井戸へ行く回数を減らす。力をつけるために飯をいっぱい食べる。
風呂桶を水でいっぱいにし、焚口の前にナメカワ様と並んで火が安定するまで必死に番をする。ナメカワ様はすべすべの石にちょこんと座り、いい子にしている。
しばらくすると火が安定した。俺は焚口のふたを一旦閉めた。横を見るとナメカワ様は緑の目をくるくるとしてわくわくしていらした。それからポケットからぷくぷくの指でそっと竹の皮の包みを取り出し俺に渡す。
俺は恭しくそれを受け取り、そっと開く。今日も餡子玉四つ。
「食べろ、キヨノ」
「ナメカワ様、お先にどうぞ」
「せーので取るぞ」
掛け声に合わせて餡子玉を指でつまみ、また掛け声で同時に口の中に入れた。
「うまい!」
初めてだ!
俺は餡子玉にもうっとりしたが、やっとナメカワ様と餡子玉を食べることができた。これはすごい。
「うまいな、キヨノ」
「はい」
ナメカワ様も桃色になったほっぺたを両手で覆い、ほわほわと餡子玉を食べていらっしゃる。うまい。
それからはぽつりぽつりと話をした。
多くはナメカワ様からの問いに答えるものだった。俺の問いは「言えぬ」「知らぬ」「わからぬ」で大体が終わってしまう。
「キヨノはこの屋敷での生活に満足しているのか」
「はい。とてもよくしていただいています。贅沢もさせていただいています」
「おまえの歳なら学校に行くのもよかろうに」
「それは私がご遠慮しました。しかし読み書きそろばんを習っています」
「どこまでできる?」
「カタカナはすべて覚えました。ひらがながもう少し。漢字は…。そろばんは足し引きはできます」
「ふーん」
「三条院はどうだ?」
「なりあ……旦那様ですか。よくしてくださいます」
「おまえにむたいを働かないか?」
「むたい?」
「嫌がることを無理矢理することだ」
「前は赤さんみたいに扱われるのが嫌でしたが、俺…私のことを赤さんではないとわかっていただいているのを知って安心しました」
「……そうか。他には?」
「ほか……?特にありません。いつも気にかけてくださってありがたいです」
「なんだ、面白くない」
「おもしろく?」
「いや、こっちの話だ。
キヨノ、抹茶の餡子玉も食べたい」
「はい」
俺が竹の皮を差し出すと「おまえも食べろ」と言い、ナメカワ様は緑の餡子玉をつまんで口の中に放り込まれたので、俺も同じようにし、竹の皮は焚口のふたを開けて中に入れて燃やした。
しばらくは話をしていたがナメカワ様がこっくりこっくりと船を漕ぎだした。俺は慌てて小さなナメカワ様の身体を支えた。どうしよう。
どうしようもなく、俺は固まるしかできなかった。
結局、短い時間は許してもらうことにしてそっと俺の座る石の上に寝かせると、作業場からあまり汚れていないむしろを持ってきて敷いた。わらくずが服につくかもしれないが地面に直接寝かせるよりいいだろう。
小さな寝息を聞いて、俺は焚口のふたを開けた。そして薪をどんどん入れた。
早く風呂を沸かそう。
***
「キヨノ―!!!入るぞー!」
「お一人で入ってください」
「なぜじゃ。二人で入るぞー!」
風呂が沸いた。
嬉しくなってナメカワ様を揺り起こすと、ナメカワ様はぱっと飛び起きた。そして元気いっぱいになって脱衣所に俺をひっぱっていき、ぼんぼんと勢いよく服を脱いでいく。
「キヨノ―、ボタンがひっかかったー!」
「あー、そんなに無理にひっぱったらぼたんが取れます」
「やってくれー」
「はい」
「キヨノ―、一緒に入るぞー!」
「入りません」
「キヨノは私が溺れてしまってもいいのか」
「おぼ…?!」
シャツのぼたんに手間取っていると物騒なことを聞いた。
「わたしは小さいから湯船で溺れるかもしれぬ」
あ、と思った。
なりあきさまが入る風呂を沸かしてしまった。そうだ、子どもには深い。
「たらいに湯を汲みましょう」
「それでは風呂ではない。行水だ」
「キヨノ―、早く早く!」
俺がボタンを外すとナメカワ様はシャツを脱ぎ、ズボンも下着もどんどん脱いで真っ裸になってしまった。
「キヨノも脱げーっ!」
「いや、それは」
俺が困ってあわあわ言ったときだった。
「騒いでいるのはどなたかと思いましたら、珍しい方がいらっしゃいますね」
脱衣所の引き戸ががらりと開き、声がした。
う。
姿勢のいい中川さんがにっこりと笑って立っている。
「キヨノさん、お客様がいらしたら次からはわたくしか藤代にお知らせ願えますか」
「は、はいっ」
中川さんはうなずき、次に真っ裸のナメカワ様を見た。
「こんなところでお会いできるとは。お久しぶりです、滑川様」
「う、うむ」
ナメカワ様はほっぺたをぷくーぷくーとふくらませて中川さんを見上げている。
「なにが紛れ込んでいるのかと思えば、あなた様でしたか。
それでご入浴したいのですね」
「中川はいらぬ!キヨノと入る!」
「なにをおっしゃいますやら。キヨノさんはうちの奥様です。お客様の背中を流す必要はありますまい。わたくしがいれて差し上げます」
「やだー、キヨノ―!!」
「いつぶりですかね。懐かしい」
ナメカワ様が逃ようと走り出したがその前にひょいと中川さんの小脇に抱えられてしまった。
「きれいきれいに洗ってあげましょう」
「中川、離せー!キヨノ―!!」
手足をばたばたさせてナメカワ様が暴れる。お餅のようなお尻がぷりんぷりんと揺れる。
「キヨノさん、ここはわたくしにお任せくださいますね」
「は…はい」
「キヨノーーーーー!!!」
ナメカワ様を抱えた中川さんは湯殿の引き戸を開けて中に入ると、ぴしゃりと閉めた。
ざばーんっ
ざばーんっ
「きゃあああああ」
「よくよく洗ってから湯に入りましょうね」
お湯の音。ナメカワ様の甲高い声。
「湯船に入ったら肩までつかって百まで数えますよ」
「いやだー!」
「お髪も洗いましょう」
ざっぱーんっ
「ぎゃあああっ」
中から聞こえてくる声と音と、そして中川さんの笑っていない目が怖かったことと。
俺はそこに呆然として立っていた。
が、ぽんと肩を叩かれひどく驚いて振り向いた。
そこには藤代さんが立っていた。
「ここは中川さんにお任せして、いきましょう」
「……はい」
「その前に衣服が乱れていますよ」
ナメカワ様に脱げ脱げと服をひっぱられたせいだった。慌てて服を直す。それを見届けてから、なんだか怖い雰囲気の藤代さんのあとをとぼとぼとついて、脱衣所から出ていった。
**
夕方、なりあきさまが屋敷に戻り車から下りると俺のところに駆けつけ、そしてぎゅっと抱きしめられた。
「お、かえりなさい」
「キヨノさんっ!」
「ませ?」
「どこもなんともありませんかっ?」
「はぁ」
「よかった」
なりあきさまの腕の力が抜けた。こんなに慌てて、なりあきさまはどうされたんだろう。
「中川から連絡を受けたときは肝が冷えました」
「すみません…」
藤代さんのあとについて脱衣所から出た俺は自分の部屋にいるように言われた。なにか重大なことをしでかしたらしいのは、厳しいふりをしてああだこうだと言ってくれる藤代さんが無言のままだったので、感じていた。
なので俺はおとなしく部屋にいた。
仕方ないので、じゅうたんの上でごろりと横になった。べっどの上は自分が汚れているのでやめておいた。
なりあきさまのお帰りだと藤代さんに呼ばれ、玄関にお出迎えに出て、それでこれだ。
「お風呂、勝手なことをして申し訳ありません。すぐに沸かし直します」
俺はなりあきさまに謝った。
「とんでもない!あの御仁が入った風呂など当分使い物になりませんよ。よかった、一緒に湯船に浸かっていたらどうなっていたか。
まったくあの御方もわかっていらして、こんなことを!」
「?」
「キヨノさんになにかあっては大変です。しばらくは風呂焚きは藤代に任せてください」
「え」
「うちに中川がいたからよかったようなものの、本来なら風呂場を取り壊して建て直しをしなくてはなりません」
「そ」
「いいですか、キヨノさん」
なりあきさまは俺から離れ、俺の両肩に手を置いて怖いくらいの真剣な目で俺を見るものだから、恐ろしくなってきた。
「あの御仁はただびとではありません。それをよくよく覚えていてください」
「はぁ」
「いいですね」
「……はい」
「では銭湯に行きましょう。梅雨前の蒸し暑いときに汗が流せないのはつらいでしょう」
なりあきさまはそう言うと、シノさんから竹で編んだ籠と風呂敷包みを受け取ると、佐伯さんの運転する自動車に俺も乗せ、銭湯へ向かった。
銭湯の大きな湯になりあきさまと並んで入ると、温泉に一緒に行ったときのことを思い出した。壁に描かれた大きな富士の絵を見ながら、俺は溜息をついた。
「どうしました」
「……えっと……」
うまく言葉にならなくて困っていると、なりあきさまが手助けしてくれた。
俺はなりあきさまと背中を流し合ったり、湯船につかりながらぽつぽつとまとまらないことを話した。
なにがそんなに大事だったのか、まだよくわかっていないこと。
大変なご迷惑をおかけしたらしいこと。
風呂焚きの仕事がなくなって、しょんぼりしていること。
なりあきさまと温泉に行ったときのことを思い出したこと。
初めての銭湯で、初めて壁の富士を見たこと。
全部話し終えたときには、俺たちは風呂から上がって身体を拭き、シノさんが準備してくれた浴衣に着替え終わっていた。
銭湯の外には佐伯さんが待っていてくれたが、なりあきさまは荷物を預けて俺に言った。
「歩いて帰りませんか。また汗をかいてしまうかもしれないけれど」
「はい」
佐伯さんは俺の返事を聞くと、自動車を走らせた。
「広い湯船はいいですね。銭湯なんて久しぶりです」
なりあきさまが少しはしゃいだようにおっしゃった。
「しかし暑いな。ラムネを飲みましょう。お飲みになったことはありますか」
俺が首を横に振ると、藤代さんと餡子玉を買っていた駄菓子屋でらむねを買ってくれた。綺麗な水で作ったような奇妙な形をした瓶だった。
「ふたを開けたらすぐに飲んでください」と言われ、よくわからないがうなずいた。
口には丸いガラス玉がはまっていたが、なりあきさまが棒で器用に押すと中から泡が溢れてきた。
「早く飲んで!」
慌ててその泡に口をつける。
え。
冷たくて、甘いのにからい。
困ってしかめた顔を見てなりあきさまが笑う。そしてご自分のらむねのガラス玉を中に落とすと泡が溢れる前に口をつけおいしそうにらむねを飲んだ。
「ああ、冷たくておいしいですね」
なりあきさまは俺を見てにこっとお笑いになる。
「どうされました?もしかしてラムネを飲むのは初めてですか」
「はい」
「からかった?」
「はい」
「お好きではなかったかな」
「いいえ。からいけど甘いです」
「炭酸というんですよ。刺激的でびっくりしますね。飲まなくてもいいですよ」
「いいえ、飲みます」
俺は瓶を傾けた。
「あれ」
「ん?」
「なりあきさま、出てきません」
「ああ。ラムネを飲むにはこつがいるんですよ。この二つのくぼみが下になるように持つんです。こうやって手前にくるようにね」
なりあきさまはご自分の瓶でやって見せてくれながら、俺の手の中の瓶も動かす。
「こうすると傾けても中のビー玉が動かないんです」
「なるほど」
「どうぞ」
なりあきさまは再びビー玉がはまってしまったらむね瓶の口を棒で押し、ビー玉を下に落としてくれた。俺は教わったようにそろそろと瓶を傾ける。
ぱちぱちしてからくて甘い。
「飲めました!」
「よかったです」
なりあきさまもまたらむねを飲み始めた。
俺は飲み終わったあとの瓶を逆さにして振った。思うようにいかないので、また振った。
「どうしたの?」
「中のビー玉がほしくて。出そうで出ない」
なりあきさまは笑った。
「キヨノさん、ラムネ瓶のビー玉は出ないようになっているんですよ。本当にほしいなら瓶を割るしかない。割りましょうか」
「いえっ!そこまでしなくてもいいです」
水を固めたような、こんなきれいな瓶、割るなんてもったいない!
俺たちは暑いのに手をつないで帰った。
手を引かれながら俺はきょろきょろとしてしまった。なりあきさまにどうしたのかと聞かれ、恥ずかしくなってしまったが正直に答えた。
「湯気が出てないかと思って」
「もしかして、蒸し饅頭の?」
うなずくとなりあきさまがまた小さく笑った。
「また温泉に行きましょう、キヨノさん」
「はい」
「蒸し饅頭も食べましょう」
「はい。また射的も見せてください」
「ええ、もちろん。私のことを格好いいと思っていただかなくては」
「なりあきさまは普段から格好いいですよ。俺なんかが言うのもおこがましいですが」
「キヨノさん?」
「?」
急に立ち止まったなりあきさまに驚いた。と思ったらぎゅうううと抱きしめられた。
暑い。
**
騒動は一日では治まらず、なりあきさまとの銭湯通いも数日続いた。
やっとお屋敷の風呂が使えるようになり、俺の仕事がまた戻ってきた。中川さん藤代さんをはじめ、小林さん川崎さん佐伯さんにまで、今回のようなことがあったらすぐに報告するように言われた。
シノさんとハナさんからは直接は言われなかったが、やたらと「変わったことはございませんか」と聞かれるようになった。
ある夕方、水汲みを終え、焚口に座ろうとしたとき、緑がかった白い大きな蛾がふわりふわりと粉をまき散らしながら飛んできた。ぼんやりと光っているようにも見え、驚いてじっと見ていると急に羽を動かさなくなり、ぽとりと俺の足元に落ちた。慌ててよく見るとそれは四つ折りにされた紙になっていた。
恐る恐る開いてみる。
『キヨノ江
マタ フロニ ハイリニ イク
ツギハ イッショニ ハイロウ
ナ』
俺が読めるように全部カタカナで書いてある。
俺は数回読み直し焚口の中に放り込んだ。そしてその手紙ごと焚き付けに火をつけた。
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