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第34話
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梅雨入りは激しい雨で始まった。
入梅してすぐ、なりあきさまの二週間の出張が知らされた。急なことで二日後には出発だ。じめじめした中、なりあきさまは夜遅く仕事から帰宅され、そのあと出張の準備をなさっていた。
「本当ならキヨノさんには和室で休んでいただいたほうが、睡眠を妨げないのでしょうが、こんなに長い間離れるのは初めてなので落ち着けません。お願いですから、これまで通り私のベッドで休んでいただけませんか。次の日、遅く起きても構いませんので」
なりあきさまは眉を下げて、少しばかり情けないお顔でそうおっしゃった。俺も初めてのことなのでよくわからなかったが、なりあきさまがそうしたいとおっしゃるのならと、言われたとおりにすることにした。
二つの夜とも、じっとりとした湿気の中、ぐったりとしながら暗い中ベッドに入ってくるなりあきさまを半分寝た状態で感じていた。なりあきさまはそんな俺をぎゅうと抱きしめて眠る。どこかをなでて差し上げたいのだけれど、どれほど遅いのか、俺は眠くて眠くてたまらなくて「おかえりなさいませ」も「おやすみなさい」も言えず、口づけもせず寝こけていた。
出発の朝も早かった。
俺はいつもより早く起きて、なりあきさまと一緒に朝食を食べ、身支度のお手伝いをした。あとは上着を着れば終わり、というところで「キヨノさん」と呼ばれた。「はい」と返事をしなりあきさまのそばに行った。
なりあきさまはふわりと抱きしめて、言った。
「貴方は遅くまで寝てもいいと言ったのに、結局いつも通りに起きていましたね。眠たくありませんでしたか」
「いいえ」
ほんとは食事の後眠たくなっていたのだが、言いたくなかったのでそう返事をした。
「キヨノさん」
「はい」
ぎゅうの力が強くなる。
「私が帰るまで待っていてください」
「はい」
「どこかへ行かないでください」
「ここでお待ちしています」
「ええ、是非。出張から戻ったら休みをもらって、また二人でどこかへ行きましょう」
「はい、楽しみです」
「絶対ですよ」
「はい」
俺もなりあきさまの背中に腕を回してぎゅうとすると、なりあきさまはますますぎゅうぎゅうと抱きしめる。そしてぎゅうぎゅうのまま、しばらく何度も何度もきすをされた。
中川さんがドアをノックするまで俺はきすをされていた。
俺を離したなりあきさまは上着を着、俺はなりあきさまの革の鞄を持った。いつもよりももっと重い。
玄関に行くとしのさんもはなさんも川崎さんも小林さんもいた。
中川さんと藤代さんは時計を見ている。
俺が鞄を差し出すとなりあきさまはまた俺にきすをし、「いってきます」とおっしゃり、佐伯さんと一緒に激しい雨の中、出かけていかれた。
**
雨は止むことはなかった。
川崎さんは「野菜が高くなった」と言い、小林さんも思うようにはかどらない作業に少しいらいらしていた。しのさんとはなさんはカビが生えないように屋敷のあちらこちらをあるこーるで消毒していた。
なりあきさまがいらっしゃらないぶん、中川さんは忙しそうだった。
藤代さんは俺の勉強時間を増やした。俺もできることが少なくなって、仕方なく藤代さんと勉強をした。
屋敷のみなさんは俺に気を遣っていた。
なりあきさまがいなくても寂しくないように。
俺は中川さんに言って和室で寝ていた。あの広いベッドにひとりで寝ていると落ち着かなかったからだ。
一日が過ぎるのが長かった。
これがあと十三日もあるのかと思うとげっそりした。
たまに小林さんが合羽を着て庭の仕事をしていた。俺もそれがしたいと言ってみたが、全員に反対されできなかった。
風呂焚きはさせてもらった。薪が湿気っていて大変だった。
**
そんなことをしながらも二週間が経った。
相変わらず雨は激しく降っていたが、なりあきさまが帰ってこられる日だと思うと気合が入り、掃除も薪割りもどんどんできた。
厨房の小部屋でおやつのすももをかじっていると、屋敷の電話が鳴った。いつものように中川さんがそれに出た。
「旦那様からですかね」
藤代さんがにやにやしながら俺に言った。もしそうだったら、と思うと俺は顔がにやけてしまうのに困って下を向いた。藤代さんは意地悪く「キヨノさん、どうしたんですか」と聞いてくる。俺が顔を上げないので藤代さんが「おやおやぁ、キヨノさん、お顔が赤いですかね」とますます意地悪を言うのを他の人が笑って見ていた。
そのときだ。
「フツの式の準備を」
青い顔の中川さんが戻ってきて言った。途端に緊張が走った。
それからというもの、俺は早くに風呂を沸かすように言われ、そうすると一番に入れられた。
そのあとは寝間着や当面いりそうなものを俺の部屋に運び込まれ、俺もそこにいるように言われた。
みんな殺気立っていたので俺は言われるがままにした。
しばらくして中川さんがやってきた。手にはお盆があり、白い握り飯が二つと汁物の入った椀が載っていた。
「これを召し上がってください。そのあとは外に出ないように」
「あの、なにがあったのですか」
「いずれまたご説明いたします」
聞いたこともないような厳しい声だった。
中川さんにしては荒々しくドアを閉められ、ひとりきりになった。
仕方なくもそもそと握り飯を食べた。びっくりするほどしょっぱかったがそのまま食べた。汁物はぬるかった。この屋敷では「熱いものは熱いうちにいただくものですよ。それが料理人への敬意の払い方です。川崎もおいしいうちに食べるほうが喜びます」となりあきさまにも中川さんにも言われていたので、なにかが起こっているのはわかった。
風も出てきて、激しい雨は窓に打ち付けて大きな音を立てた。ごぉぉぉぉっという音が次第に大きくなる。
藤代さんが器を下げるついでに厠に行くように言った。用を足して戻ると「しばらくは部屋から絶対に出ないでください」と言い、「万が一のために」と瓶と古い新聞紙を敷いたたらいを持ってきた。
そしてなりあきさまと俺の部屋の四隅に塩を高く盛った小皿を置き、指で宙に文字を書き、また指を動かした。
「お食事は運びます」
藤代さんはそれだけを言うとドアを閉めた。
雨風のひどい音だけが響く大きな部屋に、俺ひとり残された。
ぞわり
俺は怖くなってなりあきさまのベッドに潜り込んだ。
***
どれくらい経ったのか、自動車の音がした。窓から覗くとライトの光が見えた。
なりあきさまだ!
俺はドアに駆け寄った。しかし、開かない。
どうして?
がちゃがちゃと取っ手を動かすが鍵がかかっているようだ。
なんで
雨風の音に混じって大きな怒鳴り声。乱暴にドアが閉められる音が下から聞こえてくる。
なにがあったのっ
俺はドンドンとドアを叩く。
「開けて!開けてっ!」
ドンドンドンドンドン
「開けて!開けて!」
両の握りこぶしでドアを叩き叫ぶが誰もなにもしない。
「なりあきさまああああああああああああっ」
入梅してすぐ、なりあきさまの二週間の出張が知らされた。急なことで二日後には出発だ。じめじめした中、なりあきさまは夜遅く仕事から帰宅され、そのあと出張の準備をなさっていた。
「本当ならキヨノさんには和室で休んでいただいたほうが、睡眠を妨げないのでしょうが、こんなに長い間離れるのは初めてなので落ち着けません。お願いですから、これまで通り私のベッドで休んでいただけませんか。次の日、遅く起きても構いませんので」
なりあきさまは眉を下げて、少しばかり情けないお顔でそうおっしゃった。俺も初めてのことなのでよくわからなかったが、なりあきさまがそうしたいとおっしゃるのならと、言われたとおりにすることにした。
二つの夜とも、じっとりとした湿気の中、ぐったりとしながら暗い中ベッドに入ってくるなりあきさまを半分寝た状態で感じていた。なりあきさまはそんな俺をぎゅうと抱きしめて眠る。どこかをなでて差し上げたいのだけれど、どれほど遅いのか、俺は眠くて眠くてたまらなくて「おかえりなさいませ」も「おやすみなさい」も言えず、口づけもせず寝こけていた。
出発の朝も早かった。
俺はいつもより早く起きて、なりあきさまと一緒に朝食を食べ、身支度のお手伝いをした。あとは上着を着れば終わり、というところで「キヨノさん」と呼ばれた。「はい」と返事をしなりあきさまのそばに行った。
なりあきさまはふわりと抱きしめて、言った。
「貴方は遅くまで寝てもいいと言ったのに、結局いつも通りに起きていましたね。眠たくありませんでしたか」
「いいえ」
ほんとは食事の後眠たくなっていたのだが、言いたくなかったのでそう返事をした。
「キヨノさん」
「はい」
ぎゅうの力が強くなる。
「私が帰るまで待っていてください」
「はい」
「どこかへ行かないでください」
「ここでお待ちしています」
「ええ、是非。出張から戻ったら休みをもらって、また二人でどこかへ行きましょう」
「はい、楽しみです」
「絶対ですよ」
「はい」
俺もなりあきさまの背中に腕を回してぎゅうとすると、なりあきさまはますますぎゅうぎゅうと抱きしめる。そしてぎゅうぎゅうのまま、しばらく何度も何度もきすをされた。
中川さんがドアをノックするまで俺はきすをされていた。
俺を離したなりあきさまは上着を着、俺はなりあきさまの革の鞄を持った。いつもよりももっと重い。
玄関に行くとしのさんもはなさんも川崎さんも小林さんもいた。
中川さんと藤代さんは時計を見ている。
俺が鞄を差し出すとなりあきさまはまた俺にきすをし、「いってきます」とおっしゃり、佐伯さんと一緒に激しい雨の中、出かけていかれた。
**
雨は止むことはなかった。
川崎さんは「野菜が高くなった」と言い、小林さんも思うようにはかどらない作業に少しいらいらしていた。しのさんとはなさんはカビが生えないように屋敷のあちらこちらをあるこーるで消毒していた。
なりあきさまがいらっしゃらないぶん、中川さんは忙しそうだった。
藤代さんは俺の勉強時間を増やした。俺もできることが少なくなって、仕方なく藤代さんと勉強をした。
屋敷のみなさんは俺に気を遣っていた。
なりあきさまがいなくても寂しくないように。
俺は中川さんに言って和室で寝ていた。あの広いベッドにひとりで寝ていると落ち着かなかったからだ。
一日が過ぎるのが長かった。
これがあと十三日もあるのかと思うとげっそりした。
たまに小林さんが合羽を着て庭の仕事をしていた。俺もそれがしたいと言ってみたが、全員に反対されできなかった。
風呂焚きはさせてもらった。薪が湿気っていて大変だった。
**
そんなことをしながらも二週間が経った。
相変わらず雨は激しく降っていたが、なりあきさまが帰ってこられる日だと思うと気合が入り、掃除も薪割りもどんどんできた。
厨房の小部屋でおやつのすももをかじっていると、屋敷の電話が鳴った。いつものように中川さんがそれに出た。
「旦那様からですかね」
藤代さんがにやにやしながら俺に言った。もしそうだったら、と思うと俺は顔がにやけてしまうのに困って下を向いた。藤代さんは意地悪く「キヨノさん、どうしたんですか」と聞いてくる。俺が顔を上げないので藤代さんが「おやおやぁ、キヨノさん、お顔が赤いですかね」とますます意地悪を言うのを他の人が笑って見ていた。
そのときだ。
「フツの式の準備を」
青い顔の中川さんが戻ってきて言った。途端に緊張が走った。
それからというもの、俺は早くに風呂を沸かすように言われ、そうすると一番に入れられた。
そのあとは寝間着や当面いりそうなものを俺の部屋に運び込まれ、俺もそこにいるように言われた。
みんな殺気立っていたので俺は言われるがままにした。
しばらくして中川さんがやってきた。手にはお盆があり、白い握り飯が二つと汁物の入った椀が載っていた。
「これを召し上がってください。そのあとは外に出ないように」
「あの、なにがあったのですか」
「いずれまたご説明いたします」
聞いたこともないような厳しい声だった。
中川さんにしては荒々しくドアを閉められ、ひとりきりになった。
仕方なくもそもそと握り飯を食べた。びっくりするほどしょっぱかったがそのまま食べた。汁物はぬるかった。この屋敷では「熱いものは熱いうちにいただくものですよ。それが料理人への敬意の払い方です。川崎もおいしいうちに食べるほうが喜びます」となりあきさまにも中川さんにも言われていたので、なにかが起こっているのはわかった。
風も出てきて、激しい雨は窓に打ち付けて大きな音を立てた。ごぉぉぉぉっという音が次第に大きくなる。
藤代さんが器を下げるついでに厠に行くように言った。用を足して戻ると「しばらくは部屋から絶対に出ないでください」と言い、「万が一のために」と瓶と古い新聞紙を敷いたたらいを持ってきた。
そしてなりあきさまと俺の部屋の四隅に塩を高く盛った小皿を置き、指で宙に文字を書き、また指を動かした。
「お食事は運びます」
藤代さんはそれだけを言うとドアを閉めた。
雨風のひどい音だけが響く大きな部屋に、俺ひとり残された。
ぞわり
俺は怖くなってなりあきさまのベッドに潜り込んだ。
***
どれくらい経ったのか、自動車の音がした。窓から覗くとライトの光が見えた。
なりあきさまだ!
俺はドアに駆け寄った。しかし、開かない。
どうして?
がちゃがちゃと取っ手を動かすが鍵がかかっているようだ。
なんで
雨風の音に混じって大きな怒鳴り声。乱暴にドアが閉められる音が下から聞こえてくる。
なにがあったのっ
俺はドンドンとドアを叩く。
「開けて!開けてっ!」
ドンドンドンドンドン
「開けて!開けて!」
両の握りこぶしでドアを叩き叫ぶが誰もなにもしない。
「なりあきさまああああああああああああっ」
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