キヨノさん

Kyrie

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第51話 電話機

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日中の日差しがぐんぐん強くなり、むしむしと汗ばむ日が続いていた。
この蒸し暑さはそろそろか、と思っていたら、しっかりと梅雨入りしてしまった。

去年の梅雨のなりあきさまの負傷と、秋の大雨の日のことがちょっとしたことで甦ってしまい、俺は吐き気や不安、恐怖で震えることが増える日々でもあった。
せっかくなりあきさまとふれあう時間が少しだけ伸びてきていたのに、今ではふれるどころか、腕を伸ばしたところより近づかれただけで吐き気と震えがくるようになってしまった。

湿度で不快感がただでさえ増しているのに、こんなことになるだなんて。
俺はすごく気落ちした。
なりあきさまもそうだと思うが、「できることをやっていきましょう」とおっしゃり、今もソファの端と端に座ってお話をしている。



梅雨入りして間もなくのこと、スメラギ様からのお話をなりあきさまから聞いた。
伏見と津和野では、特別な情報は得られなかったそうだ。
「妖狐の祖の再来」と言われるようになったなりあきさまを御せる狐は現在この国にはいないし、御せるのは己のみ、とのことだった。

解決策が見つからず、日に日にひどくなる「なりあきさまを拒絶する自分」は自分の中で大きくなり、自分を許せなくなることもあった。



「それでキヨノさん、次の休みに私は土御門の家に行こうと思うのです」

「つちみかど?」

「ええ、私の母の家です。代々まじないしの家系で、それもあってきっと父と婚姻を結んだのだと思います。二人ともすでに鬼籍に入っていますが」

「はぁ」

「土御門は狐を使役していなかったとは思いましたが、もしかしたらなにか手がかりがあるかもしれません。
父もそれなりの力を持つ妖狐だったらしく、一般の人がなかなか連れ添えないと思うので、なにか狐に対するものを持っていたのかもしれないし、狐に関しての記述が残っているかもしれない」

「はぁ」

「本当はキヨノさんも連れていきたいのですが、今はまだ長旅は控えておいたほうがよろしいでしょう」

「はぃ」

「佐伯と中川も連れていきます。私の留守を守ってくださいますか」

せっかく俺とのためになりあきさまが動いてくださるというのに、自分はまず「寂しい」と思った。そして「不安だ」と思った。

しかし、そんなことを言っている場合ではない。

仕方なく、俺は「はい」と答えた。




体調は少しずつ戻っているものの、梅雨に入って俺はなりあきさまの隣の自分の部屋で眠ることもできなくなっていた。
昼間はまだましだが、夜になって部屋に入ると吐き気がきてしまう。
梅雨が終わればこれもなくなるのか、それともずっと続くのかもわからない。

いつ終わるのかわからない不安を抱えたまま、俺はなりあきさまたちを見送った。






中川さんが不在の屋敷では、藤代さんが代わりに仕事をこなしていた。
懸命に屋敷の中を回っている藤代さんは三日目くらいから、目の下に隈が見え始めた。

土御門のお蔵の書物は膨大にあり、あちらのお屋敷の人たちを総動員してももう数日はかかりそうだ、と昨日、なりあきさまからお電話があった。
初めての電話機に戸惑いながら、重い漏斗みたいなものを耳に当てると恋しいなりあきさまのお声が、機械のがーがーいう音の向こうに聞こえた。
スメラギ様にもお知らせすると、ひと段落するまで休んで書物を調べるようにとのお達しがあったそうだ。
俺は踏み台の上で背伸びをしながら、柱に備えつけられている電話機についた漏斗のようなものに向けて「はい、はい」とお返事をしていた。

「キヨノさん」

「はい」

「またしばらく離れ離れになりますが、待っていてくださいね」

「はい」

「キヨノさん」

「はい」

「キヨノさんもなにかおっしゃってください」

「……っと」

なにを言えばいいのだ。

「ああっ、もう電話を切らなくては」

ええっ、もう?!

「なりあきさまっ」

「はい。きっと有益な記述を見つけて帰りますからね」

「なりあきさま」

「キヨノさん、愛してますよ」

「なりあきさま……」


電話とはこんなに緊張して、なにも話せないのだと知った。
今になれば、あれもこれもお話したかったし、せめて「お気をつけて」や「安心してお過ごしください」と言えばよかったのに、と後悔ばかりが募る。





俺は川崎さんから預かった盆を持って、執務室のドアをとんとんと叩いた。

「……はい」

元気のない、不機嫌そうな声がした。

「藤代さん、お茶を持ってきました。川崎さんが少し休憩したらいいですよ、って」

川崎さんは「キヨノさんもご一緒にどうぞ」と熱いほうじ茶と薄皮饅頭を二人分、持たせてくれた。

「……キヨノさぁん」

「お勤め、ご苦労さまです」

「もうなんなんですか、この仕事量!全然追いつきませんよ」

「疲れすぎては効率が悪い、とシノさんもおっしゃっていました。どうぞ」

俺は書類が乗っていない応接セットの低い台に盆を置いた。

「あれ、二人分?」

「俺も藤代さんと一緒にどうぞ、と言われて。ご迷惑ですか」

「まさか。さ、熱いうちにいただきましょう」

藤代さんは疲れ切った顔に無理をしたような笑いを浮かべ、二人並んでそふぁに座り、薄皮饅頭を食べた。

「懐かしいですね、餡子玉のときみたいだ」

「ふふふ、そうですね」

「はぁ、黒糖の餡がうまい。川崎さん、俺の好み、わかってる!」

「おれ?」

「……っ、申し訳ございません」

「誰も咎める人はいません」

「キヨノさん、甘いから」

「そう?」

「冷静に考えてくださいよ。お屋敷の奥様に『俺』や乱暴な言葉遣いをして許されると思います?」

俺は田村様の屋敷のことを思い出し、首を横に振った。

「でしょう。
失礼致しました、キヨノさま」

「やめてください」

「私の気が緩んでいる証拠です。
それにしても、本当にすごい仕事量です。
中川さん、よくこれを一人で、それも一日でこなしていたなぁ」

「大丈夫ですか」

藤代さんはほうじ茶を飲みながらうなずいた。

「いざとなれば小林さんがなんとかしてくれます」

「小林さん?」

「私も詳しくは知らないのですが、以前はどこかのお屋敷の執事長だったとかで、私一人では荷が重いものは頼ってもよい、と言われています。極力は一人でやるようにと言いつかっていますけどね」

「へぇ」



茶を飲み、饅頭を食い終わると、俺はそっと藤代さんになにか手伝えないかと言ってみた。

「でもキヨノさんは川崎さんの厨房の手伝いがあるんじゃ」

「それが人も少ないし、作る量も少ないから俺が手伝うことはほとんどないんだ。俺も少しは体力ついてきたからなにかやりたいし」

一昨日くらいからやっと身体がしゃんとして、ものがしっかりと食べられるようになった。
以前と同じ、とまではいかないが、ナメカワさまに目から瘴気を抜いてもらったあとからそれでも楽になっていた。

「うーん、では川崎さんとシノさんがいいと言ったら、お願いしようかな。
書類の整理だけでも一苦労です」

読めない難しい漢字やことばがたくさん並ぶ書類の山に、今度は俺がひるんだ。

「俺に、できる?」

「できますよ。西洋の数字、少しお教えしたの覚えていらっしゃいますか?」

「はぁ」

「その番号順に並べるだけです。書類の種類がたくさんあるのでそれは私がしますから」

「はぁ」

「それだけでも随分助かります」

「では、聞いてきますね」

「はいっ、よろしくお願いします」




こうして、俺は藤代さんの手伝いをするようになった。




なりあきさまは土御門のお屋敷に行って五日経ってもお帰りにならず、雨はずっと続いていた。





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