キヨノさん

Kyrie

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第58話 三条院(6) 海の蚊帳

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強い月明かりが差し込む蚊帳の中は「海の底のようだ」と貴方は言った。
今は穏やかな寝息を立てて、キヨノさんは眠っている。




**
「ベッドは暑い」というキヨノさんの訴えを聞いて、離れに蚊帳を吊って眠るようになった。
わざわざ離れに移動するのは少々面倒ではあったが、静かな蚊帳の中は「キヨノさんと二人きり」という空間となり、私は気に入っていた。

今夜、キヨノさんが海のことをちょっと話したので、「海に行ったことがあるか」と聞いてみた。
帝都の中心では海は少々距離があり、キヨノさんの故郷は山に近い里だった。
キヨノさんが語ったのは、里から奉公のために帝都に連れてこられるまでのことだった。
荷物を入れるところに。
窓のないところに。
十人くらいの幼い子どもたちを。
長時間も。

考えると怒りがこみあげてきた。

しかしキヨノさんは特に気にするふうでもなく、板の隙間から一瞬見えた「海」について話し続けた。
そのあどけない様子が、ますます私の心を締めつける。



この人はご自分の状況がおわかりになっているのか。
天涯孤独となってしまったのだ。
まだ親兄弟に甘えたい頃でもあろうに、そういうことは一切口にしない。
屋敷の者も聞いたことがない、という。

里に帰りたい。
家族に会いたい。
そう泣き叫んでも不思議はないのに。

人としてひどい扱いをされているのに、それにも気づかず。

私のせいでたくさんのものを失い、傷ついてきたのに。

私を責めることもせず、それどころか私に差し出そうとする。




これからはつらい思いはさせたくない。

「一緒に海に行きましょう」

私はキヨノさんがどこかへ行ってしまわないように、暑かろうが構わず抱き寄せた。

「たくさん海を見て、海で泳ぎましょう」

板の隙間からではなく、海風に吹かれながら大きく広がる海を一緒に見ましょう。
見せてさしあげますよ、私が。
波が打ち寄せる様を見たら、貴方はどんなお顔をするでしょう。
波打ち際に立ったとき、足の裏がくすぐったいのを知ると貴方はなんて言うでしょう。
海水はしょっぱいですが、海で泳ぎましょう。
綺麗な魚を見ましょう。
藻のように揺れてみましょう。

楽しいことをたくさん経験させてあげたい。
私と一緒にそれをしたい。

「海の近くの温泉もありますよ。
一緒に行って、また蒸し饅頭を買って帰りましょう」

キヨノさん、温泉も蒸し饅頭もお好きでしょう。
悲しい思いも寂しい思いもさせずに、ずっとずっと貴方のおそばに。



苦しくなり、キヨノさんを抱き込み、そして唇を重ねた。

私ができることは、なんですか。

怖がらせてはならぬ。
深くしたい衝動を抑え、一旦唇を離しては、また重ねる。



たくさん

たくさん

たくさん

ねぇ、キヨノさん。



キヨノさんの手のひらに自分の手を重ねると、指の間に指を挟み込み、ぎゅっと握る。

離れないように。

離さないように。

キヨノさん



どこにも行かないでください。

どこにも行きませんから。

行くなら一緒に。

たくさんのものを見ましょう。


あのとき、遊園地でジェットコースターに乗ったときのように。
私がまだ知らない世界を。
貴方がまだ知らない世界を。

共に。



しばらくそうしていた。

何十回目かの短い口づけのあと、お互いの唇が離れた。

繋いでいないほうのキヨノさんの手が私の首に回り、くっと力を込めキヨノさんのほうに引き寄せられた。
同時にキヨノさんも首を起こして、自ら近づいてくる。

ほんの少しの間驚いていると、キヨノさんの小さな唇が私の唇に重ねられた。

私はキヨノさんの背中に腕を回し、もっともっと抱きしめ、そしてキスを繰り返す。



もっと一緒に

もっと

もっと

もっと











三条院(6) <了>



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