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天使様は天使ではない
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あれは秋の終わりだったか冬の初めだったか思い出せないけれど、まだ雪が降る前だったと思う。少し肌寒い季節、まだ幼いローラは初めて天使の姿を見た。
彼は当時ローラが通っていた教会に飾られていた天使の像によく似ていた。だからきっと天使に違いないと思ったけれど、母にその話をしたら、夢を見たのだと言われてしまった。天使は人の前には姿を現したりしないのだからそれはただの夢だと。けれどもローラの膝には擦りむいた痕があった。その痛みは、あの天使が夢ではなかったのだと教えてくれたようだった。
せわしなく手を動かし、刺繍を進めていく。五枚目のハンカチに手を出した時には空が赤く染まっていて、あと少しで終わると言う頃には、燭台に火を点す為のマッチを探すことさえ困難になるほど暗くなってしまった。
こんなことならもう少し早くに火を点すべきだった。そう、後悔しても遅い。引き出しに入れていたはずのマッチが見当たらないのだ。仕方が無いから父の部屋に火を貰いにいこう。そう思って燭台を手にし、部屋の扉を開けた瞬間、眩しい光が目の前に現れ、思わず悲鳴を上げてしまう。
「ご、ごめん。驚かせるつもりは無かったんだけど……そろそろ暗くなってきたから、よかったら、このランプ使ってって言おうと思って」
そう言ってフェイは手に提げたランプを作業台の端に置く。燭台よりずっと明るい。
「ローラ、普段は蝋燭の灯りで仕事をしているの?」
フェイはそう訊ねて、勝手に物置代わりに使っている椅子の上から本を除けて椅子に座った。
「はい。その……普段はあまり遅くまでは作業をしないので」
この時間になると、ローラは大抵自分の部屋に戻って、息抜きの刺繍をしたり、本を読んだりしている。だから作業部屋には照明が必要なかったのだ。
「ごめん、君に苦労させちゃったね」
「天使様は何も悪くありません。悪いのは父です。飲みすぎて怪我をするなんて……」
日頃から母に釘を刺されているはずなのに、お酒が好きで、そのくせに悪酔いする困った人。
「いや、連れ出したのは俺だし、奢るって言ったのも俺だから……」
フェイは少しだけ気まずそうな表情をして、それから思い出したようにバスケットを手に取る。
「あ、そうだ。お腹空いてない? 昼飯はマリーに没収されちゃったけど、ちょっと差し入れ」
彼はそう言って少し大袈裟な動作でバスケットを開く。一瞬、中身が輝いて見えた様な気がするほど、ローラは空腹だったらしい。ぐぅっと大きくお腹が鳴り、恥ずかしさのあまり赤面する。
「丁度良かったみたいだね。ドーナツと、紅茶を用意したんだ。気に入ってもらえるといいけど」
彼はそう言って白地に薔薇の描かれたお皿とカップを取り出し、手際よくドーナツとお茶の用意をしてくれる。
「どうぞ」
「い、頂きます」
たっぷりと、チョコレートが掛かっていて、大きなナッツものっている。一口かぶりつくと、チョコレートと共に、仄かにバナナの味がした。
「お、美味しい……」
母がこういったお菓子を嫌うせいで、ドーナツなんて滅多に食べられない。甘いものが禁じられているわけではなく、母はもっと気取ったお菓子が好きなのだ。手掴みで食べるようなお菓子は彼女の前では口に出来ない。
「実は俺の手製。意外と家庭的でしょ?」
そう言って笑うフェイに胸の奥が熱くなるような不思議な感覚と共に、驚きを感じる。
「凄い、職人さんが作ったのかと思いました」
「え? そぉ? 嬉しいな。うん、ローラが喜んでくれるならまた作ってくるよ」
フェイはそう言って、自分もドーナツに齧りつく。気取っていないのに、その仕種がとても優美に感じられる。フェイと言う人は、なにをしても芸術作品の一部のように見えてしまう。どこを切り取っても絵になるというか、彼自身が常に完成形なのだ。
「本当はお昼の時間に間に合わせるつもりだったんだけどね。一着作るのに結構時間掛かっちゃってさ」
「え?」
「一着終ったと思ったら、ジョージィがもう一着終ったらローラとお昼食べる権利をあげるって言ったんだ。だから、すんごい頑張ったんだけどさ。もう、お昼って言うか、夕食みたいな時間だよね」
フェイは少し困ったように笑う。そんな表情をしていても、彼は美しく見えてしまう。
「でも、ローラと過ごせる許可が下りてよかった。マリーに見つかったら怒られるかもしれないけど」
フェイはどこか楽しそうに笑う。きっと、怒られることを含めて楽しんでいるのだろう。
「天使様は、母のことも好きなのですね」
「うん。俺は、出来ればマリーとももっと仲良くなりたい。マリーはさ、ガミガミガミガミ口うるさいけど、マリーなりに俺のことも心配してくれてるんじゃないかなとか期待してたり。ま、最初はジョージィのオマケ程度にしか思ってなかったんだけどね。今は厳しいけど、いい人だって思ってるし、マリーがいるから多分ジョージィも真面目に仕事してるんだろうなって」
フェイが父の話をするとき心底嬉しそうに見える。それがローラも嬉しくてつい、もっと話して欲しいと思う。大好きな両親を心から好きだと思ってくれている人が両親の話をしてくれるのが嬉しくないはずがない。
「俺も悪餓鬼だったけどさ、ジョージィだって負けてなかったと思うよ。その悪餓鬼をひっくるめて拳骨落とすのがマリー。なんか、無条件に逆らえないっていうか……こんなこと言うと、ローラには失礼だけど、俺は世界で一番マリーが怖い」
彼はそう言ったところで、だんだん顔が青くなっていく。母の顔を思い出したのだろう。
「しまった……あんま長話してるとまたマリーを怒らせちゃう。けど、もうちょっとローラに癒されて行ってもいい? 俺、あんま大人しく座ってるのとか好きじゃないって言うか。ミシン自体は嫌いじゃないけど、じっと座って作業しているのがものすごく苦痛。しかも、ジョージィもだんだん話し相手してくれなくなっちゃうし……」
助けてと言われても、ローラにもどうしようもない。
「服作りは自分との戦いですから。孤独に打ち勝ってくださいとしか言えません」
余裕がある時はおしゃべりしながらわいわい作業できるかもしれない。けれども締め切りが近付くにつれて修羅場だ。徐々に口数が減り、食事の余裕も無くなり、苛立ちを誤魔化すように手を動かさなくてはいけない。
忍耐力が必要だ。忍耐と集中。そして自分との戦い。
「お客様の手に渡るお品ですから、最後のひと針まで、きちんと、仕上げなくてはいけません」
お客様の前では裏側の事情なんて関係ない。完璧な品を用意しなくてはいけない。
真っ直ぐフェイを見てそう告げれば、彼は驚いたような表情をした。
「ローラ……君、凄く立派だ。俺には真似できそうにないや。俺って、昔からなんでもそこそこ出来ちゃって、そこそこ以上になれないんだ。暗記とかは得意だけど、特になにが好きってこともないし。強いて言えば、俺が好きくらい? 得意なことも、夢中になることもなんにもないようなつまらない人生だった。けど、君を一目見てから、救われた気がする」
彼はどこか縋るような目でローラを見た。ああ、天使ではなかったのだと思わされてしまった。
本物の天使は、ローラに縋ったりはしない。
「たった一日だったけど、小さいローラと遊んだ時間が凄く、俺の支えになってくれた。君が笑ってくれたのが凄く嬉しくてさ。俺、もっと真っ当に生きようってって思って、まぁ、あの頃よりはマシな領主になれたんじゃないかなって。可愛い少女が天使様なんて呼んでくれたから、それに似合う大人になりたいなって思った」
少し、疲れたような笑みを見せる彼は、あの日の輝きが消えてしまったように思える。
天使様はこんなに弱々しくはなかった。神々しくて、綺麗で、怖いものを全部吹き飛ばしてくれた。
「ごめん、こんな弱気なこと言うつもりじゃなかった。けど、俺、あの日からずっと君が欲しいと思ってた。君が傍に居てくれたら、もっと立派になれる気がして……君が期待してくれたら、俺はその分頑張れるんじゃないかって」
そう言うフェイが僅かに震えているのがわかった。彼はローラよりずっと年上なのに、まるで幼い子供のように不安気で、放っておけない。思わず立ち上がり、彼を抱きしめる。
「ローラ?」
驚いたように見上げる彼の頭をそっと撫でたのは、きっと幼い時に父がよくしてくれたからだろう。
「フェイ様……私、ずっとあなたのこと、天使様だと思っていました。でも……今のあなたは違うように見えます。それとも、地上に降り立った天使様は、幼子のように見えてしまうのでしょうか」
フェイはローラよりずっと年上で、頼れる大人だと思っていた。それに、いつも笑っていて、悩みなんて何一つないように周りの人を笑わせる天才だとも。けれども、それはローラの思い込みかもしれない。なにせまだ彼のことをよく知らないのだ。
「俺は、君が思う程立派じゃないよ」
ローラをぎゅっと抱きしめ、その胸に顔を埋めるフェイに思わず固まってしまう。先に抱きしめたのはローラの方だが、まさか抱きしめ返されるとは思わなかった。
「君と離れてからずっと君のことばっかり考えてた。君の誕生日に贈り物を用意してもマリーに返されちゃうし、口実作って店に来ても全然会えないし……ジョージィを拝み倒しても絵すら貰えないし……レオから君の肖像画貰った時は彼の靴にキスしそうになった」
相当重症だ。ローラは呆れてしまう。ローラのなにがそこまで彼をおかしくしてしまったのだろうか。
「フェイ様は……どうしてそんなに私を?」
愛してくれているのとは、少し違う気がする。不思議に思って訊ねれば、一層強く抱きしめられた。
「君が俺を天使だと言ってくれた時、俺には君が天使に見えたんだ」
見上げられあて、視線が絡む。暗いグレイの瞳が、妙に煌いて見えて、恥ずかしさに視線を逸らす。
「君はあの時から何一つ変らない。純真で、真っ直ぐで、愛らしくて……俺を救ってくれる」
その言葉と同時に、彼の中にきらめきが戻ったような気がした。あの、ローラを惹きつける神々しい光が、優しく包んでくれるようで、もし、翼を失った天使が居るのならば、きっとフェイのような存在なのだろうと感じさせられた。
「ローラ、俺と結婚してください。一生大切にするって約束する。俺には君が必要なんだ」
しっかりと手を握られ、真っ直ぐ見つめられれば、ローラの体は硬直してしまう。緊張と、恥ずかしさと、あまりに強い彼の瞳から目が逸らせない。
それに、彼は今、「ついで」とは言わなかった。
「ずるい……」
ずっと冗談みたいな求婚ばかりしたくせに。口を開けば結婚しようと軽々しく口にした人が、途端に真面目にそんなことを言うなんて。
「急がないって言ったけど、本当はすっごい焦ってる。でも、断るなら、返事は先延ばしにして欲しいな」
彼は無理矢理作ったような笑みを見せる。ずるい。そんな言い方をされては断りにくい。
「……フェイ様は、ずるい人です」
「うん。俺は君を誘惑する悪い大人だから。君の純真な心をいくらでも利用する。でも、君を愛している気持ちだけは嘘偽りないって天帝にも魔神にも誓えるよ」
天と魔に、同時に誓うとは何事だろうと呆れてしまいたくなる。人が崇め讃えるのは天帝と天帝に仕える龍の一族、そして天に住まう天人だけでいい。魔を崇めるなんて事は人がすべきことではない。
「不誠実な方とは結婚できません」
「参ったな……マリーに言われた時にはそこまで傷つかなかったのに。ローラに断言されると、かなり、辛い……」
彼はずんと沈んだ様子を見せ、するりとローラから手を離す。
「君を愛する気持ちだけは、本当に真剣だ。確かに、それ以外は不真面目かもしれないけど。やっぱ、ここは俺なりに誠意を見せないと。うん、俺、頑張る。今日中にあと五着、は無理かもしれないけど、日が昇るまでには頑張る」
フェイはぱしっと自分の膝を叩いて立ち上がる。
「あ、明日、また会いに来ていい?」
少し、不安そうな目で訊ねられる。断る理由は無い。寧ろ、明日は来ないと言われた方がローラは悲しかっただろう。
「仕事の邪魔をしないで下さるなら」
そう言ったのは、多分、二人揃って母の説教を貰いたくはないからだ。フェイはそれに気付いたのか、少し弱々しく笑って「ありがとう」と口にした。
去っていくフェイの後姿を見ると、妙な寂しさが込み上げる。このまま、彼が二度と来てくれなかったらと思うと、不安が込み上げてくる。
彼は天使ではないのに。
そう思うと、胸が痛い。けれども、もし、フェイが本当に天使だったとしたら、ローラはどうするのだろうか。
そんなことを考えているとノックが響いた。
「は、はい」
「ローラ、ごめん、縫製はもうフェイと従業員でなんとかなりそうだから、刺繍お願い」
そう言ったのは父だった。
「刺繍……こんなに?」
気の遠くなるような量だ。
「ほんっと、ごめん。マリーにも禁酒を宣誓させられたところだよ」
父はそう言って五着のドレスを掛ける。
「図面はこれ。一応色の指定もしてあるけど、不安だったら訊いて」
彼はそう言って図面を作業机の上に置いた。
「……え? これ……残り二日で?」
「明日には刺繍専門の針子も何人か来るから、出来るところまででいい」
父も少し焦っているように見える。
「フェイが刺繍も出来ればいいんだけど、飽きっぽいから多分最後までは頑張れないと思うんだよ」
父は完全にフェイをこき使うことに決めたらしい。
「お父様、フェイ様は職人ではありませんよ」
「分かってるけど、ローラを嫁に欲しいって言ってるし、利用できる時は利用させてもらおうかなって。単純だから適当にかっこいいよって言っておけば結構働いてくれるし。その代わり、五分おきくらいにカッコイイよ。すごいね! イケメン! とか言っておかないとやる気が下がってくのが面倒なんだけど」
そう言って苦笑する父にも、そんなことであっさりと動かされてしまうフェイにも呆れる。
「あの、フェイ様って……やっぱりものすごーく、ご自分が好きなのですか?」
「うん。すんごいナルシスト。ついでにね、褒められると調子に乗っちゃうから気をつけて」
それが楽なんだけどと父は言う。
「フェイが女性に興味を持ったのは嬉しいけど、それが俺の娘ってなるといろいろ複雑だよ。ああ、それと、アンリから貢物が来てるけど」
父は思い出したようにそう言って、ポケットから小さな包みを取り出した。
「軍神様から?」
「次はデートの誘いに乗ってくれないと店を破壊するってさ」
困った人だ。彼女が店を破壊すると言ったなら本当に次はそうするつもりなのだろう。
ローラは思わず溜息を吐いて、図面を確認する。昇る龍の図案。一体どんなご令嬢がこんなドレスを着るのだろう。そう思い、依頼人の名を確認して頭を抱えたくなった。
「……ええ、分かっていますとも。軍神様が、無理難題をいつもいつも……わかっていますとも……」
依頼人の名はアンリ・クランティブ。紛れもなく、ローラが軍神と呼ぶ彼女だ。
「なんでも、強そうで美しさを引き立ててくれるように作って欲しいってさ」
「ええ。分かっています。この赤地に、真紅の龍と黄金の龍を重ねればいいのですね?」
「ああ。多分、彼女は、最初からこれをローラに依頼する気だったと思うから、そのつもりで励んで欲しい。それと……こっちの薔薇の刺繍のご夫人だけど、かなり気難しいお客様だから相当繊細に仕上げなきゃいけない。これも、ローラじゃないと任せられない。この二着は、なんとか頑張って欲しい」
父が仕事の顔で言う。ローラにこの二着が来るということは、スパンコールやビーズを多用した繊細な刺繍仕事は母に回っているということだろう。母は仕事が速く、仕上がりも一級だ。ただ、自分の拘りが強く、父のデザイン通りではない仕上がりになってしまうことも多いので、気難しいお客様の品に関しては判断が難しい。特にアンリとは気が合わないというのか、母はアンリと会う度に、言い合いになってしまう。マリー・アンダーソンという女性は、相手の身分を全く気にせずに自分が正しいと思うことを全て口にしてしまうため、気に入られることもあるが敵も多いのだ。
「先日マリーの言い方が気に入らないってものすごく苦情を貰ってしまったのだけどね。スパイトフル伯爵夫人は、ローラがお気に入りみたいだし……大人しくて可愛らしいってしょっちゅう言ってくれるよ」
薔薇の刺繍の依頼人はスパイトフル伯爵夫人だったのかと思うと頭痛がする。彼女はとにかく、気難しいのだ。気前よく支払ってくれるけれども、その分細かい点まで拘りが強い。職人の拘りよりも自分の拘りが優先で、技術的な問題などは気にせず無理を言うことも多い。何より、母を嫌っている。腕は悪くないけれど性格が酷すぎると。それでも腕を褒めるあたり、スパイトフル伯爵夫人は悪い人ではないのだろう。
「一応色番号も図面に書き込んであるんだけど、これでできそう?」
「……締め切り延長は……」
「アンリなら、ローラが頼み込めば納得してくれるかもしれないけど、スパイトフル伯爵夫人は無理だろうね。期日にもとても口うるさいし、せっかちだから」
意識が遠のきそうだ。これは、フェイが持ってきてくれたランプに感謝するしかない。
「お父様、私が眠ってしまわないように、一時間おきに監視に来てください。ここは、職人の意地を見せます」
三日くらいなら寝ないで頑張れるだろう。そして仕上げたあとに、融けるように眠ろう。
ローラはもう一度図面を確認し、使う順番に糸を並べていく。
「いや、本当にごめんね。あと二着縫製が終ったら、君の天使に夜食を運ばせるから」
父はそう言って、ローラの肩を叩く。思わず顔が熱くなるのを感じた。
「あ、あの……天使様も、お疲れでしょうから……」
「大丈夫。フェイ、あれで結構体力あるし、ローラの力になれるって思うと犬のようによく動くから」
天使よりはローラの犬だと父は言う。友人を犬呼ばわりするなんて酷いと思う。
けれども、ローラが思い出したのは、父が来る前にフェイが見せた真剣な眼差しだった。
「……あの、フェイ様に……求婚されました」
「ここ最近、毎日でしょ?」
「そう、じゃなくて……いつもは、ついでにとおっしゃるのに、今日は……とても、真っ直ぐな目で……」
反応に困ってしまった。彼がついでと言ってくれている間は冗談だと、逃げることが出来たのに、真摯な態度では逃げるのも失礼だ。
けれども、ローラは逃げてしまった。
「私……彼に、酷いことを言ってしまいました」
彼をよく知らないのに、不誠実だなんて決め付けてしまった。そんな自分が情けなくて、泣き出してしまいそうになる。
「うーん、多分、フェイならそんなに気にしないと思うよ?」
父はそう言って笑う。
「そりゃあ、言われた直後は少し落ち込むかもしれないけど、ベッドに入ってわーって叫んでそれでおしまい。フェイってそういうヤツだから。切り替え早いっていうかさ、落ち込んでる時間があるならさっさと次の楽しいこと探したいって感じかな。その代わり、明日から更に激しくローラにつきまとうと思うけど」
「え?」
「どんなに冷たくされても、構ってもらえるまでしつこいんだよ。友達の友達ともなかよくなりたい男でさ。レオナルドなんて、フェイのせいで友達が減ったとぼやいているよ」
父が笑ってそんなことを言うので、冗談なのか本気なのかわからない。
ローラは針に糸を通しながら、話の続きを待とうとした。
「でもね、ローラ、決めるのは、ローラだよ」
「え?」
父は珍しく真面目な顔をする。
「俺は、フェイのこと、凄くいいやつだと思う。正直、可愛い一人娘を嫁にやっても、大事にしてくれるとは思う。けど、それって、俺がそう思うだけで、現にマリーは反対しているし、ローラがフェイを信じられないというなら、フェイに嫁がせるべきじゃないと思う。ローラの人生だ。ローラが決めていい。まぁ、俺としてはフェイが婿に来てくれてローラと一緒に店を手伝ってくれると凄く助かるんだけどね。流石にフェイも侯爵の身分を捨てたりは出来ないだろうし、うん、レオに殺されるな」
彼は思い返したように笑う。けれども、ローラの胸に突き刺さる言葉だった。
「お父様、あの……彼は、天使様ではないのですか?」
恐る恐る、訊ねると、父は困ったように笑う。
「さぁ? 俺には、そんなことは重要じゃなかったから、気にしたこともなかったな。けど、ローラが信じるなら、フェイは、天使なんだろうね。ローラが強く信じるから、フェイは天使で居られるんだよ」
優しく頭を撫でられると、急に目の奥が熱くなる。ぽろりと涙が零れ落ちて、慌てて膝の上のドレスを机に置く。
「ごめんね、無理、させてる」
優しく抱きしめられ、安心する。父の手が大好きだ。それに、母も。二人の手は、夢を生み出す魔法に満ちている。ローラの努力では追いつけないそれぞれの理想とする美の魔法がある。それを人々は、感性だとか美的思想だとかいうのだろうけれど、ローラには、二人のそれは魔法だと感じられる。
「ローラはとても純粋で、特別な魔法を持っているから……あのアンリさえも懐かせてしまうのだろうね」
「え?」
父の言葉に耳を疑う。特別な魔法? それはローラが知らないものだ。
「ローラは、アンリを恐れずに受け入れたから、彼女に力を与えるのだろうね」
「それって……」
「フェイも、アンリもローラに夢中だってこと」
父はそう言って優しくローラの髪を撫でた。
「今日は、もう、休んでいいよ。切羽詰ってる時に無理をしたって、いい仕事はできない。そのかわり、少し早起きして、明日は頑張ってもらうけど。
父はそう言って、ローラの前から作業前のドレスを奪っていく。
「あっ。でも……」
「大丈夫。どうしても間に合わなさそうだったら、フェイにやらせるから。器用なんだよ。図面どおりの仕事は。ただ、自分でデザインしたりするのが壊滅的でね。あれは、芸術家には向かないな」
父はそう笑って、ローラに寝室にいきなさいと言う。
少し納得できないが、ローラの中に、反抗するという選択肢はない。父は父なりに、ローラを気遣ってくれているのだ。
「では、お父様、おやすみなさい」
少し休みますと、父の頬にキスをして、真っ直ぐ寝室へ向う。
父はどうも甘いと思う。しかし、実際問題今のローラが作業効率が悪いことも認めなければいけない。こういう、細やかな気遣いこそが、父が一流の職人出ることの証なのかもしれない。そんなことを考えながら、ローラは沈むように寝台に倒れこんだ。
彼は当時ローラが通っていた教会に飾られていた天使の像によく似ていた。だからきっと天使に違いないと思ったけれど、母にその話をしたら、夢を見たのだと言われてしまった。天使は人の前には姿を現したりしないのだからそれはただの夢だと。けれどもローラの膝には擦りむいた痕があった。その痛みは、あの天使が夢ではなかったのだと教えてくれたようだった。
せわしなく手を動かし、刺繍を進めていく。五枚目のハンカチに手を出した時には空が赤く染まっていて、あと少しで終わると言う頃には、燭台に火を点す為のマッチを探すことさえ困難になるほど暗くなってしまった。
こんなことならもう少し早くに火を点すべきだった。そう、後悔しても遅い。引き出しに入れていたはずのマッチが見当たらないのだ。仕方が無いから父の部屋に火を貰いにいこう。そう思って燭台を手にし、部屋の扉を開けた瞬間、眩しい光が目の前に現れ、思わず悲鳴を上げてしまう。
「ご、ごめん。驚かせるつもりは無かったんだけど……そろそろ暗くなってきたから、よかったら、このランプ使ってって言おうと思って」
そう言ってフェイは手に提げたランプを作業台の端に置く。燭台よりずっと明るい。
「ローラ、普段は蝋燭の灯りで仕事をしているの?」
フェイはそう訊ねて、勝手に物置代わりに使っている椅子の上から本を除けて椅子に座った。
「はい。その……普段はあまり遅くまでは作業をしないので」
この時間になると、ローラは大抵自分の部屋に戻って、息抜きの刺繍をしたり、本を読んだりしている。だから作業部屋には照明が必要なかったのだ。
「ごめん、君に苦労させちゃったね」
「天使様は何も悪くありません。悪いのは父です。飲みすぎて怪我をするなんて……」
日頃から母に釘を刺されているはずなのに、お酒が好きで、そのくせに悪酔いする困った人。
「いや、連れ出したのは俺だし、奢るって言ったのも俺だから……」
フェイは少しだけ気まずそうな表情をして、それから思い出したようにバスケットを手に取る。
「あ、そうだ。お腹空いてない? 昼飯はマリーに没収されちゃったけど、ちょっと差し入れ」
彼はそう言って少し大袈裟な動作でバスケットを開く。一瞬、中身が輝いて見えた様な気がするほど、ローラは空腹だったらしい。ぐぅっと大きくお腹が鳴り、恥ずかしさのあまり赤面する。
「丁度良かったみたいだね。ドーナツと、紅茶を用意したんだ。気に入ってもらえるといいけど」
彼はそう言って白地に薔薇の描かれたお皿とカップを取り出し、手際よくドーナツとお茶の用意をしてくれる。
「どうぞ」
「い、頂きます」
たっぷりと、チョコレートが掛かっていて、大きなナッツものっている。一口かぶりつくと、チョコレートと共に、仄かにバナナの味がした。
「お、美味しい……」
母がこういったお菓子を嫌うせいで、ドーナツなんて滅多に食べられない。甘いものが禁じられているわけではなく、母はもっと気取ったお菓子が好きなのだ。手掴みで食べるようなお菓子は彼女の前では口に出来ない。
「実は俺の手製。意外と家庭的でしょ?」
そう言って笑うフェイに胸の奥が熱くなるような不思議な感覚と共に、驚きを感じる。
「凄い、職人さんが作ったのかと思いました」
「え? そぉ? 嬉しいな。うん、ローラが喜んでくれるならまた作ってくるよ」
フェイはそう言って、自分もドーナツに齧りつく。気取っていないのに、その仕種がとても優美に感じられる。フェイと言う人は、なにをしても芸術作品の一部のように見えてしまう。どこを切り取っても絵になるというか、彼自身が常に完成形なのだ。
「本当はお昼の時間に間に合わせるつもりだったんだけどね。一着作るのに結構時間掛かっちゃってさ」
「え?」
「一着終ったと思ったら、ジョージィがもう一着終ったらローラとお昼食べる権利をあげるって言ったんだ。だから、すんごい頑張ったんだけどさ。もう、お昼って言うか、夕食みたいな時間だよね」
フェイは少し困ったように笑う。そんな表情をしていても、彼は美しく見えてしまう。
「でも、ローラと過ごせる許可が下りてよかった。マリーに見つかったら怒られるかもしれないけど」
フェイはどこか楽しそうに笑う。きっと、怒られることを含めて楽しんでいるのだろう。
「天使様は、母のことも好きなのですね」
「うん。俺は、出来ればマリーとももっと仲良くなりたい。マリーはさ、ガミガミガミガミ口うるさいけど、マリーなりに俺のことも心配してくれてるんじゃないかなとか期待してたり。ま、最初はジョージィのオマケ程度にしか思ってなかったんだけどね。今は厳しいけど、いい人だって思ってるし、マリーがいるから多分ジョージィも真面目に仕事してるんだろうなって」
フェイが父の話をするとき心底嬉しそうに見える。それがローラも嬉しくてつい、もっと話して欲しいと思う。大好きな両親を心から好きだと思ってくれている人が両親の話をしてくれるのが嬉しくないはずがない。
「俺も悪餓鬼だったけどさ、ジョージィだって負けてなかったと思うよ。その悪餓鬼をひっくるめて拳骨落とすのがマリー。なんか、無条件に逆らえないっていうか……こんなこと言うと、ローラには失礼だけど、俺は世界で一番マリーが怖い」
彼はそう言ったところで、だんだん顔が青くなっていく。母の顔を思い出したのだろう。
「しまった……あんま長話してるとまたマリーを怒らせちゃう。けど、もうちょっとローラに癒されて行ってもいい? 俺、あんま大人しく座ってるのとか好きじゃないって言うか。ミシン自体は嫌いじゃないけど、じっと座って作業しているのがものすごく苦痛。しかも、ジョージィもだんだん話し相手してくれなくなっちゃうし……」
助けてと言われても、ローラにもどうしようもない。
「服作りは自分との戦いですから。孤独に打ち勝ってくださいとしか言えません」
余裕がある時はおしゃべりしながらわいわい作業できるかもしれない。けれども締め切りが近付くにつれて修羅場だ。徐々に口数が減り、食事の余裕も無くなり、苛立ちを誤魔化すように手を動かさなくてはいけない。
忍耐力が必要だ。忍耐と集中。そして自分との戦い。
「お客様の手に渡るお品ですから、最後のひと針まで、きちんと、仕上げなくてはいけません」
お客様の前では裏側の事情なんて関係ない。完璧な品を用意しなくてはいけない。
真っ直ぐフェイを見てそう告げれば、彼は驚いたような表情をした。
「ローラ……君、凄く立派だ。俺には真似できそうにないや。俺って、昔からなんでもそこそこ出来ちゃって、そこそこ以上になれないんだ。暗記とかは得意だけど、特になにが好きってこともないし。強いて言えば、俺が好きくらい? 得意なことも、夢中になることもなんにもないようなつまらない人生だった。けど、君を一目見てから、救われた気がする」
彼はどこか縋るような目でローラを見た。ああ、天使ではなかったのだと思わされてしまった。
本物の天使は、ローラに縋ったりはしない。
「たった一日だったけど、小さいローラと遊んだ時間が凄く、俺の支えになってくれた。君が笑ってくれたのが凄く嬉しくてさ。俺、もっと真っ当に生きようってって思って、まぁ、あの頃よりはマシな領主になれたんじゃないかなって。可愛い少女が天使様なんて呼んでくれたから、それに似合う大人になりたいなって思った」
少し、疲れたような笑みを見せる彼は、あの日の輝きが消えてしまったように思える。
天使様はこんなに弱々しくはなかった。神々しくて、綺麗で、怖いものを全部吹き飛ばしてくれた。
「ごめん、こんな弱気なこと言うつもりじゃなかった。けど、俺、あの日からずっと君が欲しいと思ってた。君が傍に居てくれたら、もっと立派になれる気がして……君が期待してくれたら、俺はその分頑張れるんじゃないかって」
そう言うフェイが僅かに震えているのがわかった。彼はローラよりずっと年上なのに、まるで幼い子供のように不安気で、放っておけない。思わず立ち上がり、彼を抱きしめる。
「ローラ?」
驚いたように見上げる彼の頭をそっと撫でたのは、きっと幼い時に父がよくしてくれたからだろう。
「フェイ様……私、ずっとあなたのこと、天使様だと思っていました。でも……今のあなたは違うように見えます。それとも、地上に降り立った天使様は、幼子のように見えてしまうのでしょうか」
フェイはローラよりずっと年上で、頼れる大人だと思っていた。それに、いつも笑っていて、悩みなんて何一つないように周りの人を笑わせる天才だとも。けれども、それはローラの思い込みかもしれない。なにせまだ彼のことをよく知らないのだ。
「俺は、君が思う程立派じゃないよ」
ローラをぎゅっと抱きしめ、その胸に顔を埋めるフェイに思わず固まってしまう。先に抱きしめたのはローラの方だが、まさか抱きしめ返されるとは思わなかった。
「君と離れてからずっと君のことばっかり考えてた。君の誕生日に贈り物を用意してもマリーに返されちゃうし、口実作って店に来ても全然会えないし……ジョージィを拝み倒しても絵すら貰えないし……レオから君の肖像画貰った時は彼の靴にキスしそうになった」
相当重症だ。ローラは呆れてしまう。ローラのなにがそこまで彼をおかしくしてしまったのだろうか。
「フェイ様は……どうしてそんなに私を?」
愛してくれているのとは、少し違う気がする。不思議に思って訊ねれば、一層強く抱きしめられた。
「君が俺を天使だと言ってくれた時、俺には君が天使に見えたんだ」
見上げられあて、視線が絡む。暗いグレイの瞳が、妙に煌いて見えて、恥ずかしさに視線を逸らす。
「君はあの時から何一つ変らない。純真で、真っ直ぐで、愛らしくて……俺を救ってくれる」
その言葉と同時に、彼の中にきらめきが戻ったような気がした。あの、ローラを惹きつける神々しい光が、優しく包んでくれるようで、もし、翼を失った天使が居るのならば、きっとフェイのような存在なのだろうと感じさせられた。
「ローラ、俺と結婚してください。一生大切にするって約束する。俺には君が必要なんだ」
しっかりと手を握られ、真っ直ぐ見つめられれば、ローラの体は硬直してしまう。緊張と、恥ずかしさと、あまりに強い彼の瞳から目が逸らせない。
それに、彼は今、「ついで」とは言わなかった。
「ずるい……」
ずっと冗談みたいな求婚ばかりしたくせに。口を開けば結婚しようと軽々しく口にした人が、途端に真面目にそんなことを言うなんて。
「急がないって言ったけど、本当はすっごい焦ってる。でも、断るなら、返事は先延ばしにして欲しいな」
彼は無理矢理作ったような笑みを見せる。ずるい。そんな言い方をされては断りにくい。
「……フェイ様は、ずるい人です」
「うん。俺は君を誘惑する悪い大人だから。君の純真な心をいくらでも利用する。でも、君を愛している気持ちだけは嘘偽りないって天帝にも魔神にも誓えるよ」
天と魔に、同時に誓うとは何事だろうと呆れてしまいたくなる。人が崇め讃えるのは天帝と天帝に仕える龍の一族、そして天に住まう天人だけでいい。魔を崇めるなんて事は人がすべきことではない。
「不誠実な方とは結婚できません」
「参ったな……マリーに言われた時にはそこまで傷つかなかったのに。ローラに断言されると、かなり、辛い……」
彼はずんと沈んだ様子を見せ、するりとローラから手を離す。
「君を愛する気持ちだけは、本当に真剣だ。確かに、それ以外は不真面目かもしれないけど。やっぱ、ここは俺なりに誠意を見せないと。うん、俺、頑張る。今日中にあと五着、は無理かもしれないけど、日が昇るまでには頑張る」
フェイはぱしっと自分の膝を叩いて立ち上がる。
「あ、明日、また会いに来ていい?」
少し、不安そうな目で訊ねられる。断る理由は無い。寧ろ、明日は来ないと言われた方がローラは悲しかっただろう。
「仕事の邪魔をしないで下さるなら」
そう言ったのは、多分、二人揃って母の説教を貰いたくはないからだ。フェイはそれに気付いたのか、少し弱々しく笑って「ありがとう」と口にした。
去っていくフェイの後姿を見ると、妙な寂しさが込み上げる。このまま、彼が二度と来てくれなかったらと思うと、不安が込み上げてくる。
彼は天使ではないのに。
そう思うと、胸が痛い。けれども、もし、フェイが本当に天使だったとしたら、ローラはどうするのだろうか。
そんなことを考えているとノックが響いた。
「は、はい」
「ローラ、ごめん、縫製はもうフェイと従業員でなんとかなりそうだから、刺繍お願い」
そう言ったのは父だった。
「刺繍……こんなに?」
気の遠くなるような量だ。
「ほんっと、ごめん。マリーにも禁酒を宣誓させられたところだよ」
父はそう言って五着のドレスを掛ける。
「図面はこれ。一応色の指定もしてあるけど、不安だったら訊いて」
彼はそう言って図面を作業机の上に置いた。
「……え? これ……残り二日で?」
「明日には刺繍専門の針子も何人か来るから、出来るところまででいい」
父も少し焦っているように見える。
「フェイが刺繍も出来ればいいんだけど、飽きっぽいから多分最後までは頑張れないと思うんだよ」
父は完全にフェイをこき使うことに決めたらしい。
「お父様、フェイ様は職人ではありませんよ」
「分かってるけど、ローラを嫁に欲しいって言ってるし、利用できる時は利用させてもらおうかなって。単純だから適当にかっこいいよって言っておけば結構働いてくれるし。その代わり、五分おきくらいにカッコイイよ。すごいね! イケメン! とか言っておかないとやる気が下がってくのが面倒なんだけど」
そう言って苦笑する父にも、そんなことであっさりと動かされてしまうフェイにも呆れる。
「あの、フェイ様って……やっぱりものすごーく、ご自分が好きなのですか?」
「うん。すんごいナルシスト。ついでにね、褒められると調子に乗っちゃうから気をつけて」
それが楽なんだけどと父は言う。
「フェイが女性に興味を持ったのは嬉しいけど、それが俺の娘ってなるといろいろ複雑だよ。ああ、それと、アンリから貢物が来てるけど」
父は思い出したようにそう言って、ポケットから小さな包みを取り出した。
「軍神様から?」
「次はデートの誘いに乗ってくれないと店を破壊するってさ」
困った人だ。彼女が店を破壊すると言ったなら本当に次はそうするつもりなのだろう。
ローラは思わず溜息を吐いて、図面を確認する。昇る龍の図案。一体どんなご令嬢がこんなドレスを着るのだろう。そう思い、依頼人の名を確認して頭を抱えたくなった。
「……ええ、分かっていますとも。軍神様が、無理難題をいつもいつも……わかっていますとも……」
依頼人の名はアンリ・クランティブ。紛れもなく、ローラが軍神と呼ぶ彼女だ。
「なんでも、強そうで美しさを引き立ててくれるように作って欲しいってさ」
「ええ。分かっています。この赤地に、真紅の龍と黄金の龍を重ねればいいのですね?」
「ああ。多分、彼女は、最初からこれをローラに依頼する気だったと思うから、そのつもりで励んで欲しい。それと……こっちの薔薇の刺繍のご夫人だけど、かなり気難しいお客様だから相当繊細に仕上げなきゃいけない。これも、ローラじゃないと任せられない。この二着は、なんとか頑張って欲しい」
父が仕事の顔で言う。ローラにこの二着が来るということは、スパンコールやビーズを多用した繊細な刺繍仕事は母に回っているということだろう。母は仕事が速く、仕上がりも一級だ。ただ、自分の拘りが強く、父のデザイン通りではない仕上がりになってしまうことも多いので、気難しいお客様の品に関しては判断が難しい。特にアンリとは気が合わないというのか、母はアンリと会う度に、言い合いになってしまう。マリー・アンダーソンという女性は、相手の身分を全く気にせずに自分が正しいと思うことを全て口にしてしまうため、気に入られることもあるが敵も多いのだ。
「先日マリーの言い方が気に入らないってものすごく苦情を貰ってしまったのだけどね。スパイトフル伯爵夫人は、ローラがお気に入りみたいだし……大人しくて可愛らしいってしょっちゅう言ってくれるよ」
薔薇の刺繍の依頼人はスパイトフル伯爵夫人だったのかと思うと頭痛がする。彼女はとにかく、気難しいのだ。気前よく支払ってくれるけれども、その分細かい点まで拘りが強い。職人の拘りよりも自分の拘りが優先で、技術的な問題などは気にせず無理を言うことも多い。何より、母を嫌っている。腕は悪くないけれど性格が酷すぎると。それでも腕を褒めるあたり、スパイトフル伯爵夫人は悪い人ではないのだろう。
「一応色番号も図面に書き込んであるんだけど、これでできそう?」
「……締め切り延長は……」
「アンリなら、ローラが頼み込めば納得してくれるかもしれないけど、スパイトフル伯爵夫人は無理だろうね。期日にもとても口うるさいし、せっかちだから」
意識が遠のきそうだ。これは、フェイが持ってきてくれたランプに感謝するしかない。
「お父様、私が眠ってしまわないように、一時間おきに監視に来てください。ここは、職人の意地を見せます」
三日くらいなら寝ないで頑張れるだろう。そして仕上げたあとに、融けるように眠ろう。
ローラはもう一度図面を確認し、使う順番に糸を並べていく。
「いや、本当にごめんね。あと二着縫製が終ったら、君の天使に夜食を運ばせるから」
父はそう言って、ローラの肩を叩く。思わず顔が熱くなるのを感じた。
「あ、あの……天使様も、お疲れでしょうから……」
「大丈夫。フェイ、あれで結構体力あるし、ローラの力になれるって思うと犬のようによく動くから」
天使よりはローラの犬だと父は言う。友人を犬呼ばわりするなんて酷いと思う。
けれども、ローラが思い出したのは、父が来る前にフェイが見せた真剣な眼差しだった。
「……あの、フェイ様に……求婚されました」
「ここ最近、毎日でしょ?」
「そう、じゃなくて……いつもは、ついでにとおっしゃるのに、今日は……とても、真っ直ぐな目で……」
反応に困ってしまった。彼がついでと言ってくれている間は冗談だと、逃げることが出来たのに、真摯な態度では逃げるのも失礼だ。
けれども、ローラは逃げてしまった。
「私……彼に、酷いことを言ってしまいました」
彼をよく知らないのに、不誠実だなんて決め付けてしまった。そんな自分が情けなくて、泣き出してしまいそうになる。
「うーん、多分、フェイならそんなに気にしないと思うよ?」
父はそう言って笑う。
「そりゃあ、言われた直後は少し落ち込むかもしれないけど、ベッドに入ってわーって叫んでそれでおしまい。フェイってそういうヤツだから。切り替え早いっていうかさ、落ち込んでる時間があるならさっさと次の楽しいこと探したいって感じかな。その代わり、明日から更に激しくローラにつきまとうと思うけど」
「え?」
「どんなに冷たくされても、構ってもらえるまでしつこいんだよ。友達の友達ともなかよくなりたい男でさ。レオナルドなんて、フェイのせいで友達が減ったとぼやいているよ」
父が笑ってそんなことを言うので、冗談なのか本気なのかわからない。
ローラは針に糸を通しながら、話の続きを待とうとした。
「でもね、ローラ、決めるのは、ローラだよ」
「え?」
父は珍しく真面目な顔をする。
「俺は、フェイのこと、凄くいいやつだと思う。正直、可愛い一人娘を嫁にやっても、大事にしてくれるとは思う。けど、それって、俺がそう思うだけで、現にマリーは反対しているし、ローラがフェイを信じられないというなら、フェイに嫁がせるべきじゃないと思う。ローラの人生だ。ローラが決めていい。まぁ、俺としてはフェイが婿に来てくれてローラと一緒に店を手伝ってくれると凄く助かるんだけどね。流石にフェイも侯爵の身分を捨てたりは出来ないだろうし、うん、レオに殺されるな」
彼は思い返したように笑う。けれども、ローラの胸に突き刺さる言葉だった。
「お父様、あの……彼は、天使様ではないのですか?」
恐る恐る、訊ねると、父は困ったように笑う。
「さぁ? 俺には、そんなことは重要じゃなかったから、気にしたこともなかったな。けど、ローラが信じるなら、フェイは、天使なんだろうね。ローラが強く信じるから、フェイは天使で居られるんだよ」
優しく頭を撫でられると、急に目の奥が熱くなる。ぽろりと涙が零れ落ちて、慌てて膝の上のドレスを机に置く。
「ごめんね、無理、させてる」
優しく抱きしめられ、安心する。父の手が大好きだ。それに、母も。二人の手は、夢を生み出す魔法に満ちている。ローラの努力では追いつけないそれぞれの理想とする美の魔法がある。それを人々は、感性だとか美的思想だとかいうのだろうけれど、ローラには、二人のそれは魔法だと感じられる。
「ローラはとても純粋で、特別な魔法を持っているから……あのアンリさえも懐かせてしまうのだろうね」
「え?」
父の言葉に耳を疑う。特別な魔法? それはローラが知らないものだ。
「ローラは、アンリを恐れずに受け入れたから、彼女に力を与えるのだろうね」
「それって……」
「フェイも、アンリもローラに夢中だってこと」
父はそう言って優しくローラの髪を撫でた。
「今日は、もう、休んでいいよ。切羽詰ってる時に無理をしたって、いい仕事はできない。そのかわり、少し早起きして、明日は頑張ってもらうけど。
父はそう言って、ローラの前から作業前のドレスを奪っていく。
「あっ。でも……」
「大丈夫。どうしても間に合わなさそうだったら、フェイにやらせるから。器用なんだよ。図面どおりの仕事は。ただ、自分でデザインしたりするのが壊滅的でね。あれは、芸術家には向かないな」
父はそう笑って、ローラに寝室にいきなさいと言う。
少し納得できないが、ローラの中に、反抗するという選択肢はない。父は父なりに、ローラを気遣ってくれているのだ。
「では、お父様、おやすみなさい」
少し休みますと、父の頬にキスをして、真っ直ぐ寝室へ向う。
父はどうも甘いと思う。しかし、実際問題今のローラが作業効率が悪いことも認めなければいけない。こういう、細やかな気遣いこそが、父が一流の職人出ることの証なのかもしれない。そんなことを考えながら、ローラは沈むように寝台に倒れこんだ。
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