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忠実な僕
しおりを挟む温かい。誰かが手を握ってくれているようだった。
暗くて硬い石の床に放り投げられたはずなのに、なぜか柔らかい物に包まれている。そこがベッドの中だと気がつくまで、かなりの時間が必要だった。
「ヴィオラ様、起きられますか?」
心地よい低音。声の主はミハエルだ。
「……ミハ? 私……折檻部屋に入れられたんじゃ……」
「はい。しかし、あのようなところにヴィオラ様を置くわけにはいきません」
全身が痛い。打撲だとかそう言った類いの物だろうか。
「左手の指がいくつか折れています。処置はしましたがあまり動かさないように」
どうやら手を握っていてくれたのはミハエルだったらしい。
彼はそれが当然のように温かいスープを口元に運ぼうとしてくれる。
「少しでも口にしてください。今のままでは治る怪我も治りません」
右手は無事のようだ。なら食事は問題無い。けれども食欲という物を完全にどこかへ忘れてしまったようだ。
「お腹空いてない」
「それでも少しでもお召し上がりください。これ以上痩せてはクレメント殿下が大騒ぎしますよ」
殿下。
彼の名を聞くだけで胸の痺れが拡がる。
何日屋敷の中で過ごしたかわからないけれど、彼は一度も……あんなにもお節介だった彼が一度も顔を出したことがない。
なにがいけなかっただろう。こんなに急に、ばったりと。
バターの包み紙を食べてしまったことだろうか。試験中に、彼にとっても重要な試験だったのにまるで妨害するかのように彼の手を煩わせてしまったことだろうか。もしくは今までの積み重ね全てかもしれない。
「もう、お会いすることもないでしょうから……構わないわ」
もうあのきらきらと輝く美しい人を見ることは出来ないだろう。
せめてもう一度、彼の演奏が聴きたい。あの真っ直ぐな魂を震わせる音が彼という存在そのもので、あの音を生み出すのが私の作った楽器であることがどんなに誇らしかっただろう。
クレメント殿下の素晴らしいところは、たとえ私のことを憎むようになったとしてもあの楽器だけは評価してくださるだろうという素直な性格だ。彼はどんなに嫌いな相手でも優れている部分はきちんと評価できる。感情を隠すのは下手だけれどもそれが一層多くの人に愛されることだろう。
「ヴィオラ様。では、私の為に少しでも口にしてください」
ミハエルが膝を折ったことに驚く。彼はたとえ主である祖父にも滅多にそんな仕種は見せない。お辞儀以上の礼をすることもない。無礼不遜な態度でも人の何倍も仕事が出来るから許されてきた。きっと本来は他人に傅かれて生きるべき人だったのだろうと何度も思ったことがあるほどだ。その彼が、ヴィオラが食事をしないからと膝を折った。
「どうしてそこまで?」
思わず呆れてしまった。私のことなど放っておけばいいのに。
「旦那様からヴィオラ様の命が絶える瞬間までお仕えするようにと命じられています。あなたが幸せな生涯を終えるその瞬間まで」
深々と頭を下げる姿はなにかの儀式のようにも見える。
「……もういいわ。私、幸せだったわ。お祖父様と過ごした時間がとっても。だから、もう十分」
ミハエルには悪いけれど、もう、この先を生きていくと言うことがなにも見えない。もうお祖父様は居ない。殿下にも見捨てられてしまった。父は私を憎んでいるようだし、きっと死んで欲しいと願っているはずだ。
殺されないのは直接手を下せば罰せられるからだろう。けれども、子殺しはそこまで重罪ではない。子が親を殺せば問答無用で死罪にされるけれど、親が子を殺した場合は長くて五年の投獄で済んでしまう。まるで親は子を愛していることを前提に作られたような法。
父は私の死を望んでいる。直接手を下さないのは、今はまだ殿下との婚約関係があるからで、きっと婚約解消されればそのうち……いや、このまま衰弱死を待つつもりだろうか。
父の思い通りになるのは気に入らない。けれども、睨まれるだけで竦んでしまう私ではなにもできない。それに、もう刃向かう元気も残っていない。
大人しく従っていれば問題ないはずだった。少なくとも、少し不自由程度で普通の生活が出来るはずだった。
どこで間違えてしまったのだろう。
考えたところで過ぎた時間は戻らない。
「ヴィオラ様……では、こちらを」
困り果てた様子のミハエルが封筒を差し出す。
「クレメント殿下からヴィオラ様宛です」
手紙、らしかった。
殿下から手紙を貰ったことは何度かある。大抵は贈り物に添えられたカードくらいだったけれど、外交だとか公務で少し会えないことがあると手紙を送ってくれた。けれどもろくに読み書きも出来ないお方だ。私の名前以外綴りを間違えすぎていて解読が困難な状態で届く。結局戻ってすぐに直撃してくる彼の口から手紙の内容と同じ話を聞くので返事を書いたこととは殆どない。そもそもひきこもりの私は楽器のこと意外に話題がないのだから、返事の代わりに交換用の新しい弦を送って呆れさせてしまった。
「ミハ、開けて」
どうせ読めない。けれども誤字だらけの特徴的な手紙を眺めているだけで、ほんの僅かに彼に触れられるのではないかと期待した。
けれども、ミハエルが封を開けたそれは違う。
これは殿下の手紙ではない。
彼がこんなに文字を書けるはずがないのだから。
タイプされたような美しい文字は文官が書いたようにも見える。ただ、宛名だけは殿下の癖で……誰かが偽造したのだろう。
「……ミハ……もう、いらないわ。手紙も、いらない」
励まそうとしているのだろうか。こんな酷い。
「偽造するならもっと殿下を知っている方に頼まないと。だって……殿下がこんなにちゃんと読める手紙を書けるはずがないのよ?」
「いえ、これは確かにクレメント殿下が」
「もういいわ。ひとりにして」
食事もいらないと布団を被って背を向ける。
気遣ってくれるのは嬉しいけれど、余計に虚しくなってしまう。
一瞬、期待してしまった。殿下がまだ、私を気に掛けてくださっていると。
けれども、偽の手紙が届く程だ。もう、彼の心は完全に私から離れてしまった。ここまでしなければいけないと言うことは、ヴィオラの命も残り僅かなのかもしれない。
自分でも痩せてきたことはわかっている。
気が滅入ると病気になってしまうと言うことも知っている。精神的な病気で痩せ細っていくと、どんどん他の病気になってしまう。きっと今の私もそんな状況なのだろう。
もういい。
誰にも必要とされていないなら生きる意味もない。
ミハエルが心配してくれるのは祖父の命令があるからで、きっと先払いされた賃金分は働かないとという義務感だろう。
心残りは工房に残した楽器達だろうか。誰か長く使ってくれる人の手に渡ればいいけれど、きっとそれは叶わない。
せめて。アマンダがこの先ヴァイオリンを好きになってくれたら。彼女自身が使わなくても彼女の子供にあの楽器を引き継いでくれたら。そうしたら、少しくらいこの世界で生きた意味もあるのかもしれない。
ヴィオラ・アルモニーは最高の演奏家を作り上げた。その事実があれば十分じゃないか。
もういいわ。十分頑張った。
このまま、次の朝が来なくていい。
せめて幸せな夢を見たい。
頭の中で過去の音を再生する。
一番幸せだった頃の音楽。あの四重奏。
ヘンなの。今更涙が出てくる。
馬鹿みたい。私。
戻りたいのは両親と祖父が居たあの時間だなんて。
殿下に出会う前だなんて。
出会わなければよかったなんて、人生の全てを否定したみたいなことを考えている。
彼がいなければ、生きられなかったのに。
彼がいたからこんなに苦しい。
あの時間に戻ったら、またあの場所で、あの少年と出会ったら私はどうするだろう。まだ王子様だとも知らない彼と会ったら。
きっとまた、自信作のヴァイオリンをあげるだろう。
なにも変わらない。過去に戻ったとしても私はその選択しかしない。
意味なんてない。
悔やんでも、やり直しを望んでもなんの意味もない。あの日々を懐かしんだところでもう戻ってくることもない。
祖父の音が好きだった。母の音も好きだった。そして父の音に惹かれていた。祖父とも母とも違う仄暗さを含んだ音。人生に深みが出ると様々な表現が出来る。そんな類いの物だと考えていたけれど、あの時既に、父は私を憎んでいた。母を憎んでいた。祖父の前で無理をしていたのだろう。それでも、私はあの四重奏が好きだった。
父と一緒に、まだ分数サイズだったヴァイオリンで、母のヴィオラと祖父のチェロ。あのチェロは今どうしてしまっただろう。あれは祖父の作品だったはずだ。
父にとっては違ったかもしれないけれど、それでも、あの四重奏は私にとって家族の象徴みたいなもので、それでも、思い返してみても父には一度も褒められたことがなかった。
週に一度の四重奏。次までにもっと練習して父に褒めて貰おうと頑張っていた。私にもそんな時期があった。けれども、途中で諦めたのだろう。すぐに祖父にヴァイオリンを作りたいと言って、楽器作りの方に熱中した。そのうち家族の四重奏がなくなった。
あのころから、きらきらとしたわがままな王子様が頻繁に顔を出すようになって、宮廷演奏家も驚いてしまうような見事な演奏を披露してくれるようになった。どこまでも真っ直ぐでよく響く音だった。父の前でも披露してくれたと思う。
そうだ。あの頃から、父の音を聞かなくなった。
昔の夢を見た。
古い民家を改築したその建物は昔の私が住んでいた工房兼自宅だ。その一室で、ただひたすら表板を削っている。この大きさはヴィオラだろう。
珍しいことに若い音楽家が新作を作って欲しいと依頼してくれたことを思い出す。ヴィオラはややサイズに幅があるから演奏者の好みに左右される部分がある。彼は大きめのヴィオラが欲しいと言っていた。
あまり彼のことは思い出せない。けれどもその楽器のことはよく覚えている。よく響く楽器だったからだ。
あれはたぶん、前世の遺作となっただろう。けれども夢の中の私は、そんなことを知らないままただひたすらと板を削っている。
あの頃の私には迷いがなかった。ただ、ひたすら真っ直ぐだった。
私の柱はいつからこんなに曲がってしまったのだろう。
柱がずれると響かないのは楽器も人も同じだ。
今の私は、響かない楽器になってしまっている。
暗闇の中で意識が覚醒する。
人の気配があった。けれども明かりは完全に消されてしまっていて、なにが起きているのかさえ把握できない。
父だろうかと思った。けれども彼ならば強引に起こすはずだ。
ならばミハエルだろうか。けれども彼ならなにかしら小さな灯りを用意してくれる。
「だれ?」
思わず訊ねれば、気配が接近してくる。
「ヴィオラ、無事か?」
その声に驚き、そしてこれは夢なのだろうと思った。だって、居るはずのない人だ。
ぼんやりとした灯りが近づく。
「お前、怪我をしているじゃないか。それに……随分痩せたな」
ぎゅっと抱きしめられた。夢にしては随分と鮮明な感触だ。
怪我をした左手を気遣うように、それでももう放さないとでも言うようにきつく抱きしめられる。
「すまなかった……こんなに遅くなってしまって。それに……誤字がないとお前に疑われるなんて思いつきもしなかった。僕は……ちゃんと字を覚えたらお前に褒めて貰えるとばかり思っていたが、あんな誤解をされるなんて……」
困り果てたような声が本物なのではないだろうかと期待させる。
どうせ夢だというのに。
でも、夢なら、少しくらい甘えてしまってもいいだろうか。
思わず、彼に抱きつく。精一杯の力、のつもりだった。けれども全く力が入らない。数日食べてないのだから当たり前と言えば当たり前だ。
「……お会いしたかった……です……」
子供みたいに抱きついて、泣いてしまいそうだ。
「ああ、僕も会いたかった。三週間もお前と離れたのなんて、出会ってから初めてだし……まさか試験の不正を疑われるなんて……けど、もう大丈夫だ。ヴィオラ」
離れてしまう。そう思ったら、ぎゅっと右手を握られきらきらとした力強い瞳に見つめられる。
「ヴィオラ、僕と正式に結婚して欲しい」
真っ直ぐな瞳は陛下とよく似ている。あと数年したらきっとあんな風に立派になられるのだろうという、願望だろうか。今日の夢は随分と残酷だ。
「愛してる。お前から見たら僕は頼りないかもしれない。けど、僕にはお前が必要だ。これから先も僕の側で、褒めたり叱ったり小言を言ったり呆れたりして欲しい。一番は笑顔が好きだけど、でも、お前は小さなことでもすぐに沈んでしまうからな。呆れてるときくらいが丁度いい」
夢にしては少しばかりかっこ悪い愛の言葉。けれどもそれがどうしようもなくクレメント殿下だと思わせて、このまま醒めないで欲しいと願ってしまう。
まるで体当たりするように彼の胸に飛び込めば、一瞬驚いたようにふらつき、それから少しだけ困ったように笑う。
「あー、その……僕じゃこれが精一杯だ。舞台の役者みたいにかっこいいことは言えないけど……愛してる。ヴィオラ。お前の気持ちも知りたい。けど……僕じゃ不満だって言われても、逃がす気なんてないから諦めろ」
結局脅迫になってしまっている。
私のよく知る殿下だ。けれど、いつもよりも逞しく見えてしまう。
夢だもの。願望が反映されているに決まっている。ということは。少し陛下に似てきた逞しくなった殿下に求婚されたいというのが私の願望なのだろうか。恥ずかしい。少しは身の丈を知るべきだ。
けれども、もう少しで終わる命なら、夢でくらいわがままでも許して欲しい。
「……殿下、私……殿下の音が好きです。あなたの魂の響きが。その真っ直ぐな魂に触れたいと……あなたの響きを感じたいと思っています」
不思議と涙が溢れる。どうしてだろう。折角、殿下が居てくれるのに情けない。
「泣くな。ったく……お前はやっぱりうじうじくよくよで音楽のことしか考えられない。お前みたいなやつは僕が側で護ってやらないとだめに決まってる。もう、なにも考えるな」
優しく涙を拭う手は温かくて、こんなに大きかったのかと驚いてしまう。
もう、あの日の少年ではない。年上の男の人だ。
いつも少年のように拗ねている姿が可愛らしいと思ってしまっていたけれど、立派な男性になっている。
願望にしては恥ずかしい。けれどもその逞しい胸に抱かれると安心する。
「とりあえず……ここに署名だけ済ませろ」
突然思い出したかのように、なにか紙を差し出される。
もうすっかり視力が落ちてしまって文字が認識出来ない。
「これは?」
「いいからここに署名だけ済ませろ。利き手は無事だろう?」
なんだかとっても強引だ。本当におかしな夢だ。
「殆ど文字が見えません」
「なら僕の指の先に署名を済ませろ」
殿下の声は焦っているようにも思える。
言われるまま署名を済ませる。たぶんちゃんと書けたと思う。殿下は大切そうにその紙を折りたたんで懐にしまい込んだ。
「あの、今のは?」
「ああ。父上にお前との結婚の許可を頂いた。お前の署名を貰って父上が受理すれば正式に夫婦だ」
どうなっているのだろう。結婚には証人が必要だし、婚約していたとしても結婚は卒業後という話だったはずだ。
「父上と取引したんだ。試験で満点以上の点数を取れば今すぐヴィオラと結婚させて欲しいと。まぁ、追加で年内にあと七カ国語の読み書きが出来るようにならないと面会時間を制限するという誓約書を書かされたけれど……運動科目で新記録を二つ出したからな。満点に追加加点を貰った」
真面目な顔をすると本当に凜々しくて素敵な王子様に見えてしまうけれども言っている内容がとんでもない。
「試験で満点以上って……」
「全教科満点取ったぞ? どうせ疑うと思って成績表もちゃんと持ってきた」
だし出された紙は成績証明書だ。偽造防止の透かしと特殊なインクが使われているそれは王族だろうと偽造はできないはず。特徴的なのは総合成績がぷくりと立体的に盛り上がる特殊インクだろうか。しかも蓄光仕様だ。満点の横に+が輝いている。二つも。
「……一体どうやって……」
「お前の為ならなんだってすると言っただろう」
呆れた声に驚いてしまう。
夢にしても、願望が表れすぎではないだろうか。これは酷い。もう一度寝よう。流石に現実に戻らなくては殿下に失礼というものだ。
ベッドに戻ろうとするとひょいと持ち上げられてしまう。
「こら、逃げるな。お前は僕と来るんだ」
「え?」
「お前のことを逃がさないと言っただろう。とりあえず、新居が完成するまでは客室で保護する」
保護? どういう意味だろうか。首を傾げていると、彼は勝手にクローゼットを漁りいくつかベルトや長めのリボンを物色しているようだ。
「殿下? 一体なにを?」
「いくら僕でもお前を抱えたままでは無傷で降りる自信がないからな。落ちないように固定するものを探している。楽器ケースに押し込んで落とすというのも考えたが、チェロケースじゃ人間は入れないだろう」
一体何の話をしているのだろう。
そもそも、突然現れた殿下は一体どうやって部屋に入ってきたのだろう。扉は鍵が掛かっているはずだ。鍵は父が持っている。
「殿下、どうやってここに入ってきましたか?」
「ミハエルと取引をして窓の鍵を開けておいてもらった。ああ、この屋敷、防犯意識が低すぎるぞ。簡単に壁が登れる」
普通はこの高さまで壁を登りません。
「まあ僕なら平らな壁でも登れるが……このくらい掴むところが多いと降りるのも楽だからな」
そう言いながら、彼はめぼしい物を見つけたらしい。
少し大きめの革のベルトを二つ。旅行鞄に巻き付ける為に祖父が用意してくれたけれど、一度も使ったことがない。なにせ、旅行なんて行ったことがないのだから。
「よし、ヴィオラ、僕が背負うからベルトを背中に回せ。お前が落ちないように固定する」
「えっと……殿下? 一体なにをなさるおつもりですか?」
とても嫌な予感がする。おかしな夢だとしても、これは酷い。
「いいからさっさとしろ。兄上を待たせている」
今なんて? いや、それよりも背負うって……。
完全なおんぶスタイルで背負われ、しっかりと殿下と密着する形にベルトで固定されてしまう。
「くっ、思ったより動きにくいな。けど、まぁ、なんとかなるか。あー、その格好で外を歩かせるわけには行かないからとりあえずこれでも羽織っておけ」
クローゼットから羽織物を取りだし、背に掛けてくれるところは紳士的だとは思う。けれどもこのおんぶ固定は一体なんだろう。
「しっかり捕まっていろよ」
そう言ったかと思うと、返事をするよりさきに窓枠によじ登る。
「ちょっと、な、なにを……」
「しっ、静かにしてろ。見つかる」
声を抑えろと口の中にハンカチを押し込まれた。
用意がよすぎる。
これは所謂誘拐というやつなのではないだろうか。
考えるより先に、殿下ごと落下していく。思わず悲鳴をあげそうになった。墜落死は出来れば避けたい。そんな風に考えたのに、いつの間にか綺麗に着地している。
「馬まで走るから捕まってろ」
馬? どういうことだろう。そう言えばこの殿下、馬より速く走れるとか噂されていたような気がする。身体能力が人外だとか。
それよりも、一応屋敷に警備の人間も居るはずなのにひとりも遭遇せずに門に辿り着いてしまったことが気になる。しかも、殿下は当たり前のように門をよじ登って脱出した。こんなに派手な動きをしていて見つけられないとか警備担当者は解雇されたのではないだろうか。
「クレム……お前、それ完全に誘拐じゃないか……」
呆れた声の主は第二王子のベンジャミン殿下だった。まさか王子自らがこの誘拐に加担していたとは驚いてしまう。
「ヴィオラ、大丈夫かい?」
口からハンカチを取り出しながら訊ねるベンジャミン殿下も少し疲れているように見える。夢にしては随分豪華な配役だ。
「すまないね。またクレムが強引に。でも、もう大丈夫だよ。王宮に着いたらゆっくり休むといい」
ベンジャミン殿下は幼い頃にしてくれたのと同じように優しく頭を撫でてくれる。兄が居たらまさにこんな人だろうと思ってしまうような方だ。
「兄上、ベルトが上手く外れません」
「どれ、急がないと見つかってしまうかもしれない。いい。そのまま馬車に乗りなさい」
ベンジャミン殿下は馬を側に居た人に預け、物陰に隠すように置かれた古びた荷馬車を指す。
なるほど。これは食材を納品に来た業者の馬車に見えるかもしれない。
「この馬車は一体どうやって用意されたのですか?」
「アルモニー侯爵家に食材を納品している業者から借りたんだよ。ああ。ちゃんと食材も納品してきたから安心して」
まさか第二王子がしれっと納品までしたのだろうか。なんという恐ろしい夢だ。
クレメント殿下が馬車によじ登り、荷台に乗り込むとベンジャミン殿下も後に続く。
「王子が二人揃って誘拐犯なんて前代未聞だな」
困ったような言葉とは裏腹にベンジャミン殿下は楽しそうに笑っている。
「これは僕の妻の一時保護だ。誘拐じゃない。ミハエルが暴行の証拠を集めてくれている」
今、妻って……。
「ま、まさかあの書類……」
「ああ。本当は僕も王子だからもっと面倒な手続きがたくさんあるのだが、今回はごねまくって免除してもらった。相手がヴィオラだし、父上も宰相も大臣達も納得してくれた」
「うん。ヴィオラの為ならクレムが頑張ることは証明されたし。ヴィオラ、頑張ってクレムを立派な外交官に育てておくれ」
にっこりと笑むベンジャミン殿下は一体なにを考えているのだろう。クレメント殿下のあの性格で外交なんてできるはずがないのに。
これは夢だ。絶対夢だ。こんなにへんてこな夢なんて。
きっと寝たら醒める。
「いくら夢だからっていろいろ起こりすぎだわ……」
楽器が恋しい。
夢ならせめてノミ位持たせてくれればいいのに。
そう不満を抱きながら目を閉じれば、馬車の揺れですぐに眠気が襲ってきた。
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