執着弁護士の愛が重すぎる

加地アヤメ

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1巻

1-3

 言葉が通じないというこの状況、元カレとの別れ際と一緒だ。すごくもどかしくて、イライラしまくったあの日々からやっと解放されたというのに、また同じ思いをするのだろうか。
 どう言えば伝わるんだろう、と考えて思わず顔をしかめる。
 勤務中だというのに、モヤモヤでいっぱいになってしまう。
 しかし、そんな私の気持ちなどお構いなしに、真家さんはモーニングを食べ終えたトレイを返却口に戻し、カウンターの私に涼しい顔で声をかけてきた。

「ハムチーズサンドとても美味おいしかったです。また来ますね、薫さん」

 ――っていうか、また来るんだ……

「……ありがとうございました……また、お待ちしてます……」

 マニュアル通りの返事をしただけなのに、真家さんはにっこり微笑み、他のスタッフにも会釈えしゃくをして店を出て行った。
 まだ八時前だというのに、真家さんのせいで疲労感が半端ない。
 ――終業までまだだいぶあるのに、どうしてくれるんだ真家……‼
 ぶつけどころのない怒りに震えながら、その日一日をどうにか終え、ふらふらになりながら帰宅する。

「ただいまー……」

 真家さんのせいで精神疲労がとんでもない私は、帰宅するなりダイニングテーブルに突っ伏した。
 今日の夕飯は、仕事が休みの母が担当しており、キッチン内をせわしなく動き回っている。

「あら、なーに今日は。えらく疲れてるじゃないの」
「……ちょっと、想定外のことが立て続けに起こって……」
「ああ、サービス業はお客様によっていろいろあるもんねぇ。看護師だってそうよ。最近はキレる患者さんも多いから、大変」

 味噌汁を作りながら、母がため息を漏らす。
 そういうことじゃないんだけど、と母を見る。
 でも、真家さんに告白されたなんて言ったら、めちゃくちゃ驚かれそうだから言えないけど。

「お母さんは、直感って信じる方?」
「えー? 直感? どういう時の」
「たとえばさ、お父さんと結婚を決める時、何かピンときたりした?」

 お父さんと言った瞬間、母がぐっと眉根を寄せる。

「ピンときたりねぇ……あったような気もするけど、あんまり参考にならないわよ」
「あったんだ。どんなの?」

 そうねえ、と母がお玉を持ったまま遠くを見つめる。

「あの人、私が勤める病院に入院してきた患者さんだったのよ。建設関係の仕事で、すっ転んで足を骨折してね。それで、私が担当になったんだけど、初めて会った時、ちょっといいなって思ったのよね」
「それは、顔に惚れたってこと?」
「顔も好みだったけど、それだけじゃなくて……なんかこう、あの人が元々持ってる雰囲気が、私の理想とするものに近かったというか。だから、会ってすぐに、この人のこと好きになるかもって思ったわね」

 真家さんと同じようなことを言う母が、にわかには信じがたく、ついいぶかしんでしまう。

「会ってすぐ……? 相手のこともよく知らないのに?」
「そうだけど、まずは顔が好みだとか、とっかかりがないと相手のこと知ろうとしないでしょ」
「確かに。でも別れちゃったじゃない」

 私がスパッと言うと、母がイヤそうな顔をした。

「しょうがないじゃない。あの人、いつまでたっても定職に就かないし、私の給料を当てにされて面倒になったのよ。まあでも、葵と薫を授かったことだけは、あの人に感謝してるけど」
「ふうん……」

 母にも経験があるということは、真家さんの言う直感を馬鹿にはできないということか。
 だからといって、その直感を受け入れるかどうかは、別問題なのだけど。
 ――そもそも、あんな超イケメンの弁護士先生となんて、何を話していいか分かんないし。
 私が頭を抱えていると、目の前にお味噌汁の入ったお椀が置かれた。
 具は豆腐とワカメだ。

「はい、お味噌汁。ご飯もうすぐできるから」
「うん……いただきます」

 母が作った温かいお味噌汁にほっこりしつつ、話の通じないあの弁護士をどうしてくれようかと、考える私なのだった。



   2


 翌日は休日だったため、私は家でのんびり過ごしていた。
 録画しておいたテレビ番組を観てダラダラしていると、お昼頃に私のスマホが鳴った。見ると、仕事に出ている姉からだ。
 ――こんな時間になんだろう?
 私は休みだが、今日は平日なので姉は仕事の真っ最中のはず。疑問に思いながら電話に出ると、いきなり耳元から『薫、今暇⁉』と姉の声が聞こえてきた。

「は? 何いきなり。暇じゃないわよ、今ずっと観たかったドラマの続きを……」
『暇ね! 悪いんだけど、私の部屋にある封筒をこの前の弁護士さんのとこに届けてくれないかな。行くって連絡したのに、うっかり持ってくるの忘れちゃったのよ』
「はあああああ~~~~?」

 弁護士と言われた瞬間、真家さんの顔が頭に浮かび、気分が重くなる。

『ごめん‼ この埋め合わせは今度するから、お願いお願い‼』

 呆然とする私の耳に、姉の切羽詰せっぱつまったような声が響く。
 こういう時の姉は、私がうんと言うまで絶対に退かない。そのことを知っているだけに、これはもう諦めるしかない。

「分かったよ、もう……持って行けばいいんでしょ、持って行けば‼」
『ありがとう~~‼ 部屋にあるA4の封筒ね! 事務所には連絡しておく。今日薫が好きなケーキ買って帰るから、よろしくね!』

 プツ、と通話が切れた途端、私は座っていたソファーにバタンと倒れ込んだのだった。


 渋々姉の部屋にあったA4の封筒をバッグに入れ、先日訪れた法律事務所に向かった。
 あの時は姉がいたからよかったけど、今日は一人なので緊張感も半端ない。エレベーターに乗っている今、すでに引き返したくなっている。
 ――真家さんに会いたくない……いや、待てよ。真家さん忙しいって言ってたし、もしかしたら出かけていて不在だったりとか……
 しかし次の瞬間、姉の『連絡しておく』という言葉を思い出す。つまり、真家さんが不在である可能性は、限りなく低いということだ。
 ぬか喜びをしたせいで、いっそうどんよりしながら私は二十階でエレベーターを降り、くだんの法律事務所へ向かった。
 自動ドアを抜けて、受付に座る女性に声をかける。

「これを真家さんに渡しておいていただけますか」

 それでも受付に書類を預けて用事を済ますことができないものかと、姉の名前と代理であることを告げて、女性に封筒を渡す。
 しかし、その女性はにっこり微笑んで私に言った。

「真家がすぐに参りますので、あちらのソファーでお待ちください」

 ――ああ……やっぱり……

「はい……」

 よろよろしながら受付近くのソファーに座り込んだ私は、完全に諦めの境地で真家さんを待つ。
 ――ん?
 ちょうど通りかかったスーツ姿の男性が、不意に私の前で足を止めた。
 顔を上げると、じっと私を見ている男性と目が合う。
 年齢はたぶん私と同じくらい。さわやかな好青年といった印象のその男性の顔に、どことなく見覚えがあった。
 そう、確か、高校時代に同じクラスにいた……

「……星名ほしな君?」

 私が名前を呼んだ瞬間、彼がくしゃっと笑顔になる。

「やっぱり一杉さん。高校卒業以来だね、久しぶり」
「久しぶりだねー。でも、星名君が、なんでここに? もしかして……」

 ここは法律事務所だ。しかも星名君のジャケットには、真家さんがつけていたものと同じ弁護士バッジが光っている。ということは。

「うん、一応弁護士なんだ。といっても、まだまだ勉強中の身だけど」

 照れながらそう言う星名君に、素で驚いてしまった。

「ええっ‼ すごい! そうなんだ」

 高校三年間同じクラスだった星名かなめ君は、ずっと野球部に所属していた。今と違って髪が短く、女子とはあまりしゃべらない硬派なイメージだったけど、頭が良くてクラスでは常に一、二を争う秀才だった。
 そんな星名君が、弁護士になっているなんて驚いた。でも、きっちりとスーツを着こなす彼を見ていたら、弁護士という職は彼に合っているような気がしてくる。

「そっか……すごいね。頑張ったんだね、星名君」
「ありがとう。ところで一杉さん、ここにいるということは、うちの事務所に何か相談事? 誰かを待ってるとか?」
「あ、うん。私じゃなくて家族がね。ここの、真家さんにお世話になってて」

 私が名前を出すと、それまで笑顔だった星名君が真顔になる。

「え。真家さんって……真家友恭先生⁉ 本当に?」
「うん。無料相談でお会いして、そのままお願いすることになったんだけど……」
「真家先生が、依頼を受けてくれたの?」
「うん、そうだけど……」

 何がそんなに彼を驚かせているのかが分からず、キョトンとしていると、星名君がハッと我に返る。

「あ、ごめん。いや、真家先生は、あまり個人の依頼は受けないって聞いてたから、びっくりして」

 ――個人の依頼を……受けない?

「そうなの?」

 星名君は周囲を気にしながら、私に一歩近づいて声をひそめる。

「真家先生って、うちの事務所では企業法務を請け負うことがほとんどなんだ。とにかく有能な人だから、企業側から指名されることも多いしね。俺からすれば、真家先生に担当してもらえたのは幸運だと思うよ」
「そうなんだ……」

 忙しいとは聞いていたが、まさかそこまですごい人だったとは思わず、ポカンとしてしまう。
 ――イケメンなだけじゃなく、能力もある弁護士さんとは……
 そんな人が、どうして姉の担当になってくれたのかは分からないけど、とりあえず姉の件に関しての安心感は増した。
 だけど、彼の「交際申し込み」に関しては、ますます謎が広がっていく。
 ――それだけ有能なら、もっと相応ふさわしい人がいくらでもいそうなのに。なんで私なんだろ……
 心の中で大きく首をかしげていると、「薫さん」という真家さんの声が聞こえた。

「すみません、お待たせしてしまって。おや……星名先生?」

 真家さんは星名君の存在に気がつくと、私と彼の顔を見て不思議そうな顔をする。そんな真家さんに、星名君が咄嗟とっさに口を開いた。

「一杉さんと私、高校の同級生なんです」

 星名君が私を見てニコッとするので、私もつられて笑顔になる。
 そんな私達を、真家さんは真顔のまま交互に見る。

「薫さんと星名先生が? そうだったんですか」
「はい。一杉さん、久しぶりに会えて嬉しかったです。では、私はこれで」

 真家さんに気を遣ってか、星名君が急に口調を改めた。

「あ、はい。こちらこそ」

 そんな彼に恐縮しながらお礼を言うと、にっこり微笑まれる。そして彼は、真家さんにも軽く頭を下げてから、颯爽さっそうと歩いて行った。

「こんなところで同級生と再会するとは、不思議な縁もあるものですね」

 星名君の後ろ姿を見つめながら、真家さんが呟く。

「そうですね、私も驚きました。星名君、昔とだいぶ外見が変わっていたので、彼が私の前で立ち止まらなかったら気がつかなかったかもしれません」

 あはは、と何気なく発した私の言葉に、真家さんがピクリと反応する。

「……星名の方が先にあなたに気づいたのですか」
「は……」

 はい、と返事をしようとして真家さんを見ると、何故か彼は、びっくりするくらい冷ややかな表情をしていた。その変貌ぶりに、思わず二度見してしまう。
 ――あれ? なんでこんな顔してるの、真家さん⁉ さっきまで普通だったのに。

「あの……どうかされました?」

 不安になった私が声をかけると、ようやく真家さんの表情が元に戻った。

「いえ。なんでもありません。それより薫さん、今日はわざわざお越しいただいて恐縮です」
「あ、はい。これ、姉から預かったものです」

 ずっと胸に抱いていた封筒を差し出すと、彼がそれを受け取った。
 ――わ、指長い。
 封筒を掴んだ真家さんの手は、指が長く骨張ってて、思いがけずドキッとしてしまうほど綺麗だった。

「ありがとうございます、助かります」

 封筒をバッグの中に入れながら、真家さんが微笑む。
 その笑顔に、なんとなくこそばゆい気持ちになるが、私の用事はこれで済んだ。もうここにいる理由はない。

「……じゃあ、私はこれで」

 素早く一礼して帰ろうとすると、すぐに後ろから「待ってください」と声がかかる。

「私も外に出る用事がありますので、途中までご一緒しましょう」
「……」

 別に気を遣わなくても、いや、むしろ一人の方が気楽なのだが……と思っていると、真家さんの顔に苦笑が浮かぶ。

「薫さんは、分かりやすいですね。思っていることが、全て顔に出る」
「えっ⁉」

 顔に出したつもりなど毛頭ない私は、慌てて両手で顔を押さえる。そんな私を微笑ましそうに見つめながら、真家さんは「行きましょう」と私と歩幅を合わせて歩き出した。

「今日はお休みなんですか?」

 事務所を出たところで、真家さんに話しかけられた。

「はい。家でのんびりしていたら、姉から電話がきて、封筒を届けるように頼まれました」
「それは申し訳なかったですね。連絡をくだされば、私がお宅まで取りに伺ったのに」

 真家さんの言葉にぎょっとする。

「……いえ、それは……大丈夫です」

 ――真家さんに家に来られるのは、なんかイヤだ。
 真家さんに誘導される形でエレベーターに乗り込んだが、中は私と真家さんの二人だけ。どうにも居たたまれず必死で会話を探し、私から彼に話しかけた。

「そ、それより。姉の件はどうなっていますか? 義兄あにとの話は進んでいるんでしょうか」
「ああ、はい。大丈夫ですよ。近いうちに、お姉様にはいい報告ができると思います」
「そうですか……よかった」

 心からホッとしていると、隣に立つ真家さんがチラッと私を窺ってくる。

「姉妹仲がいいんですね。事務所にも、一緒に来られていましたし」
「え? ああ……そうですね、仲はいい方だと思います」

 我が家は子供の頃から母が仕事で忙しくしていたので、私は自然と姉に頼ることが多かった。
 私が二十歳過ぎてからは姉も困ったことがあれば私に相談してきたし、なんだかんだで、お互いに助け合いながら生きてきた。
 だけどそんな姉にすら、真家さんのことはまだ相談できていない。
 言おうか悩んだけど、姉は離婚問題で揉めている最中だし、しかも相手はこの件を担当している弁護士さんだ。さすがに言いにくい。

「お姉さんに、私とのことは相談したんですか?」
「えっ……」

 こんなところでその話⁉ と咄嗟とっさに身構えそうになるけど、なんとか平静をよそおう。

「……いえ、姉には話していません。っていうか、言えませんよ、こんな……」
「離婚の相談をしている弁護士に交際を迫られている、なんて?」

 思っていたことを先に言われてしまい、カッと顔が熱くなる。

「……私、お断りしたはずですけど」
「そうですね、しかも二回」

 他人事ひとごとみたいにしれっと言われ、つい眉をひそめたくなる。

「分かっているならもう、この話はやめにしませんか」
「分かってはいますが、どうやら私は、自分で思っている以上に諦めが悪いようでして」

 真家さんがそう言ってすぐに、エレベーターが一階に到着した。
 諦めが悪いという性格は、できればお仕事の場でのみ発揮してほしい。
 思わずそう思ってしまった私は、一つため息を零す。

「でも、私の考えは変わりません」

 真家さんを見ずにそう答えて、エレベーターを降りたら、彼も私の後に続く。
 早くこのビルから出たくて、いつもより早足で歩く私に、真家さんは軽々と歩調を合わせてきた。

「薫さんに、結婚願望はないのですか?」
「そういうわけじゃないですけど、今は結婚という契約に、夢も希望も持てないんです。だから、本当にごめんなさい」

 エントランスに差し掛かったところで一旦足を止めた私は、真家さんに向き直り、改めて深々と頭を下げた。

「これで断られるのは、三回目ですね」

 苦笑まじりの真家さんの声に、申し訳なさがつのってきて彼の顔が見られない。

「すっ……すみません。じゃあ、私はこれで」

 彼の顔を見ないまま、さっさと立ち去ろうとする。そんな私の背に真家さんの声がかかった。

「また、お店に伺います」

 咄嗟とっさに振り返ると、真家さんに微笑みかけられる。
 彼が、何を考えてるのかは分からない。
 だから、そんな真家さんになんと声をかければいいか思いつかず、私はただ会釈えしゃくだけして、そそくさとその場を後にしたのだった。


 真家さんの事務所に届け物をしてから一週間が経過した。
 また店に来る、と言った真家さんは、あれから私の前に現れていない。
 ランチタイムを終えて裏で休憩を取っている私の脳裏に、ふとあの日の真家さんの姿が浮かぶ。
 ――真家さん、また来るなんて言ってたけど……
 さすがに三回も断られたら、諦めが悪いという彼でも、顔を合わせづらいのかもしれない。
 私だったら、三回も「ごめんなさい」された相手の前には、顔なんて出せないと思う。気まずくて、できることならもう二度と会いたくない。
 あんな高スペックな人からの交際の申し込みを断るなんて、何様だって感じだけど。タイミングが悪かったんだから仕方がない。
 お客様を一人失ったのは痛いけど、私の生活は彼に会う前に戻るだけだ。
 なんて思っていたら、今現在、最も会いたくない人と会ってしまった。
 元カレの畠村寛はたむらひろしだ。

「薫!」

 仕事を終えた私が店から出てくるのを、裏口で待ち構えていたらしい。
 ――いやいやいや、いくら前に戻るっていったって、これは無理! 本当に無理‼
 はっきり言って、真家さんどころの話じゃない。顔、いや文字に書かれた名前すら見たくない相手だ。なのにそいつは、私が裏口から出た瞬間、眼前に立ち塞がってきた。

「こんなとこまで押しかけてごめんっ……でも、こうでもしないと薫、話聞いてくれないから」

 すがるような表情で詰め寄ってくる寛に、私は素早く周囲を窺う。
 この裏口があるのはビルとビルの間の細い路地。私達以外に人気ひとけがないことにホッとした私は、目の前にいる元カレに向き直った。

「ちょっと……勘弁してよ。なんでこんなところまで来るの? 言っとくけど、私には話すことなんかないから」

 にらみ付けながら冷たい言葉をぶつけると、寛は分かりやすく眉毛を下げて悲しそうな顔をする。

「俺、離れてみてやっと分かったんだよ、お前じゃなきゃだめなんだって。薫がいないと生きていけないんだよ。頼むから、もう一度、俺とのこと考え直してくれないか」
「ふざけないで。あなたが必要としてるのは、私じゃなくて私のお財布じゃないの?」

 あまりの言い分に呆れて、ズバリと言い返す。寛は一瞬、図星を指されたと言わんばかりに言葉に詰まった。

「ち、違うって‼ 薫のことが必要なんだよ‼」
「嘘ばっかり。もう信じられないし、あなたのことなんか一ミリも好きじゃありません。帰ってください」

 今の気持ちをきっぱり伝えた私は、身長だけは無駄にでかい寛の脇をすり抜け、大通りに向かって歩き出す。

「待ってくれよ、本当だって! 本当に、俺にはお前が必要なんだよ」

 後ろから追いかけてくる声に、思わず耳を塞ぎたくなる。
 ようやく別れることができて心底安心していたのに……この人は、なんでまた私の前に現れたりするのだ。
 すっかり忘れていた不安が舞い戻り、胸をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなった。
 ――やだやだ……絶対に過去になんて戻りたくない。
 ふるふると頭を振りながら大通りに足を踏み出すと、思いがけず「薫さん?」と名を呼ばれた。ハッとして声のした方を向くと、真家さんが立っている。
 いつもなら気の重くなる真家さんの登場が、今日に限っては、なんだか地獄で仏に会ったように感じた。

「真家さん!」
「薫さん。よかった、会えて。店に立ち寄ったら、もう帰ったと言われて……おや、お知り合いですか?」

 私が歩いてきた方向から姿を現した寛に、真家さんが気づく。

「知り合いじゃないです、こんな人」
「何言ってんだよ、この前まで付き合ってただろ」

 吐き捨てるように言うと、即座に寛からツッコまれる。
 ――このっ……真家さんの前で、そういうことを言うな――‼
 殺意を込めた視線で寛をにらみ付けると、奴がウッとひるんだ。

「なるほど、元カレ、というやつですか」
「……ええ、まあ……でも、もう関係ないので」
「薫、俺は終わったと思ってな……」

 寛が言いかけた言葉が耳に入らないように、私は「聞こえなーい」と両手で耳を塞いだ。

「おい、聞けって」

 私の態度にごうを煮やした寛が、私の腕を掴もうと手を伸ばしてくる。だけどその手は、真家さんによって阻止された。
 涼しい顔で腕を掴む真家さんに、寛がムッとして食ってかかる。

「なんだあんた、さっきから。俺達の話の邪魔なんだけど」
「失礼。彼女が嫌がっているようだったので。それに、仲裁するのが仕事ですから。……薫さん、この方と話があるのですか?」
「ありません。私の中では、完全に終わっている話ですし」

 ギロリと寛をにらむと、彼の顔がまた悲しげにゆがむ。

「薫、そんな……俺はまだ諦められない。また俺と一緒にやり直さ……」
「いいえ、諦められた方がいいですよ。何しろ、薫さんには新しい相手がいますしね」
「はっ?」

 嘘だろ、という顔をして寛が私を見る。同じく、疑問に思って真家さんを見る私に、彼はにっこりと微笑んだ。

「ね、薫?」

 一瞬、何を言われているのか分からずポカンとする。でもすぐに、真家さんが言わんとしていることを察した。
 ――これはつまり、自分を新しい彼氏ということにしてしまえよ、という……
 ナイスアイデア‼ と真家さんの機転を賞賛する気持ちが二割。
 いや、何言ってんの、とツッコみたい気持ちが二割。
 ふざけんなよ、という怒りが一割。
 残る五割は、「嘘でもいいから今はそれに乗っかりたい」だ。
 そして――やっぱり、五割は強かった。


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