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1巻
1-3
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自分の車ならまだわかるけど、自分の家って。
その表現が可笑しくて、ふふふっ、と声を出して笑ってしまった。
「なんですか家って……さすがに私の部屋でも、ここよりもうちょっと広いですよ?」
社長がちらっと私に視線を送り、また正面に戻す。
「よかった、笑ってくれた。星良さんずっと怖い顔してたから」
「怖い……顔でしたか? そんなに?」
「はい」
――やだ。私ったら、無意識のうちにそんな顔してたのね……気を付けなきゃ。
頬を手で押さえながら反省する。その間、車を駐車場から出した社長は、行き先も告げずに幹線道路を走行し始めた。
「行き先は決まってるんですか?」
「いえ、まだ決めかねているんです。星良さんの好みがわからないので」
「私ならなんでも……なんなら、ドライブスルーでハンバーガーを買って車の中で食べてもいいですし」
私の提案に、社長がクスッとする。
「せっかくだから、ゆったり座って話ができるところにしませんか。多分、星良さんも私に話があるようですし?」
「あ……実は、私がああいう行動を取っていたのには事情があるんです。もしよければそれを聞いていただけたらと」
とりあえずはちゃんと謝った。
社長は気にしていないようだけど、私が失礼な態度をとってしまったことに変わりはない。
そこで、あの日のことは私のお節介な性分のせいでしたことでもあるので、本当に恩に感じる必要はないと、社長に伝えたかった。
「事情ですか……じゃあ、私のことが気持ち悪くて逃げられていたわけではないのですね?」
「そんなことないですって……」
事情が事情なので警戒が先に立ってしまったけど、普通ならこんなイケメン社長に食事に誘われたら、嬉しいだろう。
などと思いはしても口には出さないまま、社長の選んだ店に車で向かった。
意外にも社長が選んだのは町外れの定食屋さんだった。社長が普段行くような店ならこういう店かな、と勝手にいろいろ予想していたのだが、いい意味で予想を裏切られた。
住宅街から離れているせいか駐車場が広く、社長の大きな車も余裕で停められる。
「この店は、すごいんですよ。中に入ったらきっと驚くと思います」
「そうなんですか……?」
外見は普通の定食屋。どちらかというと建物は古く、ご近所の人に愛されている大衆食堂といった雰囲気だ。
車を降りた社長が、慣れた様子でスタスタと店に向かい、暖簾をくぐった。
「こんばんは」
社長に続いて暖簾をくぐると、店の奥から出てきた年配の女性が「若社長、いらっしゃい」と微笑みかけてくる。本当にこの店の常連客らしい。
でも、店の女性は彼の後ろに私がいることに気付くと、大きく目を見開きわかりやすく驚いていた。
「あら。今日はお連れ様がいるの⁉ 珍しいね」
社長が振り返り、私を見た。
「そうなんだ。今日は大事なお客様をお連れしたんだ。私の恩人なんです」
「いっ……⁉ いやいや、そんな大げさな‼」
慌てて否定したけれど、社長はどこ吹く風だ。そのまま店の奥の四人掛けのテーブル席に案内される。
「さ、星良さん。どうぞお好きなところに」
「……ど、どうもありがとうございます……」
こういう場合の上座ってどこ、と拙い記憶を巡らせるが、焦っているせいか思い出せない。しかも、私が座らないと社長も座れないので、ますます焦る。結局、もういいや! と適当に座った。
社長はそれを見届けてから、私の向かいに腰を下ろした。
私の席からは店内がよく見える。広々とした店内には、今は私達の他に二組の客がいる。
ごく普通の食堂に見えるけど、社長の言うすごいというのはなんのことなのか。
「何が……」
すごいんですか? と店内を見回しながら社長に尋ねようとした時、彼の言うところのすごいの意味がわかった。というのは、壁に貼られているメニューの数がすごく多かったからだ。
食堂によくある、定食メニューや丼もの。そしてラーメンなどはもちろんある。しかしその他にも石窯ピザとか、カルボナーラとか、サーロインステーキとか、まさかのバーニャカウダといったメニューまで並んでいた。
「えっ! え⁉ す、すごくないですかここ‼ なんかイタリアンなものまでありますよ⁉」
驚く私を見て、社長がにこにこしている。
「でしょ。私も初めてここに来た時は驚いてね。それに、味もすっごく美味しいんだ。奥さんに聞いたら、ここの旦那さんが定食とかを担当して、イタリアンの料理人だった息子さんが洋食を担当しているらしいんだよ。それでこんな感じに」
社長は相当ここに通い詰めていろいろな情報を得ているらしく、ピザを焼く石窯は息子さんの手作りらしいよ、ということまで教えてくれた。
「じゃ……じゃあ、私、カルボナーラを……」
「私は焼き魚定食をご飯大盛りで」
店の女性に注文をお願いして、いざ社長と向き合うことに。
「食事に付き合ってくれてありがとう。改めて、一方的に待ち伏せみたいなことをしてしまって、申し訳なく思っています。ずっと捜していた星良さんを見つけて、嬉しさのあまり気持ちが先走ってしまいました。怖い思いをさせて申し訳ありませんでした」
社長が深々と頭を下げてきた。
「い、いえ。私も話も聞かずに、逃げてしまってすみませんでした。さっきも言いましたが、ちょっと事情がありまして……」
「その事情というのは?」
「あ、ああ……はい……実は……」
じっと私を見つめてくる社長にどう伝えようか、頭の中で文章を組み立てる。
子どもの頃から変わった感じの異性に好かれやすいこと。過去に何度かトラブルがあったこと、前の会社で押しの強いお客様に一方的に好かれた挙げ句、相手がストーカーのようになって転職したこと。ついでに森作家の持つお人好しなDNAのせいで、祖父と父がトラブルに巻き込まれることが多かったため、子どもの頃から人一倍周囲に気を付けてきたこと。でも、自分もそのお人好しの血をしっかり受け継いでしまっていること。
簡単に説明しようと思っていたのに、そこそこ長くなってしまった。社長はそんな突拍子もない話を相づちを打ちながら真剣に聞いてくれていたが、途中から表情が険しくなっていった。
怒らせてしまったのかと思って、これ以上話すのをためらいそうになる。
――……まずいかも……さすがに社長だって、自分は悪くないのにそんな理由で誘いを断られていたって知ったら、気分悪いよね……
ハラハラしながら社長の言葉を待つ。
「そうでしたか……」
聞き終えた社長が、ため息をつく。そして腕を組んだまま椅子の背に凭れた。
「星良さんの持つお人好しの血のおかげで、私は助けられたということですね……」
クスッと口元を綻ばせながら、社長が流し目を送ってきた。突然の色気にドキリとする。
「そ、そういうことに、なります……」
「でも、お礼に食事くらいは普通じゃないですか? そこまで警戒しなくても」
「いえ。あまりよく知らない異性と二人きり、というのはどうしてもダメなんです」
「私の身元がわかってからもダメだったのですか?」
言いたいことはわかるが、それはそれ、これはこれだ。
「はい……社長に何かされたわけではないのに、失礼な態度だったと反省しています。でも、申し訳ありません」
もう一度頭を下げた。顔を上げると、社長が顎の辺りに手を当ててじっと私を見ていた。
「そうか……なるほどね」
「……? 何がですか?」
一人で何かを納得している様子の社長が気になって、聞いてみる。
「ああ、星良さんの、その、変わった異性に好かれやすいっていうやつ? 寄っていく男性の気持ちがわからないでもないなーと」
社長の口から出た思ってもみない言葉に、思わず問い返してしまう。
「その気持ちというのは、一体どういうものなのでしょうか」
「んー……なんか、星良さんって、そのお人好しなところが全身から滲み出ているような気がするんですよ。あなたならこんな自分を受け入れてくれそうといいますか……。あくまで勘ですけどね。意外と私、そういうのがなんとなくわかるんですよ」
「え。私からそんなものが滲み出てるんですか⁉」
「もちろん目に見えるわけじゃないし、根拠も何もないんですけどね」
社長が私をじっと見つめてくる。その目がさっきよりも鋭くて、なんだか心の中まで覗かれているような気がした。ちょっとだけ怖いと思った。
「実際、あの夜、私も星良さんからそういったものを感じ取ったんです。この人はなんの裏もなく、善意だけで自分に親切にしてくれているってね」
「あの状況でそんなことがわかったんですか……?」
べろべろに酔っ払った状態で、そんなことを考えていたなんて、にわかには信じがたい。
多分、思っていたことが、そのまま顔に出てたんだと思う。嘘だ、とか信じられないなんて一言も言っていないのに、社長が「本当ですって」と念押ししてきた。
「だから善意で私に優しくしてくれた星良さんに、私も本気でお礼がしたかった。普通、あんな状態の私は、完全にヤバい奴と思われて誰も近寄ってなんかきませんし」
「まるで経験があるみたいな言い方ですが……」
「実際あるので。普通は皆さん放置ですよあんなの。声をかけてくれたのは星良さんだけです」
――えっ⁉ そうなの⁉ 私だけなの⁉
しばし頭の中が真っ白になった。
あの状況は確かになかなかインパクトがあった。それは否定しない。でも、声をかけたのが自分だけという事実は地味にショックだった。
「なんで社長は……その、道路で寝ていたんですか?」
質問をぶつけた途端、社長が無言になってしまう。社長の表情もまた、言うなれば無だ。
それを見た瞬間、まずいことを聞いてしまったのかもしれないと後悔した。
「え、あの、立ち入ったことを聞いて、すみません‼ 聞かなかったことにしてください……」
焦ってなかったことにしようとする私に、社長がいやいやと首を横に振って、それを引き留めた。
「そうではないんです。ではなくて……ただ話しにくいことなので。いわば自分の痴態を晒すわけですから」
――痴態。それってどういう……
今度は私が無表情になってしまった。
「そうなるに至った記憶はちゃんとあるんです。まあ、それが原因かな、と……」
どうにも歯切れが悪い。
そんなに言いたくないことなのだろうか。本気で聞かなければよかった。
社長が諦めたようにふー、と息を吐く。
顎の辺りで手を組み、こちらをじっと見つめてくる社長にごくりと息を呑んだ。
「その日、ある女性と食事をしていたんです。ですが、ちょっとしたことでトラブルというか……相手が激高しましてね。その対応に疲れ果てて店を出た途端、多分ですが、電池が切れてしまってそのまま寝たと思われます」
「……え。それは、実際に起きたことなんでしょうか。しゃ、社長の想像とかでは……」
「想像して話すなら、もっといい話にしますよ。今のでもじゅうぶん、人に聞かせられない醜態だと思うのですが」
「確かに」
それは全く、そのとおりだ。
「女性というのはえーと、社長の恋人ですか?」
「いえ、違います。ただの知人です」
そこだけは妙にきっぱりと答えてきた。
「でも、知人の女性がどうしてそこまで激高することに……? 社長が、その女性を怒らせるような何かをしたということでしょうか……?」
こうして話している限り、社長は話し方も穏やかで、こちらの話にもちゃんと耳を傾けてくれる。
そんな風に相手を激高させるとは思えない。
不思議でならなくて社長を見つめていると、彼が困り顔になった。
「……まあ、相手は知人の紹介で何度か食事をしたことのある女性だったんですが、あの日、突然、私の部屋に行きたいと言い出しましてね」
「突然ですか」
社長の目が肯定するように伏せられる。
「私にはその女性と知り合い以上の関係になるつもりはなかったんです。ですので、はっきり断ったついでに、私の正直な気持ちを伝えたところ激高されまして」
「あ、あああ……」
「とはいえ店の中でしたから、どうにか騒ぐ彼女を落ち着かせて、店を出て女性と別れた途端、気が抜けてしまったんです。そこからの記憶がないので、多分そのまま寝てしまったんでしょう」
「……ね、寝ます? 普通あそこで……」
本人が言っているのだから事実なんだろうけれど、どうにも信じられない。私ならどんなに眠くても家までは我慢するけれど。
「私も驚きましたけどね。でも、あの時は合併の件などで連日深夜まで仕事をしていて、極限まで体が疲労していたんですよ。そんな時に、その女性が何度も会ってくれと連絡してくるものだから煩わしくて。どうにか数時間だけ時間を作って、会うのはこれで最後にしてほしいと告げたら、ああいうことになり。心身共に限界で、店の前の植え込みに座ったら……って感じ?」
て感じ? と小さく首を傾げる社長がちょっと可笑しくて、噴き出しそうになった。
「あ、でも、お酒もだいぶ飲まれてましたよね。普段からそんなに飲まれるんですか?」
「いえ。あの夜は酒しか逃げるところがなかったんですよ」
それでもだいぶ飲みすぎてしまいましたけど。と、社長が遠い目をする。釣られて私も遠い目をしていると、注文したものが運ばれてきた。
「私はね星良さん。いろいろな意味で、あの時、あなたに声をかけてもらえて救われたんです。本当に、心から感謝しているんですよ」
「しゃ、社長……」
店員さんにありがとうと言ってから、社長が私を見て微笑んだ。
「じゃ、星良さん。温かいうちにどうぞ」
「はい、じゃあ……いただきます」
手を合わせてから添えられたフォークを持ち、早速パスタを巻き付けた。口に運ぶと、ソースはなめらかでコクがあり、非常に美味しいカルボナーラだった。
「えっ……‼ これ、すごく美味しい……‼」
衝撃を受けている私の前で、料理に手をつけずにこちらを眺めていた社長が、してやったりな顔をしていた。
「ね。美味しさにも衝撃を受けるでしょ。定食も美味しいんですよ。とりわけ味噌汁がすごく美味しいのがツボなんですよね。毎日魚のアラから出汁をとっているらしくて」
嬉しそうに箸を持ち、味噌汁から手をつけた。それから手慣れた様子で魚の腹を箸で押し、綺麗に身をほぐしながら食事を進めていく。
こういう所作からして、社長の育ちの良さが垣間見える。
自分の会社の社長と今、こうして二人で食事しているというのも変な感じだ。だけど、カルボナーラが美味しすぎて、しばし社長が前にいることも忘れて食事に夢中になっていた。美味しいものはやはり温かいうちに食べたい。
「……しかし、私以外にも星良さんの良さに気付く男性がいたんですねえ……これからは気を付けないと」
食事の合間にぼそっと社長が独り言のように何かを呟いた。後半の気を付けないと、というのだけが聞こえてきて、私はそれに反応した。
「何に気を付けるんですか?」
「んー……そうですね、やはり好きなものができたら、それを全力で守るのが私に課せられた使命かな、と」
「好きなもの……趣味とかですか?」
「それもありますね」
なんとなく誤魔化されたような気がしないでもないが、それ以上は深く突っ込んで聞き出したりはしなかった。
二人ともペロリと料理を食べ終え店を出た。食事代は私がお手洗いに行っている間に社長が払ってくれていて、驚いたけれど経済的にはとてもありがたかったし、嬉しかった。
「ごちそうさまでした」
車に乗り込んでからもう一度お礼を言うと、社長は笑顔でどういたしましてと応えた。
「でもお礼をこれで済ませようなんて思ってないですよ。何か欲しいものがあれば遠慮なくどうぞ」
正直、これでもうお礼は終わりだと思っていた。欲しいものなんて問われても困る。
「いえあの、何もいらないですから。お礼は今日の食事だけでじゅうぶんですよ」
「それじゃ私の気が済まないんですよね。期限は設けませんから、何か欲しいものが浮かんだら教えてくれませんか? これが私の連絡先です」
社長が自分の名刺を私に差し出した。
「そ……そんなこと言われても困ります……お礼はじゅうぶんしていただきましたから、もう私のところには来ないでください。お忙しいでしょうし、時間があったら体を休めていただいた方が、私も嬉しいです」
必死でそう言い募る。でも、社長には響かなかったらしい。
「そうはいきません。あなたの元へ行くのはたいしたことじゃないですし、気にしなくて大丈夫です」
――いやいやいや、全然大丈夫じゃないよ……気にするから!
「いやでも、私、転職したばかりで! それなのに、社長と一緒にいて、もし噂とかになったら、困るんです。それじゃなくても社長は目立つし……本当に、気持ちだけでいいので‼」
「じゃあ、目立つことはしないので、あなたの連絡先を教えてもらってもいいですか?」
ダメだ。この人に何を言っても口で勝てる気がしない。それに、ここでかたくなに拒否して状況が悪化したらそれはそれで困る。
――仕方ない……
心の中で盛大なため息をつきながら、社長に連絡先を教えた。彼はスマホに私の番号を登録すると、満足そうに微笑む。
「とりあえずもう遅いので、ご自宅まで送ります。どの辺りに住んでいるのか、場所を教えてくれませんか」
「……はい」
アパートの場所を聞かれているわけではないので、住んでいる町の名前を伝えた。社長はナビに入力するでもなく、わかりました、とだけ言って車を発進させた。
「ところで、星良さん。星良さんは今、お付き合いしている男性はいらっしゃらないのですよね?」
「え、ええ……。あれ? 私、社長にそういったことを話しましたっけ?」
変な感じの異性に好かれるとは話したけれど、恋愛に関しては何も話していないはず。
聞き返したら、社長の口元がふっ、と緩む。
「いえ、星良さんは何も話していませんよ。だから今のは誘導尋問みたいなものです。上手くいきました」
「えっ!」
「ははっ。すみません。でも、優しい星良さんのことだから、きっとお付き合いしている人がいたら、私と二人で食事になんか行ってくれないはずです。なので、多分いないのだろうと予想していたんですよ」
社長の予想は当たっている。もし、誰かとお付き合いをしていたら、他の男性と二人でどこかへ行くなど考えられない。好きな人には誠実でありたいと思うので。
――しかし、まだ知り合って日も浅いのに、私のことよく見てるわね……
もしかしたら、そんな風に人をよく見る力を持っていることが、社長の地位に就く人には必要な資質なのかもしれない。自分には縁のないことなのでさっぱりわからないが、多分私より人を見る目に優れているのは確かなはず。
隣でハンドルを握っている人は、やっぱりすごい人なのだ。
横目で社長を気にしていると、ふと後部座席が目に入った。この車に乗せてもらってから結構時間が経っているが、その時初めて後部座席にあるものを見た。
ビジネスバッグやノートパソコンが置いてあるのはわかる。しかし、後部座席のヘッドレストにハンガーにかかったスーツのジャケットがかかっていたり、低反発枕のようなものと厚手の毛布が置いてあって、心の中で首を傾げた。
――なんで……毛布……?
よく女性がオフィスで膝掛けを使用するが、そういう使い方をするにはこの毛布は大きすぎるし、厚みがありすぎる。普通に寝る時に使う毛布だと思う。
「あの、社長」
無意識のうちに社長に声をかけていた。
「はい」
「もしかして、車の中で寝たりするんですか?」
「はい」
あ、なーんだ。やっぱりね。と納得しかけた。でも、待って。社長が車の中で寝るってどういう状況? と我に返る。
「……なんで……寝る……?」
恐る恐る尋ねてみた。しかし、社長の表情は何も変わらない。
「ほら、今流行ってるでしょう? 車中泊」
「あー……なるほど。オートキャンプですね。もしかしてソロキャンプ派ですか?」
「ううん。キャンプはしない。ただ寝てるだけ」
社長の言葉にポカンとする。
――ただ寝るだけってどういうこと……? 仮眠をとるとか……? でも、それにしては後部座席にある他のものが気になる。大きな紙袋が二つあるけれど、一体何が入っているのか。
私の中に一つの答えが出た。もしそのとおりならこの状態にも納得がいくのだが、若干信じたくないという気持ちもある。
でも、ここまできたらもう聞くしかない。私は運転中の社長の横顔を見つめた。
「あの。もしかして、社長ってこの車で生活してます?」
そんなバカな。あり得ないから。という気持ちで社長を見る。でも、私の気持ちとは裏腹に、社長の表情が少し緩んだ。
「うん。してる」
すんなり肯定されてしまい、驚きのあまり口がぱかんと開いてしまった。
――ああああああああやっぱり‼
まさか。社長なんだしそんなことはないだろう、と思っていたのに、なんで⁉
「ちょっ……ちょっと待ってください‼ 社長、家は⁉ 家はどこですか⁉」
もしや家が遠くて、帰るのが面倒だからだったり? と想像したのだが、現実は全く違った。
「実家のこと? もちろんあるよ。会長である父と、母が住んでる」
「そんなことはわかってるんですよ! そうじゃなくて、社長の家はどこかって聞いてるんです!」
思わず興奮してしまい、社長に対する話し方ではなくなってしまった。でも、今はそれより社長の家問題の方が気になって仕方がない。
さすがにこれまで冷静だった社長も、私の剣幕に驚いたようだった。さっきより瞬きの回数が多い。
「え……? 家は……ないです。この車が私の家みたいなもので」
――家が、ない⁉
「嘘……ですよね?」
「嘘じゃないです。基本的にここで寝て、朝になったら着替えて出社します」
「え…………あの、じゃあ……お風呂とかは……」
「週に何度かジムに行くので、そこで入ったり、あとはサウナで済ませたりですかね。あ、温泉施設にもよく行きますよ」
――ちょっと待って。本当にこの人、車で暮らしてるの⁉ 社長だよ⁉
「……っ、車の中で寝たら、疲れがとれないのでは……」
「うーん、でも、後部座席はフルフラットになるので、そこまで寝心地は悪くないというか……今時の車は本当によくできているので」
その表現が可笑しくて、ふふふっ、と声を出して笑ってしまった。
「なんですか家って……さすがに私の部屋でも、ここよりもうちょっと広いですよ?」
社長がちらっと私に視線を送り、また正面に戻す。
「よかった、笑ってくれた。星良さんずっと怖い顔してたから」
「怖い……顔でしたか? そんなに?」
「はい」
――やだ。私ったら、無意識のうちにそんな顔してたのね……気を付けなきゃ。
頬を手で押さえながら反省する。その間、車を駐車場から出した社長は、行き先も告げずに幹線道路を走行し始めた。
「行き先は決まってるんですか?」
「いえ、まだ決めかねているんです。星良さんの好みがわからないので」
「私ならなんでも……なんなら、ドライブスルーでハンバーガーを買って車の中で食べてもいいですし」
私の提案に、社長がクスッとする。
「せっかくだから、ゆったり座って話ができるところにしませんか。多分、星良さんも私に話があるようですし?」
「あ……実は、私がああいう行動を取っていたのには事情があるんです。もしよければそれを聞いていただけたらと」
とりあえずはちゃんと謝った。
社長は気にしていないようだけど、私が失礼な態度をとってしまったことに変わりはない。
そこで、あの日のことは私のお節介な性分のせいでしたことでもあるので、本当に恩に感じる必要はないと、社長に伝えたかった。
「事情ですか……じゃあ、私のことが気持ち悪くて逃げられていたわけではないのですね?」
「そんなことないですって……」
事情が事情なので警戒が先に立ってしまったけど、普通ならこんなイケメン社長に食事に誘われたら、嬉しいだろう。
などと思いはしても口には出さないまま、社長の選んだ店に車で向かった。
意外にも社長が選んだのは町外れの定食屋さんだった。社長が普段行くような店ならこういう店かな、と勝手にいろいろ予想していたのだが、いい意味で予想を裏切られた。
住宅街から離れているせいか駐車場が広く、社長の大きな車も余裕で停められる。
「この店は、すごいんですよ。中に入ったらきっと驚くと思います」
「そうなんですか……?」
外見は普通の定食屋。どちらかというと建物は古く、ご近所の人に愛されている大衆食堂といった雰囲気だ。
車を降りた社長が、慣れた様子でスタスタと店に向かい、暖簾をくぐった。
「こんばんは」
社長に続いて暖簾をくぐると、店の奥から出てきた年配の女性が「若社長、いらっしゃい」と微笑みかけてくる。本当にこの店の常連客らしい。
でも、店の女性は彼の後ろに私がいることに気付くと、大きく目を見開きわかりやすく驚いていた。
「あら。今日はお連れ様がいるの⁉ 珍しいね」
社長が振り返り、私を見た。
「そうなんだ。今日は大事なお客様をお連れしたんだ。私の恩人なんです」
「いっ……⁉ いやいや、そんな大げさな‼」
慌てて否定したけれど、社長はどこ吹く風だ。そのまま店の奥の四人掛けのテーブル席に案内される。
「さ、星良さん。どうぞお好きなところに」
「……ど、どうもありがとうございます……」
こういう場合の上座ってどこ、と拙い記憶を巡らせるが、焦っているせいか思い出せない。しかも、私が座らないと社長も座れないので、ますます焦る。結局、もういいや! と適当に座った。
社長はそれを見届けてから、私の向かいに腰を下ろした。
私の席からは店内がよく見える。広々とした店内には、今は私達の他に二組の客がいる。
ごく普通の食堂に見えるけど、社長の言うすごいというのはなんのことなのか。
「何が……」
すごいんですか? と店内を見回しながら社長に尋ねようとした時、彼の言うところのすごいの意味がわかった。というのは、壁に貼られているメニューの数がすごく多かったからだ。
食堂によくある、定食メニューや丼もの。そしてラーメンなどはもちろんある。しかしその他にも石窯ピザとか、カルボナーラとか、サーロインステーキとか、まさかのバーニャカウダといったメニューまで並んでいた。
「えっ! え⁉ す、すごくないですかここ‼ なんかイタリアンなものまでありますよ⁉」
驚く私を見て、社長がにこにこしている。
「でしょ。私も初めてここに来た時は驚いてね。それに、味もすっごく美味しいんだ。奥さんに聞いたら、ここの旦那さんが定食とかを担当して、イタリアンの料理人だった息子さんが洋食を担当しているらしいんだよ。それでこんな感じに」
社長は相当ここに通い詰めていろいろな情報を得ているらしく、ピザを焼く石窯は息子さんの手作りらしいよ、ということまで教えてくれた。
「じゃ……じゃあ、私、カルボナーラを……」
「私は焼き魚定食をご飯大盛りで」
店の女性に注文をお願いして、いざ社長と向き合うことに。
「食事に付き合ってくれてありがとう。改めて、一方的に待ち伏せみたいなことをしてしまって、申し訳なく思っています。ずっと捜していた星良さんを見つけて、嬉しさのあまり気持ちが先走ってしまいました。怖い思いをさせて申し訳ありませんでした」
社長が深々と頭を下げてきた。
「い、いえ。私も話も聞かずに、逃げてしまってすみませんでした。さっきも言いましたが、ちょっと事情がありまして……」
「その事情というのは?」
「あ、ああ……はい……実は……」
じっと私を見つめてくる社長にどう伝えようか、頭の中で文章を組み立てる。
子どもの頃から変わった感じの異性に好かれやすいこと。過去に何度かトラブルがあったこと、前の会社で押しの強いお客様に一方的に好かれた挙げ句、相手がストーカーのようになって転職したこと。ついでに森作家の持つお人好しなDNAのせいで、祖父と父がトラブルに巻き込まれることが多かったため、子どもの頃から人一倍周囲に気を付けてきたこと。でも、自分もそのお人好しの血をしっかり受け継いでしまっていること。
簡単に説明しようと思っていたのに、そこそこ長くなってしまった。社長はそんな突拍子もない話を相づちを打ちながら真剣に聞いてくれていたが、途中から表情が険しくなっていった。
怒らせてしまったのかと思って、これ以上話すのをためらいそうになる。
――……まずいかも……さすがに社長だって、自分は悪くないのにそんな理由で誘いを断られていたって知ったら、気分悪いよね……
ハラハラしながら社長の言葉を待つ。
「そうでしたか……」
聞き終えた社長が、ため息をつく。そして腕を組んだまま椅子の背に凭れた。
「星良さんの持つお人好しの血のおかげで、私は助けられたということですね……」
クスッと口元を綻ばせながら、社長が流し目を送ってきた。突然の色気にドキリとする。
「そ、そういうことに、なります……」
「でも、お礼に食事くらいは普通じゃないですか? そこまで警戒しなくても」
「いえ。あまりよく知らない異性と二人きり、というのはどうしてもダメなんです」
「私の身元がわかってからもダメだったのですか?」
言いたいことはわかるが、それはそれ、これはこれだ。
「はい……社長に何かされたわけではないのに、失礼な態度だったと反省しています。でも、申し訳ありません」
もう一度頭を下げた。顔を上げると、社長が顎の辺りに手を当ててじっと私を見ていた。
「そうか……なるほどね」
「……? 何がですか?」
一人で何かを納得している様子の社長が気になって、聞いてみる。
「ああ、星良さんの、その、変わった異性に好かれやすいっていうやつ? 寄っていく男性の気持ちがわからないでもないなーと」
社長の口から出た思ってもみない言葉に、思わず問い返してしまう。
「その気持ちというのは、一体どういうものなのでしょうか」
「んー……なんか、星良さんって、そのお人好しなところが全身から滲み出ているような気がするんですよ。あなたならこんな自分を受け入れてくれそうといいますか……。あくまで勘ですけどね。意外と私、そういうのがなんとなくわかるんですよ」
「え。私からそんなものが滲み出てるんですか⁉」
「もちろん目に見えるわけじゃないし、根拠も何もないんですけどね」
社長が私をじっと見つめてくる。その目がさっきよりも鋭くて、なんだか心の中まで覗かれているような気がした。ちょっとだけ怖いと思った。
「実際、あの夜、私も星良さんからそういったものを感じ取ったんです。この人はなんの裏もなく、善意だけで自分に親切にしてくれているってね」
「あの状況でそんなことがわかったんですか……?」
べろべろに酔っ払った状態で、そんなことを考えていたなんて、にわかには信じがたい。
多分、思っていたことが、そのまま顔に出てたんだと思う。嘘だ、とか信じられないなんて一言も言っていないのに、社長が「本当ですって」と念押ししてきた。
「だから善意で私に優しくしてくれた星良さんに、私も本気でお礼がしたかった。普通、あんな状態の私は、完全にヤバい奴と思われて誰も近寄ってなんかきませんし」
「まるで経験があるみたいな言い方ですが……」
「実際あるので。普通は皆さん放置ですよあんなの。声をかけてくれたのは星良さんだけです」
――えっ⁉ そうなの⁉ 私だけなの⁉
しばし頭の中が真っ白になった。
あの状況は確かになかなかインパクトがあった。それは否定しない。でも、声をかけたのが自分だけという事実は地味にショックだった。
「なんで社長は……その、道路で寝ていたんですか?」
質問をぶつけた途端、社長が無言になってしまう。社長の表情もまた、言うなれば無だ。
それを見た瞬間、まずいことを聞いてしまったのかもしれないと後悔した。
「え、あの、立ち入ったことを聞いて、すみません‼ 聞かなかったことにしてください……」
焦ってなかったことにしようとする私に、社長がいやいやと首を横に振って、それを引き留めた。
「そうではないんです。ではなくて……ただ話しにくいことなので。いわば自分の痴態を晒すわけですから」
――痴態。それってどういう……
今度は私が無表情になってしまった。
「そうなるに至った記憶はちゃんとあるんです。まあ、それが原因かな、と……」
どうにも歯切れが悪い。
そんなに言いたくないことなのだろうか。本気で聞かなければよかった。
社長が諦めたようにふー、と息を吐く。
顎の辺りで手を組み、こちらをじっと見つめてくる社長にごくりと息を呑んだ。
「その日、ある女性と食事をしていたんです。ですが、ちょっとしたことでトラブルというか……相手が激高しましてね。その対応に疲れ果てて店を出た途端、多分ですが、電池が切れてしまってそのまま寝たと思われます」
「……え。それは、実際に起きたことなんでしょうか。しゃ、社長の想像とかでは……」
「想像して話すなら、もっといい話にしますよ。今のでもじゅうぶん、人に聞かせられない醜態だと思うのですが」
「確かに」
それは全く、そのとおりだ。
「女性というのはえーと、社長の恋人ですか?」
「いえ、違います。ただの知人です」
そこだけは妙にきっぱりと答えてきた。
「でも、知人の女性がどうしてそこまで激高することに……? 社長が、その女性を怒らせるような何かをしたということでしょうか……?」
こうして話している限り、社長は話し方も穏やかで、こちらの話にもちゃんと耳を傾けてくれる。
そんな風に相手を激高させるとは思えない。
不思議でならなくて社長を見つめていると、彼が困り顔になった。
「……まあ、相手は知人の紹介で何度か食事をしたことのある女性だったんですが、あの日、突然、私の部屋に行きたいと言い出しましてね」
「突然ですか」
社長の目が肯定するように伏せられる。
「私にはその女性と知り合い以上の関係になるつもりはなかったんです。ですので、はっきり断ったついでに、私の正直な気持ちを伝えたところ激高されまして」
「あ、あああ……」
「とはいえ店の中でしたから、どうにか騒ぐ彼女を落ち着かせて、店を出て女性と別れた途端、気が抜けてしまったんです。そこからの記憶がないので、多分そのまま寝てしまったんでしょう」
「……ね、寝ます? 普通あそこで……」
本人が言っているのだから事実なんだろうけれど、どうにも信じられない。私ならどんなに眠くても家までは我慢するけれど。
「私も驚きましたけどね。でも、あの時は合併の件などで連日深夜まで仕事をしていて、極限まで体が疲労していたんですよ。そんな時に、その女性が何度も会ってくれと連絡してくるものだから煩わしくて。どうにか数時間だけ時間を作って、会うのはこれで最後にしてほしいと告げたら、ああいうことになり。心身共に限界で、店の前の植え込みに座ったら……って感じ?」
て感じ? と小さく首を傾げる社長がちょっと可笑しくて、噴き出しそうになった。
「あ、でも、お酒もだいぶ飲まれてましたよね。普段からそんなに飲まれるんですか?」
「いえ。あの夜は酒しか逃げるところがなかったんですよ」
それでもだいぶ飲みすぎてしまいましたけど。と、社長が遠い目をする。釣られて私も遠い目をしていると、注文したものが運ばれてきた。
「私はね星良さん。いろいろな意味で、あの時、あなたに声をかけてもらえて救われたんです。本当に、心から感謝しているんですよ」
「しゃ、社長……」
店員さんにありがとうと言ってから、社長が私を見て微笑んだ。
「じゃ、星良さん。温かいうちにどうぞ」
「はい、じゃあ……いただきます」
手を合わせてから添えられたフォークを持ち、早速パスタを巻き付けた。口に運ぶと、ソースはなめらかでコクがあり、非常に美味しいカルボナーラだった。
「えっ……‼ これ、すごく美味しい……‼」
衝撃を受けている私の前で、料理に手をつけずにこちらを眺めていた社長が、してやったりな顔をしていた。
「ね。美味しさにも衝撃を受けるでしょ。定食も美味しいんですよ。とりわけ味噌汁がすごく美味しいのがツボなんですよね。毎日魚のアラから出汁をとっているらしくて」
嬉しそうに箸を持ち、味噌汁から手をつけた。それから手慣れた様子で魚の腹を箸で押し、綺麗に身をほぐしながら食事を進めていく。
こういう所作からして、社長の育ちの良さが垣間見える。
自分の会社の社長と今、こうして二人で食事しているというのも変な感じだ。だけど、カルボナーラが美味しすぎて、しばし社長が前にいることも忘れて食事に夢中になっていた。美味しいものはやはり温かいうちに食べたい。
「……しかし、私以外にも星良さんの良さに気付く男性がいたんですねえ……これからは気を付けないと」
食事の合間にぼそっと社長が独り言のように何かを呟いた。後半の気を付けないと、というのだけが聞こえてきて、私はそれに反応した。
「何に気を付けるんですか?」
「んー……そうですね、やはり好きなものができたら、それを全力で守るのが私に課せられた使命かな、と」
「好きなもの……趣味とかですか?」
「それもありますね」
なんとなく誤魔化されたような気がしないでもないが、それ以上は深く突っ込んで聞き出したりはしなかった。
二人ともペロリと料理を食べ終え店を出た。食事代は私がお手洗いに行っている間に社長が払ってくれていて、驚いたけれど経済的にはとてもありがたかったし、嬉しかった。
「ごちそうさまでした」
車に乗り込んでからもう一度お礼を言うと、社長は笑顔でどういたしましてと応えた。
「でもお礼をこれで済ませようなんて思ってないですよ。何か欲しいものがあれば遠慮なくどうぞ」
正直、これでもうお礼は終わりだと思っていた。欲しいものなんて問われても困る。
「いえあの、何もいらないですから。お礼は今日の食事だけでじゅうぶんですよ」
「それじゃ私の気が済まないんですよね。期限は設けませんから、何か欲しいものが浮かんだら教えてくれませんか? これが私の連絡先です」
社長が自分の名刺を私に差し出した。
「そ……そんなこと言われても困ります……お礼はじゅうぶんしていただきましたから、もう私のところには来ないでください。お忙しいでしょうし、時間があったら体を休めていただいた方が、私も嬉しいです」
必死でそう言い募る。でも、社長には響かなかったらしい。
「そうはいきません。あなたの元へ行くのはたいしたことじゃないですし、気にしなくて大丈夫です」
――いやいやいや、全然大丈夫じゃないよ……気にするから!
「いやでも、私、転職したばかりで! それなのに、社長と一緒にいて、もし噂とかになったら、困るんです。それじゃなくても社長は目立つし……本当に、気持ちだけでいいので‼」
「じゃあ、目立つことはしないので、あなたの連絡先を教えてもらってもいいですか?」
ダメだ。この人に何を言っても口で勝てる気がしない。それに、ここでかたくなに拒否して状況が悪化したらそれはそれで困る。
――仕方ない……
心の中で盛大なため息をつきながら、社長に連絡先を教えた。彼はスマホに私の番号を登録すると、満足そうに微笑む。
「とりあえずもう遅いので、ご自宅まで送ります。どの辺りに住んでいるのか、場所を教えてくれませんか」
「……はい」
アパートの場所を聞かれているわけではないので、住んでいる町の名前を伝えた。社長はナビに入力するでもなく、わかりました、とだけ言って車を発進させた。
「ところで、星良さん。星良さんは今、お付き合いしている男性はいらっしゃらないのですよね?」
「え、ええ……。あれ? 私、社長にそういったことを話しましたっけ?」
変な感じの異性に好かれるとは話したけれど、恋愛に関しては何も話していないはず。
聞き返したら、社長の口元がふっ、と緩む。
「いえ、星良さんは何も話していませんよ。だから今のは誘導尋問みたいなものです。上手くいきました」
「えっ!」
「ははっ。すみません。でも、優しい星良さんのことだから、きっとお付き合いしている人がいたら、私と二人で食事になんか行ってくれないはずです。なので、多分いないのだろうと予想していたんですよ」
社長の予想は当たっている。もし、誰かとお付き合いをしていたら、他の男性と二人でどこかへ行くなど考えられない。好きな人には誠実でありたいと思うので。
――しかし、まだ知り合って日も浅いのに、私のことよく見てるわね……
もしかしたら、そんな風に人をよく見る力を持っていることが、社長の地位に就く人には必要な資質なのかもしれない。自分には縁のないことなのでさっぱりわからないが、多分私より人を見る目に優れているのは確かなはず。
隣でハンドルを握っている人は、やっぱりすごい人なのだ。
横目で社長を気にしていると、ふと後部座席が目に入った。この車に乗せてもらってから結構時間が経っているが、その時初めて後部座席にあるものを見た。
ビジネスバッグやノートパソコンが置いてあるのはわかる。しかし、後部座席のヘッドレストにハンガーにかかったスーツのジャケットがかかっていたり、低反発枕のようなものと厚手の毛布が置いてあって、心の中で首を傾げた。
――なんで……毛布……?
よく女性がオフィスで膝掛けを使用するが、そういう使い方をするにはこの毛布は大きすぎるし、厚みがありすぎる。普通に寝る時に使う毛布だと思う。
「あの、社長」
無意識のうちに社長に声をかけていた。
「はい」
「もしかして、車の中で寝たりするんですか?」
「はい」
あ、なーんだ。やっぱりね。と納得しかけた。でも、待って。社長が車の中で寝るってどういう状況? と我に返る。
「……なんで……寝る……?」
恐る恐る尋ねてみた。しかし、社長の表情は何も変わらない。
「ほら、今流行ってるでしょう? 車中泊」
「あー……なるほど。オートキャンプですね。もしかしてソロキャンプ派ですか?」
「ううん。キャンプはしない。ただ寝てるだけ」
社長の言葉にポカンとする。
――ただ寝るだけってどういうこと……? 仮眠をとるとか……? でも、それにしては後部座席にある他のものが気になる。大きな紙袋が二つあるけれど、一体何が入っているのか。
私の中に一つの答えが出た。もしそのとおりならこの状態にも納得がいくのだが、若干信じたくないという気持ちもある。
でも、ここまできたらもう聞くしかない。私は運転中の社長の横顔を見つめた。
「あの。もしかして、社長ってこの車で生活してます?」
そんなバカな。あり得ないから。という気持ちで社長を見る。でも、私の気持ちとは裏腹に、社長の表情が少し緩んだ。
「うん。してる」
すんなり肯定されてしまい、驚きのあまり口がぱかんと開いてしまった。
――ああああああああやっぱり‼
まさか。社長なんだしそんなことはないだろう、と思っていたのに、なんで⁉
「ちょっ……ちょっと待ってください‼ 社長、家は⁉ 家はどこですか⁉」
もしや家が遠くて、帰るのが面倒だからだったり? と想像したのだが、現実は全く違った。
「実家のこと? もちろんあるよ。会長である父と、母が住んでる」
「そんなことはわかってるんですよ! そうじゃなくて、社長の家はどこかって聞いてるんです!」
思わず興奮してしまい、社長に対する話し方ではなくなってしまった。でも、今はそれより社長の家問題の方が気になって仕方がない。
さすがにこれまで冷静だった社長も、私の剣幕に驚いたようだった。さっきより瞬きの回数が多い。
「え……? 家は……ないです。この車が私の家みたいなもので」
――家が、ない⁉
「嘘……ですよね?」
「嘘じゃないです。基本的にここで寝て、朝になったら着替えて出社します」
「え…………あの、じゃあ……お風呂とかは……」
「週に何度かジムに行くので、そこで入ったり、あとはサウナで済ませたりですかね。あ、温泉施設にもよく行きますよ」
――ちょっと待って。本当にこの人、車で暮らしてるの⁉ 社長だよ⁉
「……っ、車の中で寝たら、疲れがとれないのでは……」
「うーん、でも、後部座席はフルフラットになるので、そこまで寝心地は悪くないというか……今時の車は本当によくできているので」
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