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第三部「回天」第2話
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吉原美優が兄の優作を亡くしたのは三才の時だった。
優作────五才。
先天性の血友病の症状が分かったのは二才の時。それからはほとんど病院のベッドの上での生活。体内の出血に幼い体が耐えられないままに亡くなる。
一般的な子供としての生活はもちろんなかった。
二才年下の美優にとっては、残念ながら兄の記憶はほとんど無い。朧げなものだけ。
小学校に入る頃に両親の憲一と優子から説明を受け、やっと仏壇の写真の意味を知った。
死因となった血友病のことを理解出来たのは高校を卒業して社会人になった頃。父方の親族に過去に血友病で亡くなった者が数人いることを知る。
「……お前もいつかは誰かと結婚して子供が出来るだろう…………」
いつもの夕食の席で、父の憲一は優子と目配せをしてから話し始めた。
「お前のお兄さんのことだ…………血友病だったって話は前にしたと思うが……あれは遺伝性がある病気なんだ。とは言っても滅多に出るものではないらしい。実はお父さんの家系に何人かいてな…………お父さんは大丈夫だったし、お前も問題ない…………でも、お前の未来の子供に無いとは言えない。脅すわけじゃないけど…………記憶のどこかには覚えておいてくれ…………」
父のその時の表情を、その先も美優は忘れたことはない。
もちろん父に責任が無いことは分かっている。例え責任があったとしても、むしろ自分の息子をその病気で亡くしている時点で充分だと美優には思えた。
社会人になってすぐ、両親を安心させたい感情もあって美優は病院で検査を受けた。結果、美優にその兆候は見られなかったが、血友病には後天性のものもある。社会人になってこれから家庭を持つに当たって、一応、覚悟だけはした。
地元のスーパーマーケットを数店舗経営する会社の事務員として働いていた美優は、二一才の時に結婚して専業主婦となった。夫は同じ会社で働いていた男性。兄と同じ二才年上。無意識の内に記憶の中で作り上げていた兄の面影を重ねていたのかもしれない。
美優に他に兄妹がいないことから婿養子になることも夫から提案されたが、夫も一人息子。娘への負い目もあったのか、憲一と優子は美優が嫁に行くことに反対はしなかった。
そして夫の実家は何代も前からのキリスト教徒。強制されたわけではなかったが、美優は迷わず改宗を決める。両親も反対はしなかった。決して怪しげな新興宗教でもない。元々多くの日本人と同じように、それほど深く宗教というものを考えたことがない。
子供が産まれたのは二三才の時。男の子だった。
そしてすぐに、血友病が発覚する。先天性のものだった。
そのまま二才の誕生日の直前に亡くなる。
悲しむ間も無いままに、夫の両親から責められる毎日が始まった。
「遺伝の可能性があるのを隠していたのね…………葬儀の時にご両親から頭を下げられたわ」
義理の母からのその言葉は、美優に絶望感を与えるには充分なものだった。
意図して隠していたわけではなかったが、美優は専門的な知識まで持ち合わせていたわけではない。自分にその兆候が見られない中で、自分の子供に先天性のものが現れる可能性はゼロに近いと思い込んでいた。ゼロではないというだけだと思っていた。
そして、最初は美優のことを庇ってくれていた夫にも責められ始める。もしかしたら、美優はしだいに精神的におかしくなっていたのかもしれない。この頃の記憶がほとんどないくらいだ。夫だって精神的にはキツかったはずだ。そんな状態の生活に疲れた結果だったのだろう。子供を亡くして悲しんでいたのは美優だけではない。
しかしその時の美優に、そう考えられる精神的な余裕はない。
美優が離婚をして実家に戻ったのは二六才の時。
そして美優は、しばらく実家に籠り続けた。
両親は美優を優しく受け入れる。その優しさだけは、美優は理解することが出来た。
それでもやはり、すでに美優の中で何かが変わっていた。両親から見ても、嫁に行く前とはまるで別人のように違うその印象に悲しさが込み上げる日々。
両親は娘に対して負い目を感じ、娘は両親に頭を下げ続けた。
いつの頃からだろう。
家の中には暗さしかなかった。
その暗さが呼んだのか、美優はしだいに、落ちていく。
☆
杏奈と西沙は出版社の近くのファミレスに場所を移動した。
確かにちょうどお昼過ぎ。店内は平日とはいえ、ほとんどの席が埋まっていた。
そして杏奈は、西沙の注文した料理の量に驚く。
西沙は身長が低いだけでなく華奢な体つき。とても大食いには見えない。二人分とはいえ、ピザを二つ、サラダは大盛り、パスタは三種類。ドリンクバーの影が霞むほど。
「こんなに食べられるんですか⁉︎」
すでに食べ始めていた西沙に杏奈が声を掛けるが、すぐに西沙は返した。
「わざわざこんな遠くまで来たんだからいいじゃん。旅行気分でさ」
「ファミレスですけど…………」
「まだ一九だから未成年だし、おしゃれなお店って落ち着かないんだよね」
「未成年⁉︎」
「仕事はちゃんとしてるよ」
西沙はおしぼりで指の脂を拭き取ると、ポケットから名刺を取り出し、それを杏奈に手渡した。
杏奈はそれを見ながら返す。
「心霊相談所⁉︎ でも…………御陵院さんの娘なら…………神社じゃないんですか?」
「姉二人は継ぐみたいだよ。どっちかは嫁に行くかもしれないけど。私は居場所無いし」
神社の巫女は世襲制の世界。そのくらいは杏奈も知っていた。アルバイトとは違う。外の人間が就職出来るものでもない。
「まあ、色々とあってさ…………養子じゃないけど身元引受人が別にいるし…………それより、あの病院の一件でしょ? お母さんが絡んでることは私も知ってるし、色々と協力出来ると思うよ」
「協力って言っても…………」
「お母さんの血を引いた三姉妹の中で一番の能力者は私…………それでも心霊相談なんてなかなか仕事が無くてさ…………あなたもフリーになったばかりなんでしょ? 一緒に顔売るチャンスじゃん」
──……フリーになったばかりなんて昨日は…………
「なんで知ってるか知りたい?」
──………………あれ?
「知ってるんじゃなくて────分かるの……空腹じゃ力弱まるんだよねえ。大体はあなたの過去も分かったけど、説明する必要はないよね。とりあえず、その隣のカメラバッグは大事にしなさい。大事な物なんでしょ?」
──…………何者…………
「問題の中心に入り込みたいんでしょ? 真実を知りたかったら協力してあげる。私も大体の話は掴んでるよ。そしてテレビは教団を悪者にしたがってる…………何か変…………」
西沙はピンクのバッグから取り出したポケットタイプのウェットティッシュで口を吹いた。真っ赤な口紅があまり落ちていないことから、安物でないことは杏奈でも分かった。日頃杏奈が持ち歩いているような安い口紅とは違うようだ。もっとも杏奈はその安物ですら着けることは少ない。
その西沙が、目付きを変えて続けた。
「確信部分は代表を突いても出てこないよ。別の人たち。お金はいらない……私は顔を売れたらそれでいいし…………それとも怪しい霊能力者は信用出来ない?」
西沙はそう言ってわずかに頭を傾ける。
幼くも、それでいて総てを見通すその目に、杏奈は辿々しく返すだけ。
「────そういうわけじゃ…………」
「……ま、これから色々と仲良くすることになるみたいだしさ……」
☆
雑誌社のある場所まで、西沙は電車とバスを乗り継いで片道二時間掛けて杏奈を訪ねて来たという。乗り継ぎの時間を考えると妥当な時間だろう。車なら長くても一時間というところだろうか。
西沙は杏奈を自分の事務所に案内した。
注文した料理の多さのためか、それともファミレスを出るのが遅くなったためか、すでに陽の傾きを感じ始める時間。
「いつもなら事務の子がいるんだけど…………今日はもう退社時間過ぎちゃったしね。まあ座ってよ。運転疲れたでしょ」
その感謝の気持ちの表れか、ファミレスは杏奈が支払って領収書をもらったが、下の階のコンビニは西沙が支払っていた。
杏奈は装飾の激しい丸いカフェテーブルを挟んで西沙の向かいのソファーに腰を下ろすと、そこで初めて体が疲れている自分に気が付いた。
西沙はコンビニのレジ袋の中身をテーブルに広げる。お惣菜のパックを給湯室の電子レンジまで運びながら話を続けた。
「二人いるよ」
「二人……?」
「中心になる人物が二人ってこと。例の〝悪魔祓い〟の犠牲者って言われてる人の孫娘と…………もう一人は元職員…………介護士っていうの? そういう人」
「……どうして分かるんですか?」
杏奈がそう聞き返すと、西沙は温めたパックの両端を両手の指で摘んだまま小走りにテーブルまで戻りつつ応える。
「怪しげな呪文でも唱えて〝見る〟と思った? あんなことやってるのは嘘つきな奴らだけ」
「…………そう……なんですか?」
正直、杏奈はそういったことに詳しいわけではない。オカルトライターでもなければ、今までの人生の中で心霊的な世界に触れたこともない。直接神社の巫女と話をしたのですら昨日の咲が初めてだ。
「こっちが意識して見ようとすれば見れるよ。私の場合は〝空腹〟の時は見にくくなるだけ。人によって違うみたいだけど」
そう言いながら西沙は温めたばかりのチャーハンを口に運ぶ。
──……さっき食べたばっかりなのに…………
杏奈も話を聞きながら温めてもらった唐揚げを食べ始める。
「餃子も食べてよ。美味しいよ。デザートもあるし」
「でも……元職員なんて何人もいますよ」
その杏奈の言葉に、西沙はテーブルの端にあるメモ帳に手を伸ばしてサラサラと何かを書き始めた。一枚めくって杏奈に手渡しながら口を開く。
「この二人」
〝浅間美津子〟
〝吉原美優〟
「浅間って人が元職員。いわゆる〝悪魔祓い〟をしたのはその二人…………法人の代表は関係ないね。でもマスコミは宗教法人っていうか……いわゆる新興宗教団体が怪しげな悪魔祓いをしていたってことにしたいんでしょ?」
その通りだと杏奈も思った。
マスコミの求めている〝ゴシップ〟はそこにある。
西沙が続けた。
「でもそれが分かったってさ、残念なことに裏が取れなきゃどうしようもないよ。だからここからはあなたの仕事…………その二人がどういうわけか病院の中で犠牲者と言われてる患者に〝悪魔祓い〟を行った…………その光景が見えてもその理由までは分からない…………まあ私も、こんなことで自分の母親まで悪者にされたくないしね…………で? 話に乗る?」
杏奈は考えていた。
西沙の言っていることが事実かどうかは、動いてみなければ分からない。
しかしそれでも、杏奈は気持ちを決める。
☆
吉原藤一郎の家族が正式に病院を告訴したことで、警察が動いた。
朝。
杏奈はソファーに座ってスマートフォンを片手に話し続けていた。その横には丸められたタオルケット。
ソファーの横には大き目の液晶テレビ。映し出されているのはホスピスが正式に告訴されたニュース。誰かと電話で話を続ける杏奈の表情は硬かった。
「……お願い…………難しいことは分かってる…………でも裏が欲しいの…………そっちの〝対象〟を教えて…………もう動いてたんでしょ?」
やがて杏奈がメモ用紙にボールペンを走らせながら電話を続ける。
「……やっぱり……この二人で間違いないのね…………分かった。こっちも何か掴んだら連絡するから」
杏奈は電話を切ると、すぐに顔を上げた。
「ごめんなさい…………」
そう言う杏奈に近付きながら、出勤したばかりの西沙が向かいのソファーに腰を降ろす。
「いいよ……警察に知り合いいるの? やっぱりもう動いてた?」
「はい…………警察がチェックしてるのも……やっぱり同じ二人でした…………」
杏奈はメモ用紙を西沙に見せながら続ける。
そこには、昨夜の西沙のメモと同じ〝浅間美津子〟と〝吉原美優〟の名前。
「確証の無い部分が多くて動きづらいみたいです…………それにマスコミが言ってる死亡率の高さも嘘みたいで……」
「そりゃそうだよねえ……そもそもがホスピスだし。体調が良くなって退院する患者の率は通常の病院よりはるかに低いはず…………ほとんど無いくらいにね。それにあの二人も犯罪を犯したわけじゃないから警察も切り口を作りにくいんだろうね。それに吉原美優には会えそうにないよ。告訴した側の家族だし、どうせマスコミのせいで家からは出られないだろうし…………」
「じゃあ……もう一人の…………」
「浅間美津子…………吉原藤一郎が亡くなった直後に退職してるはずだよ。職員のリストってマスコミは掴んでないの?」
「掴んでます────」
杏奈は再びスマートフォンを手に取る。
西沙がどうして美津子の退職を知っているのかは、聞くまでもないと思った。
☆
美津子のアパートは街の郊外。
周囲には田畑も多い。
病院からは少し距離があった。
雨樋が所々外れかけているような、そんな古いアパート。壁の色も変わってしまったのだろう。暗く燻んだ印象が二階建ての建物全体から漂う。
「部屋は?」
アパートの二階を見上げながら西沙がそう聞くと、隣の杏奈も同じく二階を見上げていた。
そして応える。
「そこの階段を登って……一番奥の部屋です」
先頭に立って階段を登り始める。
「────ここに引っ越したのは一年くらい前……何も変わっていなければ独身のはずです…………」
完全に錆びついた階段は、杏奈のスニーカーでも大きく空気を揺らした。それ自体も不安定にグラつく。そのまま繋がった二階の手摺りも、すでに元の色すら分からない。おそらく今は触る人もいないのだろう。微かに積もった塵がそれを物語っていた。二階の廊下にもそれは目立つ。その塵を見る限り、周囲に足跡は多くない。一階、二階共に三部屋ずつ。満室ではなさそうだ。二階で玄関の前に足跡があるのは────一番奥の、美津子の部屋だけ。
表面が何箇所もヒビ割れ、角から錆びついたドア。
呼び鈴は無かった。
杏奈は迷わずドアをノックする。
玄関の郵便受けにはチラシが詰め込まれていた。
──……いるのかな…………
ドアの奥からは何も聞こえない。
独特の嫌な時間が過ぎていく。
途方もない長い時間に感じられた。
やがてドアの向こうからの小さな声。
「…………はい…………なんでしょうか…………」
目を伏せたままの、やつれた顔がドアの隙間から覗く。
強い影が、その顔の大半を隠す。
杏奈は、あまり意識せずに口を開いていた。
「……浅間……美津子さんですね…………」
ドアの奥の影────美津子はさらに深く目を伏せる。
その表情に、杏奈は慎重に言葉を選んだ。
「……病院でのこと……お話を、伺えませんか? ご迷惑はお掛けしません…………」
「────…………すいません……………………」
小さく低い声と共にドアが閉まり始め、錆の匂いがした時、そのドアは隙間に差し込まれた杏奈のスニーカーに遮られる。
──……今を逃したらもう助けられない…………
──……? ……助けられない……?
美津子がドアノブを握る手に力を入れた直後、杏奈が続けていた。
「────本当のことを知りたいんです」
それに続くのは、杏奈の背後の西沙。
「あなたは何も悪くない!」
杏奈は驚きのあまり、咄嗟に振り返っていた。
そこには、予想だにしなかった、両目を潤ませた西沙。
「あなたには何の罪もない! あなたを守らせて! 美優さんのことも…………」
他人の過去、感情が見える。
それが西沙の能力であることは確かに杏奈も聞いてはいた。そして美津子と美優の存在自体を最初に教えてくれたのも西沙。
しかし、それは杏奈にとっては唐突過ぎた。
──…………西沙さん……?
その西沙は、突如として我に返ったような表情を浮かべると、その頬を涙が一筋零れていく。
西沙にも理解が追い付いていなかった。自ら発しようとした言葉ではない。まるで誰かに言わされたように感じる。しかし感情は昂っていた。
──……守らなければ…………
そんな感情だけが西沙を包み込む。
そして、ドアが開いた。
☆
その日の夜。
杏奈と西沙は御陵院神社にいた。
西沙の実家でもあるはずだが、祭壇の前で西沙が落ち着かない姿なのが杏奈には気になった。
座布団で正座をする杏奈とは対照的に、西沙はあぐらをかいて片膝の上で肘を立てている。
涼しい夜になった。日に日にそれを感じることが増える頃。そしてそんな感情は、杏奈の中に生まれた寂しさを増長するには充分だった。
「安心しなさい西沙。姉たちはいませんよ」
二人の前に姿を表した咲は、目の前の西沙の姿を見るなり、そう言って祭壇に背を向けて腰を降ろした。
「──別に…………」
小さく呟いた西沙に、咲はすぐに返す。
「二人は今夜は出張です。少々面倒な依頼でしたので、まだしばらくは帰らないでしょう」
そして咲は、杏奈に向けた視線を西沙に戻し、続けた。
「どうしてあなたが関わっているのですか? 電話の時に少々お話はしましたが…………あなたにどうこうして欲しいと伝えたつもりはありませんよ」
「私も頼まれたからやってるわけじゃないよ。〝見えちゃった〟ものは仕方ないでしょ」
強気に応える西沙の口調に、杏奈は二人の関係性が少しだけ見えた気がした。
──…………色々ありそうだなあ…………
それでも、西沙は何も言われずとも自ら崩していた足を正座の形へ。
──……犬猿ってわけでもなさそう……
そう思った杏奈に、目の前の咲の声が飛ぶ。
「では……水月さん────」
咲は気持ちを切り替えるように杏奈に視線を戻して続けていた。
「今回の御用向きは…………」
そして、杏奈は語り始める。
「はい……病院の元職員の方と話してきました…………あの一件のすぐ後に退職された方です。そして、今回の問題の中心にいました」
咲は一度も口を開かないまま、杏奈の話を聞き続けていた。
決して短い話ではない。
しかも、西沙も口を挟まない。
俯いたまま、目の前の板間を見つめ続ける。
杏奈の話が終わる。
やっと咲は視線を杏奈から外した。
そして小さく息を吐く。
杏奈は話し疲れた様子もないまま、そんな咲の姿を目で追っていた。
そして、次に口を開いたのはその咲だった。
「面白い話……と言ったら不謹慎でしょうが、珍しい方ですね…………マスコミ的にはこんな結論は求めていないはずでしょうに…………」
「娘さんのお陰です」
杏奈は咲の寂しげにも見える目を見ながら応える。
それに咲はすぐに返した。
「しかしもう一人……裏を取らなければ誰も信用してはくれないでしょう…………どうするおつもりですか? なにせ病院を訴えている側…………代表の田原さんが動いたとて無駄なこと…………」
すると、杏奈がわずかに身を乗り出して応える。
「……お願いできませんか?」
「……私ですか…………」
「娘さんでは目立ち過ぎます」
すかさず西沙。
「失礼ね」
しかし杏奈は言葉を続ける。
「神社という後ろ盾があれば接触はしやすいはずです。マスコミの報道でもこちらの神社にバックアップされている事実は出ていません。何か適当な理由をつけて────」
「難しいでしょうね。それ相当の理由がなければ…………私までマスコミに追われることになり兼ねません……そっちは娘にお願いしますよ」
「でも目の前に本当のことがあるのに────」
「どうにかして…………真実を伝えて下さいませんか…………私は田原さんのほうが心配です…………」
そして、床に置いてあったスマートフォンが音を立てる。
咲の物だ。
西沙が顔を上げる。
その西沙は咲が手を伸ばすより早く口を開いた。
「────来た────」
西沙には見えていた。
その目が大きく開かれている。
モニターを見た咲が目を開くと、杏奈の中で何かが疼く。
それは、嫌な感覚だった。
「失礼」
立ち上がった咲は、祭壇前から続く広い廊下へと足を滑らせる。ドアは無い。微かに聞こえる咲の声に、杏奈と西沙は無意識の内に耳を側立てていた。
二人の元に小さく届く咲の声は、西沙の予想通り、動揺を隠せてはいない。
「…………いつ…………そうですか…………分かりました…………すぐに…………」
やがて、その咲が西沙と杏奈の元に戻る。
二人は咲の言葉を待った。
空気が澱む。
嫌な時間。
そして、ゆっくりと口を開いた咲の表情が曇る。
「つい先ほど…………代表の田原さんが亡くなりました…………」
電話と同時に予想出来ていた西沙。
嫌な感覚を感じながらも、何も見えていなかった杏奈。
二人は共に、口を開かなかった。
咲が続ける。
「…………ご自宅で…………自ら命を絶ったところを…………奥様が見付けられたとのことです…………」
「…………どうするの?」
そう小さく返したのは西沙。
そして続ける。
「病院に運ばれたんでしょ? 奥さんもそこにいるなら…………」
そこに挟まったのは咲から視線を外した杏奈の声。
「────どうせ…………マスコミが病院を囲ってる…………」
「……遺書があったということです…………」
そう返す咲が、ゆっくりと続けた。
「水月さん…………病院までお願い出来ますか? 私と一緒に……あなたに真実を見て欲しい…………」
それだけ言うと、咲は立ち上がった。
巫女服の衣擦れの音が、空気を大きく揺らす。
☆
病院の前には何台ものマスコミの車両と、無数のマスコミ関係者がひしめき合っていた。
それはまるで、暴動の群衆かと思うように殺気立って見える。
その熱気のせいか、その周辺はあまり涼しくは感じない。
杏奈は少し離れた道路の脇に車を停めた。もっとも、人集りのせいでそれ以上は進めなかった。周囲には歩道に乗り上げたマスコミの車が何台も並び、皮肉にも世間の注目の高さを際立たせた。
そして、マスコミの照明が周囲を明るく照らしている。
──……どうせ……来月にはみんな忘れてるニュースなのに…………
杏奈は不意にそんなことを思いながら、運転席で口を開いた。
「どうやって入り込みます? その格好じゃ目立ちますよね…………」
振り返った後部座席には、巫女姿のままの咲。
慌てていたからなのか、杏奈もここに来るまで咲の服装のことまで意識を向けることが出来なかった。
しかし助手席の西沙は平然と口を挟む。
「まあ大丈夫でしょ。だよねお母さん」
「…………ええ、問題はありません」
咲はそれだけ応えると、ずっと下げたままだった顔を上げ、ドアを開けた。
「──いや……でも」
慌てて運転席を降りる杏奈のそんな声も無視するかのように、咲はアスファルトに草履の音を響かせる。そしてその後ろを着いていく厚底スニーカーの西沙にも迷いがあるようには見えない。
群衆のザワつきに掻き消えるような草履の音を追いかけるように、杏奈も着いていくしかなかった。
周囲にバラけているマスコミの人間たちが、しだいに咲に視線を向け始めていた。
どう考えても場違いな服装だ。
僧侶ではなく、巫女が病院の入り口を目指している。
そしてその巫女姿の咲が群衆に辿り着いた。
──……無理だよ……入れない…………
杏奈がそう思った時、咲と西沙の足が同時に止まる。
少しずつその存在が周囲に広がり、少しずつ、辺りが静かになった。
気が付いた時には、ほとんどの群衆が咲を見て呆然とした表情を晒し、次の咲の言葉に目を見開いていた。
「……道を開けなさい…………真実を見ようとしない者に……用はありません…………」
決して大きな声ではない。
それなのに、咲の言葉はその場を掌握していた。
咲は右手を胸の辺りにかざすと、そのまま何かを払うように、その手を真横へ。
すると、まるで大きな手で払われたかのように、群衆が動き、道が出来た。
西沙は軽く振り向き、呆然とその光景を見ていた杏奈に目配せをする。
そして咲を先頭に、三人は病院の中へ。
病院の入り口からはマスコミは入ることが出来ない。警備員が何人もいるだけでなく、病院の許可なく勝手に立ち入ることは出来ないからだ。
「田原様の奥様に、私が来たとお伝え下さい」
咲はそう言って警備員に自分の名刺を見せた。
すぐに入り口が開かれる。
そして自動ドアを通った先、総合受付のベンチに、中年の女性。
咲の姿を見るなり駆け寄った。
「──警察の方たちが…………司法解剖をしたいと…………」
田原の妻────貴子であろうことは杏奈から見ても容易に想像がついた。その貴子は泣き疲れて腫れた瞼のまま、足元もおぼつかない。
咲はそんな貴子を再びベンチに座らせると、自らもその隣に腰を降ろして口を開く。
それはついさっき群衆を黙らせた声とは違う。まるでそれはその場を包み込むかのような柔らかい口調だった。
「……致し方ないことなのでしょう……でも、すぐに奥様の元に帰られますよ…………」
すると貴子は、慌てたようにハンドバッグから数枚の紙を取り出す。
何度か折り畳まれたかのように、少し皺が目立つそれを咲に渡して言った。
「…………主人の遺書です…………本物は警察にありますが、御陵院さんに見せたいからと言ったらコピーをくれました…………」
──……つまり…………警察は中身を見ても問題ないと…………
──…………警察の予想通りだったってこと…………?
──……どうやって真実に辿り着いてたの…………?
──…………あの二人からすでに話を聞いてたんだ…………だったら…………
そう思った杏奈の目の前で、言葉を返したのは咲。
「そうでしたか…………」
その声が続く。
「……総て…………奥様の元に帰りますよ…………」
『
このような結論を選んだことをお許し下さい。
私は神波会の信者の皆様、及び病院の職員、さらには患者の皆様にも多大なご迷惑をおかけ致しました。
総ては私の不徳の致すところであり、同時に私の未熟さが招いたことと痛感しております。
御陵院様を初め、私は多くの方々から助けていただき、愛されてきました。
とりわけ家族の存在は何よりも掛け替えのない存在でした。
しかし私の力が至らないばかりに、世間様を騒がせ、多くの方々に御迷惑をかけてしまいました。
私は総てを語りたいと思います。
当初マスコミの方々に語った時、残念なことに私の言葉は違った形で伝わってしまったようで誠に残念でした。その時分は私も真実を知ってもらいたい一心でした。総ては私の力不足です。
ですがこの文章なら、そのまま伝わってくれるものと信じています。
真実の中心には二人の女性がおられます。
しかし、決してそのお二人を責めないでいただきたいのです。
お二人は何も悪いことはしておりません。
患者の吉原藤一郎様を苦しみから解放してあげたい一心だったはずです。
終末期医療の世界を追及したかった私と同じなのです。
』
☆
医療法人ホスピス医院────安寧病院が田原によって作られてからすでに二〇年以上が経っていた。
田原は宗教法人〝神波会〟の代表ではあったが、元々はホスピス医院を作ることが目標だった。
神波会のベースは日本に古来から存在してきた神道。田原自身が神道に傾倒し、そこに癒しを感じていたことが終末期医療への興味に繋がった。
その関係もあって御陵院家も宗教法人の設立そのものから関わった。当初からホスピスの話があり、そこに一番共感出来たからでもある。御陵院家で担当となったのが、神社の代表となる直前の咲だった。
宗教法人の設立というものはすぐに出来るものではない。組織としての活動の実績、拠点となる施設、活動年数等、もちろん御陵院家がその総てに於いてバックアップをし、法人設立と同時のホスピスの開業を目指した。
そのためか、無事にホスピスが開業してからも咲は相談役として関わっていた。
しかし病院自体は決して宗教色を強調した施設ではない。病院の職員の中にも数名は信者がいたが、ほとんどは神波会とは無関係の職員。患者も同じだった。むしろ熱心なキリスト教信者の患者すらいた。
しかし法人としては何らそこに問題はないとの判断のまま。
押し付けずに、受け入れる。
総ては終末期医療のため。
人生の最後を看取ることに神道としての教義を重ねていただけ。
あくまで「最期の時を穏やかに過ごして欲しい」という想いだけだった。
その精神に共感を受けて働いていた職員の中に、浅間美津子がいた。
美津子には他人と関わることを極端に避けるようなところがあったが、田原からは違って見えていた。
人と関わるのが苦手なのに、人と直接触れ合う世界で働いている…………本当の気持ちはもっと複雑なのだろうと、田原は思っていた。離婚歴のある三〇代半ば。過去に何かがあったのだろうとは想像が出来たが、美津子が語ろうとしないだけでなく田原も特別聞き出そうとはしなかった。田原にとっては、面接の時にホスピス設立の理念を話しただけで涙ぐんだ美津子のその気持ちだけで充分だった。
元々介護の様々な分野で働いてきた美津子は、ホスピスでもよく働いた。誰から見ても真面目な印象だった。
田原が嬉しかったのは、少しずつ、美津子に笑顔が増えてきたこと。
田原はホスピスを運営していく中で、患者だけでなく職員のことも助けることが出来ているのなら、それが一番だと思えた。
吉原藤一郎がホスピスに入所してきたのは、そんな頃だった。
病気は後天性血友病。
少なく見積もっても五〇万人に一人と言われる難病。未だに発症原因は見付かっていない。
吉原は現在八五才。後天性血友病を発症したのは八四才の時。
元々八〇才で甲状腺癌を患い、高齢でもあることから癌の治療ですら難しく、延命治療を行っていたに過ぎなかった。後天性血友病が発症した時点で認知症は見受けられず、本人と家族の意向で延命治療を拒否する。
そしてホスピスにやってきた。
医師でもある院長の田原から見ても、痛みを和らげ、血友病の症状である出血を抑えていくしかないと判断した。
美津子が介護の担当となったが、高齢者と長く接してきたとはいえ、血友病特有の症状である内出血から来る全身のアザのような皮膚を見た時は少し驚いた。
そんな美津子は血友病を調べていく。難病となると、施設の看護師でも医学書でしか見たことがないという者ばかり。
施設では初めての病例を持つ患者ということで綿密なカンファレンスが行われたが、美津子は休日を返上して図書館にも通っていた。
もちろん目的は〝治療〟ではない。
どうやって〝最期の時まで苦しみを和らげる〟ことが出来るか。
ホスピスに来ることを選ぶ患者とその家族のほとんどは、もちろんある程度は〝死〟というものを受け入れている。ホスピスとはそういう所だ。しかし現実を許容したからといって怖くないということではない。
誰もが〝安らかな死〟を求める。
それを求めてホスピスにやってくる。
決して意識の無い状態で人工的に心臓を動かしてほしいと願っているわけではない。
図書館やインターネットで集めた資料をカンファレンスで吟味しながら、美津子は当然のように吉原家とも関わりを深めていく。
そして病院に毎日のように顔を見せていたのは孫の美優だった。孫と言っても二八才。やがて病室以外での美津子との会話も増えていく。それがお互いの過去を語るようになると、すでに三〇代となっていた美津子にとっては、いつの間にか美優は妹のような存在になっていた。
美優も決して順風満帆な人生ではなかったが、それがかえって美津子との関係性を強くしていったのかもしれない。
そして美津子は、関わり過ぎた。
ある日、病室のドアをノックすると、聞こえてきたのは美優の声。
「美津子さん? どうぞ」
いつの間にか、お互いを下の名前で呼び合う仲になっていた。
美津子は部屋に入ると、その光景に足を止めた。
吉原は昨夜日付が変わった頃に痛みを訴《うった》えていた。看護師と施設長との教義の末に鎮痛剤を処方していたが、この日の朝はまだその薬の効果か目を覚ましてはいなかったようだ。
静かにベッドに横になる吉原には、布団が掛けられていない。
そしてパジャマの上着が大きくたくし上げられ、腹部から胸部にかけて、痩せ細って赤黒いアザだらけの肌が露出していた。血友病の関係で外傷は望ましくない。その危険性を作らないため、ボタン付きの服も避けられていた。
その腹部をベッド脇から覗き込むようにしながら美優が立っている。
吉原の肌に、美優が指を這わせる。
「…………美優……さん…………?」
無意識の内に美津子がそう言葉を漏らすと、美優が振り返る。
その目は真剣だった。
そして口を開く。
「大丈夫……こうすると……〝悪魔〟は静かになるの」
それは、美津子にとってはまるで想像だにしていない言葉だった。
──…………〝悪魔〟…………?
「来て美津子さん」
そう言う美優に促されるまま、美津子はベッドに近付く。
美優は片手に小さな瓶を持っていた。それを美津子に見せながら言葉を繋げる。
「これは聖水…………悪魔が嫌うの」
「──悪魔って…………」
思考の追いつかない美津子にとっては、そう返すのが精一杯だった。
「おじいちゃんは悪魔に蝕まれてる…………私の息子も血友病で死んだ……親戚も何人か同じ血友病で死んでる……今度はおじいちゃんまで……私の一族は悪魔に取り憑かれてる…………」
──……キリスト教…………
美津子の頭に、以前の美優との会話が思い出されていた。
美優は未だキリスト教信者のまま。それがなぜかは分からなかったが、現在でも改宗はしていないとのことだった。
そして美優は〝悪魔〟の存在を信じていた。
吉原の枕の横には古めかしい聖書。表紙の擦り切れ方を見る限り、美優が愛用していた物なのかもしれない。少なくとも美津子にはそう見えた。
──……だから……毎日のようにお見舞いに…………
しかし、決して吉原を苦しめているようには見えない。
今までも、事実として気が付かなかった。
例えそれが〝悪魔祓い〟というものだったとしても、美津子には実害があるようには感じられなかった。
──……それで美優さんが納得出来るなら…………
美津子は誰にも話さなかった。
知っていたのは美津子だけ。
美優と二人だけの秘密の共有が始まる。
しかしそれからの美津子の中には、不思議な感覚があったのかもしれない。
仲のいい〝本当の友達〟と秘密を共有する独特の緊張感。
なぜかそれは、いつの間にか世間に対しての優越感にも似ていた。
世間────今までの人生に対しての美津子の中の何か。
そして、美津子は〝悪魔祓い〟に協力するようになる。
ある時は美優が聖水を吉原の体に振りかける背後で聖書を読み上げ、またある時は背後で美優が聖書を読み上げるのを聞きながら聖水を指で振り撒いた。
「前より……おじいちゃんが苦しむ頻度が減ってきたでしょ? 悪魔の力が弱くなってる証拠…………」
美優はそう説明した。
もちろんそれは過度な投薬を止めて〝病に立ち向かう〟ことから〝痛みを和らげる〟方向へとシフトしたからに他ならない。
それでもその頃の美津子には〝本当の友達〟の言葉が嘘とは思えなくなっていた。
そして。
その日は美津子が聖水の瓶を持っていた。
背後には聖書を持った美優。
時間はもう暗くなり始めていた。
夕食の後。
美津子が聖水を指で吉原のアザに塗る。
しかし高齢者の乾燥した肌はその水をただ弾くだけ。
背後でドアが開いた時、美津子と美優は驚いて同時に顔を向けていた。
そこには美優の両親。
二人は目を見開いて、やがて目の前の光景に、眉間に皺を寄せた。
最初に口を開いたのは母親の優子。
「……美優…………あなたはまだそんなこと…………」
「だっておじいちゃんが────」
反射的にそう返した美優の言葉を遮ったのは、美津子。
「────これは…………」
しかし父親の憲一がさらにその声を遮る。
「浅間さんも一体何をしてるんですか⁉︎」
「…………私は…………〝治療〟を………………」
「馬鹿な! こんな治療があってたまるか!」
「神聖な儀式なんです! 美優さんは何も悪くありません!」
その美津子の声に憲一の感情もさらに刺激される。
「じゃあなんですか浅間さん! ここでは怪しげな〝悪魔祓い〟なんかしてるんですか⁉︎」
「いえ…………違います…………」
消え入るような美津子の声は、震えていた。
憲一の大きな声に、周囲の職員が集まり出す。
やがて田原が病室に入った時には、すでに興奮と熱気が室内を包み込んでいた。
そしてそれは、憲一の声として廊下にも溢れる。
「やっぱりここは怪しい宗教団体だったんだな! 娘まで巻き込んで! 職員も狂ってる!」
それに応えようとする田原の言葉は宙に浮くだけ。
やがて、吉原家が転院の手続きに入った翌日、吉原藤一郎は亡くなった。
転院の手続きの裏ですでに準備が進められていたのか、その日の内に、吉原家はマスコミに病院での一件をリークする。夜にはテレビでもニュースが流れた。
その夜の内に美津子から退職届を出された田原は、なんとか美津子を引き止めようと説得するが、結局は守りきれないまま。
翌日には日中のワイドショーでの格好のネタとなり、咲への相談の結果、田原は家から出ることすら出来なくなった。
そして、病院も、田原の家も、マスコミが周囲に張り付く。
☆
最初に口を開いたのは咲だった。
「…………どうやら……私にも責任の一端があるようです…………」
しかし、それに貴子が食いつく。
「何を言ってるんですか⁉︎ 御陵院さんがいてくださって私たちは感謝しているんです…………夫も……御陵院さんに会わせる顔がないと…………」
そして貴子は泣き崩れた。
動いたのは杏奈だった。
コピー用紙を覗き込んでいた体を上げ、マスコミの照明が入り込むガラスの自動ドアに体を向けると、その口を開く。
「────記者会見の準備に入ります…………咲さん…………一緒に出てくれますか? このまま終わらせるわけにはいかない…………」
──……マスコミも……警察も…………
そう思った杏奈の降ろした両手が強く握られているのを見ながら、咲も気持ちを固めた。
「…………分かりました……」
「ダメだよ」
そう言って挟まったのは西沙。
その西沙が続ける。
「お母さんはマスコミ向きじゃない。それに巫女さんが出てきたらまた怪しく思われるよ。私が出る…………私なら神社とは関係ないしね」
「しかし西沙…………」
咲のその声を西沙が遮る。
「任せてよお母さん……私の凄さはお母さんが一番知ってるでしょ。それに、お母さんがマスコミの餌食にされるのだけはイヤ…………」
その夜の内に、杏奈は雑誌社編集長である岡崎を経由して記者会見の場所を押さえた。場所は駅前のホテルの催事場。
あれほど杏奈の取材姿勢に疑問を呈していた岡崎も、その動きは早かった。すでに次のネタが見付かっていたからだ。早々に今回のネタは終わらせかったのだろう。しかもネタとして解決させるのが自分の社の週刊誌となれば格好もつく。
「やっぱり、あの親父さんの娘だな」
岡崎はそう言って電話を切った。
杏奈にはその言葉の真意は分からなかったが、どう言われても構わないと思った。
──……これは私が決めたこと…………でも…………
──…………お父さんなら…………どうしたのかな…………
翌日の午前一〇時。
会場は多くのマスコミが押しかけ、改めて世間の関心の高さが伺われた。
控室には杏奈と西沙だけ。
「さすがに控室とはいっても、いいソファーよねえ」
そう言ってソファーに横になる西沙に、杏奈は眉間に皺を寄せて返していた。
「それはいいですけど……なんでそんな格好なんですか?」
「だって目立ったほうがいいでしょ? 第一印象は大事だよ」
「だからって…………」
杏奈の言うことももっともで、西沙はいわゆる黒いゴスロリファッションに身を包んでいた。
「前から着てみたかったんだよねえ。杏奈ももう少しオシャレしてきなさいよ。男だか女だかも分からないような服装ばっかりして…………彼氏出来ないよ」
「西沙さんだって────」
「お互いにさ……顔売っておきたいじゃない。仕事の中身は違っても、食べていかなきゃいけないし…………他の仕事なんか出来ない性分でしょ? 私も同じ…………」
会見場を埋め尽くすマスコミ関係者とカメラの台数に、その照明の強さもあるのか、杏奈は正直圧倒された。
そして会場のザワつきの元はやはりゴスロリ姿の西沙。一見するとお淑やかなその表情は、確かに注目を集めていた。
──…………さすが……
そう思いながら、杏奈は話し始めた。
「マスコミ各社の皆様……本日はお忙しいところお集まりいただきまして恐縮です。昨今騒がれておりました安寧病院の────いわゆる〝悪魔祓い〟騒動に関しまして、その真実が判明いたしましたのでご報告させていただきます。隣にいるのは────」
それを、西沙が遮るように口を開く。
「────私は……御陵院西沙と申します。宗教法人神波会の相談役としてその設立から団体を支えてきた御陵院神社代表────咲の娘です」
一気にカメラのシャッター音と大量のフラッシュが西沙に向けられる。
しかし、西沙は堂々と語り始めた。
「すでに報道でご存知かと存じますが、昨夜、法人の田原達夫代表が自ら命を絶たれました。本日皆様に発表するのは、その田原氏の遺書になります。最初に言っておきますが、今回の件に関して一切の事件性は存在しません」
そこにマスコミの群れの中から言葉が飛んだ。
「悪魔祓いと殺人の関係はあるんですか⁉︎」
「ありません」
西沙のその言葉に、尚も別の記者が食い下がる。
「しかし遺書の証言だけじゃ────」
「ここに────証拠があります」
そう言って大き目の茶封筒を掲げたのは杏奈だった。
ザワつきの中で注目を浴びながら杏奈が続ける。
「これは、亡くなられた吉原藤一郎氏の司法解剖の結果です。この後皆様にもコピーをお配りしますが、これは田原氏が以前勤めていた総合病院で行われたものです。死亡の原因に何ら不審な点は無く、ホスピスでのターミナル医療として真っ当な処置を施された結果という部分には何の疑問点もありません。非常に稀な難病であることに加え、御家族の希望、そしてマスコミへの御家族からのリークのためか…………早い段階から警察も関わっている正式な物です」
「どうして告訴前から警察が────」
そんな記者の質問を、再び杏奈が遮る。
「ごもっともなご質問ですね。本来ならあり得ないことです…………なぜ警察がそんなにも早く動いていたのか…………あくまで私の推測ですが、宗教法人が作った病院……というところが理由だったのではないかと感じています。警察がこの手の宗教絡みに神経質になっているのは報道機関の皆さんならご存知のはずです。非常に神経質にならざるを得ない部分があったと推察されます…………とは言っても、これ以上は警察側を追求していただくしかありません」
そして、西沙が杏奈の言葉を掬い上げる。
「しかし、その司法解剖の資料がここにあること…………そしてこれから読み上げる田原氏の遺書も本物です。この件に事件性がないことを警察が認めた……と判断していいかと思います。そして今回のトラブルの中心には二人の人物が関わっています。しかしまずは皆さんに知っておいていただきたいのは、この二人には何の悪意も無かったということです。善意しかなかったんです。二人は犯罪者ではありません。誰も殺してなんかいません。人を救いたかっただけです……」
その微かに震える西沙の声に、会見場のザワつきが消えた。
そして、ゆっくりと、杏奈が田原の遺書を開く。
その紙の音だけがマイクを通して周囲に響き、やがて杏奈が語り始めた。
「では、田原氏の遺書を…………読ませていただきます…………」
事件性だけでなく、オカルト的な要素も存在しない。
西沙と杏奈の出会いは不思議なきっかけを作り出した。
そして、二人はその後も関わり続けることになる。
☆
「最近少食になりました?」
陽が傾き始めたファミレスの窓際の席。
客の数はまばら。賑やかになるにはもう少し時間が必要だろう。西沙と杏奈が注文を終えてすぐ、先に口を開いた杏奈は西沙の向かいの席。
「あの西沙さんがドリンクバーの他にパフェだけなんて」
こう続ける杏奈に、西沙は眉間に皺を寄せて応えていた。
「もうすぐ夕ご飯でしょ? 帰れる時は美由紀と一緒にご飯だから控えてるだけ」
「まさか太っ────」
「────てない。から、早く話を進めてよ」
西沙は何かを誤魔化すかのように外の駐車場に視線をズラす。
テーブルに置かれた杏奈からの調査報告書は確かに奇妙なものだった。
それを一つずつ、改めて西沙は杏奈の口から紐解いていく。
「まず楢見崎家ですけど、戸籍の時点でおかしいんです。西沙さんが聞いた話では────」
話し始めた杏奈の言葉を西沙が繋ぐ。
「最初に長男が産まれて、でも一年以内に亡くなって、次に長女が産まれて、その後は一人も産まれないから血筋のためにその長女は大切に育てられる……ってことらしいんだけど」
その西沙の説明を噛み締めるように聞いた杏奈は、すぐに応えた。
「まず電話で言ったように、その長男の存在がそもそも戸籍に存在しません。出生届けも、当然死亡届けもです」
「どういうことなの……?」
返しながら西沙の目が鋭くなっていた。しかしパフェのスプーンを動かす手は止まらない。
「まさかとは思いますけど……」
その杏奈は相変わらずコーヒーだけ。
一口飲んで続ける。
「……情報が間違っているのか、楢見崎家が嘘をついているのか……」
「でも楢見崎家が嘘をついてたとしたら、どうして私は気が付かなかったんだろう…………」
西沙の一番の疑問はそこだった。自分が意図的に見ようとして見れないのは、同じ能力者が意図的に遮断している場合のみ。楢見崎家の人間にそこまでの力があるようにも思えない。
確かに由紀恵の中に〝嘘〟はあった。
と言うよりは〝まだ言えないこと〟。
でもそれは、杏奈が持ってきた〝嘘〟とは違った。
西沙の気が付かなかった〝嘘〟。
「……嘘をついていないとしたら…………」
西沙が呟くようにそう続けると、杏奈がさらに西沙を追い込んだ。
「誰かに邪魔されてませんか?」
「邪魔?」
西沙が疑問に包まれた目を杏奈に向ける。
その杏奈の中でも疑問が膨れ上がっていた。
「西沙さんがこの一連のことに気が付かないなんておかしいですよ。電話で言ったこと覚えてます? 浅間美津子…………」
すると、西沙はスプーンをパフェのグラスに立てた。甲高い音が空気を小さく震わす。
そして重い口を開いた。
「……楢見崎家の出身だったって、本当なの?」
偶然にしては出来過ぎた話だ。
しかし関連が見られない限りは偶然の繋がりに過ぎない。
「戸籍で簡単に分かりましたけど……」
すぐに返した杏奈も、そうは言ってもスッキリとはしない表情。
西沙は疑問をぶつけ続ける。
「ただの偶然ってことは?」
「他にもいるのでその線は薄いかと……」
「ほか?」
「自殺した代表の田原さん…………ホスピスで亡くなった吉原藤一郎…………」
「……まさか…………」
西沙も反射的に返していた。
杏奈も集めた疑問を西沙にぶつけていく。
「執拗なまでに楢見崎家が絡んでます…………何かおかしいですよ……あの時は楢見崎家なんて知らなかったので、戸籍の資料の隅に見ていただけです…………楢見崎家って何なんですか?」
「偶然にしても…………」
空になったパフェのグラスを眺めながら、西沙がそう言って続けた。
「ちょっと多すぎ…………そもそも存在しないはずの楢見崎家の人間がそんなにも存在していた事実が、まずは気持ち悪い。しかも楢見崎家の人間はそのことを知らない……知っていたとしても……異常なほどに娘を守ってきたのは事実だし…………」
「今回の件とあの事件自体、関係があるんですか? その……楢見崎家の呪いって…………」
その杏奈の言葉に、西沙は再び駐車場に視線を流し、ゆっくりと返していく。
「あの浅間美津子って女の人……別に記事に必要ないだろうと思って、私が見たあの人の過去までは話さなかったけど、若い時から介護の世界で働いて、鬱病になって、その後に結婚したけど……夫にも親友にも裏切られて離婚して……最後には他人の罪を被って逃げるように色んな所を転々としてたみたい。未来になんの希望も見出せなかった人生……友達も知り合いもいないままの孤独な生き方…………田原さんの遺書にあったでしょ? あの人に笑顔が増えてきて嬉しかったって…………」
「あの後、浅間さんのメンタルケアは確か咲さんがしてたはずですけど、あれから────」
「死んだよ…………」
その西沙の言葉は、杏奈の中で宙に浮かんだ。
他には何も聞こえない。
聞こえるのは西沙の声だけ。
「…………自殺……」
予想していなかった西沙の言葉。
杏奈は無意識に目を見開いたまま。
わずかに持ち上げたマグカップが、力を失ってカップソーサーで音を立てた。
西沙が繋ぐ。
「少し前…………伝えるべきか悩んでた……私たちは一度会っただけだし、あの事件自体は終わったものだしね。でも、よく聞くよね…………頑張ればいつか、とか……信じればいつかは、とか…………そりゃあさ、あの人にだって幸せな瞬間はあったと思うよ。でも、あの人の最後が幸せだったとは思えない…………何も報われないまま死んでいく人がほとんど…………あの人もそうだったんじゃないかな…………少なくとも私はそう思った」
視線を落とし、その目をわずかに潤ませている杏奈の顔を横目で見ながら、西沙がさらに続けた。
「間違っても……私たちのネタの一つのために産まれてきた人じゃない…………あの人にはあの人の人生があったはず……でもそれを今からどうにか出来るわけじゃない…………でも彼女の人生の始まりが楢見崎家だとするなら……それは絶対に無視出来ない……最後まで関われってことなんじゃない?」
西沙の言葉に、杏奈がやっと顔を上げる。
西沙と目を合わせると、小さく頷いた。
言葉は出てこない。
繋ぐのは西沙。
「ちなみにこの間の〝風鈴の館〟……〝ウチ〟が関係してるみたい。でもお母さんからは何も聞き出せなかった」
「…………複雑になってきましたね。どうして御陵院神社が…………」
杏奈は自分の頭が回っていないことを自らの言葉で理解した。整理出来ていない。
「危険だから関わるなってさ……わざわざ私に伝えてまで…………ますます手を引くわけにいかないじゃんね。もう私の仕事なんだから……それに、楢見崎家も絡んでる…………」
「────待ってくださいよ西沙さん。いったい…………」
許容範囲を超えていた。
西沙の言葉は杏奈のまとめられる理解度を間違いなく上回っている。
「この間の一枚だけ残ってた写真の風鈴に……〝家紋〟があったでしょ?」
その西沙の言葉に、杏奈の意識が追いつく。
やっと言葉を返せた。
「待ってください…………でもあれ、家紋じゃないかもしれません」
「分かるよ。でも、楢見崎家に下がってた風鈴に……同じマークが付いてた……家紋って普通は左右対称だけど、あれは〝風鈴の館〟と同じ非対称だった…………」
「調べましたけど、実際にあれと同じ物って見つからなくて……だから家紋以外のマークみたいな……何か別の意味があるような…………」
「……家紋って元々は大陸文化だったんだろうね。向こうは左右対称が美しいとされたけど、日本文化は非対称の中に美しさを見出してきた。ヨーロッパとかユーラシア大陸の人たちからすると日本文化が独特に感じられるのはそのせいだろうね。日本家屋にしてもお城にしても、まるで考え方が違う」
その日本文化の象徴のような神社の産まれである西沙らしい言葉だと杏奈は感じた。同時に疑問が湧く。
「あれ? でも、神社の鳥居って左右対称じゃないですか」
「そうだよ。元々は向こうの文化だもん」
「え…………」
再び杏奈の理解が崩れ始めた。
それを補う西沙の言葉が続く。
「〝鳥の居る所〟……今と違って、昔の人達にとって夜の闇は恐怖そのもの。〝魔の時間〟とも考えられてきた。朝の鳥の鳴き声が待ち遠しかったんだろうね。その声にホッとして朝を迎える…………ヨーロッパの教会にね、日本の鯱鉾みたいに鳥の像が屋根に付いてたりするんだよね。もしくは壁に鳥の絵が彫ってあったりさ。胡散臭い霊能力者がよく鳥居を見て結界がどうとか真ん中は神様が歩く所だとか…………結局はただの宗教なのにね。宗教って人間が作ったものだよ。自然に存在するものなんかじゃない。昔からの風習としての宗教は確かに必要だしそれは大事にしていいと思うけど、そこに無理矢理に不思議な力を感じさせるような設定を付け加えるのはナンセンスだと思うよ」
「よく鳥居を潜る時は右を歩けとか左を歩けとか聞きますけど…………」
オカルト界隈ではよく聞く話。杏奈はついそんな覚えたての知識を口にしていた。
それを分かっても、西沙は笑みも浮かべずに応える。
「真ん中歩いてたら他の人の通行の邪魔でしょ? それだけ。ただの社会規範を教えただけだよ。今以上に神社が地域のコミュニティの中心になってた時代にさ。その規範を教えるために神社の神主が考えたのかな……おかしなもんだね、今より昔の人たちのほうがマナーの意味を知ってるなんて…………」
「もしかして夜の神社が危険って言われるのって」
「お賽銭を盗まれないため。そう言っておけば怖がって普通の人は近付かないでしょ」
「ああ……なるほど……」
「風鈴も元々は大陸文化。日本文化に溶け込んでいるとは言ってもね。もちろん魔除けってのもある意味では風習みたいなもんだけど、そこに左右非対称の日本文化のマークか…………」
「アンバランスですよねえ」
「何かの呪文みたいなものかな」
「それこそ魔除けですかね?」
「かもね。どっちにしても楢見崎家に同じ物があるってことは話は単純では終わらない…………思った以上に大きな仕事持ってきたねえ。安い仕事じゃないなあ」
そう言った西沙の口角が上がる。
目元を光らせた西沙が、テーブルに肘を着いて杏奈を見上げていた。
気軽に西沙に相談していた単純なオカルトネタと違うことを、さすがの杏奈も感じざるを得なかった。西沙との〝出会い〟はまだ始まったばかりなのかもしれない。そうも思った。しかも杏奈の想像以上に御陵院神社の存在は大きい。間違いなく杏奈は、大きな何かに巻き込まれていた。
背中に冷たいものが走る。
そして、次の西沙の言葉に、杏奈も覚悟を決めた。
「でも……私はもう一度行くよ。あそこにいる〝人〟に約束したからね。〝風鈴の館〟は間違いなく御陵院家と楢見崎家が絡んでる…………どんな〝呪い〟だって関係ない…………これはもう仕事とは関係ないよ。私の〝血筋〟も絡んでる…………だから〝風鈴の館〟の相談料も今日のファミレス代だけで勘弁してあげる」
「え⁉︎ でも────」
「その代わり…………まだ手伝ってもらうよ」
西沙の目は、それでも未だ疑問に包まれていた。
しかし、力強い。
☆
その日の昼前。
朝から強い日差しが降り注ぐ日。
すでに陽と同じ、気温も高い。
楢見崎家に来客があった。
予約があったわけではない。
しかし突然の若い巫女の来訪に、出迎えた由紀恵も身構えた。
疑問ばかりが浮かぶ中で客間へと向かう。
「突然のことで……申し訳ありません…………」
その巫女はわずかに視線を落としたまま、由紀恵の目を見ることなく続けた。
巫女服の白と朱色が眩しい。
「私は御陵院神社より参りました…………当主、御陵院咲の娘、綾芽と申します」
そして、深々と頭を下げた。
衣擦れの音が座敷に流れていく。
『 聖者の漆黒 』
第三部「回天」第2話・終
第3話へつづく
優作────五才。
先天性の血友病の症状が分かったのは二才の時。それからはほとんど病院のベッドの上での生活。体内の出血に幼い体が耐えられないままに亡くなる。
一般的な子供としての生活はもちろんなかった。
二才年下の美優にとっては、残念ながら兄の記憶はほとんど無い。朧げなものだけ。
小学校に入る頃に両親の憲一と優子から説明を受け、やっと仏壇の写真の意味を知った。
死因となった血友病のことを理解出来たのは高校を卒業して社会人になった頃。父方の親族に過去に血友病で亡くなった者が数人いることを知る。
「……お前もいつかは誰かと結婚して子供が出来るだろう…………」
いつもの夕食の席で、父の憲一は優子と目配せをしてから話し始めた。
「お前のお兄さんのことだ…………血友病だったって話は前にしたと思うが……あれは遺伝性がある病気なんだ。とは言っても滅多に出るものではないらしい。実はお父さんの家系に何人かいてな…………お父さんは大丈夫だったし、お前も問題ない…………でも、お前の未来の子供に無いとは言えない。脅すわけじゃないけど…………記憶のどこかには覚えておいてくれ…………」
父のその時の表情を、その先も美優は忘れたことはない。
もちろん父に責任が無いことは分かっている。例え責任があったとしても、むしろ自分の息子をその病気で亡くしている時点で充分だと美優には思えた。
社会人になってすぐ、両親を安心させたい感情もあって美優は病院で検査を受けた。結果、美優にその兆候は見られなかったが、血友病には後天性のものもある。社会人になってこれから家庭を持つに当たって、一応、覚悟だけはした。
地元のスーパーマーケットを数店舗経営する会社の事務員として働いていた美優は、二一才の時に結婚して専業主婦となった。夫は同じ会社で働いていた男性。兄と同じ二才年上。無意識の内に記憶の中で作り上げていた兄の面影を重ねていたのかもしれない。
美優に他に兄妹がいないことから婿養子になることも夫から提案されたが、夫も一人息子。娘への負い目もあったのか、憲一と優子は美優が嫁に行くことに反対はしなかった。
そして夫の実家は何代も前からのキリスト教徒。強制されたわけではなかったが、美優は迷わず改宗を決める。両親も反対はしなかった。決して怪しげな新興宗教でもない。元々多くの日本人と同じように、それほど深く宗教というものを考えたことがない。
子供が産まれたのは二三才の時。男の子だった。
そしてすぐに、血友病が発覚する。先天性のものだった。
そのまま二才の誕生日の直前に亡くなる。
悲しむ間も無いままに、夫の両親から責められる毎日が始まった。
「遺伝の可能性があるのを隠していたのね…………葬儀の時にご両親から頭を下げられたわ」
義理の母からのその言葉は、美優に絶望感を与えるには充分なものだった。
意図して隠していたわけではなかったが、美優は専門的な知識まで持ち合わせていたわけではない。自分にその兆候が見られない中で、自分の子供に先天性のものが現れる可能性はゼロに近いと思い込んでいた。ゼロではないというだけだと思っていた。
そして、最初は美優のことを庇ってくれていた夫にも責められ始める。もしかしたら、美優はしだいに精神的におかしくなっていたのかもしれない。この頃の記憶がほとんどないくらいだ。夫だって精神的にはキツかったはずだ。そんな状態の生活に疲れた結果だったのだろう。子供を亡くして悲しんでいたのは美優だけではない。
しかしその時の美優に、そう考えられる精神的な余裕はない。
美優が離婚をして実家に戻ったのは二六才の時。
そして美優は、しばらく実家に籠り続けた。
両親は美優を優しく受け入れる。その優しさだけは、美優は理解することが出来た。
それでもやはり、すでに美優の中で何かが変わっていた。両親から見ても、嫁に行く前とはまるで別人のように違うその印象に悲しさが込み上げる日々。
両親は娘に対して負い目を感じ、娘は両親に頭を下げ続けた。
いつの頃からだろう。
家の中には暗さしかなかった。
その暗さが呼んだのか、美優はしだいに、落ちていく。
☆
杏奈と西沙は出版社の近くのファミレスに場所を移動した。
確かにちょうどお昼過ぎ。店内は平日とはいえ、ほとんどの席が埋まっていた。
そして杏奈は、西沙の注文した料理の量に驚く。
西沙は身長が低いだけでなく華奢な体つき。とても大食いには見えない。二人分とはいえ、ピザを二つ、サラダは大盛り、パスタは三種類。ドリンクバーの影が霞むほど。
「こんなに食べられるんですか⁉︎」
すでに食べ始めていた西沙に杏奈が声を掛けるが、すぐに西沙は返した。
「わざわざこんな遠くまで来たんだからいいじゃん。旅行気分でさ」
「ファミレスですけど…………」
「まだ一九だから未成年だし、おしゃれなお店って落ち着かないんだよね」
「未成年⁉︎」
「仕事はちゃんとしてるよ」
西沙はおしぼりで指の脂を拭き取ると、ポケットから名刺を取り出し、それを杏奈に手渡した。
杏奈はそれを見ながら返す。
「心霊相談所⁉︎ でも…………御陵院さんの娘なら…………神社じゃないんですか?」
「姉二人は継ぐみたいだよ。どっちかは嫁に行くかもしれないけど。私は居場所無いし」
神社の巫女は世襲制の世界。そのくらいは杏奈も知っていた。アルバイトとは違う。外の人間が就職出来るものでもない。
「まあ、色々とあってさ…………養子じゃないけど身元引受人が別にいるし…………それより、あの病院の一件でしょ? お母さんが絡んでることは私も知ってるし、色々と協力出来ると思うよ」
「協力って言っても…………」
「お母さんの血を引いた三姉妹の中で一番の能力者は私…………それでも心霊相談なんてなかなか仕事が無くてさ…………あなたもフリーになったばかりなんでしょ? 一緒に顔売るチャンスじゃん」
──……フリーになったばかりなんて昨日は…………
「なんで知ってるか知りたい?」
──………………あれ?
「知ってるんじゃなくて────分かるの……空腹じゃ力弱まるんだよねえ。大体はあなたの過去も分かったけど、説明する必要はないよね。とりあえず、その隣のカメラバッグは大事にしなさい。大事な物なんでしょ?」
──…………何者…………
「問題の中心に入り込みたいんでしょ? 真実を知りたかったら協力してあげる。私も大体の話は掴んでるよ。そしてテレビは教団を悪者にしたがってる…………何か変…………」
西沙はピンクのバッグから取り出したポケットタイプのウェットティッシュで口を吹いた。真っ赤な口紅があまり落ちていないことから、安物でないことは杏奈でも分かった。日頃杏奈が持ち歩いているような安い口紅とは違うようだ。もっとも杏奈はその安物ですら着けることは少ない。
その西沙が、目付きを変えて続けた。
「確信部分は代表を突いても出てこないよ。別の人たち。お金はいらない……私は顔を売れたらそれでいいし…………それとも怪しい霊能力者は信用出来ない?」
西沙はそう言ってわずかに頭を傾ける。
幼くも、それでいて総てを見通すその目に、杏奈は辿々しく返すだけ。
「────そういうわけじゃ…………」
「……ま、これから色々と仲良くすることになるみたいだしさ……」
☆
雑誌社のある場所まで、西沙は電車とバスを乗り継いで片道二時間掛けて杏奈を訪ねて来たという。乗り継ぎの時間を考えると妥当な時間だろう。車なら長くても一時間というところだろうか。
西沙は杏奈を自分の事務所に案内した。
注文した料理の多さのためか、それともファミレスを出るのが遅くなったためか、すでに陽の傾きを感じ始める時間。
「いつもなら事務の子がいるんだけど…………今日はもう退社時間過ぎちゃったしね。まあ座ってよ。運転疲れたでしょ」
その感謝の気持ちの表れか、ファミレスは杏奈が支払って領収書をもらったが、下の階のコンビニは西沙が支払っていた。
杏奈は装飾の激しい丸いカフェテーブルを挟んで西沙の向かいのソファーに腰を下ろすと、そこで初めて体が疲れている自分に気が付いた。
西沙はコンビニのレジ袋の中身をテーブルに広げる。お惣菜のパックを給湯室の電子レンジまで運びながら話を続けた。
「二人いるよ」
「二人……?」
「中心になる人物が二人ってこと。例の〝悪魔祓い〟の犠牲者って言われてる人の孫娘と…………もう一人は元職員…………介護士っていうの? そういう人」
「……どうして分かるんですか?」
杏奈がそう聞き返すと、西沙は温めたパックの両端を両手の指で摘んだまま小走りにテーブルまで戻りつつ応える。
「怪しげな呪文でも唱えて〝見る〟と思った? あんなことやってるのは嘘つきな奴らだけ」
「…………そう……なんですか?」
正直、杏奈はそういったことに詳しいわけではない。オカルトライターでもなければ、今までの人生の中で心霊的な世界に触れたこともない。直接神社の巫女と話をしたのですら昨日の咲が初めてだ。
「こっちが意識して見ようとすれば見れるよ。私の場合は〝空腹〟の時は見にくくなるだけ。人によって違うみたいだけど」
そう言いながら西沙は温めたばかりのチャーハンを口に運ぶ。
──……さっき食べたばっかりなのに…………
杏奈も話を聞きながら温めてもらった唐揚げを食べ始める。
「餃子も食べてよ。美味しいよ。デザートもあるし」
「でも……元職員なんて何人もいますよ」
その杏奈の言葉に、西沙はテーブルの端にあるメモ帳に手を伸ばしてサラサラと何かを書き始めた。一枚めくって杏奈に手渡しながら口を開く。
「この二人」
〝浅間美津子〟
〝吉原美優〟
「浅間って人が元職員。いわゆる〝悪魔祓い〟をしたのはその二人…………法人の代表は関係ないね。でもマスコミは宗教法人っていうか……いわゆる新興宗教団体が怪しげな悪魔祓いをしていたってことにしたいんでしょ?」
その通りだと杏奈も思った。
マスコミの求めている〝ゴシップ〟はそこにある。
西沙が続けた。
「でもそれが分かったってさ、残念なことに裏が取れなきゃどうしようもないよ。だからここからはあなたの仕事…………その二人がどういうわけか病院の中で犠牲者と言われてる患者に〝悪魔祓い〟を行った…………その光景が見えてもその理由までは分からない…………まあ私も、こんなことで自分の母親まで悪者にされたくないしね…………で? 話に乗る?」
杏奈は考えていた。
西沙の言っていることが事実かどうかは、動いてみなければ分からない。
しかしそれでも、杏奈は気持ちを決める。
☆
吉原藤一郎の家族が正式に病院を告訴したことで、警察が動いた。
朝。
杏奈はソファーに座ってスマートフォンを片手に話し続けていた。その横には丸められたタオルケット。
ソファーの横には大き目の液晶テレビ。映し出されているのはホスピスが正式に告訴されたニュース。誰かと電話で話を続ける杏奈の表情は硬かった。
「……お願い…………難しいことは分かってる…………でも裏が欲しいの…………そっちの〝対象〟を教えて…………もう動いてたんでしょ?」
やがて杏奈がメモ用紙にボールペンを走らせながら電話を続ける。
「……やっぱり……この二人で間違いないのね…………分かった。こっちも何か掴んだら連絡するから」
杏奈は電話を切ると、すぐに顔を上げた。
「ごめんなさい…………」
そう言う杏奈に近付きながら、出勤したばかりの西沙が向かいのソファーに腰を降ろす。
「いいよ……警察に知り合いいるの? やっぱりもう動いてた?」
「はい…………警察がチェックしてるのも……やっぱり同じ二人でした…………」
杏奈はメモ用紙を西沙に見せながら続ける。
そこには、昨夜の西沙のメモと同じ〝浅間美津子〟と〝吉原美優〟の名前。
「確証の無い部分が多くて動きづらいみたいです…………それにマスコミが言ってる死亡率の高さも嘘みたいで……」
「そりゃそうだよねえ……そもそもがホスピスだし。体調が良くなって退院する患者の率は通常の病院よりはるかに低いはず…………ほとんど無いくらいにね。それにあの二人も犯罪を犯したわけじゃないから警察も切り口を作りにくいんだろうね。それに吉原美優には会えそうにないよ。告訴した側の家族だし、どうせマスコミのせいで家からは出られないだろうし…………」
「じゃあ……もう一人の…………」
「浅間美津子…………吉原藤一郎が亡くなった直後に退職してるはずだよ。職員のリストってマスコミは掴んでないの?」
「掴んでます────」
杏奈は再びスマートフォンを手に取る。
西沙がどうして美津子の退職を知っているのかは、聞くまでもないと思った。
☆
美津子のアパートは街の郊外。
周囲には田畑も多い。
病院からは少し距離があった。
雨樋が所々外れかけているような、そんな古いアパート。壁の色も変わってしまったのだろう。暗く燻んだ印象が二階建ての建物全体から漂う。
「部屋は?」
アパートの二階を見上げながら西沙がそう聞くと、隣の杏奈も同じく二階を見上げていた。
そして応える。
「そこの階段を登って……一番奥の部屋です」
先頭に立って階段を登り始める。
「────ここに引っ越したのは一年くらい前……何も変わっていなければ独身のはずです…………」
完全に錆びついた階段は、杏奈のスニーカーでも大きく空気を揺らした。それ自体も不安定にグラつく。そのまま繋がった二階の手摺りも、すでに元の色すら分からない。おそらく今は触る人もいないのだろう。微かに積もった塵がそれを物語っていた。二階の廊下にもそれは目立つ。その塵を見る限り、周囲に足跡は多くない。一階、二階共に三部屋ずつ。満室ではなさそうだ。二階で玄関の前に足跡があるのは────一番奥の、美津子の部屋だけ。
表面が何箇所もヒビ割れ、角から錆びついたドア。
呼び鈴は無かった。
杏奈は迷わずドアをノックする。
玄関の郵便受けにはチラシが詰め込まれていた。
──……いるのかな…………
ドアの奥からは何も聞こえない。
独特の嫌な時間が過ぎていく。
途方もない長い時間に感じられた。
やがてドアの向こうからの小さな声。
「…………はい…………なんでしょうか…………」
目を伏せたままの、やつれた顔がドアの隙間から覗く。
強い影が、その顔の大半を隠す。
杏奈は、あまり意識せずに口を開いていた。
「……浅間……美津子さんですね…………」
ドアの奥の影────美津子はさらに深く目を伏せる。
その表情に、杏奈は慎重に言葉を選んだ。
「……病院でのこと……お話を、伺えませんか? ご迷惑はお掛けしません…………」
「────…………すいません……………………」
小さく低い声と共にドアが閉まり始め、錆の匂いがした時、そのドアは隙間に差し込まれた杏奈のスニーカーに遮られる。
──……今を逃したらもう助けられない…………
──……? ……助けられない……?
美津子がドアノブを握る手に力を入れた直後、杏奈が続けていた。
「────本当のことを知りたいんです」
それに続くのは、杏奈の背後の西沙。
「あなたは何も悪くない!」
杏奈は驚きのあまり、咄嗟に振り返っていた。
そこには、予想だにしなかった、両目を潤ませた西沙。
「あなたには何の罪もない! あなたを守らせて! 美優さんのことも…………」
他人の過去、感情が見える。
それが西沙の能力であることは確かに杏奈も聞いてはいた。そして美津子と美優の存在自体を最初に教えてくれたのも西沙。
しかし、それは杏奈にとっては唐突過ぎた。
──…………西沙さん……?
その西沙は、突如として我に返ったような表情を浮かべると、その頬を涙が一筋零れていく。
西沙にも理解が追い付いていなかった。自ら発しようとした言葉ではない。まるで誰かに言わされたように感じる。しかし感情は昂っていた。
──……守らなければ…………
そんな感情だけが西沙を包み込む。
そして、ドアが開いた。
☆
その日の夜。
杏奈と西沙は御陵院神社にいた。
西沙の実家でもあるはずだが、祭壇の前で西沙が落ち着かない姿なのが杏奈には気になった。
座布団で正座をする杏奈とは対照的に、西沙はあぐらをかいて片膝の上で肘を立てている。
涼しい夜になった。日に日にそれを感じることが増える頃。そしてそんな感情は、杏奈の中に生まれた寂しさを増長するには充分だった。
「安心しなさい西沙。姉たちはいませんよ」
二人の前に姿を表した咲は、目の前の西沙の姿を見るなり、そう言って祭壇に背を向けて腰を降ろした。
「──別に…………」
小さく呟いた西沙に、咲はすぐに返す。
「二人は今夜は出張です。少々面倒な依頼でしたので、まだしばらくは帰らないでしょう」
そして咲は、杏奈に向けた視線を西沙に戻し、続けた。
「どうしてあなたが関わっているのですか? 電話の時に少々お話はしましたが…………あなたにどうこうして欲しいと伝えたつもりはありませんよ」
「私も頼まれたからやってるわけじゃないよ。〝見えちゃった〟ものは仕方ないでしょ」
強気に応える西沙の口調に、杏奈は二人の関係性が少しだけ見えた気がした。
──…………色々ありそうだなあ…………
それでも、西沙は何も言われずとも自ら崩していた足を正座の形へ。
──……犬猿ってわけでもなさそう……
そう思った杏奈に、目の前の咲の声が飛ぶ。
「では……水月さん────」
咲は気持ちを切り替えるように杏奈に視線を戻して続けていた。
「今回の御用向きは…………」
そして、杏奈は語り始める。
「はい……病院の元職員の方と話してきました…………あの一件のすぐ後に退職された方です。そして、今回の問題の中心にいました」
咲は一度も口を開かないまま、杏奈の話を聞き続けていた。
決して短い話ではない。
しかも、西沙も口を挟まない。
俯いたまま、目の前の板間を見つめ続ける。
杏奈の話が終わる。
やっと咲は視線を杏奈から外した。
そして小さく息を吐く。
杏奈は話し疲れた様子もないまま、そんな咲の姿を目で追っていた。
そして、次に口を開いたのはその咲だった。
「面白い話……と言ったら不謹慎でしょうが、珍しい方ですね…………マスコミ的にはこんな結論は求めていないはずでしょうに…………」
「娘さんのお陰です」
杏奈は咲の寂しげにも見える目を見ながら応える。
それに咲はすぐに返した。
「しかしもう一人……裏を取らなければ誰も信用してはくれないでしょう…………どうするおつもりですか? なにせ病院を訴えている側…………代表の田原さんが動いたとて無駄なこと…………」
すると、杏奈がわずかに身を乗り出して応える。
「……お願いできませんか?」
「……私ですか…………」
「娘さんでは目立ち過ぎます」
すかさず西沙。
「失礼ね」
しかし杏奈は言葉を続ける。
「神社という後ろ盾があれば接触はしやすいはずです。マスコミの報道でもこちらの神社にバックアップされている事実は出ていません。何か適当な理由をつけて────」
「難しいでしょうね。それ相当の理由がなければ…………私までマスコミに追われることになり兼ねません……そっちは娘にお願いしますよ」
「でも目の前に本当のことがあるのに────」
「どうにかして…………真実を伝えて下さいませんか…………私は田原さんのほうが心配です…………」
そして、床に置いてあったスマートフォンが音を立てる。
咲の物だ。
西沙が顔を上げる。
その西沙は咲が手を伸ばすより早く口を開いた。
「────来た────」
西沙には見えていた。
その目が大きく開かれている。
モニターを見た咲が目を開くと、杏奈の中で何かが疼く。
それは、嫌な感覚だった。
「失礼」
立ち上がった咲は、祭壇前から続く広い廊下へと足を滑らせる。ドアは無い。微かに聞こえる咲の声に、杏奈と西沙は無意識の内に耳を側立てていた。
二人の元に小さく届く咲の声は、西沙の予想通り、動揺を隠せてはいない。
「…………いつ…………そうですか…………分かりました…………すぐに…………」
やがて、その咲が西沙と杏奈の元に戻る。
二人は咲の言葉を待った。
空気が澱む。
嫌な時間。
そして、ゆっくりと口を開いた咲の表情が曇る。
「つい先ほど…………代表の田原さんが亡くなりました…………」
電話と同時に予想出来ていた西沙。
嫌な感覚を感じながらも、何も見えていなかった杏奈。
二人は共に、口を開かなかった。
咲が続ける。
「…………ご自宅で…………自ら命を絶ったところを…………奥様が見付けられたとのことです…………」
「…………どうするの?」
そう小さく返したのは西沙。
そして続ける。
「病院に運ばれたんでしょ? 奥さんもそこにいるなら…………」
そこに挟まったのは咲から視線を外した杏奈の声。
「────どうせ…………マスコミが病院を囲ってる…………」
「……遺書があったということです…………」
そう返す咲が、ゆっくりと続けた。
「水月さん…………病院までお願い出来ますか? 私と一緒に……あなたに真実を見て欲しい…………」
それだけ言うと、咲は立ち上がった。
巫女服の衣擦れの音が、空気を大きく揺らす。
☆
病院の前には何台ものマスコミの車両と、無数のマスコミ関係者がひしめき合っていた。
それはまるで、暴動の群衆かと思うように殺気立って見える。
その熱気のせいか、その周辺はあまり涼しくは感じない。
杏奈は少し離れた道路の脇に車を停めた。もっとも、人集りのせいでそれ以上は進めなかった。周囲には歩道に乗り上げたマスコミの車が何台も並び、皮肉にも世間の注目の高さを際立たせた。
そして、マスコミの照明が周囲を明るく照らしている。
──……どうせ……来月にはみんな忘れてるニュースなのに…………
杏奈は不意にそんなことを思いながら、運転席で口を開いた。
「どうやって入り込みます? その格好じゃ目立ちますよね…………」
振り返った後部座席には、巫女姿のままの咲。
慌てていたからなのか、杏奈もここに来るまで咲の服装のことまで意識を向けることが出来なかった。
しかし助手席の西沙は平然と口を挟む。
「まあ大丈夫でしょ。だよねお母さん」
「…………ええ、問題はありません」
咲はそれだけ応えると、ずっと下げたままだった顔を上げ、ドアを開けた。
「──いや……でも」
慌てて運転席を降りる杏奈のそんな声も無視するかのように、咲はアスファルトに草履の音を響かせる。そしてその後ろを着いていく厚底スニーカーの西沙にも迷いがあるようには見えない。
群衆のザワつきに掻き消えるような草履の音を追いかけるように、杏奈も着いていくしかなかった。
周囲にバラけているマスコミの人間たちが、しだいに咲に視線を向け始めていた。
どう考えても場違いな服装だ。
僧侶ではなく、巫女が病院の入り口を目指している。
そしてその巫女姿の咲が群衆に辿り着いた。
──……無理だよ……入れない…………
杏奈がそう思った時、咲と西沙の足が同時に止まる。
少しずつその存在が周囲に広がり、少しずつ、辺りが静かになった。
気が付いた時には、ほとんどの群衆が咲を見て呆然とした表情を晒し、次の咲の言葉に目を見開いていた。
「……道を開けなさい…………真実を見ようとしない者に……用はありません…………」
決して大きな声ではない。
それなのに、咲の言葉はその場を掌握していた。
咲は右手を胸の辺りにかざすと、そのまま何かを払うように、その手を真横へ。
すると、まるで大きな手で払われたかのように、群衆が動き、道が出来た。
西沙は軽く振り向き、呆然とその光景を見ていた杏奈に目配せをする。
そして咲を先頭に、三人は病院の中へ。
病院の入り口からはマスコミは入ることが出来ない。警備員が何人もいるだけでなく、病院の許可なく勝手に立ち入ることは出来ないからだ。
「田原様の奥様に、私が来たとお伝え下さい」
咲はそう言って警備員に自分の名刺を見せた。
すぐに入り口が開かれる。
そして自動ドアを通った先、総合受付のベンチに、中年の女性。
咲の姿を見るなり駆け寄った。
「──警察の方たちが…………司法解剖をしたいと…………」
田原の妻────貴子であろうことは杏奈から見ても容易に想像がついた。その貴子は泣き疲れて腫れた瞼のまま、足元もおぼつかない。
咲はそんな貴子を再びベンチに座らせると、自らもその隣に腰を降ろして口を開く。
それはついさっき群衆を黙らせた声とは違う。まるでそれはその場を包み込むかのような柔らかい口調だった。
「……致し方ないことなのでしょう……でも、すぐに奥様の元に帰られますよ…………」
すると貴子は、慌てたようにハンドバッグから数枚の紙を取り出す。
何度か折り畳まれたかのように、少し皺が目立つそれを咲に渡して言った。
「…………主人の遺書です…………本物は警察にありますが、御陵院さんに見せたいからと言ったらコピーをくれました…………」
──……つまり…………警察は中身を見ても問題ないと…………
──…………警察の予想通りだったってこと…………?
──……どうやって真実に辿り着いてたの…………?
──…………あの二人からすでに話を聞いてたんだ…………だったら…………
そう思った杏奈の目の前で、言葉を返したのは咲。
「そうでしたか…………」
その声が続く。
「……総て…………奥様の元に帰りますよ…………」
『
このような結論を選んだことをお許し下さい。
私は神波会の信者の皆様、及び病院の職員、さらには患者の皆様にも多大なご迷惑をおかけ致しました。
総ては私の不徳の致すところであり、同時に私の未熟さが招いたことと痛感しております。
御陵院様を初め、私は多くの方々から助けていただき、愛されてきました。
とりわけ家族の存在は何よりも掛け替えのない存在でした。
しかし私の力が至らないばかりに、世間様を騒がせ、多くの方々に御迷惑をかけてしまいました。
私は総てを語りたいと思います。
当初マスコミの方々に語った時、残念なことに私の言葉は違った形で伝わってしまったようで誠に残念でした。その時分は私も真実を知ってもらいたい一心でした。総ては私の力不足です。
ですがこの文章なら、そのまま伝わってくれるものと信じています。
真実の中心には二人の女性がおられます。
しかし、決してそのお二人を責めないでいただきたいのです。
お二人は何も悪いことはしておりません。
患者の吉原藤一郎様を苦しみから解放してあげたい一心だったはずです。
終末期医療の世界を追及したかった私と同じなのです。
』
☆
医療法人ホスピス医院────安寧病院が田原によって作られてからすでに二〇年以上が経っていた。
田原は宗教法人〝神波会〟の代表ではあったが、元々はホスピス医院を作ることが目標だった。
神波会のベースは日本に古来から存在してきた神道。田原自身が神道に傾倒し、そこに癒しを感じていたことが終末期医療への興味に繋がった。
その関係もあって御陵院家も宗教法人の設立そのものから関わった。当初からホスピスの話があり、そこに一番共感出来たからでもある。御陵院家で担当となったのが、神社の代表となる直前の咲だった。
宗教法人の設立というものはすぐに出来るものではない。組織としての活動の実績、拠点となる施設、活動年数等、もちろん御陵院家がその総てに於いてバックアップをし、法人設立と同時のホスピスの開業を目指した。
そのためか、無事にホスピスが開業してからも咲は相談役として関わっていた。
しかし病院自体は決して宗教色を強調した施設ではない。病院の職員の中にも数名は信者がいたが、ほとんどは神波会とは無関係の職員。患者も同じだった。むしろ熱心なキリスト教信者の患者すらいた。
しかし法人としては何らそこに問題はないとの判断のまま。
押し付けずに、受け入れる。
総ては終末期医療のため。
人生の最後を看取ることに神道としての教義を重ねていただけ。
あくまで「最期の時を穏やかに過ごして欲しい」という想いだけだった。
その精神に共感を受けて働いていた職員の中に、浅間美津子がいた。
美津子には他人と関わることを極端に避けるようなところがあったが、田原からは違って見えていた。
人と関わるのが苦手なのに、人と直接触れ合う世界で働いている…………本当の気持ちはもっと複雑なのだろうと、田原は思っていた。離婚歴のある三〇代半ば。過去に何かがあったのだろうとは想像が出来たが、美津子が語ろうとしないだけでなく田原も特別聞き出そうとはしなかった。田原にとっては、面接の時にホスピス設立の理念を話しただけで涙ぐんだ美津子のその気持ちだけで充分だった。
元々介護の様々な分野で働いてきた美津子は、ホスピスでもよく働いた。誰から見ても真面目な印象だった。
田原が嬉しかったのは、少しずつ、美津子に笑顔が増えてきたこと。
田原はホスピスを運営していく中で、患者だけでなく職員のことも助けることが出来ているのなら、それが一番だと思えた。
吉原藤一郎がホスピスに入所してきたのは、そんな頃だった。
病気は後天性血友病。
少なく見積もっても五〇万人に一人と言われる難病。未だに発症原因は見付かっていない。
吉原は現在八五才。後天性血友病を発症したのは八四才の時。
元々八〇才で甲状腺癌を患い、高齢でもあることから癌の治療ですら難しく、延命治療を行っていたに過ぎなかった。後天性血友病が発症した時点で認知症は見受けられず、本人と家族の意向で延命治療を拒否する。
そしてホスピスにやってきた。
医師でもある院長の田原から見ても、痛みを和らげ、血友病の症状である出血を抑えていくしかないと判断した。
美津子が介護の担当となったが、高齢者と長く接してきたとはいえ、血友病特有の症状である内出血から来る全身のアザのような皮膚を見た時は少し驚いた。
そんな美津子は血友病を調べていく。難病となると、施設の看護師でも医学書でしか見たことがないという者ばかり。
施設では初めての病例を持つ患者ということで綿密なカンファレンスが行われたが、美津子は休日を返上して図書館にも通っていた。
もちろん目的は〝治療〟ではない。
どうやって〝最期の時まで苦しみを和らげる〟ことが出来るか。
ホスピスに来ることを選ぶ患者とその家族のほとんどは、もちろんある程度は〝死〟というものを受け入れている。ホスピスとはそういう所だ。しかし現実を許容したからといって怖くないということではない。
誰もが〝安らかな死〟を求める。
それを求めてホスピスにやってくる。
決して意識の無い状態で人工的に心臓を動かしてほしいと願っているわけではない。
図書館やインターネットで集めた資料をカンファレンスで吟味しながら、美津子は当然のように吉原家とも関わりを深めていく。
そして病院に毎日のように顔を見せていたのは孫の美優だった。孫と言っても二八才。やがて病室以外での美津子との会話も増えていく。それがお互いの過去を語るようになると、すでに三〇代となっていた美津子にとっては、いつの間にか美優は妹のような存在になっていた。
美優も決して順風満帆な人生ではなかったが、それがかえって美津子との関係性を強くしていったのかもしれない。
そして美津子は、関わり過ぎた。
ある日、病室のドアをノックすると、聞こえてきたのは美優の声。
「美津子さん? どうぞ」
いつの間にか、お互いを下の名前で呼び合う仲になっていた。
美津子は部屋に入ると、その光景に足を止めた。
吉原は昨夜日付が変わった頃に痛みを訴《うった》えていた。看護師と施設長との教義の末に鎮痛剤を処方していたが、この日の朝はまだその薬の効果か目を覚ましてはいなかったようだ。
静かにベッドに横になる吉原には、布団が掛けられていない。
そしてパジャマの上着が大きくたくし上げられ、腹部から胸部にかけて、痩せ細って赤黒いアザだらけの肌が露出していた。血友病の関係で外傷は望ましくない。その危険性を作らないため、ボタン付きの服も避けられていた。
その腹部をベッド脇から覗き込むようにしながら美優が立っている。
吉原の肌に、美優が指を這わせる。
「…………美優……さん…………?」
無意識の内に美津子がそう言葉を漏らすと、美優が振り返る。
その目は真剣だった。
そして口を開く。
「大丈夫……こうすると……〝悪魔〟は静かになるの」
それは、美津子にとってはまるで想像だにしていない言葉だった。
──…………〝悪魔〟…………?
「来て美津子さん」
そう言う美優に促されるまま、美津子はベッドに近付く。
美優は片手に小さな瓶を持っていた。それを美津子に見せながら言葉を繋げる。
「これは聖水…………悪魔が嫌うの」
「──悪魔って…………」
思考の追いつかない美津子にとっては、そう返すのが精一杯だった。
「おじいちゃんは悪魔に蝕まれてる…………私の息子も血友病で死んだ……親戚も何人か同じ血友病で死んでる……今度はおじいちゃんまで……私の一族は悪魔に取り憑かれてる…………」
──……キリスト教…………
美津子の頭に、以前の美優との会話が思い出されていた。
美優は未だキリスト教信者のまま。それがなぜかは分からなかったが、現在でも改宗はしていないとのことだった。
そして美優は〝悪魔〟の存在を信じていた。
吉原の枕の横には古めかしい聖書。表紙の擦り切れ方を見る限り、美優が愛用していた物なのかもしれない。少なくとも美津子にはそう見えた。
──……だから……毎日のようにお見舞いに…………
しかし、決して吉原を苦しめているようには見えない。
今までも、事実として気が付かなかった。
例えそれが〝悪魔祓い〟というものだったとしても、美津子には実害があるようには感じられなかった。
──……それで美優さんが納得出来るなら…………
美津子は誰にも話さなかった。
知っていたのは美津子だけ。
美優と二人だけの秘密の共有が始まる。
しかしそれからの美津子の中には、不思議な感覚があったのかもしれない。
仲のいい〝本当の友達〟と秘密を共有する独特の緊張感。
なぜかそれは、いつの間にか世間に対しての優越感にも似ていた。
世間────今までの人生に対しての美津子の中の何か。
そして、美津子は〝悪魔祓い〟に協力するようになる。
ある時は美優が聖水を吉原の体に振りかける背後で聖書を読み上げ、またある時は背後で美優が聖書を読み上げるのを聞きながら聖水を指で振り撒いた。
「前より……おじいちゃんが苦しむ頻度が減ってきたでしょ? 悪魔の力が弱くなってる証拠…………」
美優はそう説明した。
もちろんそれは過度な投薬を止めて〝病に立ち向かう〟ことから〝痛みを和らげる〟方向へとシフトしたからに他ならない。
それでもその頃の美津子には〝本当の友達〟の言葉が嘘とは思えなくなっていた。
そして。
その日は美津子が聖水の瓶を持っていた。
背後には聖書を持った美優。
時間はもう暗くなり始めていた。
夕食の後。
美津子が聖水を指で吉原のアザに塗る。
しかし高齢者の乾燥した肌はその水をただ弾くだけ。
背後でドアが開いた時、美津子と美優は驚いて同時に顔を向けていた。
そこには美優の両親。
二人は目を見開いて、やがて目の前の光景に、眉間に皺を寄せた。
最初に口を開いたのは母親の優子。
「……美優…………あなたはまだそんなこと…………」
「だっておじいちゃんが────」
反射的にそう返した美優の言葉を遮ったのは、美津子。
「────これは…………」
しかし父親の憲一がさらにその声を遮る。
「浅間さんも一体何をしてるんですか⁉︎」
「…………私は…………〝治療〟を………………」
「馬鹿な! こんな治療があってたまるか!」
「神聖な儀式なんです! 美優さんは何も悪くありません!」
その美津子の声に憲一の感情もさらに刺激される。
「じゃあなんですか浅間さん! ここでは怪しげな〝悪魔祓い〟なんかしてるんですか⁉︎」
「いえ…………違います…………」
消え入るような美津子の声は、震えていた。
憲一の大きな声に、周囲の職員が集まり出す。
やがて田原が病室に入った時には、すでに興奮と熱気が室内を包み込んでいた。
そしてそれは、憲一の声として廊下にも溢れる。
「やっぱりここは怪しい宗教団体だったんだな! 娘まで巻き込んで! 職員も狂ってる!」
それに応えようとする田原の言葉は宙に浮くだけ。
やがて、吉原家が転院の手続きに入った翌日、吉原藤一郎は亡くなった。
転院の手続きの裏ですでに準備が進められていたのか、その日の内に、吉原家はマスコミに病院での一件をリークする。夜にはテレビでもニュースが流れた。
その夜の内に美津子から退職届を出された田原は、なんとか美津子を引き止めようと説得するが、結局は守りきれないまま。
翌日には日中のワイドショーでの格好のネタとなり、咲への相談の結果、田原は家から出ることすら出来なくなった。
そして、病院も、田原の家も、マスコミが周囲に張り付く。
☆
最初に口を開いたのは咲だった。
「…………どうやら……私にも責任の一端があるようです…………」
しかし、それに貴子が食いつく。
「何を言ってるんですか⁉︎ 御陵院さんがいてくださって私たちは感謝しているんです…………夫も……御陵院さんに会わせる顔がないと…………」
そして貴子は泣き崩れた。
動いたのは杏奈だった。
コピー用紙を覗き込んでいた体を上げ、マスコミの照明が入り込むガラスの自動ドアに体を向けると、その口を開く。
「────記者会見の準備に入ります…………咲さん…………一緒に出てくれますか? このまま終わらせるわけにはいかない…………」
──……マスコミも……警察も…………
そう思った杏奈の降ろした両手が強く握られているのを見ながら、咲も気持ちを固めた。
「…………分かりました……」
「ダメだよ」
そう言って挟まったのは西沙。
その西沙が続ける。
「お母さんはマスコミ向きじゃない。それに巫女さんが出てきたらまた怪しく思われるよ。私が出る…………私なら神社とは関係ないしね」
「しかし西沙…………」
咲のその声を西沙が遮る。
「任せてよお母さん……私の凄さはお母さんが一番知ってるでしょ。それに、お母さんがマスコミの餌食にされるのだけはイヤ…………」
その夜の内に、杏奈は雑誌社編集長である岡崎を経由して記者会見の場所を押さえた。場所は駅前のホテルの催事場。
あれほど杏奈の取材姿勢に疑問を呈していた岡崎も、その動きは早かった。すでに次のネタが見付かっていたからだ。早々に今回のネタは終わらせかったのだろう。しかもネタとして解決させるのが自分の社の週刊誌となれば格好もつく。
「やっぱり、あの親父さんの娘だな」
岡崎はそう言って電話を切った。
杏奈にはその言葉の真意は分からなかったが、どう言われても構わないと思った。
──……これは私が決めたこと…………でも…………
──…………お父さんなら…………どうしたのかな…………
翌日の午前一〇時。
会場は多くのマスコミが押しかけ、改めて世間の関心の高さが伺われた。
控室には杏奈と西沙だけ。
「さすがに控室とはいっても、いいソファーよねえ」
そう言ってソファーに横になる西沙に、杏奈は眉間に皺を寄せて返していた。
「それはいいですけど……なんでそんな格好なんですか?」
「だって目立ったほうがいいでしょ? 第一印象は大事だよ」
「だからって…………」
杏奈の言うことももっともで、西沙はいわゆる黒いゴスロリファッションに身を包んでいた。
「前から着てみたかったんだよねえ。杏奈ももう少しオシャレしてきなさいよ。男だか女だかも分からないような服装ばっかりして…………彼氏出来ないよ」
「西沙さんだって────」
「お互いにさ……顔売っておきたいじゃない。仕事の中身は違っても、食べていかなきゃいけないし…………他の仕事なんか出来ない性分でしょ? 私も同じ…………」
会見場を埋め尽くすマスコミ関係者とカメラの台数に、その照明の強さもあるのか、杏奈は正直圧倒された。
そして会場のザワつきの元はやはりゴスロリ姿の西沙。一見するとお淑やかなその表情は、確かに注目を集めていた。
──…………さすが……
そう思いながら、杏奈は話し始めた。
「マスコミ各社の皆様……本日はお忙しいところお集まりいただきまして恐縮です。昨今騒がれておりました安寧病院の────いわゆる〝悪魔祓い〟騒動に関しまして、その真実が判明いたしましたのでご報告させていただきます。隣にいるのは────」
それを、西沙が遮るように口を開く。
「────私は……御陵院西沙と申します。宗教法人神波会の相談役としてその設立から団体を支えてきた御陵院神社代表────咲の娘です」
一気にカメラのシャッター音と大量のフラッシュが西沙に向けられる。
しかし、西沙は堂々と語り始めた。
「すでに報道でご存知かと存じますが、昨夜、法人の田原達夫代表が自ら命を絶たれました。本日皆様に発表するのは、その田原氏の遺書になります。最初に言っておきますが、今回の件に関して一切の事件性は存在しません」
そこにマスコミの群れの中から言葉が飛んだ。
「悪魔祓いと殺人の関係はあるんですか⁉︎」
「ありません」
西沙のその言葉に、尚も別の記者が食い下がる。
「しかし遺書の証言だけじゃ────」
「ここに────証拠があります」
そう言って大き目の茶封筒を掲げたのは杏奈だった。
ザワつきの中で注目を浴びながら杏奈が続ける。
「これは、亡くなられた吉原藤一郎氏の司法解剖の結果です。この後皆様にもコピーをお配りしますが、これは田原氏が以前勤めていた総合病院で行われたものです。死亡の原因に何ら不審な点は無く、ホスピスでのターミナル医療として真っ当な処置を施された結果という部分には何の疑問点もありません。非常に稀な難病であることに加え、御家族の希望、そしてマスコミへの御家族からのリークのためか…………早い段階から警察も関わっている正式な物です」
「どうして告訴前から警察が────」
そんな記者の質問を、再び杏奈が遮る。
「ごもっともなご質問ですね。本来ならあり得ないことです…………なぜ警察がそんなにも早く動いていたのか…………あくまで私の推測ですが、宗教法人が作った病院……というところが理由だったのではないかと感じています。警察がこの手の宗教絡みに神経質になっているのは報道機関の皆さんならご存知のはずです。非常に神経質にならざるを得ない部分があったと推察されます…………とは言っても、これ以上は警察側を追求していただくしかありません」
そして、西沙が杏奈の言葉を掬い上げる。
「しかし、その司法解剖の資料がここにあること…………そしてこれから読み上げる田原氏の遺書も本物です。この件に事件性がないことを警察が認めた……と判断していいかと思います。そして今回のトラブルの中心には二人の人物が関わっています。しかしまずは皆さんに知っておいていただきたいのは、この二人には何の悪意も無かったということです。善意しかなかったんです。二人は犯罪者ではありません。誰も殺してなんかいません。人を救いたかっただけです……」
その微かに震える西沙の声に、会見場のザワつきが消えた。
そして、ゆっくりと、杏奈が田原の遺書を開く。
その紙の音だけがマイクを通して周囲に響き、やがて杏奈が語り始めた。
「では、田原氏の遺書を…………読ませていただきます…………」
事件性だけでなく、オカルト的な要素も存在しない。
西沙と杏奈の出会いは不思議なきっかけを作り出した。
そして、二人はその後も関わり続けることになる。
☆
「最近少食になりました?」
陽が傾き始めたファミレスの窓際の席。
客の数はまばら。賑やかになるにはもう少し時間が必要だろう。西沙と杏奈が注文を終えてすぐ、先に口を開いた杏奈は西沙の向かいの席。
「あの西沙さんがドリンクバーの他にパフェだけなんて」
こう続ける杏奈に、西沙は眉間に皺を寄せて応えていた。
「もうすぐ夕ご飯でしょ? 帰れる時は美由紀と一緒にご飯だから控えてるだけ」
「まさか太っ────」
「────てない。から、早く話を進めてよ」
西沙は何かを誤魔化すかのように外の駐車場に視線をズラす。
テーブルに置かれた杏奈からの調査報告書は確かに奇妙なものだった。
それを一つずつ、改めて西沙は杏奈の口から紐解いていく。
「まず楢見崎家ですけど、戸籍の時点でおかしいんです。西沙さんが聞いた話では────」
話し始めた杏奈の言葉を西沙が繋ぐ。
「最初に長男が産まれて、でも一年以内に亡くなって、次に長女が産まれて、その後は一人も産まれないから血筋のためにその長女は大切に育てられる……ってことらしいんだけど」
その西沙の説明を噛み締めるように聞いた杏奈は、すぐに応えた。
「まず電話で言ったように、その長男の存在がそもそも戸籍に存在しません。出生届けも、当然死亡届けもです」
「どういうことなの……?」
返しながら西沙の目が鋭くなっていた。しかしパフェのスプーンを動かす手は止まらない。
「まさかとは思いますけど……」
その杏奈は相変わらずコーヒーだけ。
一口飲んで続ける。
「……情報が間違っているのか、楢見崎家が嘘をついているのか……」
「でも楢見崎家が嘘をついてたとしたら、どうして私は気が付かなかったんだろう…………」
西沙の一番の疑問はそこだった。自分が意図的に見ようとして見れないのは、同じ能力者が意図的に遮断している場合のみ。楢見崎家の人間にそこまでの力があるようにも思えない。
確かに由紀恵の中に〝嘘〟はあった。
と言うよりは〝まだ言えないこと〟。
でもそれは、杏奈が持ってきた〝嘘〟とは違った。
西沙の気が付かなかった〝嘘〟。
「……嘘をついていないとしたら…………」
西沙が呟くようにそう続けると、杏奈がさらに西沙を追い込んだ。
「誰かに邪魔されてませんか?」
「邪魔?」
西沙が疑問に包まれた目を杏奈に向ける。
その杏奈の中でも疑問が膨れ上がっていた。
「西沙さんがこの一連のことに気が付かないなんておかしいですよ。電話で言ったこと覚えてます? 浅間美津子…………」
すると、西沙はスプーンをパフェのグラスに立てた。甲高い音が空気を小さく震わす。
そして重い口を開いた。
「……楢見崎家の出身だったって、本当なの?」
偶然にしては出来過ぎた話だ。
しかし関連が見られない限りは偶然の繋がりに過ぎない。
「戸籍で簡単に分かりましたけど……」
すぐに返した杏奈も、そうは言ってもスッキリとはしない表情。
西沙は疑問をぶつけ続ける。
「ただの偶然ってことは?」
「他にもいるのでその線は薄いかと……」
「ほか?」
「自殺した代表の田原さん…………ホスピスで亡くなった吉原藤一郎…………」
「……まさか…………」
西沙も反射的に返していた。
杏奈も集めた疑問を西沙にぶつけていく。
「執拗なまでに楢見崎家が絡んでます…………何かおかしいですよ……あの時は楢見崎家なんて知らなかったので、戸籍の資料の隅に見ていただけです…………楢見崎家って何なんですか?」
「偶然にしても…………」
空になったパフェのグラスを眺めながら、西沙がそう言って続けた。
「ちょっと多すぎ…………そもそも存在しないはずの楢見崎家の人間がそんなにも存在していた事実が、まずは気持ち悪い。しかも楢見崎家の人間はそのことを知らない……知っていたとしても……異常なほどに娘を守ってきたのは事実だし…………」
「今回の件とあの事件自体、関係があるんですか? その……楢見崎家の呪いって…………」
その杏奈の言葉に、西沙は再び駐車場に視線を流し、ゆっくりと返していく。
「あの浅間美津子って女の人……別に記事に必要ないだろうと思って、私が見たあの人の過去までは話さなかったけど、若い時から介護の世界で働いて、鬱病になって、その後に結婚したけど……夫にも親友にも裏切られて離婚して……最後には他人の罪を被って逃げるように色んな所を転々としてたみたい。未来になんの希望も見出せなかった人生……友達も知り合いもいないままの孤独な生き方…………田原さんの遺書にあったでしょ? あの人に笑顔が増えてきて嬉しかったって…………」
「あの後、浅間さんのメンタルケアは確か咲さんがしてたはずですけど、あれから────」
「死んだよ…………」
その西沙の言葉は、杏奈の中で宙に浮かんだ。
他には何も聞こえない。
聞こえるのは西沙の声だけ。
「…………自殺……」
予想していなかった西沙の言葉。
杏奈は無意識に目を見開いたまま。
わずかに持ち上げたマグカップが、力を失ってカップソーサーで音を立てた。
西沙が繋ぐ。
「少し前…………伝えるべきか悩んでた……私たちは一度会っただけだし、あの事件自体は終わったものだしね。でも、よく聞くよね…………頑張ればいつか、とか……信じればいつかは、とか…………そりゃあさ、あの人にだって幸せな瞬間はあったと思うよ。でも、あの人の最後が幸せだったとは思えない…………何も報われないまま死んでいく人がほとんど…………あの人もそうだったんじゃないかな…………少なくとも私はそう思った」
視線を落とし、その目をわずかに潤ませている杏奈の顔を横目で見ながら、西沙がさらに続けた。
「間違っても……私たちのネタの一つのために産まれてきた人じゃない…………あの人にはあの人の人生があったはず……でもそれを今からどうにか出来るわけじゃない…………でも彼女の人生の始まりが楢見崎家だとするなら……それは絶対に無視出来ない……最後まで関われってことなんじゃない?」
西沙の言葉に、杏奈がやっと顔を上げる。
西沙と目を合わせると、小さく頷いた。
言葉は出てこない。
繋ぐのは西沙。
「ちなみにこの間の〝風鈴の館〟……〝ウチ〟が関係してるみたい。でもお母さんからは何も聞き出せなかった」
「…………複雑になってきましたね。どうして御陵院神社が…………」
杏奈は自分の頭が回っていないことを自らの言葉で理解した。整理出来ていない。
「危険だから関わるなってさ……わざわざ私に伝えてまで…………ますます手を引くわけにいかないじゃんね。もう私の仕事なんだから……それに、楢見崎家も絡んでる…………」
「────待ってくださいよ西沙さん。いったい…………」
許容範囲を超えていた。
西沙の言葉は杏奈のまとめられる理解度を間違いなく上回っている。
「この間の一枚だけ残ってた写真の風鈴に……〝家紋〟があったでしょ?」
その西沙の言葉に、杏奈の意識が追いつく。
やっと言葉を返せた。
「待ってください…………でもあれ、家紋じゃないかもしれません」
「分かるよ。でも、楢見崎家に下がってた風鈴に……同じマークが付いてた……家紋って普通は左右対称だけど、あれは〝風鈴の館〟と同じ非対称だった…………」
「調べましたけど、実際にあれと同じ物って見つからなくて……だから家紋以外のマークみたいな……何か別の意味があるような…………」
「……家紋って元々は大陸文化だったんだろうね。向こうは左右対称が美しいとされたけど、日本文化は非対称の中に美しさを見出してきた。ヨーロッパとかユーラシア大陸の人たちからすると日本文化が独特に感じられるのはそのせいだろうね。日本家屋にしてもお城にしても、まるで考え方が違う」
その日本文化の象徴のような神社の産まれである西沙らしい言葉だと杏奈は感じた。同時に疑問が湧く。
「あれ? でも、神社の鳥居って左右対称じゃないですか」
「そうだよ。元々は向こうの文化だもん」
「え…………」
再び杏奈の理解が崩れ始めた。
それを補う西沙の言葉が続く。
「〝鳥の居る所〟……今と違って、昔の人達にとって夜の闇は恐怖そのもの。〝魔の時間〟とも考えられてきた。朝の鳥の鳴き声が待ち遠しかったんだろうね。その声にホッとして朝を迎える…………ヨーロッパの教会にね、日本の鯱鉾みたいに鳥の像が屋根に付いてたりするんだよね。もしくは壁に鳥の絵が彫ってあったりさ。胡散臭い霊能力者がよく鳥居を見て結界がどうとか真ん中は神様が歩く所だとか…………結局はただの宗教なのにね。宗教って人間が作ったものだよ。自然に存在するものなんかじゃない。昔からの風習としての宗教は確かに必要だしそれは大事にしていいと思うけど、そこに無理矢理に不思議な力を感じさせるような設定を付け加えるのはナンセンスだと思うよ」
「よく鳥居を潜る時は右を歩けとか左を歩けとか聞きますけど…………」
オカルト界隈ではよく聞く話。杏奈はついそんな覚えたての知識を口にしていた。
それを分かっても、西沙は笑みも浮かべずに応える。
「真ん中歩いてたら他の人の通行の邪魔でしょ? それだけ。ただの社会規範を教えただけだよ。今以上に神社が地域のコミュニティの中心になってた時代にさ。その規範を教えるために神社の神主が考えたのかな……おかしなもんだね、今より昔の人たちのほうがマナーの意味を知ってるなんて…………」
「もしかして夜の神社が危険って言われるのって」
「お賽銭を盗まれないため。そう言っておけば怖がって普通の人は近付かないでしょ」
「ああ……なるほど……」
「風鈴も元々は大陸文化。日本文化に溶け込んでいるとは言ってもね。もちろん魔除けってのもある意味では風習みたいなもんだけど、そこに左右非対称の日本文化のマークか…………」
「アンバランスですよねえ」
「何かの呪文みたいなものかな」
「それこそ魔除けですかね?」
「かもね。どっちにしても楢見崎家に同じ物があるってことは話は単純では終わらない…………思った以上に大きな仕事持ってきたねえ。安い仕事じゃないなあ」
そう言った西沙の口角が上がる。
目元を光らせた西沙が、テーブルに肘を着いて杏奈を見上げていた。
気軽に西沙に相談していた単純なオカルトネタと違うことを、さすがの杏奈も感じざるを得なかった。西沙との〝出会い〟はまだ始まったばかりなのかもしれない。そうも思った。しかも杏奈の想像以上に御陵院神社の存在は大きい。間違いなく杏奈は、大きな何かに巻き込まれていた。
背中に冷たいものが走る。
そして、次の西沙の言葉に、杏奈も覚悟を決めた。
「でも……私はもう一度行くよ。あそこにいる〝人〟に約束したからね。〝風鈴の館〟は間違いなく御陵院家と楢見崎家が絡んでる…………どんな〝呪い〟だって関係ない…………これはもう仕事とは関係ないよ。私の〝血筋〟も絡んでる…………だから〝風鈴の館〟の相談料も今日のファミレス代だけで勘弁してあげる」
「え⁉︎ でも────」
「その代わり…………まだ手伝ってもらうよ」
西沙の目は、それでも未だ疑問に包まれていた。
しかし、力強い。
☆
その日の昼前。
朝から強い日差しが降り注ぐ日。
すでに陽と同じ、気温も高い。
楢見崎家に来客があった。
予約があったわけではない。
しかし突然の若い巫女の来訪に、出迎えた由紀恵も身構えた。
疑問ばかりが浮かぶ中で客間へと向かう。
「突然のことで……申し訳ありません…………」
その巫女はわずかに視線を落としたまま、由紀恵の目を見ることなく続けた。
巫女服の白と朱色が眩しい。
「私は御陵院神社より参りました…………当主、御陵院咲の娘、綾芽と申します」
そして、深々と頭を下げた。
衣擦れの音が座敷に流れていく。
『 聖者の漆黒 』
第三部「回天」第2話・終
第3話へつづく
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