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知らない地、異なる世界
薄暗き森、牙は剥かれ
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【1】
美しく円を描く月、望月が白銀の光を放つ。その輝きは周囲に瞬く星より何倍も輝き、存在感を主張する。無視出来ぬ神々しき輝きは分け隔てなく地上を照らし出す。
その月明かりの下、僅かに暗い空間に二筋の光が点滅も無く動く。鋭い赤き光はゆらゆらと、不規則に怪しく揺れる。間近しか仄かに照らせない事から、光源は弱いものと解る。
降り注ぐ月光を浴び、仄暗い小さな二つの光も相まって光源の正体が映し出される。周囲に光を遮る物が無い為、全体像が捉えられた。
白骨化した頭蓋、眼窩の奥で赤き光が宿る。それは眼光、怨讐を宿すかのように禍々しく。
人の骨骼をそのまま転写したかのような全身をし、説明の出来ぬ力で繋がれた関節を軋ませ、乾き、軽い音を鳴らして動き回る。密度が低いのだろう、瓦礫に触れる度に崩れ落ちそうな音を響かせた。
その存在はスケェイストと呼称される化け物である。
とある場所、乾いた足音を上塗りする物音が複数、暗闇に木霊し続けていた。そのスケェイストの他にも誰か居る様子。二つの光により、姿が照らし出される。それは二人組みであり、スケェイストよりも僅かにだが素早く動いていた。
その内の一人がその手に持つのは、棒状の何かであり、先端には太い物を付ける。勢い良く振り切られた先、赤い光が筋を作りながら落下した。接地した直後、何かが音を立てて砕け散る。飛散する中、もう光が灯る事はなかった。
「全く、こいつ等は如何して、こんなにしつこく来やがんだぁ?」
無様な塊と言える何かを持った若者がぼやく。苛立ちを感じているのは言うまでもない。
「おい、集中を切らすな。スケェイストがまだ居るんだぞ」
「分かってるよ」
直ぐ隣、棒状の何かを所持した人物が軽く叱責する。受けたもう一人はうんざりとした様子で武器とする物を構えた。声から察するに若者である事は確実。
二人の若者は痛々しく負傷していた。ある程度の処置はしているものの、血は僅かに流れ続けている。動く度に全身に激痛が発し、迎撃の為の動きが妨げられていた。
その点は死角を補填し合って庇い合い、新たに傷を与えられる事はさせず。敵となるスケェイストの動きが鈍く鈍い事が幸いとなっていた。
「っ!退け!」
「なっ!?馬鹿、押すな!」
先に何かに気付いた若者は命令しつつ、もう一人を乱暴に押し退けながら後方へ振り返る。反応が遅れ、押されたもう一人は転倒してしまい、悲鳴を上げていたのだが、気に留められていなかった。
振り向きざまに棒状の物が振り上げられた。空を震わし、鈍い音を奏でるそれは硬質な何かに接触し、けたたましい金属音が劈いた。間に煌く、無数の何かが散乱していった。
それは砕けた刀身の欠片、表面に付いた錆達。容易く弾き返したのは刃毀れの酷く、先端が砕けた片手剣。所持するのは、襤褸を深々と被ったスケェイスト。大きく仰け反ったそれが二人の後方から襲い掛からんとしていた。
仲間達が倒されている傍で暗がりと物音に潜み、急襲を掛けようとしたのだろう。だが、その寸前で勘付かれて防がれていた。そして、細く脆い身体は簡単に叩き砕かれていた。
身を散らされ、二分された白骨は地面に落ちる。上半身と下半身が斜めに分断された状態だがまだ活動し、空手でも二人を襲おうとする。執着心を漲らせるその頭蓋が、倒れた若者の武器が粉砕した。頭が残骸になれば流石に動かなかった。
「・・・っか~!痛ってぇ!!」
転倒の際の痛みと攻撃に移った動きに因る痛みに悶える様子の上、周辺に残党の有無の確認が行われていた。月夜で明るく、眼光で所在が知れる為、然程苦労する事は無く、それらしい存在は見付からなかった。
一先ず危機が去ったと判断し、緊張は解かれてその場に座り込む。すると、悶え続ける姿が映された。
「はぁ・・・痛てぇ。勘弁してくれよなぁ・・・」
「・・・だな」
全身の痛みに嘆き、弱音が吐かれる。それに相槌が打たれる。その直後、気を遠退かせるほどの沈黙が訪れた。
先程までの喧騒が嘘と疑うほどの静けさに二人の動きは止まったかのように鈍った。
「少し、眠くなって、来たな・・・」
「そうだな。だが、起きていないと・・・」
猛烈に襲い来る眠気に押され、二人の意識は朦朧とし始める。心身共の極度な疲労と一時の安堵が作用しての事。
無理もない。彼等は目的を定めず、ただただ途方の無い夜道を歩き続けていた。時折休憩を挟んでいたのだが、迎撃が続き、負傷を庇い続けている為、疲労困憊気味であった。また、意味不明の現象に襲われて常識の通用しない場所に立ち、常に命を狙われ続けたのだ、精神も擦り減る一方であったのだ。
結果、二人して容赦なく意識を奪い去っていく睡魔には勝てず、昏倒するように眠りに落ちてしまう。襲撃されかねないと危惧して必死に抗っていたのだが、如何する事も出来ず、本能に押し流されるように瓦礫の上に崩れていった。
次第に更けていく夜。或いは曙に向けて明けていくのだろう。静かに吹く風の音色のみが響く。あの化け物共が睡眠を必要とするのかは分からないが、夜の空間に波紋が立てられる事は無かった。
【2】
時間は早く過ぎ去り、朝焼けを越えて陽は空に向けて昇りつつあった。昨日と同様、今にも降雨しかねない曇天が広がり、その光力で透かしていなければ位置は気付けないだろう。
朝を告げる鳥の囀り、交流の声などは全く聞こえてこない、静寂な朝が訪れていた。
夜が明けた事に因って二人組の内の一人が目を覚ます。瞼を開け、赤い瞳は遥か上空を捉えた。白と黒が入り混じる雲が一面を占める。目を覚まし、ぼやけた脳裏でも夢でなかった事を、その不安定な空から再確認した。
溜息を空に向けて漏らし、今一度固く瞼を閉ざした青年は上体を起こす。見渡した周囲は昨日と何ら変わらない、瓦礫の海が広がる。嫌気を小さく感じつつ、無意識に剣を握ったまま立ち上がって周辺を警視する。残骸が溢れた荒廃した景色に動く何かは見えない。不気味な骨身の化け物すらも。
そして、思い知らされる、昨日の出来事が、今の現状が夢ではない事を。見るだけで気落ちする景色を眺めたまま、生き残った事を理解しつつも溜息を辛く吐く。とても深く。
「・・・おい、起きろ、ガリー・・・新藤。朝だぞ、早く起きろ」
膝を着き、傍らで眠りに落ちた彼を揺する。別の名を語り掛け、言い直したのは現実を受け入れたくない思いの表れでもあった。
揺さぶられた新藤は小さく唸る。やがて、安眠を邪魔されて不機嫌そうな様子で身体を起こした。
「ふぁ~・・・よく寝たな~。おはよう、トレイド」
「おはよう。俺は山崎和也なんだがな」
「・・・おお、そうだったな、山崎」
欠伸をして髪を掻きながら挨拶を交わした彼も別の名に違和感を感じていた。顔を顰めて言い直した後、無意識に無様な剣を拾って立ち上がっていた。
この状況下でも二人は別の名を使う事を嫌っていた。この危機が蔓延する場所でそのような些細な事に気に掛ける余裕はないだろう。けれども二人は思っていた、認めてしまえば自分でなくなってしまうと。故に、自らで名乗る事はしなかった。
「・・・さて、行くか」
その場に長居した処で状況が変わる訳ではない。打破し、生き延びる為の最善の策として出発を選ぶのは当然の流れであった。
「もう行くのか?あ~あ、腹減ってんのになぁ・・・」
「そんなものが周りに無いだろ、我慢しろ」
「それぐらい言わせろっての。腹減ってんのは事実なんだからよ」
「良いから行くぞ」
「へいへい」
気を紛らわせようとして気を利かせたのだろう。だが、山崎には通用せず、冷たくあしらわれていた。
複数に負傷した二人はその箇所を庇い、引き攣るようにして歩み出す。所詮は素人の処置、昨夜でもそうだが塞がり掛けても直ぐに開き、血は伝う。その度に余計な痛みに晒されて苦しまされていた。
朝が訪れていようと薄暗い、白い瓦礫で溢れ返って荒廃した地。進めども景色に変化は訪れない。視認し辛い遥か彼方でさえ白い何かが見えるのみ。四方を見渡したとしても同じような景色が広がるのみ。絶望を突き付けられる世界であった。
それでも二人は当てもなく、ひたすらに歩む。偏に生き残ろうとして。思考の端には、知人の生還を願いながら。
「・・・そう言えば、あれだな。あの、スケェイストだっけ?全然出てこねぇな」
「確かにな。遭遇したくないから、それで構わないけどな」
朝を迎え、出発してからどれくらいが経っただろうか。延々と進み続けた道程の最中であの骨身の化け物とは一切遭遇しなかったのだ。眠りに落ちて以降は幸運と言えただろう。
しかし、引っ切り無しに遭遇した存在が全く姿を見せないのは気掛かりであった。今も物陰から隙を伺い、命を狙っているのだろうか。若しくは、夜行性なのかも知れない。何方にせよ、気は抜けられなかった。
「しっかし、見渡せども変わらねぇな。此処から抜け出せんのか?」
「俺に聞くな」
不安を抱えていながらも軽い調子でそれが投げ掛けられる。その調子に少し苛立ったのか、山崎は厳しく切り捨てていた。
瓦礫が山積し、穏やかな起伏が作られた地を転倒しないように進む為、足取りは比較的に遅く。短期間の経験ながら周辺の警戒を含めている為、当然の速度に因る足並みであった。
進んでいる内に痛みに慣れるのか、痛覚が麻痺を起こすのか、負傷に因る痛みに歩みは妨げられる事は無かった。
有り触れた現象に気に留める事無く進んでいた二人は複数の変化に見舞われる。それは前触れであったのだが、変化するのはあまりにも唐突で気付ける事は出来なかった。
「あれ?雨、降り出したのか?」
先に気付いたの新藤であった。目元に付着した事で気付いたのだろう、その箇所を触って見上げていた。
雨だけではなかった。僅かばかり湿気が増し、彼等の肌を気付かぬ程度に湿らせる。地面は白い残骸が蔓延る環境から、灰色と泥濘が滲み始めていた。気を抜けば足を取られてしまうかも知れない。
「それよりも前を見ろ!」
天候の変化と思える些細な事柄よりも、不可解な事態を目の当たりにした山崎が声を荒げた。その原因は目の前に在った。
二人の行く先は緑豊かな森林が存在していたのだ。樹木が唐突に生え始め、疎らなそれは密集していく。同時に荒れた地に草花が伝い、折り重なるようにして様々な緑はやがて森と化していた。
木々がある、緑がある、それだけで空気は違えていた。緑が空気を作り出し、循環させる風が脈動のように枝葉を揺らす。例え鬱蒼と生い茂り、内部を透過させぬほどであっても。何かが飛び立つ音、正体不明の物音が響いたとしても。
不可解なこの事態に訝しんだ山崎は周囲を見渡し、そして後方を凝視した。多少変化が見られるものの、瓦礫で白く荒廃した光景が広がる。自分達が通ってきた場所だと認識し、もう一度前方を睨んだ。
再確認したとしても鬱蒼と生い茂る森林が存在する。在りもしなかった環境が不意に、意識を潜り抜けるように出現した事に、言葉を、出すべき言葉を失っていた。驚愕するでは済まされなかった。
「如何なっているんだ?本当に、何が、起きているんだ・・・」
「・・・やっぱり、普通じゃ、ねぇよ。なん、だってんだ?」
思考が上手く定まらないほどに困惑し、思いはそのまま口から零れ出す。二人して、究明など出来ない謎に困窮するしかなかった。
森林の奥から時折、不気味な物音が聞こえる。内部が確認出来ない暗さと相まって、立ち塞ぐように存在する森が悍ましく見える。命を奪い取らんとし、一個の生命体のような認識さえしてしまう。
ともあれ、思わぬ事に恐怖を抱き、新藤の足が少しだけ後退り、顔を引き攣らせていた。
「・・・な、なぁ、もしかして、此処を行くのか?嘘だろ?違う場所に行った方が良いんじゃねぇの?」
震えた声で問う。本能から来る危険察知能力か、ただの怖気付いてのそれか。少なくとも、山崎は面を強張らせて睨み付けていた。
「・・・別の方向に行っても何かがある保証なんてないんだ。なら、目の前の場所を探した方が良いだろ」
「本気かよ・・・止めねぇ?」
「・・・別に良いぞ。お前を此処に置いて行く事になるがな。元気でな」
右も左も分からぬこの現状、脱却する術も知らない彼等は藁に縋る思いしかない。その希望を、目の前に現れた森に望もうしていた。それが如何出るかは神すらも分からないだろう。
少しでも良き方向に向かう事を信じた山崎は冷たく言い放った後、一人森に向かって歩き出す。恐れが無い訳でもないが、生きる事を優先して、その感情を余計な力を篭めた歩きで紛らわせて。
「いやいやいや、待て!待てって!冗談、冗談だよ!真に受けんなって・・・」
置いて行かれそうになった彼は慌てて呼び止める。その狼狽する姿に小さく笑いが零された。彼にその意図は無かっただろうが、空気は少しばかり軟化した。
「まぁ、お前の気持ちは分かるけどな、そうも言ってられないのは分かっているだろ?このまま、のたれ死ぬ、なんてのは御免だからな」
「分かってるって、んな事は。ちょっと言ってみたかっただけだよ、焦っただろ」
「それこそ、冗談だと気付け」
互いの不安を誤魔化し合った後、深く息が吐かれた。次なる覚悟を決めて、目の前に当然の如く存在する森へと踏み込んでいく。
先頭に立つは山崎、一歩遅れて新藤。目に見えない恐怖と不安を足跡に残していくのだが、小雨と瓦礫と泥濘に少しずつ呑まれていった。
【3】
踏み入れた森林の内部は清々しく感じる空気に満ち、陽射しや緑が生い茂る分、程よい湿気に包まれていた。
息衝く様々な植物の様はまさしく自然であった。荒れ果てた樹皮、纏わり付く蔦、舞う木の葉に地面を雑草達と言った色とりどりの感触。また、小さな虫、樹皮や地を歩む甲虫や、優雅に、或いは俊敏に宙を舞う羽虫等の、それに類似した存在が確認出来る。
どれもが本物であり、疑う余地は無い。それらを確認した二人だが不信感を僅かに見せていた。目の前に起きる何もかもを受け入れられる度胸は、まだ困惑に邪魔されていた。
少しずつ踏み入っていく二人は気付かなかった。いや、気付く事を何処か恐れたのかも知れない。何時しか、後方にあの荒廃した場所が消え失せていた事を。気付かぬ間に、周囲は最奥に踏み入ったかのように夥しい木々や植物に満ち、退路は無くなっていた。
その事に気付けないのは、所々に光が射し込み、続く森の様子を視認出来る為であろうか。そして、詳細を調べさせまいと四方から物音が聞こえ、目まぐるしく視界を移させる事も要因となっていた。
この森林に何かが棲息している事は踏み入る前から分かっていた事。物陰には足跡や食事跡など、痕跡が多数残されているのだが気付けず。
時々、通り掛かろうとした茂みや枝が音を立てる。それは風に揺られた枝葉が音を出しただけに過ぎない。だが、極度の緊張に襲われる新藤は一々驚き、慌ててその方向を確認して息を吐いていた。
山崎に関してはそのような耳障りには見向きもせず、白い鞘に納まった剣の黒い柄を握り締め、獣道をただ真っ直ぐに突き進む。
「・・・しっかし、身体が痛ってぇな。随分歩いたけど、何も見当たんねぇな」
「痛いのは同意するが、ぼやいても仕方ないだろ。それよりも、周辺に気を配って少しでも何かを見付ける様にしろ」
恐怖を誤魔化す為に話し掛けるのだが、命の危機を危惧する山崎は厳しくあしらう。
「それは分かってるけどよ、身体中が痛てぇんだよ」
「俺だって同じだ。少しぐらいは我慢しろ」
「そうだ!お前元気そうだし、俺を負ぶって行くのは如何だ!?そうすりゃ・・・っ!?」
思い付いて口にするのはくだらない戯言。悪ふざけでも冷ややかな視線を浴びせるそれに、山崎はかなり厳しく、振り向きもせずに手にする剣を使って新藤の額を叩いていた。
「・・・痛たぁ!何すんだよ」
「お前こそ何言ってんだ、阿呆。ふざけている場合じゃないんだ」
振り返り、睨み付ける山崎の面に余裕は無かった。彼の悪ふざけに付き合う心のそれはなく、故に苛立ちが強く表れて叩く行為に至っていた。
「んだよ、ちょっとぐらい乗ってくれてもよぉ・・・」
多少赤くなった額を抑え、不貞腐れる新藤。その様子を振り向いて確認した山崎は眉間に皺を寄せていた。
ともあれ、多少気が紛れ、少しなりとも心に余裕が生まれる。その矢先の事、付近で不審な物音が鳴らされた。まるで、二人の茶番に異を唱えるように、付近の茂みが激しく揺さぶられた。
「・・・っ!山崎!!」
咄嗟に警戒し、迫真の声が響く。警告のそれに答えず、早急に反応して音が聞こえた方向に振り返っていく。視認が追い付く前に、強き衝撃に見舞われた山崎の身は大きく仰け反り、地面に押し倒されてしまった。判断が遅れる思考の中で感じ取ったのは、同質ほどの何かが接触した音と、新藤の悲鳴であった。
「っく!何が、襲ってきた?」
不意の衝撃と痛みに目を瞑ってしまった山崎は困惑を口にしながら無意識に抵抗する。何かに乗られている事を認識し、視界を開けようとする。
「ぐぅっ!!」
しかし、突然に右肩に激痛が駆け抜け、再び固く双眸を閉ざしてしまう。痛みに苦しみつつも、彼の両手は原因の何かを掴んで悪化を防ぐ。
伝わる感触から生物の一部だろう。そして、何か棘の様なものを挟んでくる両方に備わる。引き裂き、抉ろうとするそれを、己が肉体を削る覚悟を持ち、歯を食い縛りながら強引に引き剥がした。
衣服ごと身が抉られ、重苦に呻き声を滲ませながらも耐え続ける山崎は、細目でも何とか開けて前方を確認した。
識別し辛いほどの至近距離まで接近する生物は灰色の体毛で覆われていた。整わず、硬質なそれは山崎の肌を削るように動かされる。
身体の先端、尤も接近させる顔は前に長く、体毛は少し色が薄れる。口内に並べた薄らと赤が滲む黄ばんだ無数の牙が覗く。肉を引き裂く為に発達したそれは太く鋭く。
四足歩行であり、末端には 粗雑に尖れた爪が立たされ、襤褸ならば容易く引き裂こうか。
やや太く、長い尻尾ですらも攻撃に扱うように気を立たせて、山崎に圧し掛かっていたのは、犬種の姿であり、言うなれば狼とも言える大型のそれであった。
「くそっ、ローウスか!」
正体が解かると否や山崎は焦り出す。悪寒を抱き、激痛が走る中で抵抗を試みる。しかし、先ず剣を使おうとした利き腕が軽い事に気付く。倒された時に手放してしまった事は言うまでも無かった。
更なる危機に舌打ちを鳴らした彼は兎にも角にも灰色の獣、ローウスを引き剥がそうとする。しかし、先程右腕を噛まれた事で思うように力が出ず、逃れる事は敵わなかった。それはこれまでに溜まった疲労も影響しているのだろう。
絶体絶命の状況に陥った事を否が応でも察した山崎は生き残ろうと手を動かす。その抵抗を、涎をだらだらと垂れ流す獣に容易く振り払われてしまう。
狙いを定め、両顎を大きく開けながら体重を乗せて首に食い掛らんとする。それを目の前にし、全身から血の気が引いていく感覚に襲われた山崎の腕が空を走った。結果、左手が鼻の辺りを、右手は顎を掴み、噛み付かれる直前で防御を成功させる。
しかし、力負けを起こす。抵抗虚しく、徐々に鋭い牙を備えた両顎が首元に接近していく。歯軋りし、汗を滲ませるほどに奮闘したのだが、それも虚しく、涎が滴る牙は首元へ到達した。
心拍は速まり、鼓動が一層強く叩かれる。張りさせそうな鼓動の音を感じる一方、思考が急激に回るほどに焦燥は激増した。早まる呼吸を抑える暇もなく、ひたすらに獣の顎をこじ開けようとする。その努力もまた虚しいものであった。
徐々に彼の首に牙が食い込む。皮膚を破り、肉を突き抜け、鮮血を滲み出させていく。伴い、新たな痛みがじわりじわりと発生、比例して痛みは強まる。同時に首は締められ、呼吸が困難にされていく。
「あ・・・っ!ぐ、あぁ・・・!」
呻きすらも十分に出せず、窒息の苦しさに悶え苦しむ。痛みを忘れて暴れるのだが如何にもならず、鋭敏になる窒息感を味わいながら彼の意識は薄れて始める。
感触は薄れ、視界がぼやけ、耳が遠くなる中、怒鳴り声での威嚇が聞こえてくるのだが、もう彼に思考する事すらもままならなかった。それでも友を案じ、何かを語ろうとするのだが出来ず。
薄れる意識に連れて全身の力も抜け落ちていく。一時も諦める事無く抵抗するのだが、ゆっくりと、指は離れ、山崎の腕はゆっくりと地面へ崩れ落ちていった。
【4】
「・・・ゴホッ!!ゴホ、ゴホっ!」
遠退いた意識を一気に覚醒に転じる衝撃が、山崎の身に突き抜けた。塞がれた流れが急激に解放された為に。それは、窒息しかけていた喉が空気を取り入れ、咽込んだ事を意味した。
再び頭が再稼働し、乱れた呼吸を整える中で思考を駆け巡らせていた。窒息感が消え、圧し掛かられた事に因る圧迫感の消失に疑問を止めた。そして、思い出す。消えそうな意識の中で、ローウスが出したと思しき甲高い声を聞いた事を。それは悲鳴であった。
首を抑え、尚も咽込んで朦朧とする意識下で周囲を見渡す。そうして、発見した。複数の影を。
やや離れた位置に、妙な姿勢で四肢で立ち、退いていくローウスの姿が映った。その脇腹には何かが生え、其処から赤い液体が一筋伝う。それは何故か負傷していた。
横腹に生える物、それは刺さっていた。やや長い矢柄、白き矢羽を備えた、紛れもない矢が、灰色の胴体に突き刺さっていたのだ。
咽込む苦しさの中、血の味を飲み込みながら鈍る身体を起こす。現状を確認する為に見渡そうとするのだが、付近から聞こえる唸り声に視線は集められた。
暗がりに紛れる事無く、威嚇の態勢を取る灰色の獣が見えた。牙を剥き出し、鋭き眼光は山崎を捉えてはいない。彼の後方を睨んで敵意を滲ませていた。
その後方、視界の端に生える茂みの影から、更に二体が姿を現した。様子見の為に潜伏していたのだろうか。だが、異なる展開を目の当たりにし、応援の為に出てきたのだろう。
警戒する三体の灰色の獣の身体に隠れるように、樹木の傍に座り込んだ新藤の姿を発見した。残骸のような剣を持った利き腕で、額や頬に伝う汗や血を拭っていた。九死に一生を得たような安堵感を見て取れた。
友の生存を知り、安心をしたのも束の間、大きくなる唸り声からの怒りを滲ませた咆哮に視線は意識が集められた。
痺れを切らしたのか、犬種特有の走法で駆け出していく。留まる山崎を気にも留めず、瞬く間に彼を横切っていった。
鈍る身体を動かし、確認する後方には当然、駆ける三体の姿が映る。その三体は何かに狙いを定めて駆け抜けていく。
微かに鋭く、風切り音が鳴った。それはローウス達と対面するように響いた直後、一体に何かが突き刺さった。それは矢、目にも留まらぬ速度で一筋の軌道を描き、正確に身体を捉えていた。
衝撃と痛みに一瞬体勢を崩した一体は、先を駆ける同族に続くように持ち堪えて駆け続けている。
ローウス達の正面、矢が飛んできたであろう方向を見れば、人と思しき姿を発見する。丁度木陰に隠れている為、仔細を見る事は出来ないのだが、人である事は確かであり、少々小さめの弓を綺麗な姿勢で構えていた。
三体は矢を射った人物との距離を詰める、邪魔者を排除せんと。それらを見て、誰かは次を番えようとした手を止め、素早く弓を背に回した。背に専用の器具で取り付けると、腰に携えていた剣を引き抜いた。
鞘を走った金属音を纏わらせ、余裕を持って構えていく。下段に刀身を下げ、腰を少し落として重心を定め、三体を静かに待ち構える。その姿勢に柔らかさが感じられた。
間も無く、三体の内、先頭を駆けていた、最初に射られた一体が襲い掛かる。不用心に正面から飛び掛かって。
それを見計らい、半身をずらして躱し、ただ落ち行くだけの灰色の腹部に剣を所持した右腕が振り抜かれた。際に響かれた、空を断つ鋭き音であった。
一閃と言えるほどの迅速な一撃を繰り出した後、次に備える事も踏まえて体重移動をしつつ剣を構える。その動きは、先の一体との接触を躱す事にも活かして。
初撃を繰り出し、返り討ちにあった灰色の獣は淀んだ悲鳴を零し、何も出来ぬまま地面へ落下した。着地もままならず、小さく跳ねて転がってもがくように四肢を動かす。だが、深い切創を刻まれ、赤黒い血液と臓器を零す姿を見れば結末は分かり切っていた。
動かなくなった姿を確認する事無く、誰かは間髪入れずに襲い掛かってくる二体目の対処に移る。その対処も早く、身体を捻り、力強く踏み込みながら剣を両手で握り込んだ剣を水平に振り切った。
先の一閃よりも速く、膂力を篭めた薙ぎ払いは二体を同時に切断していた。途中で遮られる事無く、振り切った後に身を屈めていた。
身を低くした頭上、切創を刻まれた二体が過ぎ去り、無様に地面へ傾れ落ちる。顔を分断された二体の身は痙攣を起こしていたのだが、緩やかに停止していた。
戦いは瞬く間に終えられた。終了を告げるように訪れた沈黙の中、助かった二人はただただ見ているしかなかった。
【4】
三体のローウスを容易く倒した人物は見渡して確認した後、腰元から取り出した何かで刀身を拭い始める。そうしながら山崎の方向へと歩き出した。
「用事を済ませて通っている途中で物音を聞き付けて来てみたら、まさか人が襲われていたとはね。助けられて良かったよ」
拭き終えたのだろう、再び腰元に手を回しながら、剣を鞘に納める人物は爽やかな声で呟く。声は若く、時折差し掛かる陽射しに照らされた顔は、二人よりかは幾分か年上でも青年のそれであった。
流れるように獣達を排除した手際に唖然とする山崎。それは眺めていた新藤も同じであろう。近付いてくる青年を眺めていればその特徴が見えてきた。
青を基調とした、柔軟そうな衣服を着込む。その肩や胴体、脛や太腿部分などに装甲を取り付る。最低限の急所を保護し、機敏性を重視した戦闘服なのだろう。
それを着込む青年は男、誠実そうな顔立ちに綺麗な弧を多く描いた茶色の頭髪から覗く眼は優しき光を宿す。とても先程の強さを誇った者とは思えぬ、気優しそうな雰囲気を纏っていた。
「大丈夫・・・ではなさそうだね。運悪く襲われたのかな?」
心配し、話し掛けてくるその声は、緊張と恐怖を紛らわせ、和ませる柔らかさがあった。
「あ、ああ・・・そうだな。助かった、ありがとう」
親切を受け、割れ返った山崎はまずは礼を述べた。地面に伏したままなので失礼に値したのだが、出血と疲労で立つ事がままならなかった。
「怪我をしているんだね?離れた彼もそうだね。ちょっと待ってて」
二人の負傷に気付いた青年は腰に手を回し、何かを探り始める。良く見るまでもなく、腰にはバッグ、ウェストバッグを身に着けていた。多くのポケットを備え、機能性に優れるそれを探っていた。
「・・・何にせよ、助かったんだな」
胸が撫で下ろされる。まさに救世主に救われ、九死に一生を得たと実感した。その感動をしみじみと感じ、脱力してその場に崩れ落ちるほどに。
「痛(いて)て・・・この人、悪い人じゃなさそうだな」
何時の間にか隣に新藤が移動しており、目の前の青年を眺めながら安堵していた。
「・・・ああ、そうだな」
同調し、恩人である青年を眺めていると、その彼が目的の物を取り出す。指に挟んだそれは深緑の小瓶を二つ。それを傍に座り込んで差し出した。
「これは何?」
「知らない?・・・フェレストレの飲み薬って言う物でね、怪我を速く治せる薬なんだよ」
受け取り、まじまじと眺めながら新藤が問い掛けた。それに驚き、空白を挟んだのは何を企んでの事なのか。
「そんな良い奴をくれるの?ありがとう!」
大感激した新藤が大声で感謝し、小瓶の蓋を取り払った瞬間、彼の表情が歪んだ。封を外され、鼻腔に突き付けたのは独特の香り。激しい爽快感が駆け抜け、頭が冴え渡るようなそれを受け、鼻を塞いでいた。
「・・・こ、これを飲むの?」
「その匂い嫌い?でも、それを飲んだら傷が治るから是非飲んでよ」
独特の香りを嫌って遠ざける様子に、不信感を抱かせぬ爽やかな笑みで薦められていた。
「・・・フェレストレ、は何なんだ?」
「巨大な樹木の名前なんだ。治癒効能を促進させる成分が含まれててね、葉っぱとか、根っことかを特殊な製法で作っているんだよ。とても凄いんだけどね、二つほど欠点があるんだ。それはね・・・」
「・・・っが~!不味ッ!!」
一気に飲み下した新藤が大声で酷評を叫んだ。
「そう、美味しくないんだ。なんか、こう。青草の味をかなり濃厚にした感じ?」
「・・・ああ、確かに不味いな」
山崎も飲み、壮絶な味に顔が歪むのを抑えられなかった。まさに苦虫を噛み潰す、それ以上に歪んで。
「あれ?痛みが、消えた?」
先程まで顔を歪ませ、舌を出して苦しんでいた新藤が突然そう口にした。苦みも何処へやら、きょとんとした面で全身を眺めて首を傾げていた。
その信じられない発言に山崎は呆れる表情で睨み付ける。
「そんな訳がないだろ。ただ痛覚が麻痺しているだけだろ」
「いやいや、本当だって!お前も直ぐにそうなるって!!」
かなり興奮して捲し立てられ、嘘を言っていない事を察する。だからこそ信じられなかった。
「フェレストレの養分には痛みを和らげる効果もあるんだよ。飲み薬は効能が高いから直ぐに効果が出るんだよ」
「・・・本当だ。痛みが、消えた」
新藤や青年の言う通り、痛みは消え失せた事に驚嘆し、負傷箇所を眺めて感銘を受けていた。
「ほぉら、見ろ!俺の言う通りだろ!」
疑われた彼はそれ見た事かと偉ぶるのだが、決して彼が凄いのではなく、フェレストレの飲み薬が凄まじいだけの事。
「でね、もう一つの欠点、副作用のようなものがあってね、効能が付ければ強いほど催眠効果が高くなってね・・・」
フェレストレの飲み薬に感心していると、新藤が小さな唸り声を零し始める。それに気付き、隣の彼を確認した瞬間、その身が傾いて地面に崩れ落ちた。
「な!?し、新藤!?」
昏倒した場面を見て案じ、慌てて彼の身を揺する。力無く倒れては居るのだが、息が止まった訳ではなかった。ただ、熟睡に至り、どのような衝撃を受けても目を覚ます気配はなかった。
「とても疲れているとこんな風に眠っちゃうんだよ。やっぱり、此処に来たばかりだよね」
異状としか見えぬ姿を目の当たりにしながらも青年は調子を変えない。
「お前・・・俺達を如何、する・・・っ!く、くそ・・・」
平然とする青年が途端に怪しく映り、恐ろしさを感じて身構える。警戒し、真意を問おうとするのだが、意識が急激に朦朧とし、喋る事もままならなくなった。
せめて距離を開けようと抵抗する意思も、身体は上手く反応してくれず、その身は崩れていった。
意識が完全に途切れ、同じように昏倒した山崎。頭から地面に伏した為、怪我をしただろう。それでも意識は戻らなかった。
昏睡した二人を見渡した青年は小さく頷く。そして、ゆっくりと落とした小瓶を拾って仕舞うと、何処かに顔を向けた。すると、指を咥えて指笛を吹き鳴らした。独特の高音が周囲が響き渡っていく。
それから数分すらも掛ける事無く、木陰から人よりも大きな生物が姿を現した。四足歩行であり、四肢や首は極端に長く、そして太く。先のローウスのような獣ではなく、スケェイストのような化け物でない事は確か。
その生物の背に、青年は二人を一人ずつ担ぎ上げては乗せていく。次にローウスの亡骸へと近付き、目を閉ざして小さく頭を下げた。命を奪った謝罪であろうか。
「・・・重たいと思うけど、頼むね」
小さく息を吐いた後、振り返った青年は生物に優しく語り掛ける。首筋を撫でると、その生物は嬉しそうに鼻を鳴らして歩み出す。
体躯に見合った足音を響かせ、小さくその足跡を残しながら森の奥へと過ぎ去っていった。
彼等が去り、沈黙が訪れる。吹き抜ける風の音色が強調され、儚さが際立つ。強弱を見せて吹く風が周辺の木々を揺らし、地面に散る木の葉を僅かに舞い上がらせた。直ぐにも落下した落ち葉の内の数枚が、新たに散らされた葉に混じり、死骸の上に降り注いでいく。まるで隠そうとするかのように。
それからも風は吹き、森林の中を駆け巡って枝葉を揺らした。吹く風のその音は実に穏やかな音色であり、枝葉が囁く音もまた。
美しく円を描く月、望月が白銀の光を放つ。その輝きは周囲に瞬く星より何倍も輝き、存在感を主張する。無視出来ぬ神々しき輝きは分け隔てなく地上を照らし出す。
その月明かりの下、僅かに暗い空間に二筋の光が点滅も無く動く。鋭い赤き光はゆらゆらと、不規則に怪しく揺れる。間近しか仄かに照らせない事から、光源は弱いものと解る。
降り注ぐ月光を浴び、仄暗い小さな二つの光も相まって光源の正体が映し出される。周囲に光を遮る物が無い為、全体像が捉えられた。
白骨化した頭蓋、眼窩の奥で赤き光が宿る。それは眼光、怨讐を宿すかのように禍々しく。
人の骨骼をそのまま転写したかのような全身をし、説明の出来ぬ力で繋がれた関節を軋ませ、乾き、軽い音を鳴らして動き回る。密度が低いのだろう、瓦礫に触れる度に崩れ落ちそうな音を響かせた。
その存在はスケェイストと呼称される化け物である。
とある場所、乾いた足音を上塗りする物音が複数、暗闇に木霊し続けていた。そのスケェイストの他にも誰か居る様子。二つの光により、姿が照らし出される。それは二人組みであり、スケェイストよりも僅かにだが素早く動いていた。
その内の一人がその手に持つのは、棒状の何かであり、先端には太い物を付ける。勢い良く振り切られた先、赤い光が筋を作りながら落下した。接地した直後、何かが音を立てて砕け散る。飛散する中、もう光が灯る事はなかった。
「全く、こいつ等は如何して、こんなにしつこく来やがんだぁ?」
無様な塊と言える何かを持った若者がぼやく。苛立ちを感じているのは言うまでもない。
「おい、集中を切らすな。スケェイストがまだ居るんだぞ」
「分かってるよ」
直ぐ隣、棒状の何かを所持した人物が軽く叱責する。受けたもう一人はうんざりとした様子で武器とする物を構えた。声から察するに若者である事は確実。
二人の若者は痛々しく負傷していた。ある程度の処置はしているものの、血は僅かに流れ続けている。動く度に全身に激痛が発し、迎撃の為の動きが妨げられていた。
その点は死角を補填し合って庇い合い、新たに傷を与えられる事はさせず。敵となるスケェイストの動きが鈍く鈍い事が幸いとなっていた。
「っ!退け!」
「なっ!?馬鹿、押すな!」
先に何かに気付いた若者は命令しつつ、もう一人を乱暴に押し退けながら後方へ振り返る。反応が遅れ、押されたもう一人は転倒してしまい、悲鳴を上げていたのだが、気に留められていなかった。
振り向きざまに棒状の物が振り上げられた。空を震わし、鈍い音を奏でるそれは硬質な何かに接触し、けたたましい金属音が劈いた。間に煌く、無数の何かが散乱していった。
それは砕けた刀身の欠片、表面に付いた錆達。容易く弾き返したのは刃毀れの酷く、先端が砕けた片手剣。所持するのは、襤褸を深々と被ったスケェイスト。大きく仰け反ったそれが二人の後方から襲い掛からんとしていた。
仲間達が倒されている傍で暗がりと物音に潜み、急襲を掛けようとしたのだろう。だが、その寸前で勘付かれて防がれていた。そして、細く脆い身体は簡単に叩き砕かれていた。
身を散らされ、二分された白骨は地面に落ちる。上半身と下半身が斜めに分断された状態だがまだ活動し、空手でも二人を襲おうとする。執着心を漲らせるその頭蓋が、倒れた若者の武器が粉砕した。頭が残骸になれば流石に動かなかった。
「・・・っか~!痛ってぇ!!」
転倒の際の痛みと攻撃に移った動きに因る痛みに悶える様子の上、周辺に残党の有無の確認が行われていた。月夜で明るく、眼光で所在が知れる為、然程苦労する事は無く、それらしい存在は見付からなかった。
一先ず危機が去ったと判断し、緊張は解かれてその場に座り込む。すると、悶え続ける姿が映された。
「はぁ・・・痛てぇ。勘弁してくれよなぁ・・・」
「・・・だな」
全身の痛みに嘆き、弱音が吐かれる。それに相槌が打たれる。その直後、気を遠退かせるほどの沈黙が訪れた。
先程までの喧騒が嘘と疑うほどの静けさに二人の動きは止まったかのように鈍った。
「少し、眠くなって、来たな・・・」
「そうだな。だが、起きていないと・・・」
猛烈に襲い来る眠気に押され、二人の意識は朦朧とし始める。心身共の極度な疲労と一時の安堵が作用しての事。
無理もない。彼等は目的を定めず、ただただ途方の無い夜道を歩き続けていた。時折休憩を挟んでいたのだが、迎撃が続き、負傷を庇い続けている為、疲労困憊気味であった。また、意味不明の現象に襲われて常識の通用しない場所に立ち、常に命を狙われ続けたのだ、精神も擦り減る一方であったのだ。
結果、二人して容赦なく意識を奪い去っていく睡魔には勝てず、昏倒するように眠りに落ちてしまう。襲撃されかねないと危惧して必死に抗っていたのだが、如何する事も出来ず、本能に押し流されるように瓦礫の上に崩れていった。
次第に更けていく夜。或いは曙に向けて明けていくのだろう。静かに吹く風の音色のみが響く。あの化け物共が睡眠を必要とするのかは分からないが、夜の空間に波紋が立てられる事は無かった。
【2】
時間は早く過ぎ去り、朝焼けを越えて陽は空に向けて昇りつつあった。昨日と同様、今にも降雨しかねない曇天が広がり、その光力で透かしていなければ位置は気付けないだろう。
朝を告げる鳥の囀り、交流の声などは全く聞こえてこない、静寂な朝が訪れていた。
夜が明けた事に因って二人組の内の一人が目を覚ます。瞼を開け、赤い瞳は遥か上空を捉えた。白と黒が入り混じる雲が一面を占める。目を覚まし、ぼやけた脳裏でも夢でなかった事を、その不安定な空から再確認した。
溜息を空に向けて漏らし、今一度固く瞼を閉ざした青年は上体を起こす。見渡した周囲は昨日と何ら変わらない、瓦礫の海が広がる。嫌気を小さく感じつつ、無意識に剣を握ったまま立ち上がって周辺を警視する。残骸が溢れた荒廃した景色に動く何かは見えない。不気味な骨身の化け物すらも。
そして、思い知らされる、昨日の出来事が、今の現状が夢ではない事を。見るだけで気落ちする景色を眺めたまま、生き残った事を理解しつつも溜息を辛く吐く。とても深く。
「・・・おい、起きろ、ガリー・・・新藤。朝だぞ、早く起きろ」
膝を着き、傍らで眠りに落ちた彼を揺する。別の名を語り掛け、言い直したのは現実を受け入れたくない思いの表れでもあった。
揺さぶられた新藤は小さく唸る。やがて、安眠を邪魔されて不機嫌そうな様子で身体を起こした。
「ふぁ~・・・よく寝たな~。おはよう、トレイド」
「おはよう。俺は山崎和也なんだがな」
「・・・おお、そうだったな、山崎」
欠伸をして髪を掻きながら挨拶を交わした彼も別の名に違和感を感じていた。顔を顰めて言い直した後、無意識に無様な剣を拾って立ち上がっていた。
この状況下でも二人は別の名を使う事を嫌っていた。この危機が蔓延する場所でそのような些細な事に気に掛ける余裕はないだろう。けれども二人は思っていた、認めてしまえば自分でなくなってしまうと。故に、自らで名乗る事はしなかった。
「・・・さて、行くか」
その場に長居した処で状況が変わる訳ではない。打破し、生き延びる為の最善の策として出発を選ぶのは当然の流れであった。
「もう行くのか?あ~あ、腹減ってんのになぁ・・・」
「そんなものが周りに無いだろ、我慢しろ」
「それぐらい言わせろっての。腹減ってんのは事実なんだからよ」
「良いから行くぞ」
「へいへい」
気を紛らわせようとして気を利かせたのだろう。だが、山崎には通用せず、冷たくあしらわれていた。
複数に負傷した二人はその箇所を庇い、引き攣るようにして歩み出す。所詮は素人の処置、昨夜でもそうだが塞がり掛けても直ぐに開き、血は伝う。その度に余計な痛みに晒されて苦しまされていた。
朝が訪れていようと薄暗い、白い瓦礫で溢れ返って荒廃した地。進めども景色に変化は訪れない。視認し辛い遥か彼方でさえ白い何かが見えるのみ。四方を見渡したとしても同じような景色が広がるのみ。絶望を突き付けられる世界であった。
それでも二人は当てもなく、ひたすらに歩む。偏に生き残ろうとして。思考の端には、知人の生還を願いながら。
「・・・そう言えば、あれだな。あの、スケェイストだっけ?全然出てこねぇな」
「確かにな。遭遇したくないから、それで構わないけどな」
朝を迎え、出発してからどれくらいが経っただろうか。延々と進み続けた道程の最中であの骨身の化け物とは一切遭遇しなかったのだ。眠りに落ちて以降は幸運と言えただろう。
しかし、引っ切り無しに遭遇した存在が全く姿を見せないのは気掛かりであった。今も物陰から隙を伺い、命を狙っているのだろうか。若しくは、夜行性なのかも知れない。何方にせよ、気は抜けられなかった。
「しっかし、見渡せども変わらねぇな。此処から抜け出せんのか?」
「俺に聞くな」
不安を抱えていながらも軽い調子でそれが投げ掛けられる。その調子に少し苛立ったのか、山崎は厳しく切り捨てていた。
瓦礫が山積し、穏やかな起伏が作られた地を転倒しないように進む為、足取りは比較的に遅く。短期間の経験ながら周辺の警戒を含めている為、当然の速度に因る足並みであった。
進んでいる内に痛みに慣れるのか、痛覚が麻痺を起こすのか、負傷に因る痛みに歩みは妨げられる事は無かった。
有り触れた現象に気に留める事無く進んでいた二人は複数の変化に見舞われる。それは前触れであったのだが、変化するのはあまりにも唐突で気付ける事は出来なかった。
「あれ?雨、降り出したのか?」
先に気付いたの新藤であった。目元に付着した事で気付いたのだろう、その箇所を触って見上げていた。
雨だけではなかった。僅かばかり湿気が増し、彼等の肌を気付かぬ程度に湿らせる。地面は白い残骸が蔓延る環境から、灰色と泥濘が滲み始めていた。気を抜けば足を取られてしまうかも知れない。
「それよりも前を見ろ!」
天候の変化と思える些細な事柄よりも、不可解な事態を目の当たりにした山崎が声を荒げた。その原因は目の前に在った。
二人の行く先は緑豊かな森林が存在していたのだ。樹木が唐突に生え始め、疎らなそれは密集していく。同時に荒れた地に草花が伝い、折り重なるようにして様々な緑はやがて森と化していた。
木々がある、緑がある、それだけで空気は違えていた。緑が空気を作り出し、循環させる風が脈動のように枝葉を揺らす。例え鬱蒼と生い茂り、内部を透過させぬほどであっても。何かが飛び立つ音、正体不明の物音が響いたとしても。
不可解なこの事態に訝しんだ山崎は周囲を見渡し、そして後方を凝視した。多少変化が見られるものの、瓦礫で白く荒廃した光景が広がる。自分達が通ってきた場所だと認識し、もう一度前方を睨んだ。
再確認したとしても鬱蒼と生い茂る森林が存在する。在りもしなかった環境が不意に、意識を潜り抜けるように出現した事に、言葉を、出すべき言葉を失っていた。驚愕するでは済まされなかった。
「如何なっているんだ?本当に、何が、起きているんだ・・・」
「・・・やっぱり、普通じゃ、ねぇよ。なん、だってんだ?」
思考が上手く定まらないほどに困惑し、思いはそのまま口から零れ出す。二人して、究明など出来ない謎に困窮するしかなかった。
森林の奥から時折、不気味な物音が聞こえる。内部が確認出来ない暗さと相まって、立ち塞ぐように存在する森が悍ましく見える。命を奪い取らんとし、一個の生命体のような認識さえしてしまう。
ともあれ、思わぬ事に恐怖を抱き、新藤の足が少しだけ後退り、顔を引き攣らせていた。
「・・・な、なぁ、もしかして、此処を行くのか?嘘だろ?違う場所に行った方が良いんじゃねぇの?」
震えた声で問う。本能から来る危険察知能力か、ただの怖気付いてのそれか。少なくとも、山崎は面を強張らせて睨み付けていた。
「・・・別の方向に行っても何かがある保証なんてないんだ。なら、目の前の場所を探した方が良いだろ」
「本気かよ・・・止めねぇ?」
「・・・別に良いぞ。お前を此処に置いて行く事になるがな。元気でな」
右も左も分からぬこの現状、脱却する術も知らない彼等は藁に縋る思いしかない。その希望を、目の前に現れた森に望もうしていた。それが如何出るかは神すらも分からないだろう。
少しでも良き方向に向かう事を信じた山崎は冷たく言い放った後、一人森に向かって歩き出す。恐れが無い訳でもないが、生きる事を優先して、その感情を余計な力を篭めた歩きで紛らわせて。
「いやいやいや、待て!待てって!冗談、冗談だよ!真に受けんなって・・・」
置いて行かれそうになった彼は慌てて呼び止める。その狼狽する姿に小さく笑いが零された。彼にその意図は無かっただろうが、空気は少しばかり軟化した。
「まぁ、お前の気持ちは分かるけどな、そうも言ってられないのは分かっているだろ?このまま、のたれ死ぬ、なんてのは御免だからな」
「分かってるって、んな事は。ちょっと言ってみたかっただけだよ、焦っただろ」
「それこそ、冗談だと気付け」
互いの不安を誤魔化し合った後、深く息が吐かれた。次なる覚悟を決めて、目の前に当然の如く存在する森へと踏み込んでいく。
先頭に立つは山崎、一歩遅れて新藤。目に見えない恐怖と不安を足跡に残していくのだが、小雨と瓦礫と泥濘に少しずつ呑まれていった。
【3】
踏み入れた森林の内部は清々しく感じる空気に満ち、陽射しや緑が生い茂る分、程よい湿気に包まれていた。
息衝く様々な植物の様はまさしく自然であった。荒れ果てた樹皮、纏わり付く蔦、舞う木の葉に地面を雑草達と言った色とりどりの感触。また、小さな虫、樹皮や地を歩む甲虫や、優雅に、或いは俊敏に宙を舞う羽虫等の、それに類似した存在が確認出来る。
どれもが本物であり、疑う余地は無い。それらを確認した二人だが不信感を僅かに見せていた。目の前に起きる何もかもを受け入れられる度胸は、まだ困惑に邪魔されていた。
少しずつ踏み入っていく二人は気付かなかった。いや、気付く事を何処か恐れたのかも知れない。何時しか、後方にあの荒廃した場所が消え失せていた事を。気付かぬ間に、周囲は最奥に踏み入ったかのように夥しい木々や植物に満ち、退路は無くなっていた。
その事に気付けないのは、所々に光が射し込み、続く森の様子を視認出来る為であろうか。そして、詳細を調べさせまいと四方から物音が聞こえ、目まぐるしく視界を移させる事も要因となっていた。
この森林に何かが棲息している事は踏み入る前から分かっていた事。物陰には足跡や食事跡など、痕跡が多数残されているのだが気付けず。
時々、通り掛かろうとした茂みや枝が音を立てる。それは風に揺られた枝葉が音を出しただけに過ぎない。だが、極度の緊張に襲われる新藤は一々驚き、慌ててその方向を確認して息を吐いていた。
山崎に関してはそのような耳障りには見向きもせず、白い鞘に納まった剣の黒い柄を握り締め、獣道をただ真っ直ぐに突き進む。
「・・・しっかし、身体が痛ってぇな。随分歩いたけど、何も見当たんねぇな」
「痛いのは同意するが、ぼやいても仕方ないだろ。それよりも、周辺に気を配って少しでも何かを見付ける様にしろ」
恐怖を誤魔化す為に話し掛けるのだが、命の危機を危惧する山崎は厳しくあしらう。
「それは分かってるけどよ、身体中が痛てぇんだよ」
「俺だって同じだ。少しぐらいは我慢しろ」
「そうだ!お前元気そうだし、俺を負ぶって行くのは如何だ!?そうすりゃ・・・っ!?」
思い付いて口にするのはくだらない戯言。悪ふざけでも冷ややかな視線を浴びせるそれに、山崎はかなり厳しく、振り向きもせずに手にする剣を使って新藤の額を叩いていた。
「・・・痛たぁ!何すんだよ」
「お前こそ何言ってんだ、阿呆。ふざけている場合じゃないんだ」
振り返り、睨み付ける山崎の面に余裕は無かった。彼の悪ふざけに付き合う心のそれはなく、故に苛立ちが強く表れて叩く行為に至っていた。
「んだよ、ちょっとぐらい乗ってくれてもよぉ・・・」
多少赤くなった額を抑え、不貞腐れる新藤。その様子を振り向いて確認した山崎は眉間に皺を寄せていた。
ともあれ、多少気が紛れ、少しなりとも心に余裕が生まれる。その矢先の事、付近で不審な物音が鳴らされた。まるで、二人の茶番に異を唱えるように、付近の茂みが激しく揺さぶられた。
「・・・っ!山崎!!」
咄嗟に警戒し、迫真の声が響く。警告のそれに答えず、早急に反応して音が聞こえた方向に振り返っていく。視認が追い付く前に、強き衝撃に見舞われた山崎の身は大きく仰け反り、地面に押し倒されてしまった。判断が遅れる思考の中で感じ取ったのは、同質ほどの何かが接触した音と、新藤の悲鳴であった。
「っく!何が、襲ってきた?」
不意の衝撃と痛みに目を瞑ってしまった山崎は困惑を口にしながら無意識に抵抗する。何かに乗られている事を認識し、視界を開けようとする。
「ぐぅっ!!」
しかし、突然に右肩に激痛が駆け抜け、再び固く双眸を閉ざしてしまう。痛みに苦しみつつも、彼の両手は原因の何かを掴んで悪化を防ぐ。
伝わる感触から生物の一部だろう。そして、何か棘の様なものを挟んでくる両方に備わる。引き裂き、抉ろうとするそれを、己が肉体を削る覚悟を持ち、歯を食い縛りながら強引に引き剥がした。
衣服ごと身が抉られ、重苦に呻き声を滲ませながらも耐え続ける山崎は、細目でも何とか開けて前方を確認した。
識別し辛いほどの至近距離まで接近する生物は灰色の体毛で覆われていた。整わず、硬質なそれは山崎の肌を削るように動かされる。
身体の先端、尤も接近させる顔は前に長く、体毛は少し色が薄れる。口内に並べた薄らと赤が滲む黄ばんだ無数の牙が覗く。肉を引き裂く為に発達したそれは太く鋭く。
四足歩行であり、末端には 粗雑に尖れた爪が立たされ、襤褸ならば容易く引き裂こうか。
やや太く、長い尻尾ですらも攻撃に扱うように気を立たせて、山崎に圧し掛かっていたのは、犬種の姿であり、言うなれば狼とも言える大型のそれであった。
「くそっ、ローウスか!」
正体が解かると否や山崎は焦り出す。悪寒を抱き、激痛が走る中で抵抗を試みる。しかし、先ず剣を使おうとした利き腕が軽い事に気付く。倒された時に手放してしまった事は言うまでも無かった。
更なる危機に舌打ちを鳴らした彼は兎にも角にも灰色の獣、ローウスを引き剥がそうとする。しかし、先程右腕を噛まれた事で思うように力が出ず、逃れる事は敵わなかった。それはこれまでに溜まった疲労も影響しているのだろう。
絶体絶命の状況に陥った事を否が応でも察した山崎は生き残ろうと手を動かす。その抵抗を、涎をだらだらと垂れ流す獣に容易く振り払われてしまう。
狙いを定め、両顎を大きく開けながら体重を乗せて首に食い掛らんとする。それを目の前にし、全身から血の気が引いていく感覚に襲われた山崎の腕が空を走った。結果、左手が鼻の辺りを、右手は顎を掴み、噛み付かれる直前で防御を成功させる。
しかし、力負けを起こす。抵抗虚しく、徐々に鋭い牙を備えた両顎が首元に接近していく。歯軋りし、汗を滲ませるほどに奮闘したのだが、それも虚しく、涎が滴る牙は首元へ到達した。
心拍は速まり、鼓動が一層強く叩かれる。張りさせそうな鼓動の音を感じる一方、思考が急激に回るほどに焦燥は激増した。早まる呼吸を抑える暇もなく、ひたすらに獣の顎をこじ開けようとする。その努力もまた虚しいものであった。
徐々に彼の首に牙が食い込む。皮膚を破り、肉を突き抜け、鮮血を滲み出させていく。伴い、新たな痛みがじわりじわりと発生、比例して痛みは強まる。同時に首は締められ、呼吸が困難にされていく。
「あ・・・っ!ぐ、あぁ・・・!」
呻きすらも十分に出せず、窒息の苦しさに悶え苦しむ。痛みを忘れて暴れるのだが如何にもならず、鋭敏になる窒息感を味わいながら彼の意識は薄れて始める。
感触は薄れ、視界がぼやけ、耳が遠くなる中、怒鳴り声での威嚇が聞こえてくるのだが、もう彼に思考する事すらもままならなかった。それでも友を案じ、何かを語ろうとするのだが出来ず。
薄れる意識に連れて全身の力も抜け落ちていく。一時も諦める事無く抵抗するのだが、ゆっくりと、指は離れ、山崎の腕はゆっくりと地面へ崩れ落ちていった。
【4】
「・・・ゴホッ!!ゴホ、ゴホっ!」
遠退いた意識を一気に覚醒に転じる衝撃が、山崎の身に突き抜けた。塞がれた流れが急激に解放された為に。それは、窒息しかけていた喉が空気を取り入れ、咽込んだ事を意味した。
再び頭が再稼働し、乱れた呼吸を整える中で思考を駆け巡らせていた。窒息感が消え、圧し掛かられた事に因る圧迫感の消失に疑問を止めた。そして、思い出す。消えそうな意識の中で、ローウスが出したと思しき甲高い声を聞いた事を。それは悲鳴であった。
首を抑え、尚も咽込んで朦朧とする意識下で周囲を見渡す。そうして、発見した。複数の影を。
やや離れた位置に、妙な姿勢で四肢で立ち、退いていくローウスの姿が映った。その脇腹には何かが生え、其処から赤い液体が一筋伝う。それは何故か負傷していた。
横腹に生える物、それは刺さっていた。やや長い矢柄、白き矢羽を備えた、紛れもない矢が、灰色の胴体に突き刺さっていたのだ。
咽込む苦しさの中、血の味を飲み込みながら鈍る身体を起こす。現状を確認する為に見渡そうとするのだが、付近から聞こえる唸り声に視線は集められた。
暗がりに紛れる事無く、威嚇の態勢を取る灰色の獣が見えた。牙を剥き出し、鋭き眼光は山崎を捉えてはいない。彼の後方を睨んで敵意を滲ませていた。
その後方、視界の端に生える茂みの影から、更に二体が姿を現した。様子見の為に潜伏していたのだろうか。だが、異なる展開を目の当たりにし、応援の為に出てきたのだろう。
警戒する三体の灰色の獣の身体に隠れるように、樹木の傍に座り込んだ新藤の姿を発見した。残骸のような剣を持った利き腕で、額や頬に伝う汗や血を拭っていた。九死に一生を得たような安堵感を見て取れた。
友の生存を知り、安心をしたのも束の間、大きくなる唸り声からの怒りを滲ませた咆哮に視線は意識が集められた。
痺れを切らしたのか、犬種特有の走法で駆け出していく。留まる山崎を気にも留めず、瞬く間に彼を横切っていった。
鈍る身体を動かし、確認する後方には当然、駆ける三体の姿が映る。その三体は何かに狙いを定めて駆け抜けていく。
微かに鋭く、風切り音が鳴った。それはローウス達と対面するように響いた直後、一体に何かが突き刺さった。それは矢、目にも留まらぬ速度で一筋の軌道を描き、正確に身体を捉えていた。
衝撃と痛みに一瞬体勢を崩した一体は、先を駆ける同族に続くように持ち堪えて駆け続けている。
ローウス達の正面、矢が飛んできたであろう方向を見れば、人と思しき姿を発見する。丁度木陰に隠れている為、仔細を見る事は出来ないのだが、人である事は確かであり、少々小さめの弓を綺麗な姿勢で構えていた。
三体は矢を射った人物との距離を詰める、邪魔者を排除せんと。それらを見て、誰かは次を番えようとした手を止め、素早く弓を背に回した。背に専用の器具で取り付けると、腰に携えていた剣を引き抜いた。
鞘を走った金属音を纏わらせ、余裕を持って構えていく。下段に刀身を下げ、腰を少し落として重心を定め、三体を静かに待ち構える。その姿勢に柔らかさが感じられた。
間も無く、三体の内、先頭を駆けていた、最初に射られた一体が襲い掛かる。不用心に正面から飛び掛かって。
それを見計らい、半身をずらして躱し、ただ落ち行くだけの灰色の腹部に剣を所持した右腕が振り抜かれた。際に響かれた、空を断つ鋭き音であった。
一閃と言えるほどの迅速な一撃を繰り出した後、次に備える事も踏まえて体重移動をしつつ剣を構える。その動きは、先の一体との接触を躱す事にも活かして。
初撃を繰り出し、返り討ちにあった灰色の獣は淀んだ悲鳴を零し、何も出来ぬまま地面へ落下した。着地もままならず、小さく跳ねて転がってもがくように四肢を動かす。だが、深い切創を刻まれ、赤黒い血液と臓器を零す姿を見れば結末は分かり切っていた。
動かなくなった姿を確認する事無く、誰かは間髪入れずに襲い掛かってくる二体目の対処に移る。その対処も早く、身体を捻り、力強く踏み込みながら剣を両手で握り込んだ剣を水平に振り切った。
先の一閃よりも速く、膂力を篭めた薙ぎ払いは二体を同時に切断していた。途中で遮られる事無く、振り切った後に身を屈めていた。
身を低くした頭上、切創を刻まれた二体が過ぎ去り、無様に地面へ傾れ落ちる。顔を分断された二体の身は痙攣を起こしていたのだが、緩やかに停止していた。
戦いは瞬く間に終えられた。終了を告げるように訪れた沈黙の中、助かった二人はただただ見ているしかなかった。
【4】
三体のローウスを容易く倒した人物は見渡して確認した後、腰元から取り出した何かで刀身を拭い始める。そうしながら山崎の方向へと歩き出した。
「用事を済ませて通っている途中で物音を聞き付けて来てみたら、まさか人が襲われていたとはね。助けられて良かったよ」
拭き終えたのだろう、再び腰元に手を回しながら、剣を鞘に納める人物は爽やかな声で呟く。声は若く、時折差し掛かる陽射しに照らされた顔は、二人よりかは幾分か年上でも青年のそれであった。
流れるように獣達を排除した手際に唖然とする山崎。それは眺めていた新藤も同じであろう。近付いてくる青年を眺めていればその特徴が見えてきた。
青を基調とした、柔軟そうな衣服を着込む。その肩や胴体、脛や太腿部分などに装甲を取り付る。最低限の急所を保護し、機敏性を重視した戦闘服なのだろう。
それを着込む青年は男、誠実そうな顔立ちに綺麗な弧を多く描いた茶色の頭髪から覗く眼は優しき光を宿す。とても先程の強さを誇った者とは思えぬ、気優しそうな雰囲気を纏っていた。
「大丈夫・・・ではなさそうだね。運悪く襲われたのかな?」
心配し、話し掛けてくるその声は、緊張と恐怖を紛らわせ、和ませる柔らかさがあった。
「あ、ああ・・・そうだな。助かった、ありがとう」
親切を受け、割れ返った山崎はまずは礼を述べた。地面に伏したままなので失礼に値したのだが、出血と疲労で立つ事がままならなかった。
「怪我をしているんだね?離れた彼もそうだね。ちょっと待ってて」
二人の負傷に気付いた青年は腰に手を回し、何かを探り始める。良く見るまでもなく、腰にはバッグ、ウェストバッグを身に着けていた。多くのポケットを備え、機能性に優れるそれを探っていた。
「・・・何にせよ、助かったんだな」
胸が撫で下ろされる。まさに救世主に救われ、九死に一生を得たと実感した。その感動をしみじみと感じ、脱力してその場に崩れ落ちるほどに。
「痛(いて)て・・・この人、悪い人じゃなさそうだな」
何時の間にか隣に新藤が移動しており、目の前の青年を眺めながら安堵していた。
「・・・ああ、そうだな」
同調し、恩人である青年を眺めていると、その彼が目的の物を取り出す。指に挟んだそれは深緑の小瓶を二つ。それを傍に座り込んで差し出した。
「これは何?」
「知らない?・・・フェレストレの飲み薬って言う物でね、怪我を速く治せる薬なんだよ」
受け取り、まじまじと眺めながら新藤が問い掛けた。それに驚き、空白を挟んだのは何を企んでの事なのか。
「そんな良い奴をくれるの?ありがとう!」
大感激した新藤が大声で感謝し、小瓶の蓋を取り払った瞬間、彼の表情が歪んだ。封を外され、鼻腔に突き付けたのは独特の香り。激しい爽快感が駆け抜け、頭が冴え渡るようなそれを受け、鼻を塞いでいた。
「・・・こ、これを飲むの?」
「その匂い嫌い?でも、それを飲んだら傷が治るから是非飲んでよ」
独特の香りを嫌って遠ざける様子に、不信感を抱かせぬ爽やかな笑みで薦められていた。
「・・・フェレストレ、は何なんだ?」
「巨大な樹木の名前なんだ。治癒効能を促進させる成分が含まれててね、葉っぱとか、根っことかを特殊な製法で作っているんだよ。とても凄いんだけどね、二つほど欠点があるんだ。それはね・・・」
「・・・っが~!不味ッ!!」
一気に飲み下した新藤が大声で酷評を叫んだ。
「そう、美味しくないんだ。なんか、こう。青草の味をかなり濃厚にした感じ?」
「・・・ああ、確かに不味いな」
山崎も飲み、壮絶な味に顔が歪むのを抑えられなかった。まさに苦虫を噛み潰す、それ以上に歪んで。
「あれ?痛みが、消えた?」
先程まで顔を歪ませ、舌を出して苦しんでいた新藤が突然そう口にした。苦みも何処へやら、きょとんとした面で全身を眺めて首を傾げていた。
その信じられない発言に山崎は呆れる表情で睨み付ける。
「そんな訳がないだろ。ただ痛覚が麻痺しているだけだろ」
「いやいや、本当だって!お前も直ぐにそうなるって!!」
かなり興奮して捲し立てられ、嘘を言っていない事を察する。だからこそ信じられなかった。
「フェレストレの養分には痛みを和らげる効果もあるんだよ。飲み薬は効能が高いから直ぐに効果が出るんだよ」
「・・・本当だ。痛みが、消えた」
新藤や青年の言う通り、痛みは消え失せた事に驚嘆し、負傷箇所を眺めて感銘を受けていた。
「ほぉら、見ろ!俺の言う通りだろ!」
疑われた彼はそれ見た事かと偉ぶるのだが、決して彼が凄いのではなく、フェレストレの飲み薬が凄まじいだけの事。
「でね、もう一つの欠点、副作用のようなものがあってね、効能が付ければ強いほど催眠効果が高くなってね・・・」
フェレストレの飲み薬に感心していると、新藤が小さな唸り声を零し始める。それに気付き、隣の彼を確認した瞬間、その身が傾いて地面に崩れ落ちた。
「な!?し、新藤!?」
昏倒した場面を見て案じ、慌てて彼の身を揺する。力無く倒れては居るのだが、息が止まった訳ではなかった。ただ、熟睡に至り、どのような衝撃を受けても目を覚ます気配はなかった。
「とても疲れているとこんな風に眠っちゃうんだよ。やっぱり、此処に来たばかりだよね」
異状としか見えぬ姿を目の当たりにしながらも青年は調子を変えない。
「お前・・・俺達を如何、する・・・っ!く、くそ・・・」
平然とする青年が途端に怪しく映り、恐ろしさを感じて身構える。警戒し、真意を問おうとするのだが、意識が急激に朦朧とし、喋る事もままならなくなった。
せめて距離を開けようと抵抗する意思も、身体は上手く反応してくれず、その身は崩れていった。
意識が完全に途切れ、同じように昏倒した山崎。頭から地面に伏した為、怪我をしただろう。それでも意識は戻らなかった。
昏睡した二人を見渡した青年は小さく頷く。そして、ゆっくりと落とした小瓶を拾って仕舞うと、何処かに顔を向けた。すると、指を咥えて指笛を吹き鳴らした。独特の高音が周囲が響き渡っていく。
それから数分すらも掛ける事無く、木陰から人よりも大きな生物が姿を現した。四足歩行であり、四肢や首は極端に長く、そして太く。先のローウスのような獣ではなく、スケェイストのような化け物でない事は確か。
その生物の背に、青年は二人を一人ずつ担ぎ上げては乗せていく。次にローウスの亡骸へと近付き、目を閉ざして小さく頭を下げた。命を奪った謝罪であろうか。
「・・・重たいと思うけど、頼むね」
小さく息を吐いた後、振り返った青年は生物に優しく語り掛ける。首筋を撫でると、その生物は嬉しそうに鼻を鳴らして歩み出す。
体躯に見合った足音を響かせ、小さくその足跡を残しながら森の奥へと過ぎ去っていった。
彼等が去り、沈黙が訪れる。吹き抜ける風の音色が強調され、儚さが際立つ。強弱を見せて吹く風が周辺の木々を揺らし、地面に散る木の葉を僅かに舞い上がらせた。直ぐにも落下した落ち葉の内の数枚が、新たに散らされた葉に混じり、死骸の上に降り注いでいく。まるで隠そうとするかのように。
それからも風は吹き、森林の中を駆け巡って枝葉を揺らした。吹く風のその音は実に穏やかな音色であり、枝葉が囁く音もまた。
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