冥府への案内人

伊駒辰葉

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一章

売り言葉に買い言葉

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 クラスメイトたちは授業が終わると高校受験のためにそれぞれが塾や家に散っていく。そんなある日、誰もいなくなった教室で友達は一人泣いていた。

 ごめん。

 友達はすすり泣きながら順に詫びた。その手に握られていた数枚の紙幣を見て、順は打ち明けられる前に納得した。友達だと思っていたそのクラスメイトは仕事として順をずっと監視していたのだ。

 その次の日、友達は姿を消していた。誰にもさよならを言わず転校していったのだと教師からは聞いた。教室の中が騒然とする中、順だけは一人冷静だった。恐らく友達は転校することが最初から決まっていたのだろう。

 順が初めて自分のことを知った時、友達は親身になって慰めてくれた。だが順は決して友達には落ち込んでいる理由を打ち明けなかった。それでも友達は理由を無理に聞き出そうとはせず、落ち込む順の傍にいてくれた。

 友達はとても出来がいい生徒だった。だが家庭内がとても不安定で友達はいつも顔に痣を作っていた。父親は酒飲みで家に帰ってくるたびに暴れていた。母親は外に男を作っては父親と喧嘩をしていた。友達に兄弟はいない。とばっちりは全て友達一人が被っていた。

 心配する順に友達は大丈夫だから、といつも笑っていた。だが本当は心のどこかで逃げたがっていたのだろう。だから順と一番親しいという立場を手っ取り早く金に替えたのだ。

 本当はあいつは監視なんて嫌だったのかも知れない。友達の泣き顔を思い出すたびに順はそう思う。だが友達の行動のどこからどこまでが真実なのかを確かめる術はない。

 そのことがあってから、順は周囲にいる全ての人間を疑ってかかるようになった。その方が監視の目を意識しないよりも安全と考えたからだ。だが疑えば疑うほど、怪しいと思われる人物はどんどん増える。結局、順は他人との接触を出来る限り避けることで、自己の安全を確保しようとした。

 だがそんな順の拒絶の壁を易々と越えてくる者がいた。それが和也だったのだ。

 たまたま席が隣同士になっただけの間柄だった。なのにどうして最近、気がつくといつも傍にいるのだろう。ぼんやりと考えながら順は薄く目を開けた。

「気付いたか?」

 間近に誰かいる。殆ど反射的に順は身体を起こして逃げようとした。が、思うように身体が動かない。起こしかけていた身体が逆戻りして倒れてしまう。力なく崩れた順はようやくそこで自分がベッドに寝かされていたのだと気付いた。

 流行りの歌謡曲が聴こえる。艶のある男性ボーカルに順は耳を澄ました。そういえば落ち着いて音楽を聴くのはいつぶりだろう。

「ずいぶんぼーっとしてるなあ。おい、聞こえてるか?」

 心配そうな声に順はああ、と頷いた。だが順はすぐに顔をしかめて額を手で覆った。頷くだけで頭がぐらぐらする。どうやらまだ熱は下がっていないようだ。おまけに喉をやられているのか声が殆ど出せない。試しに何度か、あー、と言ってみる。だが順の声は無残に掠れていて殆ど声になっていなかった。

「ひでえ声だな、おい。昨日ひいてた風邪が悪化したのか?」
「らしいな」

 順はそう言ってから激しく咳き込んだ。ベッドの脇に立っていた和也が心配そうに眉を潜める。順はそんな和也を一瞥してからため息をついた。見慣れない内装を出来る範囲で見回す。寝かされているパイプベッドといい、モノトーンで統一された家具といい、順の部屋とは雰囲気が全く違う。順の部屋が寝に帰るだけの愛想のない部屋なら、この部屋は主がしっかりとくつろげるように作られている。本棚には雑誌や漫画、ハードカバーの本などがずらりと並んでいるし、テレビやビデオデッキ、ラジカセも置いてある。少し古い感のある学習机はもしかしたら小学生や中学生の頃から使っているのかも知れない。

「ああ。木村の家が判らなかったからな。オレのとこに運んだ」

 順が物珍しそうに部屋の中を見ていることに気付いたのだろう。和也が質問する前に告げる。じゃあ、これはお前の部屋か。順は声に出さずに内心でそう言った。言われてみれば確かに和也らしい部屋だ。壁に貼られたアイドルのポスターを見て順は納得した。

「とにかくしばらくは寝てろ。そんなじゃどうにもならんしな」

 当り前の顔で告げて和也が手を伸ばす。近付いてきた手を見た順は反射的にそれを振り払った。

「……あー?」

 不機嫌極まりない顔で和也が払われた手を見下ろす。順は咳をしつつ、何とか身体を起こそうとした。だがどうしても力が入らない。

「いいかげんにしろよ。熱をみようとしただけだろうが」
「帰る」

 本当は休ませてくれたことに礼を言うべきなのだろう。そのことは判っていたが、順は頑なに和也との接触を拒んだ。ジーンズのポケットに手を入れて時計を引っ張り出す。懐中時計の示す時間を読んで順は眉を寄せた。どうやら思っていた以上に眠っていたらしい。カーテンの閉まった窓からは光が差し込んでいる。

「帰るって……ちょ、ちょっと待て。おい、無理に動いたら」

 制止する和也を無視して順は腕をついて強引に身体を起こした。震える腕をベッドについて体重を乗せた瞬間、肘から力が抜ける。肩からベッドに倒れかけた順をすんでのところで和也が支える。だが順は自分を支えてくれるその手すら乱暴に振り払った。

「お、まえ、なあ!」

 憤りの声を張り上げた和也を横目に見やってから順は掠れた声で吐き出した。

「俺に、構うな」

 どうせまたお前も裏切るだろう? それなら最初から冷たくされた方がいい。言葉にしない思いをこめて順は和也を睨んだ。だが和也も順に負けないくらいに鋭い目をしている。

 しばし睨み合ってから和也は大きなため息をついた。

「ったく……。病人は病人らしく大人しくしてろや。どうせ動けないんだろが」

 呆れた口調で言う和也を睨みつけたまま、順は歯を食いしばった。確かに和也の言った通り、身体は思うようには動かない。だが順はあえて首を横に振った。

「帰る。バイトが入ってるんだ」

 仰向けに倒れていた身体を何とか横に向けて足を伸ばす。無理やりにベッドを降りようとした順を慌てたように和也がベッドに押し留めようとする。伸びてきた手を払い、順は足を床に伸ばした。

「そんな状態でバイトどころじゃねえだろ!? いいかげんにしろ! 何なら気絶させてもいいんだぞ!」

 脅しのように言った和也に順は唇だけで笑ってみせた。

「やれるもんならやってみろ」

 殆ど声にならない声で順が言い返した瞬間、和也が目を吊り上げた。だが俯いていた順は和也の表情の変化を見てはいなかった。足先に当たる床の感触を確かめるようにしてそろそろと身体を捻る。

 不意に視界が揺れる。順はいきなり視界が暗くなったことに驚き、瞬きを繰り返した。何故、間近に和也がいるのだろう。

「え」

 目を見開いて声を上げた順の腕を和也が強い力で押さえつける。順は言葉をなくして和也を見上げた。和也が怒りを満面に現したまま、唇だけを歪める。

「言ったな? それじゃあ望み通りに失神させてやる」

 和也は高校時代に柔道をやっていた。そのことを遅まきながら思い出して順は焦った。何とか和也から逃れようとする。だがどんなに手足を動かそうとしても力が入らない。押さえつけられてじたばたと動く順を和也が面白そうに眺め下ろす。勝ち誇った表情を間近に見つけ、順は歯軋りをして和也を睨んだ。

「なんだ。随分と不満そうだな」

 皮肉に嗤う和也に順は当り前だと言い返した。そもそも二人には体格差がある。和也がその気になれば順を押さえることなど造作もないのだ。そのことは改めて思い知ったが、順は頑なに抵抗した。だが順がどんなにむきになって暴れても和也にとっては大した抵抗にはならないようだ。ばたつかせていた腕を掴み上げ、片手で両手首を握る。それだけで順はあっさりと腕を動かせなくなった。

「離せ!」
「嫌だね」

 必死で言った順に和也があっさりと返す。にやりと嗤った和也の表情を見止めた順の背中に冷たい汗が伝った。今まで和也はこんな風に嗤ったことはない。猛烈に嫌な予感を覚えて順は死に物狂いで暴れた。だが、そんな順を易々と押さえつけて和也が不敵に笑う。

「おーお。ようやく気付いてやんの」
「い、やだっ! 離せ!」

 順は嫌悪感を覚えて喚き返した。和也がのんびりと片腕をベッドの下に伸ばし、放り出したままになっていた順のジャケットを取り上げる。揃えて握っていた順の両手首にジャケットの袖を強く結わえる。余りにもあっけなく拘束され、熱のためにそれまで赤く染まっていた順の顔は一気に蒼白になった。

「ばか! やめろっ! 離せって言ってるだろう!」

 一息にそう叫んだ直後、順は強い衝動に襲われて激しく咳き込んだ。何度も咳き込んだためか、呼吸するたびに耳障りな音が混ざる。苦しげに呼吸する順を余所に、和也は鼻歌を歌いながらジャケットのもう片方の袖をベッドのパイプに結びつけた。

「な、何の、つもりだ!」

 腕を縛られ、ベッドに拘束された順は必死で喚いて身体をよじった。だがどんなに抵抗しても和也は順を離そうとはしなかった。申し訳程度にかけられていたタオルケットを剥ぎ取り、ばたつかせていた順の足に跨る。和也は意地の悪い嗤い方をしながら順の首に手を伸ばした。
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