『桜魂の継承者』-BLOOM OF ETERNAL BONEDS-

第44話「団地の夕暮れ」

午後の陽射しが傾き始め、伏見区向島の団地の十階は柔らかいオレンジ色に染まっていた。窓から差し込む光が廊下の壁に長く伸び、微かに埃を含んだ空気を照らす。福田朋広は、ベッドで少し伸びをしてから立ち上がり、ゆっくりと窓の外を眺めた。

雨上がりの街は、昼間の喧騒を取り戻しつつあった。車や原付のエンジン音、遠くで子供たちが遊ぶ声、そして団地の住人たちの生活音。何もかもが昨日までの雨夜の出来事を忘れさせるかのように、静かに混ざり合っていた。

廊下を歩くと、久世桔梗が郵便受けの前で手紙を整理している。淡いグレーのオフィススーツは相変わらず洗練されているが、肩の力を抜いた柔らかさも感じさせる。すれ違いざま、軽く会釈する桔梗に、朋広も自然に頭を下げる。

「こんにちは、昨日の雨はすごかったなぁ」
「ほんまやなぁ、よぉ降ったわ」

ほんの少しの会話だけれど、こうして日常がつながっていることに、朋広は心の奥でほっとする。

隣室からは伏見美琴が和服姿で荷物を持って出てきた。白地に淡い紫の柄が入った着物は、清々しく、雨上がりの空気に溶け込むようだった。「こんばんは」と微笑む美琴に、朋広は自然に挨拶を返す。挨拶のやり取りだけで、空気が少し和らぐのを感じた。

階段の踊り場では、香椎天音が降りてくる。看護学校の制服らしい淡いブルーのセーラー服が、夕陽の光にほんのり反射している。ふと目が合うと、天音は小さく会釈して微笑む。その笑顔は、昨日の混乱などなかったかのように穏やかだった。

団地の通路を抜け、外に出ると、街は夕暮れの色に包まれていた。濡れたアスファルトは夕陽を映して赤みを帯び、歩道にはまだ小さな水たまりが残る。朋広は一歩一歩、慎重に歩きながらも、自然に街の空気を吸い込む。

「夕方もええなぁ……」

ひとりごとのように呟きながら、朋広は団地の住人たちの生活音や笑い声に包まれ、少しだけ心が軽くなるのを感じる。郵便受けの音、ドアの開閉音、遠くで誰かが話す声――すべてが昨日の雨の夜を忘れさせ、穏やかに混ざり合っていた。

やがて原付を眺めると、事故で壊れたはずのスマホも、何事もなかったかのように胸ポケットに収まっている。朋広は軽く笑い、「最新のスマホには色々な機能があるんやなぁ」と、いつもの天然な感覚で呟いた。

その夜、団地の窓から見える街の明かりは、昨日の雨を経て、より柔らかく、そして温かく光っていた。朋広はまだ何も気づかない。核も装具も、20才姿も、すべてはまだ静かに眠ったまま――ただ、彼の周囲の日常は確かに動き続けていた。