虫宿し

冬透とおる

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pin.04「夜空色の羽根」

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カリカリ。
こりこり。

こつこつ。

隣室から響く静かな音。
耳を刺す悲鳴はいつの間にか無くなって、今は静かに小枝を折る音が届いてきた。
こつこつ。ぱきん。
音の正体は知っている。

まつりは半分ほど中身の無くなった小瓶を握り締めてスマホの画面をじっと見つめた。
兄との約束は端末の電源を落とさない事だ。残量は既に30%を切った。
しかし、残り残量よりも不安が勝り、アプリを閉じることなく見つめて時折短い文章やスタンプを送りながら返事の無い兄の反応を待ち続けた。
数分前に送ったメッセージに既読が付く。返事は無い。

「大丈夫だよね」

兄はきっと来てくれる。
泣き腫らした頬はそれ以上涙を流す事はない。ただ、恐怖と脱水症状による頭痛のみまつりに与えていた。
この部屋に扉は二つ。

一つは化学実験室に通じるドア。
もう一つは廊下に通じるドアだ。

どちらのドアも棚や机で塞いでいる。万が一、廊下側のドアが破られれば最悪の袋小路だ。気付かれてはいけない。
殆ど香りの薄れてしまった空間と、手元の小瓶の中身を交互に視線を彷徨わせた。

「にぃちゃ‥早く‥」

電話は出来ない。
それをしてしまうと来てくれているかも知れない兄を危険に晒す事になるから。
兄との約束を守ってまたたった一つだけスタンプを送る。すぐに既読がついて安堵する。

「………」

しかし、果たして、本当にリッカは学校に来てくれているのだろうか。
隣の友人と寄り添いながら、思考すればするほど泥沼に嵌まりながらスマホを握り締めた。



---



「まつりちゃんは?」
「まだ大丈夫みたいだ。けど‥」
「わかってる。急ぐよ」

学校の中は随分静かになっていた。
蜂の威嚇音も殆ど無く、壁や天井にへばりつく姿も減ってきた。
それでも遭遇する度殺していてはキリがない。体力も持たないと。蜂の居る場所を避けて通り、必要な場合はイツキが最大限の警戒と注意の上で蜂に威嚇行動すら取らせず一撃で駆除して見せた。リッカはミサキの形見でもあるスタンガンを握るだけだ。
白服の仕事は映像媒体でしか見た事が無かったが、やはり、イツキは他に比べてスキルも身体能力も高い。

「こいつ‥絶対体育の授業本気出してねぇ‥」

と。こんな状況でもリッカのジト目を受けるレベルには信じられない身のこなしだ。
同時に、そんなイツキとミサキが二人係りで生き残る事を優先していた事実に戦慄する。

「どしたの?」

階段を先導するイツキを見上げた。

「すげえなお前」
「白服と一般学生を一緒にしないでくださーい。おれはこれが仕事ですぅ」
「それはそうだけどさ」

ああ。それにしても申し訳なさが積もる。
こんな危機的状況で協力してくれる友人にはもう頭が上がらない。

「リッカ。三階だよ」
「…おう」

踊り場からイツキを見上げ、油断をすれば走り出しかねない自分を諫めて姿勢を落とした。
回り道をしていく中で2階の踊り場天井に蜂が張り付いていたのを思い出す。この足元には蜂がいた筈だ。
足音で蜂を刺激しないよう慎重にイツキの隣に並んで廊下を見つめた。

「っ」
「大丈夫?」
「‥い、じょ‥ぶ…」

わかっていた筈だった。
が、余りにも惨い。

廊下に蜂の姿は無かったが、変わりに蜂の死骸と白服の亡骸が転がっていた。
その白服はこの学校の制服を着た女の子の体を抱いていたが、首から上が見つからない。
腹の底から込み上げてくる恐怖と涙を耐えて廊下を先を見つめる。

「リッカ。あそこだ」
「あ、ああ」

ここは別棟三階。
特別教室が並ぶプレートの中に"科学準備室"の文字があった。

「……此処に落ちてる蜂は全部死んでる。でも教室にはいる筈だ。静かに行くよ」
「・・わかった」

気が急く。
バクバクと喧しい心臓を押さえつけて一歩。一歩。音を立てないように歩を進めた。

かりかり。
こりこり。

教室からは小枝を齧る音が。苦しそうに呻く声が聞こえている。

__ごめんなさい。

教室のドアのガラスの向こうでまだ辛うじて息のある女教師がリッカ達をじっと見つめている。
はくはくと口を動かすその女から目を逸らした。
俺には助けられない。と。首を振って耳を塞いだ。
口を塞いで嗚咽を殺し、体を低くしてやっとの思いで辿り着き、階段で見つけた白服の死体の横に立った。
彼らは準備室の扉に凭れる様にして横たわっており、一度手を合わせて躊躇しながら二人の遺体を引き摺る様にして動かしたが、イツキは膝をついて白服の腰回りを弄っていた。

「イツキ?」
「あ、ああ。無線を拝借しようと思って」
「仲間に連絡が取れるのかっ?」
「うん。助けに来てくれるかもしれない」

引き千切られた無残な亡骸を前に躊躇はない。
慣れているのかと眉を顰めたが、イツキの指が確かに震えているのを見てしまった。

「イツキ‥大丈夫か‥?」
「大丈夫」

ああ。馬鹿じゃないのか。慣れる筈がない。
虫の被害は多々あれど、犠牲者が多く出るようなこんな事態は‥少なくともリッカの記憶にはなかった。それはイツキも同じはずだ。
震える指に気付いているのかいないのか、ベルトに通された無線を取るまで若干の苦労を見せた後、イツキはタグを千切り取って仲間に連絡を試みた。
それを待っているリッカに気付いたのか、イツキは準備室を指差し促す。
頷き。

「…まつり‥?」

そっと話しかけた。

「悪い‥遅くなった‥大丈夫か?」

声は無い。
それでも部屋の奥からカタッと物音が聞こえて、ついで、重い何かを引き摺る音と共に準備室のカギが外される。

「……にぃちゃ?」

胸が膨らんだ。
叫び出したい程の呼気を喉奥で留めて、肩を落としながら深く吐き出す。

「まつり‥!」

生きていた。
無事だった。
足を怪我しているのか右足首は痛々しく腫れているがそれ以外に目立つ外傷は無い。

否。

「っ?!お前‥どうしたんだその血‥!」

まつりの白い制服は胸から足元までべったりと赤く濡れていた。
尋常じゃない出血量に視界がチカチカと明滅するが、まつりは混乱するリッカの手を握って首を振る。

「違うの」

怯えは見えるが、苦痛はないようだ。
なら、と。追求しようとするリッカを部屋の中に引き入れる。
納得してしまった。

「……部屋の外に居たのが、ののかだったのか‥」
「うん」

部屋の中に充満する鼻を刺す冷めた匂いで馬鹿になりそうだ。
頭痛を招くまで大量に撒かれたハッカ油がこの部屋の蜂を遠ざけていたのだろう。安全を確保する手段を感心するより、目を惹いたのは窓際で目を閉じる首だった。
それはまつりの親友であり、一つ年上の少女の首だ。
リッカも何度か交流のある面影に体温がサッと冷めていく。

「ハッカ油の事を教えてくれたのもののかちゃんなの。白服の人と一緒に逃げてたのに、どんどん蜂が地下から出てきて‥化学の先生、虫よけにハッカを持ってたの思い出したから‥取りに来たの‥そしたら‥先生が蜂に食べられてて‥」
「………」
「ののちゃん‥まつりを逃がそうとして‥」
「まつり」

妹は気付いていないだろう。
泣き腫らした目で涙を流し続けるまつりの顔は青く。指先まで冷えて白くなっている。
呂律の回らない口で必死に語ろうとするまつりの肩を強く掴んで膝を折った。

「まつり」

目が合わない。
このままでは妹は壊れてしまう。
後ろにイツキが立ったのも気付いているが、そちらに気を遣る余裕は無く考えあぐねると、不意に、制服のジャケットに入れたままだったラッピングがカサリと鳴った。
思い出して取り出す。

「ほら、あーん」

形は崩れてしまっている。
しかし、辛うじてにんじんの形がわかるクッキーを選んで摘まみ、まつりの口に放り込んだ。

「!」

驚く瞳に光が戻る。
そのまま黙って咀嚼し、飲み込んだ頃にはポカンとした顔がリッカを見つめている。

「にぃちゃがクッキー?」
「…貰ったんだよ」
「…だれに?」

疑う目に苦笑を返した。
どうやらすっかり戻ったようだ。

「イツキ」
「……あ、うん」

立ち上がりながら残りのクッキーをまつりに持たせ、振り向くと驚いた顔のイツキと目が合った。
首を傾げる前にいつもの表情に戻ったイツキが無線を耳に付けながら、にこっ、とまつりに笑いかける。

「仲間と連絡が取れたからもう大丈夫!まつりちゃんはおれ達が守るからね」
「イツキちゃん、ありがとう」

イツキに懐いているまつりが安堵に笑う。
それを見て胸を撫で下ろし、廊下を確認するイツキのサインを待つ。

「にぃちゃ」
「ん?」

不意に袖を引かれて見下ろした。

「どうした?」
「……ののちゃんも‥」
「あ、ああ‥俺が連れて行こうか?」
「大丈夫。私がお家に送るから」

言われて頷く。
制服のジャケットを脱いでののかを包み、まつりの希望もあって彼女に抱かせた。
蜂は随分静かになっている。このまま十分に注意していれば大丈夫だ。と。

「リッカ‥!急がなきゃまずい!」
「は?!」

妹と合流して気を抜いていたリッカは、カチカチと学校中で響く警戒音に漸く気付いた。

「な、んだよ‥!」

次いで、バタバタと喧しいヘリの音。
イツキと二人、窓の外を見て絶叫を飲み込んだ。

「何してんだよ‥!」
「うっそ‥バカじゃないの‥?」

蜂がわさわさと上空に舞い上がり、2機のヘリを取り囲んでいる。
恐らくは駆除剤を散布したのだろう。グランドには多くの蜂が転がっていたが、それ以上に大量の蜂がプロペラに巻き込まれて、尚取り囲んでいく。
明らかに無謀だ。
突然の敵に、静かに潜んでいたワーカーが一斉に敵意を剥き出しにしている。
それは校内にいた蜂も同様だった。
どうやら蜂は決して駆除されて減ったのではなく、"白服が減って蜂の敵が居なくなったから"一時的に鎮静化しただけだったらしい。

再度敵を認識した蜂は一斉に敵意を露わにし、隣の実験室からもガチガチと大顎の音が聞こえている。
それはまるで学校中で、外で、合唱をしている様に響いていた。

「リッカ、早く逃げるよ!」
「掴まってろ!」
「ふぇ!!?」

スタンガンをベルトに差し、まつりを担いでイツキの後に続いた。
グラウンドでは盛大な爆発音が上がっている。
ヘリが1機墜落していた。

「に、兄ちゃ!蜂が!!」
「うおおおおおおお??!どうすりゃいいんだよイツキぃい!!!」
「くっそ!シロハさん、ヘリが落ちました!!校舎の蜂が溢れています!!シロハさん!!」
「へ?!シロハ!!?って、うわああああ!!!」

爆発の衝撃で窓が割れ、教室のドアを破って大量の蜂が溢れかえった。
見れば教室の中には幼虫がひしめき、丸められたグロテスクな肉団子を咀嚼している。
イツキが叫んだ覚えのある名前に驚く余裕もない。嗚咽を耐えて、まつりの目を隠して走った。

「にぃちゃ!?」
「くそぉおお‥見るなよまつりぃいいい!!」

頭上を蜂が過っていく。

「とにかく下の階に降りるぞ!!早く脱出するんだ!!!」

階段を駆け下りていくイツキは2階を踏むより早く引き返してきた。

「な、なんだ、どうした!?」
「戻れええええリッカああああ!!!」

直後、階段下に雪崩れ込むのは蜂に追われた白服の男だった。
筋肉逞しい屈強な男の体には針でズタズタに穴が開き、縋る目でイツキに手を伸ばしている。

「た‥」

助けて。と、掠れる絶叫は蜂に埋もれて届かなかった。
絶叫と羽音の轟音に耳鳴りがする。
心臓がバクバクと脈を打つ。
廊下に溢れた蜂は踵を返したイツキを複眼に映して威嚇音を喧しく響かせた。

「い、イツキ…!」
「イツキちゃん!早く!!」

思わず踊り場で立ち尽くす。
蜂は階下からも上がってくる。手摺を超えて、イツキを狙っている。

「逃げろ!二人とも!!」

蜂に気付いたイツキがスタンガンを構えるが、既に間合いに入られて息を呑んだ。
ガチガチと鳴らす大顎が腕に喰らいつく。直後、もう一方の手に握ったスタンガンで頭ごと焼き落とした。致命傷は避けたようだが、負傷した腕では戦える筈もない。
蜂の羽根に掠めた腕は酷く痛み、取り落としたスタンガンは蜂が蠢く廊下を滑っていく。

「にぃちゃ!イツキちゃんが‥!」
「くっそ!お前だけでもなんとか逃げろ!!」
「にぃちゃ?!」

まつりを降ろし、リッカはベルトからスタンガンを引き抜いた。
金属バットより重いグリップを強く握ればシャフトが火花を上げ、すぐに青く放電して熱を持つ。

「伏せろぉおお!!」
「っ」

戦う訓練なんてしていないリッカはイツキの頭上スレスレを振り抜いて大顎開いた蜂の横面を殴り、力任せに壁に叩きつけた。
電圧と熱で焼き切れた蜂の焦げたにおいが鼻につく。
当然、虫を追い払った経験がないわけじゃない。それでも駆除が出来たのは初めてだ。
甲殻を焼き切って叩き潰す感触に眉を顰めた。

「早くしろお!」
「あ、ああ」

訓練を積んでいないリッカに出来るのは我武者羅にスタンガンを振り回す事だけだ。
姿勢を落としたイツキの腕を引き寄せた瞬間、シャフトが天井を打ち付け、バキン、と。音を立てて折れた。

「うわああああしまったあああ!!」
「バカ!何してんの!!」

武器が無くなれば格好の餌食だ。
そもそも、ケガ人が二人も居れば全員逃げる事は難しい。

「っ、う‥!」
「リッカ!」

脅威は無くなったと判断した蜂が一斉に押し寄せる。
折れたスタンガンで懸命に大顎を受け止めて振り向いた。

「イツキ!まつりを連れてけぇえええ!!」
「なっ、ば、そんな事‥!」
「早く行ってくれよぉ!」

凶悪な大顎がグリップを削っていく。
針がリッカの脇腹を掠めてじわじわと赤色が広がった。

「にぃちゃああ!!」

妹の悲鳴が聞こえる。
そして、上の階から降りてくる羽音も。
どうやら逃げ場は無くなったらしい。

「まつり‥!」

顎が腕を掠め、指先を掠め、ほたほたと滴って染まっていく。
妹が。友人が。すぐ後ろで危険に晒されていた。



「くそおおおおおおお!!!」



ほたほた。
ボタボタ。



「っ、!?」



唐突に世界が赤く焼けた。
全身の血が、神経が、ぶくぶくと沸騰していく。

過ぎた苦痛に歯を食いしばるが、次の瞬間に目を瞠った。



「う、うわあああ??!」



指先から。腕から。シャフトを握る腕の毛穴という毛穴全てから粘着性のある赤色の糸が噴出して蜂の顔面を覆っていく。
勢いの止まらないそれは次々壁や天井までも染め上げ、それらは網状に糸を張り巡らせた。

「なんだよ!?なんだんだよ!!!」

張り付くそれは間違いなくクモの糸だ。
リッカから噴き出した赤い糸は天井から床まで瞬時に網を張り、次々と蜂を絡め捕っていく。
恐ろしい。訳がわからない。
しかし、考える間も惜しく、まつりの悲鳴に振り向き手のひらを向けた。

「二人ともしゃがめええ!!」

腕に繋がっていた糸はあまりに簡単に張り巡らせた網を残して千切れ。打って変わって手のひらからは漁網のような太い糸で構成された赤い網が広がり、蜂を包んで落とした。
全ての糸は強度があるように見えない。
しかし、蜂が藻掻けば藻掻く程。足掻けば足掻く程に容赦なく複雑に絡みついていく。

「・・宿主(シュクシュ)‥?」

その光景を呆然と見ていたリッカとまつりは、イツキの呟きにハッと我に返る。

「イツキ‥これ‥俺‥」

ぷつんと糸の切れた手には何の異常も無い。
縋る様に見つめるリッカに、イツキはそれ以上の何も語らず二人の手を取り、階段を駆け上がっていく。
三階を通り過ぎ、屋上へ。

「お、おい!イツキ!!」
「イツキちゃん!?」

血生臭い校舎を飛び出した屋上に上がると曇天は遂に雨を落とし始めていた。
墜落したヘリの物だろう鼻を衝くガソリンのにおいに、人の悲鳴。
上空は蜂が多く旋回して逃げ場もないと言うのに、無線で何やらやり取りするイツキは迷いなくフェンスまで一気に走った。


「此処から降りるぞ!」

「はああ!!?」


何を言っているんだ。
愕然と声を上げたリッカにイツキは真剣だ。だからこそ、声を張り上げる。

「馬鹿かお前!こんなところから落ちて無事で済むわけないだろ!!」

声を張るリッカにまつりは激しく首を振って頷く。
それでもイツキは握っていたリッカの手をフェンスに押し当て、痛い程に握り締めた。

「大丈夫だ」

至近距離から覗き込むのは茶色の強い友人の瞳。
ぽかんと見つめればあくまで真剣な視線がリッカを貫く。

「大丈夫なんだよ。お前の‥リッカの"虫宿り"の力があれば安全に下に降りられるんだ!」
「は?」
「さっき蜂を足止めしたみたいに、天井から糸を張って地上まで伸ばしてくれ!」
「は?はあ??!」
「まつりちゃんはおれに任せてくれればいいから!」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!!」

イツキの要求は理解を超えていた。
階段で確かにリッカは蜂の足止めに成功している。
しかし、リッカ自身訳も分からず陥った事態であり、意図して出来ることでもなかった。
まして、一度に三人もの人間を安全に下まで運ぶとなると。

「どうやったら良いんだよ?!さっきのだってオレが一番わからねぇ!」
「……まじかよ‥」

必死の訴えに漸く先ほどの光景が無意識下の偶然の奇跡だと理解したらしい。
徐々に青くなっていくイツキに申し訳なさも感じるが、しかし、先の状況を全く理解できていなかったのはリッカ自身だ。それなのに自分だけならともかく、二人の命を背負う事は出来なかった。
絶望したイツキの表情に泣きたくなる。
だと言うのに。

「うおああああ!」

蜂は待ってはくれない。
むしろ、獲物がまんまと迷い込んできたとばかりに群がってくる。
逃げ場も無く、リッカとまつりを背に一人戦っているイツキに針が。顎が掠めて白ツナギに赤が滲んでいく。

「チッ‥!」

鋭く舌打ち、スタンガンに噛み付いて燃えた蜂を薙ぎ払った瞬間。

____ガシャン!!
ぶつかった蜂の死骸でフェンスは歪み、落下した。地上では運悪く下敷きになった蜂が足掻いている。

「きゃあああ!!」
「イツキ!落ち着け!」
「そうは、言って、も!!」

イツキはもう息も絶え絶えだ。
屋上に逃げてきた時、例えばそれがイツキ一人だとしたらなんとか逃げられた。否、最初からイツキ一人なら今頃仲間と合流して難なく逃げられた筈なんだ。
リッカ達兄妹がイツキの退路を奪ってしまった。

「せんせー」
「?!」

突然の眠そうな声に顔を上げた。

「頼むから。こっちも命張ってんだから。つまんねーこと言わないでよ?」
「………」
「リッカが無理なら、おれが何とか片付けて逃げ場作るから、諦めてくれるな」
「……」

見上げたイツキの顔はいつも通りだ。
飄々としてつかみどころも無く、眠そうな目。
わざとそうして見せてくれた事に情けなくなる。俺は。何て顔をしてたんだろう。

「くく‥」
「にぃちゃ?」

なんだか笑えてしまう。
笑い過ぎて涙すら出てくる。
その涙にギョッとしたまつりが必死に兄を見上げるが、今は見ない振りしてまつりを小脇に抱いた。

「なに!?」
「しっかり掴まってろよ、まつり!」
「ちょ?!なにするの?!」
「イツキ!来い!!」
「は?!」

背後にあったフェンスを蹴り破る。
驚き耳を塞いだまつりをしっかり抱き直し、もう片方の腕でイツキの腹に腕を回して。




飛び降りた。



「うおあああああああああああああ!!!????!???!」

「いやぁぁあああああああああああ!!!!!!!??!???」



景色がすごい速さで流れてく。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いまじで泣くほんと泣くもう泣いてる!!!

ガチガチと鳴る奥歯をどうにかこじ開けて大きく開き、肺を膨らませて腹に力を入れた。





「うぅうぅううおるぁあぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」





二人がしがみついてミシミシと腰の骨が悲鳴を上げる。
二人から両手を離して地面に向け、10本の指を広げた。


「ぐぅう!!」


指先が熱い。
指紋が溶けて、皮膚が燃えているようだ。
その指先から一瞬、するり。と、伸びた白い糸は次の瞬間には太く長く伸びて複雑に絡まり合う。
手首程の太さがある粘着性の糸は校舎と電柱。空中を旋回する蜂までも巻き込んで瞬時に巨大な蜘蛛の巣を作り上げた。

「っ、リッカ!おまえ!!」
「ぅ‥」

地上まであと十数メートル。
バウンドした体は酷く疲弊してねとりと張り付く糸の感触が不快だ。
涙がだらだらと溢れてく。目の前が赤い。

プツッ

「……は‥?」

おいおい嘘だろう。
こんなにも苦労したのに、蜂が足掻き、大あごで糸を噛み千切ってしまった。
支えをなくした巣は傾いて歪み、まとわりつきながら崩れてく。
まるで漁猟のネットに嵌まった魚の気分だ。





………漁師役は青く美しい蝶だったが。





「おつかれさま。あとは、わたしにまかせて」





ふわりと声が降ってくる。
その声が蝶のものだと気付きながらも意識は揺らいで、溶けていった。





-to be continued-
▼次回更新10/4(月)予定です。
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