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逢隈の出水

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 為氏と三千代姫の仲睦まじい様子は、長いこと家中の評判となっていた。図書亮とりくもほぼ同時期に結ばれたのだが、安寧と怠惰は紙一重である。りくのことを可愛いと思いつつも、最近では時折、つまらぬ言い争いをする事も出てきた。
 たとえば、汁物の味付けである。
 図書亮が育った一色家では、宮内一色家は鎌倉にあったものの、本家は丹後で都に近い。そのため、一色家の味付けは、京風の素材の味を活かした薄味である。
 対して、りくは生粋のみちのく育ちだ。そのため、京風の薄味に馴れた図書亮の舌には、りくの味付けは相変わらず辛すぎるのだ。それを何度も申し出て薄味にしてくれるように頼むのだが、りくはなかなか改めてくれないのだ。
「せっかくの木の子の味が、殺されるじゃないか」
 今しがたも、図書亮はりくに控えめに注意したばかりである。話題になっているのは、秋の味覚である木の子の汁だった。図書亮は木の子の旨味を味わいたいのだが、木の子の出汁よりも味噌の風味が勝っているのが、何となく気に入らない。だが、りくは図書亮好みの薄味を嫌う。
「そんなに申されるのならば、白湯でも啜っていらっしゃればいいでしょう」
 りくはつんと顎を上げてみせた。それをおろおろと見ているのは、間もなく嫁取りをする予定の忍藤兵衛だった。
「図書亮。お前、作ってもらえるだけ有り難いと思え」
「だそうですよ。一色さま」
 藤兵衛の妻となる予定のはなが、笑いを噛み殺しながら藤兵衛の言葉に乗った。藤兵衛の家は、図書亮夫妻の住む根岸から少し離れた、「宿」という一風変わった名前のところにある。
 秋の刈入れを前に、その手伝いを頼むために二人揃って遊びに来たのだった。
「お主も、結婚して一年も過ぎればこうなるさ」
 悔し紛れに、図書亮はそう言い捨てた。とは言え、りくに対してはちゃんと感謝の念を持ち続けている。
「御屋形様だったら、きっと図書亮さまのような意地悪は仰っしゃらないわ」
 りくは、じろりと図書亮を睨んだ。
「何を言う。御台様は、御屋形様の意を先んじて察する賢さをお持ちだろう」
 負けじと、図書亮も言い返す。
「まあまあ」
 その席で、唯一まだ連れ合いのいない倭文半内が、機先を制した。
「独り者の俺からすれば、御屋形様たちもお主らも、羨ましい限りだ」
 半内の言葉に、一同はようやく笑みを取り戻した。
「倭文様。つけましょうか」
 半内の言葉に気を取り直したりくが、木の子汁のおかわりをしてやろうと、手を出した。半内も、軽く頷いて碗を出す。りくがそれにたっぷりと汁を注ぐと、湯気がふわりと漂った。
「それにしても、御屋形様と御台様のお仲は、相変わらずよろしいですよね」
 はなは、感嘆のため息を漏らした。はなも、りくと同じ様に岩間館に伺候しているのである。彼女は、服部氏の一族の娘だった。服部は、やはり須田氏の古くからの家臣である。
「市之関館のお花見の舞は、お二人とも見事だったのでしょう?」
 あの日、心ならずも峯ヶ城に留め置かれたりくは、御台から図書亮が下賜された山桜の枝に感じ入るところがあったのだろう。しばらく大切に活けていた。
「確かに、夫婦の呼吸とでもいうのかな。御台様は佐保姫が舞っているのかと思ったし、御屋形様は毘沙門天のような凛々しさだった」
 藤兵衛もあの日、樫村らの下働きを手伝いながら、遠目に姫の舞を見ていたらしい。
「図書亮は、御屋形のために今様を詠じたんだっけ」
 半内は残念ながら、あの宴に伺候出来なかったのだった。後で他の者から花見の宴の模様を聞き、相当に悔しがったらしい。
「美濃守様が無茶を仰るから、肝が冷えた」
 あの時のことを思い出すと、図書亮もやや誇らしい気持ちになる。三千代姫の機転の利いた歌に対応させ、かつ当世らしい歌を謳えと、なかなかの難題を吹っかけられたのだった。
「伯父上も、あれで図書亮さまを見直されたようです」
 りくも、穏やかに微笑んだ。図書亮の鮮やかな切り返しは「箭部の一族」としても面目を保つことが出来て、鼻の高い結果だったのだろう。
「ふうん。戦ばかりが功を立てるところではない、というところか」
 半内が、ごちた。彼は教養よりも武芸に力を入れているところがあり、花見の席に呼ばれなかったのは、それもあるだろう。
「それにしても、御台様が御屋形様に引けを取らないというのは、どうなのでしょう」
 はなが、やや気遣わしげに藤兵衛に尋ねた。三千代姫が夫と対等に渡り合える教養を備えた姫であるのは確かだが、それが須賀川衆の増長を招いているところもあるのだった。
 姫には何の罪もないとはいえ、須賀川衆が「姫を自慢する」のが、和田衆は何となく面白くない。
「難しいところだな」
 藤兵衛も箸を止めてはなに答えてやる。図書亮も、はなや藤兵衛の見立てに賛成だった。
「御台は賢い。御屋形も、御台のそのようなところをお気に召しているのだろう。だが、賢すぎる女は時として男からすれば目障りにもなる。御屋形様は、まだその辺りの機微をお分かりになっておられない気がするんだよな」
 図書亮は、それが気がかりだった。図書亮とりくも夫婦喧嘩をすることはあるが、りくは決して、図書亮の教養や仕事に口を挟むような真似はしない。だから、先程のような喧嘩が生じたとしても、それほど深刻にならずに済んでいるのだ。
 だが、御台は違う。夫の為氏と趣味を分かち合い、同じ目線で物事を語ることができる。為氏はそれを好ましく感じているようだが、四天王を始め、家臣の男たちは為氏と同じ目線で物事を語る御台に対し、微妙な感情を抱いているのを、図書亮はうっすらと感じていた。
 中でも、美濃守は表面上は御台に付き従いながらも、時折主夫婦を見守るその目には、複雑な色合いが浮かんでいた。
「女は、少々頭が空っぽの方がよろしいということ?」
 りくにしては、やや意地の悪い言い方だ。図書亮の物言いの癖が移ってきたのだろうか。
「いや、そうではないがな……」
 言葉を濁す図書亮に、半内が合いの手を入れた。
「男の沽券に関わる、ということか」
「なるほどね」
 半内の言葉に合点がいったのか、りくが肯いた。
「男の方々も、大変ですこと」
 くすりと、はなが笑う。男たち三人も、顔を見合わせて苦笑するしかなかった。


 それから数日後、美濃守に言いつけられて図書亮は岩間館にいる為氏に、書類を届けに伺候した。このところの政の主な議題は、鎌倉からの税の取り立てに対し、どのように申し開きをするか、ということである。
鎌倉を現在差配しているのは、図書亮の父を死に追いやった「上杉憲実」だった。一色家から見れば「陪臣」の身分だ。それだけでも不快だが、憲実は足利学校を整備し、また、都にある「足利宗家」の意も受けて活動している。同じ様に上杉憲実に凋落させられた二階堂家としても、全面服従はしかねるが、無視出来ない相手でもあるのだった。
 都ではたびたび「徳政令」が出され、借金の帳消しが行われた。そのため、酒屋や土倉など「金」を持っている者たちは、徳政令を嫌って武士に対して金を貸したり払ったりするのを渋るようになる。その穴埋めを「地方」の者に負担させようと、鎌倉では考えているらしい。
「冗談ではござらぬ」
 はるばる里守屋から馬を駆ってきた守屋筑後守は、大仰なため息をついた。四天王のうち、和田の峯ヶ城から一番館が遠いのが彼である。近頃では、領地が隣接している安積郡の伊東の手の者たちが、勝手に岩瀬の地に入り込み、田を刈り取ろうとしているらしい。勿論、違法である。その相談と報告を兼ねて、為氏のところへ伺候に来たのだった。
「伊東とは、友好関係を築けているのではございませんでしたか?」
 図書亮は、てっきりそうだとばかり思いこんでいた。そもそも、三千代姫の婚姻の話を持ってきたのは、あの伊藤左近である。和田衆はともかく、西衆と伊東の者らは友好的なのではなかったか。
「安積の者も、奥州探題である畠山からの取り立てが厳しいと嘆いているらしい。その畠山を現在管理しているのが、鎌倉の上杉殿。そして上杉とつながっているのが……」
「足利宗家でしたね」
 暗に、一色家も責められているような気がして、図書亮は首を竦めた。もっとも、都の幕府に直結しているのは本家なので、滅びかけている関東の宮内一色家の図書亮が責められる筋合いはないのだが。
「一応、御屋形の名前で二本松の畠山宛に、抗議文を出してもらうつもりだが……」
 図書亮も、他人事ではない。眼の前でこぼしている守屋筑後守と領地を接しているのは、妻であるりくの実家だからだ。りくの実家も、同じような悩みを抱えているかもしれない。
 鎌倉からの厳しい年貢の取り立てに、隣国からの乱暴狼藉者の流入。筑後守が嘆息するのも無理はなかった。
「御屋形。少々よろしいでしょうか」
 まずは書類を届けに来ただけの図書亮から、用事を済ませることになった。書類の中身は、藤兵衛とはなの結婚の許しを願うものである。現在、和田の婚姻の事務手続きは図書亮が担当しているのだった。
「ふむ。藤兵衛も嫁をもらうか」
 為氏は、微かに口元に笑みを浮かべた。藤兵衛も鎌倉から一緒に下向してきた一員であり、為氏も藤兵衛に対しても思い入れがあるのかもしれない。その為氏の声は、近頃やや掠れている。声変わりの時期を迎え、少年から大人になろうとしているのだった。
「まあ。めでたいですこと」
 為氏の側には、相変わらず三千代姫が控えている。こちらは為氏より年下のためか、まだ童女の趣が色濃い。それでも家人の婚姻に興味を示すのは、色恋の模様を中心に描いた「伊勢物語」を好む、彼女らしかった。
 その場で藤兵衛とはなの婚姻を許す旨の文が認められ、為氏の花押がさらさらと書かれる。それを受け取った図書亮は、為氏の文机に二冊の書物があるのを認めた。以前、花見の相談をしに来た時と同じ様に、和漢朗詠集と伊勢物語が重ねられている。
 開かれた頁は、丁度「七夕」だった。
「七夕、ですか?」
 図書亮が為氏に尋ねると、為氏はいたずらが見つかった子供のような、ばつの悪い顔を作った。
「『二星適ま逢うて、未だ別緒依依いいたるうらみを叙べざるに。
五更將に明けなんとして、頻りに涼風の颯颯たる声に驚かさる』。この風情が何とも今の季節らしいと、御台と話していたところだ」
「相変わらずですね」
 図書亮は、為氏夫妻に合せて笑みを作った。確かに、今の季節に適した詩である。もっともその詩の内容は、一年に一度しか逢うことが許されていない牽牛と織女の一夜の別れを惜しむものだ。「夜の五更」の別れを謳うなど、以前より男女の関係を匂わすものを選んでいるところを見ると、二人の関係も少しは変化しているのだろうか。
「人麻呂は、『あまの川とほきわたりにあらねども君がふなでは年にこそまて』と詠んでいましたね」
 三千代姫の博識も、相変わらずである。だが、その歌を詠じる様子を見て、筑後守は顔を曇らせた。
「御台。歌道の世界であれば、一年に一度の男女の後朝の別れを詠じるのも、結構でしょうが……」
 筑後守の言葉に、三千代姫が顔を俯かせた。どうやら、遠回しに「出しゃばるな」と言われたと気付いたようだ。
 為氏も改めて真面目な顔を作り、筑後守と向き合う。筑後守は、現在守屋で起きている伊東の者たちによる「刈田」の被害を報告し、次いで、「鎌倉から年貢の催促が来ている」と述べた。
「鎌倉が言うだけの銭は用意できるのか?」
 為氏の問いに、筑後守は首を横に振った。
「無理です。須賀川の関銭も棟別銭も、須賀川衆が管理しておりますゆえに」
 関所で徴収する関銭や棟別銭は、二階堂家の重要な財源だった。関銭はいわゆる通行税、棟別銭は、家屋の棟別ごとに課税する不動産税の一種のようなものである。だが、その須賀川の関所や人家の多い中心部を押さえているのは治部大輔である。そればかりではない。商人など銭を持っている者が多数住んでいるのは、須賀川の中心部であるから、農民を中心に統治している和田とは、経済力の上でも格差が広がりつつあった。
 聞いているのが辛くなってきたのか、三千代姫は打掛の裾を捌くと、黙って自室へ戻っていった。
 それを見送った図書亮も、何となく落ち着かない。確かに筑後守が言うように、今は「七夕」の詩を詠じて喜んでいるような呑気な空気ではないのだ。
 三千代姫の姿が見えなくなったのを確認して、筑後守はもっと気がかりなことを告げた。
「今年は、例年より雨が多いように思われませぬか」
「そうなのですか?」
 筑後守の呈した言葉に、図書亮は何とも言いようがなかった。まだその是非を判断できるほど、岩瀬の地に馴染んでいるわけではないからである。だが、長年この地に住む筑後守の言葉に、偽りはないだろう。
「長雨が続くとまずいのでしょうか」
 図書亮の言葉に、筑後守は重々しく肯いた。
「和田は稲や畑を作って生業を立てている者が多いだろう。長雨が続くと、その稲や作物が病にかかる。その先は分かるな」
 図書亮も、自分の顔が青ざめていくのを感じた。長雨が続けば、作物の生育が悪くなり収穫量が減る。土民の税の取り立ては勿論のこと、自分たちの食い扶持すら危うくなるかもしれない――。
「それだけではない。須田の一族が住まうのは、逢隈川に沿った土地が多いだろう。万が一逢隈川の堤が決壊すれば、大変なことになる」
 筑後守の言葉は、俄かには信じられなかった。だが、確かに和田の土地は逢隈川を中心に広がっている。為氏の生業を支えているのは、須田一族の管理する土地の民らだった。
「待て。確か、伯父上の住まわれている浜尾も……」
 為氏の顔も、緊張の色が隠せない。
「左様。浜尾の辺りなど、出水に遭えば、ひとたまりもありますまい」
 筑後守は、為氏の言葉を否定しなかった。為氏の顔色も、深刻さが隠しきれない。
「某は、一度峯ヶ城の美濃守にも申し上げてきます。それから今一度、この件についてこの岩間館を訪いましょう」
 筑後守は一礼すると図書亮を促し、呆然とする為氏をその場に残して、峯ヶ城の道をたどり始めた。


 岩間館と峯ヶ城は、長い渡り廊下で行き来できるようになっている。図書亮と筑後守は、その渡り廊下を歩きながら、先ほどの話の続きをした。
「筑後守様。先ほど、『浜尾も危ない』と仰っていましたね」
 図書亮が須賀川にやってきたばかりの頃、為氏の伯父である民部大輔が治部から屋敷を建ててもらったと聞かされた場所が、浜尾だった。そのときは「女の色香に迷った」くらいの感想しか持っていなかったのだが、問題は、それだけではなかったということか。
「気付いたか」
 美濃守の居室の前で、筑後守が振り返った。
「最初から、治部殿はそれを見越していたに違いない。治部殿は御屋形や民部殿よりも、この地で長く暮らしておる。当然出水も経験しているだろうし、だからこそ、高台にあり安全な須賀川を明け渡したくないのだ。御屋形には申し訳ないが、治部殿にとって、民部様は使い勝手の良い捨て駒だったのだろう。民部様を真っ先に水に浸かる土地に誘ったのが、その証拠ではないか」
 図書亮の背を、戦慄が走った。筑後守の言う通りだとすれば、確かに未だ為氏に城を明け渡さないのも、筋が通る。それどころか、自分の妹を嫁がせた民部大輔も、見捨てるだろう。
 筑後守は、その懸念を美濃守に伝えた。相変わらず厳しい表情の美濃守だが、筑後守の見立てには納得したのだろう。憂眉を開くと、「早めに出水に備えさせよう」と述べるにとどめた。
 図書亮の自宅のある根岸は、やや高台にある。万が一出水があったとしても、何とか持つのではないか。
 そんな淡い期待を打ち明けると、須田の宿老である安藤左馬助は、首を横に振った。
「出水に絶対はない。心配であれば、りく殿を一度下野守様の木舟城に、避難させた方が良いだろう」
 まだこの土地の全てに通じているわけではない図書亮は、その言葉に従うことにした。りくの実家のある木舟城であれば、近くに大きな川がないため出水の心配は免れる。
 だがその先のことを思うと、図書亮は暗澹たる気分を拭えなかった。

 筑後守と美濃守の会合が持たれてから一旬ほど経った頃だろうか。筑後守の懸念通り、長雨が続いた。それどころか、野分(台風)がやってきて、激しい雨風がばたばたと音を立てながら、板葺の屋根を叩く日が三日三晩続いた。
 その時点で、図書亮はりくに言い含めて狸森の木舟城に避難させることにした。当然、りくの岩間館の務めはしばらく暇を貰わざるを得ないが、それは仕方のないことだった。雨が小止みになっているうちにと、慌ただしく身の回りのものを纏め、りくを急き立てる。
「御台様は、大丈夫でしょうか」
 馬の濡れた鼻面を撫でてやりながら、蓑を纏ったりくは呟いた。どうやら、本心では自分だけが避難することに気乗りしないようだった。
「御台様は、美濃守様たちがお守りしているから」
 図書亮は、きっぱりと言い切った。確かに主夫婦の身は案じられるが、側には美濃守やその家人達もいる。対して、自分たちの身は自分で守るしかなかった。
 その木舟城の主である義父の下野守も、既に為氏の身を案じて峯ヶ城に入っている。木舟城には箭部家の家老である安田隼人を名代として置いてきており、りくの世話をしてくれるとの約束を取り付けた。
「図書亮さま。どうかご無事でいてくださいね」
 最近では妻の憎まれ口も聞き流すようになっていたが、久しぶりにりくは可憐なところを見せた。図書亮は懐から小さな阿弥陀像を取り出すと、それをりくの懐にねじ込んだ。
「お前のことも、きっとこの阿弥陀様が守って下さる」
 二人はしばしそのまま見つめ合っていたが、やがてりくは一つ肯くと、馬の背に跨がった。りくを乗せた馬が、危なっかしい足元に怯えて嘶きを上げる。橋の六寸ほど下は、濁った水が勢いよく逆巻いていた。そんな馬を宥めすかし、既に橋桁が怪しくなりはじめている小作田橋を辛うじて渡って、りくは狸森の方へ駒を進めていった。
 その夜、再び激しさを増す雨と轟々と鳴り響く風の音に慄きながら、図書亮は久しぶりに独り寝の夜を過ごした。いつもであれば隣にあるはずの温もりがないため、何となく落ち着かない。それでもうつらうつらとしていると、微かにぴちゃぴちゃと水音がする。まさか、ここまで水が上がってきたのか。
 風雨を嫌い、様子を見るために戸を開けたいのを辛うじて我慢した翌朝、一番鶏の啼声と共に目を覚ました。久々の朝日と共に飛び込んできた光景に、図書亮は言葉を失った。
 昨夜の水音の正体は、近くを流れる水路が溢れたものだった。だが、いつもは広々と見えている黄金と淡緑の田が、泥色に染まっている。慌てて着ているものの裾をたくしあげて絡げ、草鞋を履いて家の裏手にある古峯神社の境内に登った。そこには、既に安藤左馬介の姿があった。
「一色殿。りく殿を木舟に出立させて、正解でしたな」
 左馬介の顔にも、暗い色が浮かんでいた。小山から見下ろす和田の土地は、どこもかしこも泥の海に浸かっているのだった。昨日りくが渡ったはずの小作田橋は、とうに流されている。
「御屋形や御台様は……」
「一応、ご無事らしい。さすがに岩間館から峯ヶ城にお移りいただいたそうだが。美濃守様から、うちにも使いが来た」
 身の危険を冒して、誰かが左馬介のところへ使いを寄越したようだ。 
「これから、和田館の糧米を開放する。一色殿も手伝うようにとのことだ」
 須田氏の持城の一つである和田館には、食糧倉がある。そこに万が一の兵糧として蓄えていた食糧を、領民のために開放するというのだ。
 だが、それは一時しのぎにしか過ぎない。和田の領民がぎりぎり冬を越せるかどうかの量しかないのではないか。
 四、五日経ってようやく水が引き始め、泥が乾き始めた埃っぽい道を馬を進ませながら、図書亮は御屋形夫妻のことを思った。
 いざ対面してみると、主夫婦は案外元気だった。美濃守が側で守っていたからだろう。
「これほどの水が溢れるとは……。やはり、川が近いというのも良し悪しですな」
 御台の付き人を兼ねる岩桐藤左衛門が悪気のない様子で述べたのに対し、他の家臣と同じ様に為氏の元へ伺候してきた遠藤雅楽守が、鋭い視線を投げかけた。雅楽守の館の高館は、釈迦堂川がすぐ下を流れている。雅楽守によると、やはり釈迦堂川でも出水が発生し、館取や茶畑の辺りが浸水したとのことだった。
 だが、安全な須賀川の城で過ごしてきた者たちは、その危機感が自分ごととして捉えられない。当然、出水の発生した地域の領主はいい気はしないだろう。
 岩瀬の地全土が水に浸かった訳ではないが、出水の発生した地域の領主は、別の地域の領主に頭を下げ、食糧を分けてもらわなければならない。その割り振りを、和田の家臣たちは美濃守を中心に、苦心しながら決めていった。
「いやはや。北沢に移ってきたときは風光明媚で良い土地だと思ったのだが、此度の出水は思いもよらなかった」
 たまたま「姪の顔が見たい」という千歳御前にねだられ、妻を連れて峯ヶ城に足を運んだ民部がそう述べたという噂を、図書亮も耳にした。あまりにも呑気さを隠せない民部の物言いに対して、主筋である二階堂一族の間でも「さすがにあれはどうか」と言う者が出始めているという。
 それを教えてくれたのは、矢田野城主である矢田野左馬允だった。矢田野は山間にあるため、出水の被害はない。だが東西の因縁を越えて、越水の被害に遭った地域を救うために、腕の良い職人を派遣して橋を掛け直させ、和田や浜尾、堤などに食料を提供してくれているのだった。
「矢田野様。誠にかたじけない」
 やはり和田と同じ様に出水の被害に遭った源蔵は、堤や江持、浜尾の一部を支配している。
「何の。困ったときはお互いさまだろう」
 明るくいなす矢田野左馬允を、図書亮は好ましく思った。
「何でも、民部様の北の方も『このような出水は見たことがない』と仰っしゃり、須賀川の兄者に手紙を書いたそうな」
「それは、治部大輔殿に救いを求めたということでしょうか?」
 図書亮は、先日守屋筑後守と話したことを思い出した。治部大輔は、水難のある土地と知りながら民部大輔に濱尾を勧めたのではないか。筑後守は、確かにそう言っていた。
「ふむ。だが、須賀川から返事はなかったらしい」
 左馬允が頭を振る。
「治部大輔殿と民部様とは、義理とはいえ御兄弟ではありませんか」
 側で聞いていた半内が、目に怒りを浮かべている。同じく日々復旧の手伝いに駆り出されている宍草与一郎も、憤怒の色を隠せない。
「民部殿も悪い。せめて、奥方の千歳御前をしばらく須賀川の城で預かってくれないかと、申出されたそうな」
 源蔵も、相当に怒っているようだ。
「奥方の心配より、まず浜尾の民を心配するべきだろう。浜尾はまだ全く水の引く気配がないんだぞ」
 逢隈川を挟んで、江持と浜尾は目と鼻の先だ。浜尾の領民の苦しみを軽減してやるために、領地の接する源蔵が腰の重い民部に代わって、浜尾の後始末に追われているのだった。
 此度の出水の被害は、かなりの範囲に及んでいる。逢隈川を始め、遠藤雅楽守や保土原殿が差配する地域を流れる釈迦堂川、そして国人である太田氏が差配する地域の滑川など、河川の大小を問わず水が溢れた。
 それらの地域の被害を、安全な地にいる民部大輔は、ただ眺めているだけだ。他の地域の二階堂一族や国人らでさえ、隣人の民を救うために日々額に汗を流している、というのにである。
「左様。うちの紀伊守も、稲村の館跡に通ってその食糧倉から米穀をかき集めてきているぞ」
 出水前に峯ヶ城に伺候してきたままの下野守も、多忙に追われて木舟に帰る暇すら作れないのであった。彼が言う「うちの紀伊守」とは、高久田にある鹿嶋館に住むりくの従兄弟である。街道の通る高久田から深内を通って西を目指すと、かつて御所のあった稲村に通じるのだった。とうに主を失った稲村御所にそれほど米穀が蓄えられているとは思わなかったが、いじましいといえばいじましい。
「御屋形様は、何か仰っしゃられていないのでしょうか」
 宍草は、弟と共に伺候してきた安房守に問うた。
「御屋形様に此度の出水の後始末をお任せするのは、無理だ。出水を経験されたこともないし、そもそも岩間の館から出られたとしても、せいぜい和田や小作田、市之関止まり。ご自身で須賀川に談判に赴き、治部大輔から糧食を引き出してこられるくらいの気概を見せなければ、岩瀬の地で信を得るのは難しいだろう」
 忠臣である安房守ですら、今回の始末を為氏に任せるのは無理だと判断している。確かにその通りだが、それが、また岩間館に仕える須賀川衆との軋轢を生むのは確実だった。
 為氏は、暗愚ではない。暗愚ではないが、三千代姫を娶ってからはその影響を受けたものか、とにもかくにも心が優しすぎるのだった。そのためか、決断力に欠ける。
「一人、治部に談判できるかもしれない御方がおるではないか」
 ゆっくりと、述べる者がいた。美濃守の弟の一人である須田三郎兵衛秀房である。
 訝しげに、美濃守が首を巡らす。須田三郎兵衛は袋田の地を治めている。ここも安積や会津への要衝であり、彼は滑川なめかわの地の窮民を担当していた。
「御台に、治部大輔の説得を頼んではいかがか」
 女が政に口を挟むのを嫌う美濃守だ。とても賛成するとは思えない。
「儂は反対だ。妹の千歳御前の事ですら、治部は無視しているというではないか」
 真っ先に、遠藤雅楽守が首を振った。先立って、岩桐藤左衛門の無神経な物言いが癇に障ったのもあるだろう。須賀川衆は当てにしたくないというのが、ありありだった。
「いや。その案、悪くないかもしれぬ」
 案に相違して、美濃守は三千代姫を通じて須賀川に援助を頼むつもりのようだ。
「御台も、この和田に嫁いでこられたからにはそれなりの覚悟はあろう。そのお覚悟を示していただくのは、今ではないか」
 美濃守の腹は、読めない。だが、図書亮が隣に座る安房守を見ると、「そういうことか」と一人肯いていた。
 図書亮には、四天王の政治的な思惑を読むまでの器量は、まだ備わっていない。だが、何となくざらりとした嫌なものを感じた。
「越中守。岩間館にいる岩桐藤内左衛門殿に、後ほど御台様の元へ美濃守が伺うとお伝えせよ」
 美濃守は、家人の一人である宗像越中守に命じた。女人に政治的な働きをさせるなど、美濃守らしくない。だが、彼が腹に含むところを秘めているのは、確実だった――。
 



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