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破綻

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 りくがようやく和田に戻ってこられたのは、木枯らしが吹く頃だった。小作田の橋も仮橋が架けられ、峯ヶ城や岩間館のところにも、逢隈川の対岸に館を構える佐渡守が伺候できるようになってからのことだった。
 だが、その年の冬は、予想通り厳しいものとなった。多くの土地が収穫直前に出水に見舞われ、収穫はほぼ上がらなかった。まだ領地を持たせてもらえない図書亮は土地の上がりがないため、親族を頼るしかない。木舟の下野守からの援助だけでは到底足りず、箭部本家がある今泉へ足を運び、一族の長である安房守に頭を下げることもあった。
 辛うじて武士の面目は保っているものの、りくにも辛い生活をさせている。
「来年は、もう少し良くなりましょう」
 唯一の慰めは、図書亮も三年近く二階堂家に仕え、そろそろ小さいながらも土地を分けてもらえるかもしれないと、下野守からも内意を示されていることだった。だが、その意味を推し量れば必ずしも喜んでばかりはいられなかった。
「お前、それがどういうことか分かっているか?」
 図書亮は、軽く妻を睨んだ。
「ええ。事と次第によっては、須賀川の方々の土地を……ということですわね」
 答えるりくの声も、憂いを含んでいる。土地を手に入れられるのは喜ばしいが、その為には誰かの既存の土地を奪わなければならない。まさか和田衆同士で争うわけにはいかないから、他の土地に目を向けるのは、当然の理だった。そして、図書亮も戦に駆り出されることになる。
「治部大輔様が、和田や他の土地の皆様に情けを掛けてくだされば、また違ったのでしょうけれど」
 りくの声も、次第に小さくなっていく。
 ――あの秋の出水のとき、美濃守を始めとする四天王は、三千代姫に「治部大輔に助けを求めるよう」に、勧めた。が、北沢民部のときと同じように、治部大輔からは、なしの礫だった。結婚してから初めて援けを求めてきた妹の身を案じ、さすがに須賀川家中への体面もあったのだろう。三千代姫の兄である行若は、秘かに糧食を岩間館に運び入れてくれたらしいが、せいぜい為氏夫妻と仕える須賀川衆の胃袋を満たす程度のものだったらしい。
 さらに、鎌倉からの税の督促は相変わらず厳しい。
 どう頑張っても、和田衆はこのままでは飢えていくばかりなのだった。 
「御台さまも、最近では塞ぎ込まれているご様子で……」
 出水の避難先から戻ってきて再び岩間館に伺候しているりくは、三千代姫の様子が気がかりなようだった。
 あの、花の宴や金剛寺開山の折に岩間館まで主夫婦を送っていったときの様子を、図書亮も思い出した。三千代姫が為氏と共に和田の者と親しもうとしても、須賀川の者らはそれを厭わしく思っている。そんな雰囲気を察して、和田の者たちも須賀川の衆を快くは思っていない。主夫婦は、その両方の板挟みになっていた。
 また、結婚して三年になるにも関わらず、和子誕生の気配がないのも案じられた。りくによると、和田の口さがのない者の間で、「実は石女を押し付けられたのではないか」と囁く者もいるとのことだった。
 
「御屋形には誠にお気の毒だが、御台を離縁して頂く」
 美濃守がそう言い出したのは、文安五年の夏だった。 
「本気ですか」
 図書亮は、美濃守の言葉に己の顔色が変わりかけているのを感じた。そんなことをすれば、須賀川との和平が破れる。第一、三千代姫を離縁するのは、絶対に為氏が認めないだろう。それくらい、二人の仲は相変わらず睦まじいのだ。
「美濃守さま。さりとて、御台に咎はございますまい」
 さすがに、暴論だと感じたのだろう。美濃守の弟である秀泰に仕える黒月まゆみ与右衛門よえもんが、非難の色を匂わせながら美濃守に詰め寄った。
「そうかな?」
 冷静に反論したのは、箭部安房守である。
「昨年の出水の際に、御台は父君である治部大輔殿を説得できなかったではないか」
(あっ……)
 今度こそ、図書亮の顔色は確実に変わった。
 あのときから、四天王らは密かに計略を練っていたに違いない。黒月の言うように、何の罪もない三千代姫を離縁させるわけにはいかない。三千代姫を離縁させる口実として、美濃守らはあえて三千代姫に治部大輔に助けを求めるように勧めたのだった。当然、治部大輔が応じないことを見越してのことである。
 三千代姫の説得に治部大輔が応じていれば、それはそれで二階堂一族の結束を外部に示せたであろうし、そうでなかった場合には、岩瀬の民を救おうとしなかったとして、正々堂々と「治部大輔討伐」及び「三千代姫離縁」の口実が出来たことになる。
 当初の予定通り、四天王は治部大輔を滅ぼすつもりだったのだ。
 そのための障害となっていたのが、三千代姫だった――。
 思わず、きつく目を閉じる。
 そんな図書亮の様子をちらりと見た安房守は、さすがに気まずいのか、視線を外した。
「止むを得まい。御台にはまだ子もおらぬ。離縁するならば子のいないうちの方が、後ろ髪も引かれずに済むだろう」
 二階堂山城守が、ため息をついた。すると、彼も三千代姫の離縁に賛成なのか。
「誰が、御屋形に御台の離縁を申し出る」
 淡々と守屋筑後守が美濃守に尋ねている。この様子であれば、四天王の間では既に話がまとまっていたのだろう。家中の空気の大方が主夫妻の離縁に傾いているとは言え、胸がむかむかしてきた。
「儂が御屋形を説得する」
 そう断言したのは、やはり須田美濃守だった。この案を言い出した責任を取るということか。だが、それは美濃守の本気を示すものでもあった。
 そこからの美濃守の行動は素早かった。早速岩間館に使いをやり為氏を呼んでくると、「家臣一同の意」として、三千代姫の離縁を申し出た。
 案の定、為氏は顔色を変えた。その目には、怒りの色が強くきらめいている。
「馬鹿を申すな!」
 為氏の怒号は、岩間館にいる三千代姫のところまで聞こえるのではないかと思われるほどのものだった。
 だが、美濃守も一歩も譲らない。
「鎌倉には、どのように申し開きをするおつもりですか。須賀川の税は全て治部大輔殿の懐に消え、城下には怪しげな者を招き入れている。さらに、京の都に働きかけて己が岩瀬の太守となろうとしている様子」
 今、都の幕府と鎌倉府ははっきりと敵対関係にある。為氏らを始めとして、須賀川の二階堂一族の多くは鎌倉方に従っているから、治部大輔の身勝手な振る舞いは、岩瀬の二階堂一族全体の浮沈にも関わってくるのだった。場合によっては、岩瀬二階堂氏全ての所領を取り上げられかねない。
「御屋形が御台をお庇いになればなるほど、他の者を窮地に立たせているのがお分かりになりませぬか」
 為氏とは対照的な冷徹とも言える美濃守の言葉に、図書亮も身が縮む思いだ。だが、美濃守の言っていることも真理だ。為氏が三千代姫のために治部との対立を先延ばしにするほど、他の者たちは窮地に追いやられていく。
 さらに、美濃守は容赦なく言葉を浴びせていく。
「殷の紂王は妲妃に迷ったために、世の中が乱れたというのはご存知であろう。周の幽王は褒姒を愛して国を傾け、楊貴妃は皇帝を悩まし、西施は呉を滅ぼしました。それも、広く知られるところでございます」
 淡々と告げているだけなのだが、それだけに美濃守の言葉は迫力がある。
「そなたらは、私が御台に誑かされていると言いたいのか」
 為氏も、いつになく本気で怒っている。今まで家臣たちが陰でそう囁き合っていたのを、強いて聞き流してきた鬱憤が爆発したのだろう。
「速やかに御台を須賀川へ送り届けなさいませ」
 安房守も主に畳みかける。だが、まだ為氏は首を縦に振らない。
「御屋形。このまま二階堂家を滅ぼすおつもりですか」
 再びの美濃守の言葉に、為氏の表情が動いた。治部大輔の横暴のために、二階堂一族が窮地に追いやられているのは事実である。
「今、二階堂の者らが内々で乱れていると田村に知られてみよ。たちまち宇津峰を越えて、当地に攻め込んでまいろう」
 二階堂と田村氏は、古くからの因縁がある。それは東衆や西衆に関係なく、共通の敵なのだった。
「田村だけではございませぬ。安積の伊東もこちらの様子を伺っております。先日、二本松の畠山殿から伊東への岩瀬の地の分領の相談の文が参りました」
 守屋筑後守も、彼なりに三千代姫を追放したい理由があるようだった。彼の領地である守屋の北部は、伊東氏の治める安積郡と接している。奥州探題である畠山氏から筑後守のところに内々に使いが来たということは、伊東氏も岩瀬の地を狙っているということだ。万が一治部大輔と伊東氏が組んだ場合、伊東氏に真っ先に狙われるのは北部である。
「だが、御台に罪はあるまい」
 黒月が一度は美濃守に向けた非難を、為氏も口にした。
「何もしないことが、罪なのでございます」
 そう言い切ったのは、遠藤雅楽守だ。
「先年の出水のときは、須賀川の城には糧食が有り余るほどだったと、うちの西牧がその目で確かめておりました。治部殿はそれを我が物とし、岩瀬の民を救おうとなさらなかった。御台の兄上が届けて参ったのは、御台のお身内分のみ。御台が誠に和田を始めとするこの地の民を思うならば、お父上にさらに談判を重ねるべきでした」
 さらに、と雅楽守は残酷な言葉を続けた。
「恐れながら、一向に和子誕生の気配がございませぬ」
 あからさまな指摘に、普段だったら誰かがたしなめたのだろう。だが、この場合の和子は、ただの子供ではない。和田衆と須賀川衆の和平の象徴だった。そもそも、治部大輔がのらりくらりと城の引き渡しを拒む理由の一つに、娘夫婦の子供の養育場所も整えて迎え入れたいというのも、含まれていたはずだった。その前提となる子供すらできる気配がないのは、話が違う。雅楽守はそう言いたげだった。
「三年経っても未だに子に恵まれないのならば、御台の御身体に差し障りがあると考えるのが自然でございましょう」
 雅楽守の残酷な指摘に、為氏が黙り込んだ。
「ここは一旦御台を須賀川に送り返し、須賀川に兵を差し向けて完全に我らが掌中に納めましょう。それで治部殿が降伏されれば、改めて姫をお迎えされても良いのではございませぬか。まさか、治部殿も娘を手にかけるような真似は致しますまい」
 遂に、現在の二階堂一族の長老格である山城守までが、それを口にした。いずれにせよ、為氏と治部大輔の対立を避けるのは、もう無理なところまで来ていた。その決定的な出来事となったのが、あの出水だった……。
 そこへ、源蔵が駄目押しとばかりに告げた知らせも、為氏の覚悟を決めさせるのには十分だった。
「先日、浜尾の者が古舘に助けを求めに参りました。その者によると、民部大輔殿の屋敷の門は堅く閉ざされ、いずこにか逐電された由」
「伯父上が……」
 今度こそ為氏の顔色が、変わった。領主が領民を見捨てていったとなれば、外聞が悪いだけではない。民部はあろうことか、為氏に味方することも治部大輔につくことも出来ず、何処にか落ち延びていったのだった。
「信じられん」
 山城守の左手に座っていた矢田野左馬允が、頭を振っている。図書亮も民部が優柔不断な御仁だとは感じていたが、ここまで意気地がないとは思わなかった。
 それから、筑後守はちらりとこちらに視線を寄越した。
「あの伊藤左近という者も、とうに須賀川から逐電したと知らせが参った」
 あまりにも立ち続けに「治部討伐」の理由が持ち上がるものだから、筑後守の知らせにも、図書亮は首を竦めるに留まった。主夫妻の婚姻成立の後、左近は便り一つ寄越さなかったから、彼の逐電はある程度は予想していた。恐らく、須賀川の内紛が当初の予想よりも長引いている様子を見て、我が身に火の粉が降りかかるのを恐れ、縁戚の伊東氏の元へでも駆け込んだのだろう。乱世だから左近の振る舞いも不思議ではないのだが、やはり腹は立つ。
 次々と家臣が揃って為氏に詰め寄るのを、図書亮は目を伏せて聞いていた。図書亮自身は主夫婦に好意的であったとしても、とても庇い切れるものではない。
 遂に、為氏が「筆と墨を持て」と小声で命じたのを聞くと、図書亮はそれ以上その場に留まる気にもならず、席を立った。

 館の外に出ると、夏の照り返しがきつい。峯ヶ城から自宅までの道すがら、例の大仏の前に差し掛かかると、その仏前で手を合わさずにはいられなかった。
 あの後為氏は、家臣一同の前で三千代姫への離縁状を書かされたのだろう。その場面は、まざまざと脳裏に浮かんだ。
 せめて、あの夫婦に子供がいたのならば……。大仏の胸が抉れているのは、乳の出に悩む母親がその功徳を信じて煎じて飲むのだというのだが、主夫婦には大仏の加護も及ばなかったということだろうか。大仏の胸元を見上げながら、図書亮はぼんやりとそんなことを考えた。
 図書亮も、永享の乱の折に十七で父を失い、それなりに苦労を積んだ気ではいた。だが、ここまで家中が割れるような争いに巻き込まれた経験はなかった。
「酷いと思うか」
 大仏の前で佇んでいると、不意に背後から声がした。反射的に刀の柄に手をかけるが、振り返ると、そこには須田佐渡守が立っていた。美濃守のすぐ下の弟である。図書亮は安堵して、柄から手を離した。
 謹厳剛直な兄と異なり、彼は至極穏やかな印象があった。
「佐渡守さま」
 須田の者に対しては、図書亮も一抹の遠慮がある。黙って頭を下げた。佐渡守秀泰も大仏のところで手を合わせると、やがて、ぽつりと呟いた。
「お主には理解できなかったかも知れぬがな。あれでも兄者は相当悩まれた」
 秀泰の言葉は、図書亮には意外なものだった。
「兄者は御屋形が幼少の頃から見守り、亡くなられた行春様に代わって御屋形の養育をされてきたのだ。御屋形がようやく伴侶を得て姫に御心を許しているのをご覧になられて、誰よりも安堵されていたのは兄者だった」
 そう述べる秀泰の眼差しは、年の離れた弟を見守るかのように優しい。
「お主が御屋形と同じ頃にりく殿と夫婦になったのも、祝ってくださっただろう」
 そう言えば、結婚の翌朝に出仕した際に、あの謹厳な美濃守がどこか優しげな表情だったのを、図書亮はふと思い出した。
「兄者の本質は、非常にお優しい方だ。ただ、それを気取られると二階堂家の家政に差し支えるからな。あのように、厳しい顔しかお見せにならなくなってしまった」
 何と答えるのが正解なのだろうか。
「今のままでは、間違いなく御屋形ご自身の身をも滅ぼすことにつながりかねん。それは分かるな」
 秀泰の言葉に、図書亮は是とも非とも答えられなかった。優柔不断な態度を取り続ければ、今度は為氏自身が家中の信頼を失う。そのような事態を防ぐために、美濃守や四天王は敢えて汚れ役を引き受けているのだと、秀泰は言っているのだった。
「御屋形は、離縁の理由をどのように書かれたのです?」
 図書亮の問いに対して、再び沈鬱な表情で秀泰が答えた。
「近頃気分が優れないようであるから、父君の元で養生せよ、とだけ。離縁するとは、遂にお書きにならなかった」
「御屋形らしいですな」
 辛うじてそれだけを口にするのが、図書亮の精一杯だった。

 秀泰との会話の後、そのまま家に戻ると、りくが気怠そうに「お帰りなさいませ」と出迎えてくれた。近頃、御台と同じようにりくの体の調子も思わしくない。あまり食が進まず、体が重そうだった。こちらはこちらで気がかりであるのだが、「もう少しだけ様子を見てから」と言い張る妻の言葉に、図書亮はどうしてやることも出来なかった。
 いつになく沈んだ夫の様子に異変を察知したのか、りくは黙って小魚の団子汁を用意してくれた。それが図書亮の好物であるのを知っているからなのだが、せっかくの団子汁も、今は汁を啜るだけに留まった。やはり、主夫婦の離縁を思い出すと気が重い。
「図書亮さま。いかがなされたのです?」
 図書亮が為氏夫婦の離縁が決まったと告げると、りくの顔色も変わった。
「嘘でしょう?」
 そう言いながら、りくもどこかで破綻を予期していたのかもしれない。はらはらと涙をこぼし始めた。
「あんなに御仲が宜しいのに……」
 そう言うと、そのまま口に袂を当ててえづき始めた。その様子が、どうもおかしい。本当に病気なのではないか。慌てて、彼女の背を擦ってやる。りくは図書亮の手を払い除けると、外へ出て今度は何かを吐いた。せっかくの団子汁が勿体ないと、埒もないことを思う。
「薬師を呼ぶか」
 夫の言葉に、りくは首を振った。
「病気ではないですから」
 だが、そう告げた彼女の顔は青ざめたままだ。詰め寄る図書亮に対し、とうとうりくは、何かを決意したようだった。
「図書亮さま。このような時に申し上げにくいのですが……」
 普段はあっけらかんとしたりくが、珍しくもごもごと口の中で言葉を転がした。相当に、言いにくいことを言おうとしているらしい。
「何か」
 あの出水の時以来、図書亮の心は概ね「須賀川勢の討伐」へ心が傾きつつあった。確かに治部の所業は許し難いものだった。それでも姫は、自分が和田の者たちに好かれていないのも知っていながら、笑顔を貫き通していた。それを知りながら、自分にはどうしてやることもできない。できることならば、御台がこのまま和田にとどまり、為氏と添い遂げながら和田衆の治部討伐へと流れが向かうことを願っていた。だが、それも四天王らにしてみれば、甘い考えだったに違いない。
 りくは、それら一連のことが許せないのかもしれない。
 だが、おずおずとりくが告げた言葉は、図書亮の予想を大きく超えていた。
「子が、できました」
 束の間、図書亮はりくをまじまじと見つめた。
「誰の?」
 思わず間抜けな問いが、口から滑り出る。
「図書亮さまの御子が」
 そう答えるりくも、どことなくぼんやりとした様子で答えていた。
 気がつけばりくと結婚して、三年が過ぎていた。気にしないつもりでいたが、為氏夫妻の和子が取り沙汰されるように、りくは子が出来ないことを気にしていたのだろうか。
 同時期に結ばれた主夫妻は、離縁と決まった。そのような状況の中で子が出来たのものだから、密かに母となる喜びを噛み締めつつも、言い出しにくかったのだろう。
「そうか……」
 じわじわと、図書亮の口元に笑みが浮かんでくる。自分が父になる。結婚三年目にして、ようやく授かった我が子だった。
 かつて花の宴で、りくが主夫妻の和子の乳母になる可能性も示唆されていたことを思い出す。図書亮の知らないところで、りくは子が出来ないことを随分と責められていたのかもしれない。
「いつ生まれる?」
「春を迎える頃には」
 図書亮はそっと、りくの腹に手のひらを当ててみた。まだ目立つほどではないが、確かに生命の弾力を感じた。
「腹の子に滋養のある物を食べさせなければな」
 そう呟いてみると、先ほどまで憂鬱だった気分はどこへやら、次第に気分が浮き立ってきた。
「兎でも狩ってくるか」
 野兎はそこら中にいる厄介者だ。罠を仕掛ければ簡単に捕まえられるし、畑を荒らされる予防にもなる。捕まえてりくに食べさせれば、一石二鳥だ。だが、りくは困ったように微笑んだ。
「それが、子を身籠っているときに兎を食べてはならないと言われているのです。三ツ口の子が生まれるとかで」
「ううむ」
 それは、困る。生まれてくる子が娘だった場合、三ツ口の子では嫁の貰い手も現れないだろう。
「じゃあ、卵はどうだ。鶏の卵なら、普通に病人にも食べさせるだろう」
 再び、りくが首を横に振った。
「いえ、卵も禁忌なのです。こちらは、口のない子が生まれると」
「面倒だな……」
 後で、義父に妊婦に対する禁忌を一つ一つ確認しなければならないと、図書亮は頭を掻いた。だが、それも主夫婦の危機に比べれば微々たる悩みだ。むしろ、そのような些事で悩めることに、喜びすら感じる。
 だが、いつ戦の端緒が開かれるかわからない。そのような中でりくをここに置いて良いものやら、さすがに迷いが生じた。
「りく。御台が須賀川に返されるということは……」
 先ほどまで嬉しそうな様子を見せていたりくも、現実に引き戻されたのか、顔を引き締めた。
「間違いなく、戦になりますね」
 図書亮も、肯いた。
「生まれてすぐには子の顔を見れないかもしれないが、今はお前たちの安全の方が大切だ」
「図書亮さま。どうか、この子をててなし子にしないで下さいませ」
 そう言うと、りくは図書亮の胸に顔を埋めた。図書亮の胸元が濡れる。
「武士にあるまじきことかもしれないが」
 りくの頭を撫でてやりながら、図書亮は地祇に誓った。
「必ず、生きて戻る」

 そのような図書亮の私かな決意を汲んだものか、三千代姫を須賀川へ送り返す行列に、図書亮は加えられなかった。今までの図書亮だったら、名を挙げることに躍起になっていたかもしれない。だがりくが身籠った今、できればり出産のためにくが木舟へ戻るその瞬間まで、妻の側にいてやりたかった。
 代わって姫を須賀川に送り届ける役目を仰せつかったのは、これまで取り立てていいところを見せられなかった倭文半内だった。
「ようやくこれで、俺も当地で名を挙げられるかもしれん」
 冗談なのか本気なのか分からない口ぶりで、姫が送り返される前日、半内は軽口を叩いた。
「そんなことを言って。姫を送り返す付き添いに過ぎないだろうが」
 藤兵衛が、呆れたように頭を振った。だが、図書亮は藤兵衛の突っ込みにも半内の軽口にも、乗る気にはなれなかった。今朝の一番鶏の啼声が、いつもと違うような気がしたのである。
 鳥の啼声がいつもと違うと人が死ぬ。当地のそんな伝承を教えてくれたのは、妻のりくだった。妊娠して物事に敏感になっているのかもしれないが、彼女も、鱗のない魚の夢を見たという。それも悪兆の夢であると言われており、夫婦そろっての奇妙な符号に、図書亮とりくは顔を見合わせたばかりだったのだ。
 りくは、正式に峯ヶ城の務めを辞めることになっていた。さすがに子が宿ったということで、りくの宿下がりを咎める者はいなかったらしい。だが、女衆の中でりくの妊娠を誰よりも喜んでくれたのは、他ならぬ三千代姫だったというのを、りくは涙を浮かべながら図書亮に報告した。
「御台様には、何の罪もないのに……」
 図書亮は、黙って妻を抱きしめてやることしか出来なかった。最後にりくが岩間館に伺候したときには、殿中の空気は重く沈んでおり、嵩高だった女房たちも涙を流して止まなかったという。三千代姫を中心として華やいでいた御殿は日が沈んだようであり、為氏も姫を慰める言葉すら見つけられず、二人で手を取り合って悲嘆にくれていたという。
 だが四天王の言うように、三千代姫が為氏の側にいる限り、為氏が須賀川の真の主となることはできない。
 図書亮とりくが重苦しい沈黙に耽っていると、不意に、玄関の木戸を叩く音がした。
 窓に駆け寄って外を見ると、女輿の行列が止まっている。
(まさか……)
 女輿を使う者など、この辺りでは三千代姫しかいない。慌てて玄関の戸を開けると、そこには、いつになく真面目な顔つきの半内がいた。
「御台様が、りく殿に会いたがっている」
「りくに……」
 三千代姫は、りくを随分と気にかけてくれていたらしい。りくの城勤めの話からもそれは感じていたし、ほぼ同時期に結婚した女同士、通じ合うものがあるらしかった。
「りく。御台様がお前にお会いになりたいそうだ」
 図書亮の言葉を待たずに、りくも慌てて家の奥から出てきた。続けて、輿からするりと降りようとしているのを見て、図書亮は慌てて姫の為に草鞋を差し出した。
「ありがとう」
 三千代姫はにっこりと微笑むと、図書亮の差し出した草鞋を履いて、一色家の土間に上がり込んだ。
「姫」
 咎めようとした乳母の由比を、三千代姫は目で制した。
「少しだけです」
 その言葉に気圧されたかのように、由比は仕方なく玄関の外に待機した。
「御台様。このようなむさ苦しいところに、もったいのうございます」
 図書亮の言葉に、三千代姫は微かに笑顔を作った。家臣の家に御台が遊びにくるなど、前代未聞だろう。
「須賀川に行く前に、どうしてもりくの顔が見たくなって」
 もしかしたら、りくと三千代姫もこれが今生の別れになるかもしれない。先の鳥の啼声や、りくの夢が脳裏を過る。
「御台様……」
 りくも、言葉にならない。女二人が手を取り合って涙を流すのを、図書亮は黙って見守ることしか出来なかった。
「りく。図書亮。御子が出来たのですってね」
 そう言って、姫は愛おしそうにりくの腹を撫でている。姫の声はあくまでも柔らかで、これから須賀川へ送り返される人とは思えなかった。日頃りくが慕っていたのが、そして為氏が必死で守ろうとしたのがよく分かった。治部大輔の姫でさえなければ、きっと和田衆からも大いに好かれただろうに。
 図書亮も柔らかな姫の声色を耳にした途端、姫への申し訳なさで涙が滲んだ。
 そして、三千代姫はりくの耳元に何事か囁いた。図書亮の位置からは姫の言葉は聞き取れなかったが、姫の言葉を聞いた途端に、りくの顔色が変わった。
「姫、そろそろ出立しませんと。須賀川の者たちが待っております」
 岩桐藤内左衛門が、木戸から顔を覗かせた。その顔は険しい。当然、彼も和田の者に対してはいい感情を持っていないだろう。掌中の珠玉の如く大切にしてきた姫君が、離縁される羽目になったのだから。
「今参ります」
 爽やかにそう告げると、三千代姫は草履を履き、再び輿の中に戻った。図書亮とりくも姫を見送るために家の外に出て、頭を下げる。
「どうか二人とも、御子を大切にするのですよ」
 三千代姫が二人にかけた言葉は、それが最後だった。
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