上 下
10 / 19

暮谷沢の悲劇

しおりを挟む
 御台の一行が須賀川へ向けて出立したのを見送ると、図書亮はしばらくぼんやりとしていた。
 和田から須賀川までは、わずか半里ほど。普段ならば気軽に行けるはずの距離が、果てしなく遠く感じる。見上げれば、須賀川の丘の天辺に須賀川城の堅固な城郭がぼんやりと見えた。
 りくは、まださめざめと涙を流している。妻の涙と同じように、空からぽつぽつと雨が落ちてきた。その雨粒はたちまち勢いを増し、俄かに風も強まってきた。のみならず、天には稲妻が光って雷鳴が轟く。
(天が怒っている……)
 図書亮ですら、そう感じずにはいられなかった。
 そこへ、再び玄関の木戸が乱暴に叩く音がした。緊急事態に違いない。風雨に構わず、図書亮が戸を開けると、血走った顔の藤兵衛と安藤左馬助の顔があった。
「図書亮!」
「どうした」
 ただ事ではない二人の様子に、図書亮の声も緊張した。
「すぐに具足を身に着けろ。暮谷沢で、和田の者たちが須賀川勢に討ち取られた」
「馬鹿な!」
 この家に三千代姫の一行を迎え入れて見送ってから、半刻も経っていない。
 だが、俄かには信じられない事態ではありながらも、図書亮は手早く具足櫃から武具を取り出し、てきぱきと身に着けた。
「雅楽守さまや箭部伊予守殿は、既に暮谷沢に向かわれている。お主も急げ」
「分かった」
 藤兵衛の言葉に肯く間にも、りくに手伝ってもらいながら、太腿に佩楯はいだてを、脛には脛当てを結んでいく。決拾ゆがけ籠手こてを着用して、ずっしりと重量感が増したところで、具足を被る。その上から陣羽織を羽織った。
 図書亮が具足を身に着けている間にも、藤兵衛は素早く状況を説明してくれた――。
 
 三千代姫を須賀川に送り返す使者となったのは、宗像越中守だった。三千代姫の離縁を決めた和田方からは、予め須賀川城に使者が送られ、受け渡しの場所と日時が指定されていた。須賀川と和田の領地の境には、暮谷沢という小さな沢が流れている。その沢の側に立つ岩間不動のところで、姫の受け渡しが行われる手筈になっていた。
 宗像越中守は、須田一族に近い国人である。だが、この地に長くあり須賀川の者たちとも顔見知りである。そんなわけで、彼が姫を送る使者に選ばれたのだった。
 だが、和田衆の中では比較的姫に親しんでいたのだろうか。彼の心情としては泣く泣く離縁に応じた三千代姫に同情的であり、岩間のたもとで輿の中の姫に、慰めの言葉をかけたという。
「姫。比翼連理の契りは長いものではございませんでしたが、姫とお別れするのは私の心も枯れるようでございます。御縁はここで尽きてしまいましたが、姫のことを忘れることは決してないでしょう」
 そういえば、宗像越中守はあの花の宴で伺候していた一人だったと、図書亮は思い出した。あの時の幸せが続いていればどれほど良かったかと、思わず唇を噛みしめる。
 岩間不動のところで和田の一行が待っていると、受け取り手である須賀川勢が姿を見せた。さすがに戦になってはまずいということで、須賀川勢を刺激しないために、和田勢は平衣で約束の場所に向かったのだった。だが姫の離縁を聞いて怒り狂った治部大輔から、須賀川勢は「和田勢を一人残らず討ち取れ」という命令が密かに下されていた。行列の一行は姫の輿入れに付き従ってきた者たちが主であり、和田の者は、宗像や倭文半内、そして宍草与一郎などほんの僅かだった。
 須賀川方の使者として現れたのは多珂八郎たがわはちろうという者で、宗像とも顔見知りだった。そのため、宗像に油断もあったのは否めない。
「須賀川の方でござるな。姫の輿をお受け取り願いたい」
 宗像がそう口上を述べた途端に、山の木立の陰に身を隠していた須賀川勢が四方八方から、矢を射掛けてきたという。
「騙された!」
 半内の叫び声も、折からの風雨に掻き消された。半内や宍草与一郎はせめて御台を守ろうと一歩も引かなかったが、多勢に無勢である。たちまち須賀川勢の弓矢の餌食になり、絶命した。それを見ていた雑兵は輿を見捨てて逃げ出したという――。

「何ということを……」
 そう言う藤兵衛の声も、怒りで震えていた。須賀川の街中へ通じる急峻な坂を駆け上がると、和田と須賀川の境となっている妙見山みょうけんさんが見えてくる。
「婿殿。参られたか」
 一足先に到着していたらしい、箭部伊予守やべいよのかみが息を弾ませながら図書亮を出迎えてくれた。伊予守は、箭部安房守の子息の一人である。現場には、遠藤雅楽守も既に到着していた。
「戦況は」
「今、若宮坂わかみやざかまで押されている」
 伊予守の言葉に、図書亮は口元を引き締める。雷雨はますます激しくなっており、辺り一面がしのつく雨で真っ白だ。
「このまま和田に攻め下られてはまずい。おし殿、一色殿。和田への道の守りを頼む」
 雅楽守の下知に、図書亮は力強く肯いた。和田へ、須賀川の者を踏み入らせてなるものか。
「行くぞ」
 藤兵衛と目で合図を交わすと、若宮坂の頂上にいる須賀川勢の背後に、忍び寄る。気配を殺し、素早く弓矢をつがえた。
 びゅうっと弓弦が鳴り、図書亮の手から弓矢が放たれる。図書亮の放った矢は須賀川の兵を捉え、敵兵の首筋に刺さるのが見えた。
「一中」
 そう呟くと、次の矢を取り出して次々と放っていく。当初は須賀川勢が押していたかに見えたが、次第に和田勢の加勢が増えていく。どうやら市之関の秀泰のところにも伝令が飛ばされたらしく、秀泰があの温厚そうな顔を真っ赤にして指揮を取っているのが、坂の上からちらりと見えた。
 さらに、雅楽守は自分の兵を率いて妙見山の麓から須賀川勢を包み込もうとしている。本気で須賀川勢を殲滅するつもりだ。その勢いに押され、須賀川勢が高いところへ走って逃げていく。岩間とはよく名付けたもので、沢の両脇は切り立った崖だ。その上に続く細い道を、須賀川勢が駆け上っていく。
 時刻で言えばまだ日が高いはずなのに、嵐のために、辺りは夜のように暗い。そのため、和田勢も須賀川勢を追撃したくとも、追撃出来ないのだ。 
 そのもどかしさに図書亮が焦れていた刹那、須賀川方の陣中に雷電が落ちた。その轟音に、鼓膜が敗れたかと瞬時思う。同時に、胸の悪くなるような肉の焼ける臭いが流れてきた。どうやら須賀川方の人や馬に、雷が直撃したらしい。直撃された者は勿論死んだだろう。
「図書亮。我々の身も危ない。一旦退こう」
 雨で敵の返り血が流れ、すっかり顔を汚した藤兵衛が血走った顔を向ける。
 その背後には、神社らしき建物が見える。側には松の古木らしきものがあった。
「あそこならば、大丈夫じゃないか」
 図書亮が見たところ、どうやら妙見山の鎮守社らしい。
「妙見神社だな。辛うじてだが、うちの社領だ」
 いつの間にか合流してきた左馬助が、頷いた。
 三人は神社の社の扉を蹴破って、その中へ駆け込んだ。
 どうやら左馬助の言うように、ここは和田領内らしく、須賀川衆の姿は見えなかった。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
 思わず念仏を唱える藤兵衛の姿に、こんな時だというのにおかしさが込み上げてくる。
 クツクツと笑う図書亮に、左馬助は呆れた視線を寄越した。
「笑い事ではござるまいに」
「それはそうだがな。我らには、やはり神祇がついているらしい」
 図書亮の視線の先には、社の由来が書かれている板碑があった。それによると、妙見神社の松には、岩瀬彦之民が不思議な光を追ってきたところ、この松の木に辿り着いたという。見たところ、その明かりは火の明かりではなく、星霊が降臨したものだという。それを聞いた時の領主がこの地に社を建てたのが、妙見神社の始まりだと書かれていた。
「この方角は、須賀川古町の鬼門に当たるからな。一色殿の言う事も当たっているかもしれん」
 図書亮の言葉に、左馬助もにやりと片頬に笑みを浮かべた。左馬助によると、この妙見神社は須賀川の鎮守でもあるとのことだった。
「本来ならば須賀川城を管理している治部殿が、地祇に対して誠心を見せなければならない社だがな。治部殿があまりにも妙見社を顧みないのを見かねて、昨年、御屋形が御社を修復されたばかりだ」
「なるほど。御屋形の誠心に、地祇が応じたのは間違いなさそうだな」
 相槌を打ちながら、図書亮は奇妙に気力が湧いてくるのを感じた。本当に、治部の命運は尽きようとしているのではないか。
 今となっては、為氏が熱心に諏訪明神や八幡社を勧請していたのも、納得できるのだ。その功徳が、今こちらに向こうとしている。
 ふと外の様子を伺うと、心持ち風雨が弱まってきたような気がする。
 社の扉を開けて外に出ると、図書亮は眼下を見下ろした。既に負けを悟ったのか、須賀川勢が田畑の中を乾の方向を目指して引き上げていくのが見えた。
「助かった……」
 思わず、そうごちる。戦いを終えたばかりの奇妙な高揚感も相まって、図書亮は晴ればれとした心地になった。
「図書亮。どのみちまもなく日が暮れる。一旦雅楽守様らと合流し、今後の指図を仰ごう」
 藤兵衛の言葉に、図書亮は頷いた。
「半内らの体も、持ち帰らねばなるまい」
 そう口にした途端に、胸が締め付けられる。半内はお調子者ではあったが、共に鎌倉から下向してきた仲間だった。早々とりくを妻にした図書亮を羨んでいたが、半内の菩提は誰が弔うのだろう。
 そこへ、当の雅楽守が姿を現した。他の和田衆の姿もある。
「ここにおったか。今日のところは、一旦ここまでだな」
 完全に決着がついたとは言い難いが、まずは須賀川に入れたということで雅楽守の顔にも安堵の色が浮かんでいる。 
「雅楽守様。これからいかがなさいます」
 左馬助の質問に、雅楽守はしばしためらいの色を見せた。
「先ほど、土地の者に案内を頼んできた。宗像殿らが討たれた後、御台の輿がそのまま岩間の陰のところに捨て置かれているらしい。こうなった以上、不本意ではあるが、もう一度御台に和田にお戻りになっていただくしかあるまい」
 図書亮は、藤兵衛や安藤と顔を見合わせた。確かに、須賀川勢は逃げ戻ってしまっている。姫の輿をそのままにしておくわけにはいかなかった。
「そもそも、御台はご無事なのでしょうか」
 藤兵衛が、そう呟いたときだった。須賀川の農夫らしき男が、転げるように駆け寄ってくる。
「大変でございます!」
「何があった」
 男の顔は、真っ青だった。
「泪橋のたもとに、屍体がいくつも転がっています。中には、高貴な方のご遺体もあるようで……」
 それを聞いた雅楽守の顔が、さっと青ざめた。
「案内せよ」
 案内役の土民は、見てきたばかりの光景に歯の根が合わないらしい。がくがくと震えながら、一同をその現場へ導いた。
 そこは、両脇が薄暗い崖になっているところだった。辺り一面に、むっと生臭い血の臭いが立ち込めている。沢にかかっている小さな橋は、土地の者によると、どのような言われがあるものか、「泪橋」という名前がつけられているらしい。
 その橋のたもとに、三千代姫が乗っていたはずの女輿が置かれたままになっていた。
 恐る恐るという様子で、雅楽守が輿の戸を開ける。輿の血溜まりの中には、あの美しかった三千代姫が胸を朱に染めたまま、うつ伏せになって絶命していた。どうやら、懐剣で胸を突いて自害したらしい。
 さらに、輿の側にはもう一人の女人の遺体があった。こちらにも見覚えがある。姫の乳母だった由比だ。そればかりでなく、白髪頭の男の腹は、十文字に搔き切られている。岩桐藤内左衛門だ。
 地獄絵図としか、形容しようがなかった。
 思いがけない成り行きに、剛の者であるはずの雅楽守ですら、発する言葉が見つからないようだった。

 ――誰がこの地獄絵図を見ていたのだろうか。藤葉栄衰記には、三千代姫及びその付き人たちの自害の様子が詳細に描かれている。
 和田勢と須賀川勢が姫の乗った輿を放置したまま激しい戦闘になったのを見て、三千代姫は死の覚悟を決めた。姫は、和田への輿入れから付き従ってきた女房たちを側に召して、細々と遺品を渡し始め、その指図を行った。
「この唐の鏡は母御前に渡してください。この金泥の観音像と阿弥陀経は父上に」
 それを聞いていた乳母の由比は、涙を流した。どちらも、姫が輿入れ前から、肌身離さず大切にしていたものである。さらに、三千代姫の言葉は続いた。
「藤原定家正筆の古今集と伊勢物語は、叔母上(千歳御前)に渡してくださいな。父上や母上、叔母上に長く私の形見と思っていただければ、思い残すことはありません」
 上臈の一人である瀧尾が、袖を目に当てた。彼女は、民部大輔に嫁いだ千歳御前の乳姉妹だった。乳姉妹である千歳御前は、杳として行方が知れない。
「姫。なぜ須賀川のお城へお戻りにならないのです」
 瀧尾は、涙ながらに訴えた。須賀川の城へ戻れば、治部大輔が三千代姫を保護してくれるだろうに。瀧尾はずっとそう言い続けてきたが、それを断じて拒んできたのは三千代姫自身だった。
 三千代姫は、うっすらと涙を浮かべながら首を横に振った。
「父上に勝目はありませぬ。須賀川のお城がいかに堅牢であろうとも、岩瀬の民の心が既に父上から離れてしまっているのでは……」
 その言葉に、由比は瞬時息を止めた。由比も、薄々気付いてはいたのだ。あの逢隈の出水のときに、治部大輔は岩瀬の民の艱難を無視し、手を差し伸べようとはしなかった。そのために、和田衆に須賀川攻撃の格好の口実を与えてしまった。三千代姫もそれを悟っていたからこそ、為氏の言葉に従ったのだろう。本来であれば仲介役を務めなくてもよいはずの姫も、覚悟を背負って出水の際に父である治部大輔に助けを求めた。
 由比自身は必ずしも和田衆のことを好きになれなかったが、三千代姫と為氏の仲睦まじさは本物だった。為氏も三千代姫を和田衆の敵意から何とか守ろうと、あの手この手を尽くしてくれたことについては、感謝している。また、少数とはいえ、和田衆の中には三千代姫の身を案じてくれた者もいた。あの、三千代姫と為氏がこっそり岩間館から抜け出してきたときの者らは、三千代姫が輿入れするきっかけを作った責任からか、姫に好意的だったと、後に三千代姫から聞かされていた。
 治部大輔も三千代姫のことを大層可愛がっていたし、和田の者らが主張するように、治部大輔が意地を張る必要はなかったのではないか。三千代姫と為氏の婚姻のときに隠遁し、跡目を三千代姫の兄である行若にでも譲って和田衆と和解していれば、皆が傷つかなくて済んだ……。
 ようやく雨が上がった岩間の陰で、三千代姫は上臈の瀧尾に命じて矢立と料紙を持ってこさせて、遺書をしたためている。
 その文には、幼少の初めから成人の今に到るまでの養育の感謝を、あの世に行っても忘れないと書かれていた。
 この世に無情の風が吹いて有為の生命が露の如く消え、その余波は長浜の真砂が尽きようとも、三千代姫の和田と須賀川の平穏を願う心は消えない。人の命は老少不定の道理に従うもの。無為の中からこの世に生まれ出た生命なのだから、あえて嘆かないでほしい。多少の広劫の縁は尽きないが、もとの無為に戻るが如く清浄の身となり、必ず蓮台にてお目もじ致しましょう。  
 由比がちらりと見たところ、そのような内容であった。その文の内容からしても、姫自身の身はもちろんのこと、父母の命運も既に悟っているかのようだった。文をしたため終わると、しばし三千代姫は目を閉じ、物思いに耽っている様子だった。無意識なのか、左手はそっと下腹部に当てられている。
 やがて再び目を開くと、身の回りの手箱に入れてあった秘蔵の道具や小袖を、女房たちにことごとく分け与え始めた。形見を分け与えようとしているのは、どの者たちも、姫の輿入れの際に付き従ってここまでお供してきた者たちである。
 そして姫は、岩桐藤内左衛門を近くに呼び寄せた。
「そなたはこれまでよく私に神妙に仕えてくれました」
 優しく語りかける姫の言葉に、藤内左衛門の眦からは既に涙が溢れている。藤内左衛門も、姫の死の覚悟を悟ったのだった。姫の手には、一振りの刀がある。大きさにして、九寸五分ほどか。姫の輿入れの際に、父である治部大輔が姫の守り刀として持たせたものだった。
「これは、そなたも知っているように粟田口吉光が打った最上の銘刀です。今までの私への忠義の礼節として、形見としてそなたにさしあげます。お前は必ず命を全うして、私の命日に香華を手向けてもらえませんか」
 そう言うと、姫は先ほどしたため終えたばかりの遺書と、粟田口の銘刀を藤内左衛門に渡した。女房たちはこれを見て皆一同に落涙し、次々と姫に縋り付いた。
「我々は卑賎の家に生まれた者らです。ですが他生の縁が深くあり、姫の奴婢となりました。長い間姫と馴染み、御恩を受けたことをどうして忘れられましょうか。せめて黄泉路や、叶うならば来世までもお供致しましょう。仮に閻魔の広間まで参るとしてもです」
 女房の一人であった、亀井が身をよじらせて大声で申し述べる。彼女だけではない。どの付き人も人目を憚らず声も惜しまず泣き喚いている。落ち着いた様子なのは、既に輿を出て人の輪の中央にすっくと立っている三千代姫ただ一人だった。その人垣の中には、先ほど形見として粟田口を与えられたばかりの藤内左衛門もいる。
「そこまで仰るのならば、姫。どうか私を先に殺してください」
 彼女が幼少の頃より見守ってきた由比が、姫の腰にすがる。
「姫。女共がこのように申しておるのです。私も、黄泉路のお供を致しましょう」
 先ほど手渡された粟田口の鯉口を切りながら藤内左衛門も、涙を流す。
「いいえ」
 三千代姫は、きっぱりと述べた。そして、幼い頃から慣れ親しんできた両人の背を優しく抱きしめた。
「その志は誠にありがたく感じるところではあります。ですが、人の一生は一人で来て一人で帰る道。ですから、私の供をすることはないのです」
 その言葉に、周りの者らは再び涙を流した。
「そなたたちが死んでも、何の益もないこと。そなたたちはそれぞれ命を全うし、須賀川へ戻って形見の物を父上や母上に捧げ、この有様を申し上げて、念仏の一篇でも回向してもらうことが、私への第一の忠孝です」
 その様子は、あの優しげで愛らしい姫ではなかった。紛れもなく二階堂の姫君の誇り高き姿であり、御仏のような気高さを感じさせた。
 そう告げると、姫は再び女輿の中へ戻った。姫の決意に、もう誰も彼女の死出を止めようとはしない。やがて、念仏が微かに聞こえてきたかと思うと、輿の中から呻き声が聞こえた。
「姫!」
 由比がたまらず輿の戸を引き開けると、小袖の胸元を寛げたために見えている彼女の真っ更な雪のような胸元は、真っ赤に染まっている。先ほどまで気丈に開かれていた目は閉じられており、既に呼吸は止まっていた。かつて、唐の西施のようだと讃えられた姫君は、目も当てられない有様である。乳母の由比を初め、お付きの女房たちは姫の亡骸に抱きつき声を惜しまず涙を流した。空はようやく雷雨が小止みになったが、両脇は切り立った崖のためか、鬱蒼として辺りは闇い。
「由比殿」
 藤内左衛門が、由比の袖を引いた。その手には、血飛沫が点々と残された短冊があった。
 
 思ひきや問わば岩間の泪橋ながさら暇くれやさわとは
(誰かに問われたのならば、私はこのように答えましょう。私の涙で、この岩間の泪橋が押し流すつもりはございません。ですが、それほど泣き暮れる思いです。この地が暮谷沢、すなわち人生の終焉の地というのは、皮肉なことです)

 限りある心の月の雲晴れて光とともに居る西の空
(この世を去ろうと心を決めれば、今まで思い悩んでいた心の曇りも晴れるというもの。西に沈む夕陽と同じ様に、私も西方の極楽浄土へ参ります)

 この辞世の歌を見て、一同は更に涙を流した。
 由比は、姫が両家の板挟みになっていたのを察していながら、何もできなかった自分を恥じた。
「藤内左衛門殿。姫を一人で逝かせるわけには参りませぬ」
 そう述べると、由比もまた辞世の歌を詠んだ。

 死出の山知るべもあらぬみちながらつれてやはれめ西へ行く月
(死出の山がどこにあるのか、またこの道がどこへ行くのかはわかりません。ですが、どうか私を連れて行ってくださいませ。西へ行く月よ)

 姫の仰るように、この世の最期を迎える地が「暮谷沢」というのは皮肉なものだと、由比はひっそりと皮肉な笑みを浮かべた。「人生の日の暮れ」というだけでなく、この地の名前は「糸を繰る」という縁語でもある。三千代姫と為氏公はあれほど想い合っていながらも、結局はこの世の縁が薄かったということなのだろう。
「では、皆様。お先に参ります」
 由比はそう述べると、自分の懐から自害用の脇差を取り出し、口の中に突き立てた。切っ先の痛みを感じたかと思う間に、急激に意識が遠のく。止める間もなく由比の自害の様子を見守っていた藤内左衛門は、脇差の柄が口に留まったままその切っ先が彼女の喉を突き破るのを、しばし呆然と見つめた。
「女の身でありながら、何と清々しい御心掛けか……」
 姫は生き延びよと申されたが、女の身である由比ですら、主の御伴を決意したのだ。どうして男に生まれた自分が、女に劣って良いものだろうか。
「岩桐様……」
 瀧尾が、涙ながらに訴えた。
「止めてくれるな」
 藤内左衛門は、首を横に振った。
「仮にここで命を永らえて須賀川の御城に立て籠もり、為氏公の軍勢に立ち向かって比類なき働きを見せたとしよう。万が一この先の戦で命を拾ったとしても、姫を死なせてしまったという汚名は生涯つきまとう。どのような面目があり、人に顔を向けることができようか」
「ですが……」
 尚も引き留めようとする女房の一人の手を、藤内左衛門は振り払った。
「たとえ人が何も言わなかったとしても、己が心は慚愧に堪えられぬだろう。また、発心もできないままに出家して入道するのも、見苦しい」
 そして、藤内左衛門は生真面目な表情を崩さずに、最期の言葉を述べた。
「今は浮世に思い残すことはない」
 身分はそれほど高くないものの、三千代姫が幼い頃から彼女の護衛を務めてきた、彼らしい言葉だった。そして体を西に向けると、声高に念仏を唱え始めた。
 念仏を唱え終わると、そのまま両肌を脱いで腹を広げ切腹の作法に則り、先ほど三千代姫から賜ったばかりの粟田口で腹を十文字に掻き破る。さらに、残る力を振り絞って鮮血の滴る傷口に手を突っ込んで内臓はらわたを掻き出すと、座ったまま絶命した。
 三千代姫や由比、藤内左衛門の立て続けの自害を止められなかった瀧尾は、涙を流しながら己も彼等の後を追いたい衝動に駆られた。
「瀧尾さま。せめて姫の御形見を須賀川の御城に届けませんと……。このままでは姫たちの御霊が、迷われましょう」
 上臈の一人である亀岡が、袂で目元を拭いながら泣く泣く申し出た。その懐には、姫から下賜された鏡が見え隠れしている。
「……そうじゃな」
 辺りには、出迎えに来たはずの須賀川衆の姿は見えなかった。だが、ここまで来れば須賀川の城はすぐである。
「姫様の御亡骸や、乳母殿、岩桐殿の回向をお頼み申し上げねば……」
 余りにも無惨な出来事に、その場に張り付いて動こうとしなかった足に、力を入れる。気力を振り絞って、右足を前へ踏み出す。
「和田の寄手が来ぬ内に、須賀川へ戻ろう」
 そう呟く瀧尾の声は、怒りに満ちていた。
(だから、あれほど須賀川へ戻ろうと申し上げたのに)
 今更ながら、力尽くでも姫を須賀川に連れ戻しておくのだったと、悔やまれる。できることならば姫らの体も須賀川の城へ持って帰りたいが、女の力では無理だった。
 残された五人の上臈たちは、風雨の合間を縫って愛宕山にある須賀川の城へ戻り、つぶさに姫らの自害の模様を伝えた。
 それを聞いた姫の母君やそのお付きの女房たちは、この惨状の知らせに堪えられず、気を失われたという――。

図書亮らが泪橋に駆けつけたのは、五人の上臈たちが立ち去ってから程なくしてからのことだった。
 誰が、三千代姫の自害を予想していただろうか。
 須賀川の者の仕打ちも、あまりと言えばあまりである。治部大輔の姫君の行列と知っていながら、襲撃された。治部大輔にとって、姫の命はそれほど軽いものだったのか。いや、あの逢隈の出水のときの懇願を無視した治部大輔ならば、それくらいのことはやりかねない。
 そう思うと、図書亮の胸に怒りの炎が燃え広がった。
「雅楽守殿。これからどうされます」 
 いつの間に駆けつけていたのか、佐渡守秀泰が青ざめた顔を雅楽守に向けた。彼も、まさか姫が自害に追い込まれるとは思わなかったのだろう。
「……和田の者たちをまとめて、領内に戻り向後について話し合おう」
 雅楽守は振り絞るようにそう述べると、くるりと女輿に背を向けた。
 これはこれであまりの仕打ちではないか。怒りに任せるままに、図書亮は思わず雅楽守を引き止めた。
「御台の御身体は、どうされるのです?」
 仮にも、自分たちの主の妻であった女性である。そのまま野の獣の餌食とするには忍びなかった。既に死臭を嗅ぎつけたものか、どこからか鴉が姿を現し、不気味な鳴き声を発している。
 だが、雅楽守の返答はつれなかった。
「姫の御身体は、おっつけ須賀川の者が引き取りに参ろう」
 図書亮は言葉を失った。離縁したからには、和田とは関係ない。そう言いたげな雅楽守の言葉である。
 確かに、その通りではある。ここは須賀川から目と鼻の先だ。和田衆がこのままとどまっていれば、全滅する。
 和田勢も、引き上げるしかなかった。
 それでも図書亮の足元に鴉が寄ってきて翼を広げて威嚇するのを見ると、むかむかした。思わず、足で乱暴に払い除ける。
「図書亮。一旦和田へ戻ろう」
 やはり青い顔をした藤兵衛が、図書亮の怒りをなだめるように背を押した。
 援軍として暮谷沢に馳せ参じた和田衆も、帰り道への足取りは重かった。その一行の中には、担架に載せられた倭文半内や宍草与一郎の体もあった。
 三千代姫自害の知らせを為氏に告げたのは、雅楽守だった。日頃の好々爺の雰囲気は微塵もなく、ただ一言「姫は泪橋のたもとで、御胸を突かれてお亡くなりになられておりました」と、厳しい声色で為氏に告げた。
 為氏はその知らせを聞くなり、顔を青ざめさせ、今にも気を失うのではないかと思われた。
「御台が……」
 さすがの四天王も、掛ける言葉が見つからないようだった。
 やがて、為氏は絞り出すように小さなうめき声を発した。
「……御台を死に追いやったのは、私だ……」
 そう呟くと、御前会議を開かなければならないにも関わらず、為氏は岩間館へ駆け出した。その背を、四天王らは追おうともしなかった。
 そこへ戻っても、もう愛する者の姿はない。
 そのことを誰よりも痛感したのは、為氏自身だろう。
 やがて、暗闇の中、再び雨が降り出してきた――。
 

しおりを挟む

処理中です...