君の思い出

生津直

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第3章 蜜月

25 お迎え

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 十月二十七日、月曜日。千尋は朝からそわそわしていた。大学には一応いつも通り顔を出したものの、講義などまるで頭に入らない。携帯のカバーを開いては、時計ばかり見てしまう。

 週末の電話では、「うまくいけば四時」と浅葉は言った。千尋は午後の授業をもちろんサボるわけだが、お昼は学食で食べてから帰るつもりだった。でも……。

(ランチって気分じゃないな)

 二限が終わるのだけ、その場でおとなしく待つことにする。チャイムが鳴り、他の学生が立ち上がり始めたのを見計らってその波にまぎれ、千尋は昼休みで賑わうキャンパスを後にした。

 アパートの前に着いたのは二時前。入口のブロックべいを見る度に、あの恐ろしい出来事がちらりと脳裏のうりをかすめたものだが、今はこの場所でひたいに受けたキスがその記憶を上書きしてくれたようだった。思い出しただけで甘酸っぱい鳥肌が全身をおおう。

 部屋に入り冷蔵庫を開けてはみたものの、あまりご飯的なものを食べる気にもなれず、リンゴだけいてかじりながら出かける支度したくを始める。

 準備万端整ってしまうと手持ち無沙汰ぶさたになり、何となくテーブルなどをき始めると、ついいつもの掃除フルコースに突入してしまった。

 すっかり佳境かきょうに入った頃、電話が鳴った。浅葉の携帯からだ。登録名は「例の」から「アサバ シュウジ」に変更してあった。名前の漢字を聞こう聞こうと思いながら、機会を逃し続けている。

(まさか、ドタキャンとか言わないよね……)

 一つ深呼吸をして、通話ボタンを押した。

「はい、もしもし」

「あのさ、ごめん、ちょっと遅れる」

「あ、はい」

「四時五分」

 千尋は、安堵あんどついでにふふっと笑った。

「五分ぐらい、いいですから。そもそも四時確約じゃなかったですし」

「お前、四時前から外に出て待つ気だったろ」

 そう言われてみればそうかもしれない。

「今日そこそこ寒いからな。五分まで中にいろよ」

 そのゆずる気のない口調にふと、あの部屋での諸々もろもろのルールを思い出し、胸がキュンとする。今考えればあれもこれも、全ては千尋のためにこそ命じられたものだった。

「はい、わかりました」

 千尋は、きっちり四時五分を待って外に出た。

 階段の上まで出ていくと、通りにはカジュアルな服装の浅葉の姿。前を開けたままのえんじのフリースから黒のインナーが覗き、下はグレーのジーパンだ。その後ろに、どこにでもありそうなシルバーの国産車が停まっている。濃度の高い瞳がこちらを見上げた。

「お待たせ」

 千尋もにっこりして、

「お待たせ」

と返し、階段を下りる。

 浅葉の手が滑らかに動いて千尋の肩に乗り、反対側の手が助手席のドアを開ける。

 千尋がいつまでも突っ立ったままうっとりと浅葉の顔に見とれていると、その手が千尋の背中をちょい、と押した。シートに座ってみると、柑橘かんきつ系のさわやかな香りがさり気なく車内を満たしている。

 右側から乗ってきた浅葉にどこに行くのか聞こうとして、千尋は思い直した。行き先も知らずに「さらわれる」なんて何だかロマンチックだし、そうそうできる体験ではない。自分の運命が丸ごと浅葉の手に握られているようで、一人勝手にドキドキする。

 気付くと、浅葉が運転席からじっと千尋を見ていた。

「ベルト」

「あ……」

 思えば、うっかり終電を逃した時のタクシー以外、車に乗るような生活はしていない。過去に付き合った二人の男たちとは車で出かけたことなどなかったし、誰かの助手席に座ることにはおよそ慣れていなかった。

 慌てて左肩の方向を探ろうとすると、それよりも早く浅葉が身を乗り出し、千尋のシートベルトを引っ張る。至近距離で目が合った瞬間、あっと思う間もなく、チュッと唇をついばまれていた。

(ウソ……)

 体が固まったついでに、心臓まで止まってしまった気がした。浅葉は金具をカチャッと差し込むと、何事もなかったかのように自分のシートベルトを締め、車をスタートさせていた。
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