25 / 92
第3章 蜜月
25 お迎え
しおりを挟む
十月二十七日、月曜日。千尋は朝からそわそわしていた。大学には一応いつも通り顔を出したものの、講義などまるで頭に入らない。携帯のカバーを開いては、時計ばかり見てしまう。
週末の電話では、「うまくいけば四時」と浅葉は言った。千尋は午後の授業をもちろんサボるわけだが、お昼は学食で食べてから帰るつもりだった。でも……。
(ランチって気分じゃないな)
二限が終わるのだけ、その場でおとなしく待つことにする。チャイムが鳴り、他の学生が立ち上がり始めたのを見計らってその波に紛れ、千尋は昼休みで賑わうキャンパスを後にした。
アパートの前に着いたのは二時前。入口のブロック塀を見る度に、あの恐ろしい出来事がちらりと脳裏をかすめたものだが、今はこの場所で額に受けたキスがその記憶を上書きしてくれたようだった。思い出しただけで甘酸っぱい鳥肌が全身を覆う。
部屋に入り冷蔵庫を開けてはみたものの、あまりご飯的なものを食べる気にもなれず、リンゴだけ剥いてかじりながら出かける支度を始める。
準備万端整ってしまうと手持ち無沙汰になり、何となくテーブルなどを拭き始めると、ついいつもの掃除フルコースに突入してしまった。
すっかり佳境に入った頃、電話が鳴った。浅葉の携帯からだ。登録名は「例の」から「アサバ シュウジ」に変更してあった。名前の漢字を聞こう聞こうと思いながら、機会を逃し続けている。
(まさか、ドタキャンとか言わないよね……)
一つ深呼吸をして、通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
「あのさ、ごめん、ちょっと遅れる」
「あ、はい」
「四時五分」
千尋は、安堵ついでにふふっと笑った。
「五分ぐらい、いいですから。そもそも四時確約じゃなかったですし」
「お前、四時前から外に出て待つ気だったろ」
そう言われてみればそうかもしれない。
「今日そこそこ寒いからな。五分まで中にいろよ」
その譲る気のない口調にふと、あの部屋での諸々のルールを思い出し、胸がキュンとする。今考えればあれもこれも、全ては千尋のためにこそ命じられたものだった。
「はい、わかりました」
千尋は、きっちり四時五分を待って外に出た。
階段の上まで出ていくと、通りにはカジュアルな服装の浅葉の姿。前を開けたままのえんじのフリースから黒のインナーが覗き、下はグレーのジーパンだ。その後ろに、どこにでもありそうなシルバーの国産車が停まっている。濃度の高い瞳がこちらを見上げた。
「お待たせ」
千尋もにっこりして、
「お待たせ」
と返し、階段を下りる。
浅葉の手が滑らかに動いて千尋の肩に乗り、反対側の手が助手席のドアを開ける。
千尋がいつまでも突っ立ったままうっとりと浅葉の顔に見とれていると、その手が千尋の背中をちょい、と押した。シートに座ってみると、柑橘系の爽やかな香りがさり気なく車内を満たしている。
右側から乗ってきた浅葉にどこに行くのか聞こうとして、千尋は思い直した。行き先も知らずに「さらわれる」なんて何だかロマンチックだし、そうそうできる体験ではない。自分の運命が丸ごと浅葉の手に握られているようで、一人勝手にドキドキする。
気付くと、浅葉が運転席からじっと千尋を見ていた。
「ベルト」
「あ……」
思えば、うっかり終電を逃した時のタクシー以外、車に乗るような生活はしていない。過去に付き合った二人の男たちとは車で出かけたことなどなかったし、誰かの助手席に座ることにはおよそ慣れていなかった。
慌てて左肩の方向を探ろうとすると、それよりも早く浅葉が身を乗り出し、千尋のシートベルトを引っ張る。至近距離で目が合った瞬間、あっと思う間もなく、チュッと唇をついばまれていた。
(ウソ……)
体が固まったついでに、心臓まで止まってしまった気がした。浅葉は金具をカチャッと差し込むと、何事もなかったかのように自分のシートベルトを締め、車をスタートさせていた。
週末の電話では、「うまくいけば四時」と浅葉は言った。千尋は午後の授業をもちろんサボるわけだが、お昼は学食で食べてから帰るつもりだった。でも……。
(ランチって気分じゃないな)
二限が終わるのだけ、その場でおとなしく待つことにする。チャイムが鳴り、他の学生が立ち上がり始めたのを見計らってその波に紛れ、千尋は昼休みで賑わうキャンパスを後にした。
アパートの前に着いたのは二時前。入口のブロック塀を見る度に、あの恐ろしい出来事がちらりと脳裏をかすめたものだが、今はこの場所で額に受けたキスがその記憶を上書きしてくれたようだった。思い出しただけで甘酸っぱい鳥肌が全身を覆う。
部屋に入り冷蔵庫を開けてはみたものの、あまりご飯的なものを食べる気にもなれず、リンゴだけ剥いてかじりながら出かける支度を始める。
準備万端整ってしまうと手持ち無沙汰になり、何となくテーブルなどを拭き始めると、ついいつもの掃除フルコースに突入してしまった。
すっかり佳境に入った頃、電話が鳴った。浅葉の携帯からだ。登録名は「例の」から「アサバ シュウジ」に変更してあった。名前の漢字を聞こう聞こうと思いながら、機会を逃し続けている。
(まさか、ドタキャンとか言わないよね……)
一つ深呼吸をして、通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
「あのさ、ごめん、ちょっと遅れる」
「あ、はい」
「四時五分」
千尋は、安堵ついでにふふっと笑った。
「五分ぐらい、いいですから。そもそも四時確約じゃなかったですし」
「お前、四時前から外に出て待つ気だったろ」
そう言われてみればそうかもしれない。
「今日そこそこ寒いからな。五分まで中にいろよ」
その譲る気のない口調にふと、あの部屋での諸々のルールを思い出し、胸がキュンとする。今考えればあれもこれも、全ては千尋のためにこそ命じられたものだった。
「はい、わかりました」
千尋は、きっちり四時五分を待って外に出た。
階段の上まで出ていくと、通りにはカジュアルな服装の浅葉の姿。前を開けたままのえんじのフリースから黒のインナーが覗き、下はグレーのジーパンだ。その後ろに、どこにでもありそうなシルバーの国産車が停まっている。濃度の高い瞳がこちらを見上げた。
「お待たせ」
千尋もにっこりして、
「お待たせ」
と返し、階段を下りる。
浅葉の手が滑らかに動いて千尋の肩に乗り、反対側の手が助手席のドアを開ける。
千尋がいつまでも突っ立ったままうっとりと浅葉の顔に見とれていると、その手が千尋の背中をちょい、と押した。シートに座ってみると、柑橘系の爽やかな香りがさり気なく車内を満たしている。
右側から乗ってきた浅葉にどこに行くのか聞こうとして、千尋は思い直した。行き先も知らずに「さらわれる」なんて何だかロマンチックだし、そうそうできる体験ではない。自分の運命が丸ごと浅葉の手に握られているようで、一人勝手にドキドキする。
気付くと、浅葉が運転席からじっと千尋を見ていた。
「ベルト」
「あ……」
思えば、うっかり終電を逃した時のタクシー以外、車に乗るような生活はしていない。過去に付き合った二人の男たちとは車で出かけたことなどなかったし、誰かの助手席に座ることにはおよそ慣れていなかった。
慌てて左肩の方向を探ろうとすると、それよりも早く浅葉が身を乗り出し、千尋のシートベルトを引っ張る。至近距離で目が合った瞬間、あっと思う間もなく、チュッと唇をついばまれていた。
(ウソ……)
体が固まったついでに、心臓まで止まってしまった気がした。浅葉は金具をカチャッと差し込むと、何事もなかったかのように自分のシートベルトを締め、車をスタートさせていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる