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第2話 理想の婚約者であることに、私は向いていませんでした
第2話 理想の婚約者であることに、私は向いていませんでした
婚約破棄が公に告げられた翌日、王城の中は奇妙な静けさに包まれていた。
昨日まで私に向けられていた視線が、今は慎重さと遠慮を帯びている。まるで、触れてはいけない壊れ物を見るような目だ。
――気を遣われるのも、正直、疲れる。
私は与えられた控えの間で、静かに紅茶を飲んでいた。
この部屋を使うのも、今日で最後になるだろう。
「エリシア様……」
扉の外から、控えめな声がする。
侍女のマルタだった。幼い頃から私に仕えてくれている、数少ない気心の知れた存在。
「入ってちょうだい」
そう言うと、彼女はそっと扉を開け、心配そうな表情で近づいてきた。
「ご体調は……大丈夫ですか?」
「ええ。問題ありませんわ」
それは、嘘ではなかった。
少なくとも昨日の今頃より、ずっと呼吸が楽だ。
マルタは少しだけ眉を下げる。
「皆さま、エリシア様が……お辛いのではないかと」
「そう思われるでしょうね」
私は苦笑する。
婚約破棄された令嬢が、平然としている方が不自然なのだろう。
「でも、不思議なものね。悲しくないの」
「……本当に?」
「本当に」
そう答えると、マルタはしばらく黙り込んだあと、ぽつりと呟いた。
「正直に申し上げると……少し、安心しました」
「安心?」
「はい。だってエリシア様、ずっと無理をなさっていましたから」
その言葉に、私は思わず瞬きをした。
無理をしていた――
そう言われることは、あまりなかった。
私は「優秀な婚約者」で、「非の打ち所がない令嬢」で、「感情に流されない理想的な存在」だと評価されてきた。
無理をしているように見えなかったのだろう。
「王太子妃教育の間も、聖女としての振る舞いも……エリシア様は、完璧でした。でも」
マルタは言葉を選びながら続ける。
「楽しそうでは、ありませんでした」
胸の奥が、少しだけちくりと痛んだ。
楽しい、という感情を最後に強く意識したのは、いつだっただろう。
幼い頃、図書室にこもって好きな本を読んでいた時間。
誰にも評価されず、誰にも期待されない、ただ静かな時間。
いつの間にか、私は「理想」を演じることに慣れすぎていた。
「殿下は、明るい方がお好きでしたものね」
私がそう言うと、マルタは小さく頷く。
「笑顔で、感情豊かで、民の前で希望を語れる聖女……」
それは、昨日紹介されたリリア様の姿そのものだった。
確かに彼女は、殿下にふさわしい。
分かりやすく、人の心を掴む力を持っている。
私は、違う。
私ができるのは、
冷静に物事を判断し、
感情を抑え、
過不足なく役割を果たすこと。
でも、それは「愛される才能」ではなかった。
「殿下は、私にこう仰いましたわ」
私はカップを置き、淡々と語る。
「『何を考えているのか分からない』『希望を示す存在ではない』と」
「……」
「正しい評価だと思います」
驚くほど、素直にそう思えた。
私は希望を語るより、静かに現実を見る方が得意だ。
人を励ますより、無理をしない選択肢を提示する方が性に合っている。
だからこそ――
王太子の隣に立つ資格は、最初からなかったのだ。
「向いていなかっただけですわ」
そう口にした瞬間、胸の奥に溜まっていた何かが、すっとほどけた。
私は、失敗したのではない。
追い出されたのでも、捨てられたのでもない。
ただ、役割が合わなかっただけ。
それだけのことなのだ。
「これから、どうなさるおつもりですか?」
マルタの問いに、私は少し考える。
「さあ……まだ決まっていませんわ」
辺境へ行けと言われるかもしれない。
社交界から距離を置かれるかもしれない。
けれど、不思議と不安はなかった。
「でも、一つだけ決めていることがあります」
「何でしょう?」
「もう、自分に向いていない役は演じません」
誰かの理想になるために、自分を削ることはしない。
笑えと言われて笑い、感情を見せろと言われて演じる――そんな生き方は、もう十分だ。
「今度こそ、自分に合った場所で生きたいのです」
マルタは、少し目を潤ませながら微笑んだ。
「……それが、一番でございますね」
その日の午後、正式な通達が届いた。
エリシア・ヴァレンシュタインは、
王太子の婚約者の座を解かれ、
王都を離れ、辺境公爵領へ向かうことになる――と。
書面を読み終えた私は、静かに息を吐いた。
「やはり、そうなりますわよね」
けれど、その声には落胆はなかった。
むしろ――
(静かな場所、ですわね)
人の期待も、理想も、喧騒も届かない場所。
もしそんな土地があるのなら。
そこはきっと、
私にとって初めて「向いている場所」なのだろう。
私は書面を畳み、窓の外を見た。
王城の空は、今日も晴れている。
けれど私の心は、昨日よりずっと軽かった。
理想の婚約者であることに、私は向いていなかった。
それだけの事実を、ようやく受け入れられたのだから。
婚約破棄が公に告げられた翌日、王城の中は奇妙な静けさに包まれていた。
昨日まで私に向けられていた視線が、今は慎重さと遠慮を帯びている。まるで、触れてはいけない壊れ物を見るような目だ。
――気を遣われるのも、正直、疲れる。
私は与えられた控えの間で、静かに紅茶を飲んでいた。
この部屋を使うのも、今日で最後になるだろう。
「エリシア様……」
扉の外から、控えめな声がする。
侍女のマルタだった。幼い頃から私に仕えてくれている、数少ない気心の知れた存在。
「入ってちょうだい」
そう言うと、彼女はそっと扉を開け、心配そうな表情で近づいてきた。
「ご体調は……大丈夫ですか?」
「ええ。問題ありませんわ」
それは、嘘ではなかった。
少なくとも昨日の今頃より、ずっと呼吸が楽だ。
マルタは少しだけ眉を下げる。
「皆さま、エリシア様が……お辛いのではないかと」
「そう思われるでしょうね」
私は苦笑する。
婚約破棄された令嬢が、平然としている方が不自然なのだろう。
「でも、不思議なものね。悲しくないの」
「……本当に?」
「本当に」
そう答えると、マルタはしばらく黙り込んだあと、ぽつりと呟いた。
「正直に申し上げると……少し、安心しました」
「安心?」
「はい。だってエリシア様、ずっと無理をなさっていましたから」
その言葉に、私は思わず瞬きをした。
無理をしていた――
そう言われることは、あまりなかった。
私は「優秀な婚約者」で、「非の打ち所がない令嬢」で、「感情に流されない理想的な存在」だと評価されてきた。
無理をしているように見えなかったのだろう。
「王太子妃教育の間も、聖女としての振る舞いも……エリシア様は、完璧でした。でも」
マルタは言葉を選びながら続ける。
「楽しそうでは、ありませんでした」
胸の奥が、少しだけちくりと痛んだ。
楽しい、という感情を最後に強く意識したのは、いつだっただろう。
幼い頃、図書室にこもって好きな本を読んでいた時間。
誰にも評価されず、誰にも期待されない、ただ静かな時間。
いつの間にか、私は「理想」を演じることに慣れすぎていた。
「殿下は、明るい方がお好きでしたものね」
私がそう言うと、マルタは小さく頷く。
「笑顔で、感情豊かで、民の前で希望を語れる聖女……」
それは、昨日紹介されたリリア様の姿そのものだった。
確かに彼女は、殿下にふさわしい。
分かりやすく、人の心を掴む力を持っている。
私は、違う。
私ができるのは、
冷静に物事を判断し、
感情を抑え、
過不足なく役割を果たすこと。
でも、それは「愛される才能」ではなかった。
「殿下は、私にこう仰いましたわ」
私はカップを置き、淡々と語る。
「『何を考えているのか分からない』『希望を示す存在ではない』と」
「……」
「正しい評価だと思います」
驚くほど、素直にそう思えた。
私は希望を語るより、静かに現実を見る方が得意だ。
人を励ますより、無理をしない選択肢を提示する方が性に合っている。
だからこそ――
王太子の隣に立つ資格は、最初からなかったのだ。
「向いていなかっただけですわ」
そう口にした瞬間、胸の奥に溜まっていた何かが、すっとほどけた。
私は、失敗したのではない。
追い出されたのでも、捨てられたのでもない。
ただ、役割が合わなかっただけ。
それだけのことなのだ。
「これから、どうなさるおつもりですか?」
マルタの問いに、私は少し考える。
「さあ……まだ決まっていませんわ」
辺境へ行けと言われるかもしれない。
社交界から距離を置かれるかもしれない。
けれど、不思議と不安はなかった。
「でも、一つだけ決めていることがあります」
「何でしょう?」
「もう、自分に向いていない役は演じません」
誰かの理想になるために、自分を削ることはしない。
笑えと言われて笑い、感情を見せろと言われて演じる――そんな生き方は、もう十分だ。
「今度こそ、自分に合った場所で生きたいのです」
マルタは、少し目を潤ませながら微笑んだ。
「……それが、一番でございますね」
その日の午後、正式な通達が届いた。
エリシア・ヴァレンシュタインは、
王太子の婚約者の座を解かれ、
王都を離れ、辺境公爵領へ向かうことになる――と。
書面を読み終えた私は、静かに息を吐いた。
「やはり、そうなりますわよね」
けれど、その声には落胆はなかった。
むしろ――
(静かな場所、ですわね)
人の期待も、理想も、喧騒も届かない場所。
もしそんな土地があるのなら。
そこはきっと、
私にとって初めて「向いている場所」なのだろう。
私は書面を畳み、窓の外を見た。
王城の空は、今日も晴れている。
けれど私の心は、昨日よりずっと軽かった。
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それだけの事実を、ようやく受け入れられたのだから。
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