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第1章 青春期
婚約の噂
しおりを挟むカトリーナ・エーレンベルクは、海外での商談を終え、ようやく帰国した。
——この数週間、ヴィクトルのことを考えないようにするために、徹底的に仕事に集中した。
そのおかげで、大きな契約を締結し、エーレンベルク家の商会の拡大につながる成果を得ることができた。
カトリーナは、屋敷の書斎で報告書を整理しながら、満足げに息を吐く。
「……やっぱり、仕事に集中してる方がずっといいわね」
ヴィクトルの挑発に振り回される日々より、こうして目に見える成果を得る方が、よほど建設的だ。
あの数週間が嘘のように、今のカトリーナの心は落ち着いていた。
しかし——
「……?」
屋敷の使用人たちが、妙な噂話をしているのが耳に入ってきた。
——「ヴィクトル様と侯爵家の令嬢の婚約が、正式に決まるらしい」
——「まさか、ヴァイスハウゼン家と侯爵家が手を組むなんて……」
カトリーナの手が、一瞬止まる。
「……何、それ」
無意識に呟いた。
久しぶりに学園へ登校すると、貴族の間でもヴィクトルの婚約の噂が広まっていた。
「やっぱり、ヴァイスハウゼン家の次期当主ともなると、侯爵家の令嬢との婚約が妥当よね」
「お似合いだわ、侯爵令嬢も美しいし」
「正式な発表はまだだけど、ほぼ決まりなんでしょう?」
カトリーナは、ただその噂を聞きながら、ゆっくりと歩き続ける。
——心が妙に冷えていくのを感じた。
「……何なの?」
「結局、私を揶揄ってただけじゃない」
つい最近まで、「お前、俺のこと好きなのか?」と何度も問いかけてきたヴィクトル。
毎日ふざけて絡んできて、「俺のこと考えて眠れなかった?」なんて笑っていたヴィクトル。
——そのヴィクトルが、婚約?
じゃあ、あれは全部、ただのからかいだった?
カトリーナの思考が、一気に冷静になっていく。
「……本当に、バカみたい」
あれだけ翻弄されて、ヴィクトルの言葉に動揺して、考えてしまっていた自分が、滑稽に思えた。
仕事に集中していた間は、何も気にしなかったのに——
戻ってきた途端、こういうことが待っているなんて。
「もうどうでもいいわね」
カトリーナは、小さく息を吐いた。
そして、何事もなかったかのように、いつもの冷静な表情を取り戻し、淡々と歩き続ける。
——もう、振り回されるのはごめんだ。
カトリーナは、久しぶりの学園での授業を終えた後、書類を片手に廊下を歩いていた。
周囲の貴族たちが、まだヴィクトルの婚約の噂を囁いているのが聞こえる。
「ヴィクトル様と侯爵家の令嬢の婚約が正式に決まるらしいわ」
「ヴァイスハウゼン家と侯爵家が手を組むなんて、すごいことよね」
カトリーナの歩みが、ほんの僅かに止まりかける。
だが、何事もなかったかのように、そのまま歩き続けた。
「カトリーナ様、久しぶりですね」
社交界の知人が声をかけてくる。
「ええ、ご無沙汰しています」
いつも通り、冷静に微笑んで答える。
そのまま形式的な会話を交わし、立ち去ろうとした瞬間——
「——お前、帰ってたのか」
——ヴィクトルの声。
カトリーナは、一瞬だけ立ち止まったが、すぐに歩き出す。
「……ええ、仕事が終わったから」
ヴィクトルは、いつもの調子でカトリーナの隣に並んで歩く。
「仕事ばっかりで、俺のことなんて忘れてたんじゃねぇの?」
——ああ、またこの調子か。
カトリーナは、ヴィクトルの方を見ずに、静かに言った。
「ええ、忘れていたわ」
ヴィクトルの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
カトリーナはそれを気にせず、淡々と続けた。
「ずっと仕事に集中していたし、他に考えることも多かったから」
ヴィクトルは、表情を変えずにカトリーナを見つめる。
「ふーん……そうか」
それだけ言うと、彼はすぐに歩き出し、またカトリーナの隣に並ぶ。
「で、お前、俺の婚約の噂聞いたか?」
カトリーナの足は止まらない。
「ええ、聞いたわ」
「どう思った?」
カトリーナは、ようやくヴィクトルの方を向いた。
そして、驚くほど冷静な表情で、静かに微笑む。
「別に。おめでとう、とでも言えばいいかしら?」
ヴィクトルの目が、僅かに細まる。
「……お前、冷めてんな」
カトリーナは、微笑みを崩さない。
「婚約するんでしょう? なら、もうどうでもいいわ」
淡々と言い放ち、再び前を向く。
ヴィクトルは、それ以上何も言わず、ただじっとカトリーナの横顔を見つめた。
ヴィクトルの胸中——カトリーナの態度に違和感
カトリーナの反応が、あまりにも冷静すぎた。
ヴィクトルは、もっと動揺するか、せめてムキになって反論してくると思っていた。
だが、彼女は何の感情も見せず、ただ淡々と「どうでもいい」と切り捨てた。
「……お前、本当にどうでもいいのか?」
ヴィクトルは、試すように問いかける。
カトリーナは、一瞬だけヴィクトルを見つめ——
「ええ、本当にどうでもいいわ」
はっきりと言い切った。
ヴィクトルは、それ以上言葉を続けられなかった。
——これは、いつものカトリーナじゃない。
からかえばムキになって怒るし、無視すればそっぽを向く。
それがカトリーナだった。
それなのに、今日の彼女は、まるで何も感じていないかのように冷静だった。
まるで、ヴィクトルに対する感情すら、すでに吹っ切れてしまったかのように。
「……」
ヴィクトルは、初めて焦りを覚えた。
カトリーナはもう、振り回されるつもりがない。
そう、はっきり態度で示していた。
——結局、ヴィクトルの言葉なんて、最初から本気じゃなかった。
だから、こんなくだらない噂ひとつで冷静になれる。
あれだけ翻弄されて、考え込んでいた自分がバカみたいだ。
「もう振り回されるのはやめる」
カトリーナは、そう決めた。
そして、ヴィクトルに向かって、微笑む。
「じゃあ、婚約者と仲良くね?」
ヴィクトルの表情が、一瞬だけ曇った気がした。
だが、カトリーナはそれを気にせず、そのまま静かに歩き去った。
もう、ヴィクトルに振り回されるつもりはなかった。
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