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お前の正体を知っている5

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 瑠璃の間に華ちゃんを残し、社はすぐそばのトイレへと駆けこんだ。ホールの脇、玄関口へと抜ける通路の脇には狭いながらも男性用のトイレがある。反対側の通路の脇には女性用。それぞれの客室にもトイレはもちろん付いているが、人の死んでいる瑠璃の間の洗面所を使用する気は起きなかった。
 洗面台で無事口をゆすぎ、鏡に目をやる。なんだか今日一日で老けたような気がするのは気のせいではないだろう。
 それに。暗い気持ちで自身の首もとに目をやる。そこに広がる赤い腫れのようなものは、首をぐるりと巻くかのように、まるで首を吊った痕のように広がっているではないか。
 絶望的なため息が社の口から漏れた。どうしよう、こんな状況のなか、僕は幽霊に納得の行く結果を出せるのだろうか。けれどできるできないの問題ではない。できなければ訪れるのは死だ。
 薄暗いトイレ、という場所も相まって、ひどく先行きが絶望的に思えた。これ以上鏡に目をやるのも、ただ不安を煽るだけだ。
 ついと目線をそらし足もとにやると、隅に置かれたゴミ箱がいっぱいになっているのに社は気が付いた。日中、パーティー会場としてホールが使われていた時にこのトイレは招待客らが使っていた。その時に手を拭いたりしたチリ紙だろうと思ったが、どうにも黒っぽい。不思議に思って顔を近づければ、それは新聞紙のようだった。
「誰かが捨ててったのかな」
 何となく気になってそれを拾う。視線が床に落ちたところで、他にも新聞紙が落ちているのに気が付いた。こちらは細かくちぎられているようだった。
「なんだろ……」
 気にはなったが、華ちゃんを遺体と一緒に放置しておくわけにはいくまい。いくら刑事ったって、死体は怖いに違いない。再び瑠璃の間に戻ると、華ちゃんが馬虎さんの荷物を漁っていた。ベッドの上に荷物が撒き散らかされていて、これじゃあまるで華ちゃんが強盗殺人をしたみたいに見える。
 心配して損した。
「ちょっとこれ、社くん」
 よくもまあ、この薄暗くて、しかも遺体が転がっているような場所で平気でいられるものだ。社は感心する。幽霊と同じくらい死んだ人間は怖い。いや、案外生きている人間の方が怖いのかもだけど。
「これ、馬虎さんじゃない?」
 簡易スマホライトで照らしながら出されたそれは、手帳に挟まれた写真だった。少し色が薄れていて、ずいぶん昔に撮られたようだった。現に、そこに写る馬虎さんも若い。
「うん、若いからわかりづらいけど……この目と鼻の感じ、そうだと思う」
 写真の中の馬虎さんは、女の人と一緒に写っていた。女の人の腕には、淡いブルーの布にくるまれた赤ちゃん。この城で撮ったのだろうか、二人の背に、砂漠とライオンの絵が掛けられているのが見えた。あれは、ホールの近くにかけられていた絵だ。
「もしかして、馬虎さんの奥さんとお子さん?」
「どうなんだろ。馬虎さん結婚してたのかな」
 華ちゃんがライトを馬虎さんに当てた。一瞬社は目を背けるものの、目を細めて照らされた指先に目をやる。左手の薬指には、リングは付いていなかった。
「指輪だけじゃわからないな……結婚してても指輪をしない人はたくさんいるし」
「ねえ社くん、この女の人、誰かに似てない?」
 再びライトを写真に戻し、凝視する華ちゃんが問いかける。
「つい最近会った人な気がするんだけど……」
「ああ、だとしたら茉緒さんじゃない?これ、この城で撮られたんだろ?」
「そうみたいだけど、この絵。ホールの扉の脇に飾ってあったやつでしょう?」
 初めて萌音が現れた場所だ。
「茉緒さんかぁ、うーん、そう言われるとそんな気もするけど、なんか違う気もするんだよね」
 写真に写っているのは、控えめに微笑む女性。穏やかそうだが、なんだか見ていて不安を覚えるような儚さがそこにはあった。目鼻立ちは茉緒さんっぽい。社は不安げに佇んでいた彼女の表情を思い出す。
 少し丸っぽい鼻に、黒目がちの大きな瞳。少し細い眉。この顔をもう少し全体的に丸くして、少し皺を足せば今の茉緒さんそっくりだ。
「あ、華ちゃん、ちょっと手、ずらしてもらえる?」
 じっくり見ているうちに社は気が付いた。この写真の右下に何か数字が見える。
「日付?」昔の使い捨てカメラで撮られたものなのかもしれない。そこにはオレンジ色っぽい数字が六ケタ並んでいる。
「ええと……何年前だ、これ」
「三十年くらい前じゃない?」
 ぱぱっと逆算して華ちゃんが答える。「私たちが生まれる四年前だから、三十年前でしょ」
「ということは、この写真に写ってる赤ちゃんは修?」
「この女の人が茉緒さんならそうなると思うけど」
 ならばこれは、子どもの顔見せに茉緒がこの城に来た際に、その城の使用人と一緒に撮った写真ということなのだろうか。
「でも、それをなんで馬虎さんがこんな大事に持ってるの?」
 それもおかしな話だ。
「まさか、実は馬虎さんが修の父親だったりして」
「そんな、まさか」
 おそらく華ちゃんは当てずっぽうに言ったのかもしれない。けれど、それが一番しっくりするような気がした。
「じゃあ、茉緒さんは……誠一さんじゃなくて、馬虎さんと?」
「でもそれくらいの関係じゃないと、普通持ち歩かないよね、自分が仕える家の娘とその子供の写真なんて」
「もしそう仮定すると、じゃあ馬虎さんを殺したのは……」
「馬虎さんに恨みを持つ人間……」
「馬虎さんに、奥さんを寝取られた人物……」
 茉緒の夫の誠一だとでも?
「とても、こんなことが出来るような人には見えなかったけど」
 その言葉に社はうなずく。誠一さんは終始落ち着かない感じでそわそわしていて、いかにも小心者といった様子だった。こんな大それたことするだろうか。
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