1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.10.10 東京タワー 223メートル 1

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「おい、先に行け」
「ちょっと、こんな高いところ……」
「死にたくなければ行け」
 真理亜は思わず足もとを見てしまった。モノレールから落ちた時となんて比にならないくらい高い場所。空は青く澄みわたっていて、そこから見えるのは小さな建物や車の数々。
 まるで空を飛んでいるみたい。いいえ、一歩間違えば、空を飛ぶどころかまっさかさまだわ。
 足がすくむ。手が震えた。けれどそんなことなど構いもせずに、男が背中を押してくる。
 否応なしに真理亜は、東京タワーの地上223メートルの、窓ガラスの割れたその淵に、まるで綱渡りをするかのように足を踏み出した。
「真理亜さん!」
 かすれた声で菅野が呼んでいる。だが、それに応える余裕もなかった。口はカラカラに渇いて悲鳴すら出ない。
「そこの梯子を昇るんだ」
「これ以上高いところへ行けっているの?」
 足元だけを見て真理亜は返す。いや、乾いた息が口から洩れただけかもしれない。声にしたくても出来なかった。こんな高いところでさらに梯子を昇れだなんて、私はサーカスの曲芸師じゃないのよ!
 だが、断れば命がないだろうことぐらい、真理亜にも予測が出来た。この爆弾魔は本気だ。この男と菅野さんは知り合いのようだけれど、こいつは菅野さんの話になんて耳を貸そうともしない。それどころか、菅野さんのことを敵とすら思っているようだ。
 さらには、世界同時放送を滅茶苦茶にしようと目論んでいる。この男は私を人質にして、菅野んに手を出させないようとしているんだわ。放送出来ないよう、東京タワーを壊すために。
 ゆっくりと、湿る手のひらで梯子を掴んで上に上がった。すると欄干のある、少し開けた場所に出た。タワーを支える鉄骨が複雑に入り組んでおり、その間には電波の受信に使うのだろうか、ところどころにパラボラアンテナがキノコのように生えている。これならすぐに落ちはしないだろう、必死に手すりを掴むと、真理亜はようやく息を吹き返した心地がした。
 一方真理亜を無理やり連れてきた男は、ここからは逃げようもないと踏んだのか、真理亜を拘束することもせずに、重そうに背負っていたリュックサックをどさりと肩からおろすと、今度はズボンのポケットから何やら取り出し、それを中空へと放り投げた。
 ボンっ、と音がして、次いでガシャン、と重い何かが落ちる音が聞こえた。驚いて思わず目を瞑ってしまった真理亜が恐る恐る瞳を開けば、そこには無残に落ちたアンテナがあった。
「どうして、どうしてこんなことをするの?」
 自然と口をついて出ててきた。みんなが楽しみにしていたオリンピック。それを台無しにしてやろうだなんて。会場が火の海に沈まなかったのは本当に良かったけれど、この電波の先には、オリンピックを楽しみにしている何万、いえ、もっとだわ、日本人だけじゃなくて、世界の人たちがいるっていうのに。
「どうして?それはさっき菅野に教えてやったとおりだ。お祭り気分の、すっかり平和ボケしちまった日本人に警鐘を鳴らしてやらなきゃいけないんでね」
「それで、オリンピックを台無しにしてやるって、お金を奪ったっていうの?」
「そうだ。五輪だか何だか知らないが、このくだらない騒ぎの為に白百合の家は潰されちまったんだ。哀れなみなしごを守る孤児院をだ。こういった、弱いものをどんどん排除して行われたのがオリンピックだ。この国のいいところだけ外国に見せようって躍起になってな」
「孤児院……もしかして、菅野さんが住んでいた……」
「そうさ。本来アイツは俺の味方をしなけりゃならないってのに、いつの間にかアメリカかぶれしやがって。お前がアイツをたぶらかしたんだろう?ええ、ガイジンさんよ」
 あざ笑う男の声に、真理亜は声を荒げた。
「外人ですって?私は立派な日本人よ!」
「お前のどこが日本人だ。その青い目!ああ、見るだけでむかっ腹が立つ。菅野のやつ、あいつらにやられたことをすっかり忘れちまいやがって。ああ、そうだったな、こいつの母親は平気でその身を敵に売るような女だった。お前みたいな変な色の子供を産んで、すぐに死んじまいやがった!」
「矢野、やめろ!」
 まるで獣の咆哮のようだった。はじめ真理亜は、その声を菅野が発したことに気付きすらもしなかった。
「生きるために仕方がなかったんだ、母と妹のことを悪く言うのはやめろ」
「生きるため?そうか、じゃあ今度はそこのガイコクジンにお前は泣いてすがりつくのか?白百合の家の為に、お金を下さいって」
「それは」
 途端、菅野が顔を歪めた。
「なんだ、出来なかったんじゃないか」
 その表情を見て取って、矢野が勝ち誇ったように続けた。
「ふん、お前たちガイジンがあんな忌まわしい兵器さえ落とさなければ、この国はまだ勝てる可能性があったんだ。そうすれば、こんな金の苦心に走らなくて済んだんだ」
 大きく舌を打ち、男が真理亜を睨んでくる。その視線に負けないよう気丈にも睨み返しながら真理亜は問うた。
「兵器って、核爆弾のこと?」
「知らないなんて言わせないぜ、お前の国がこの国にもたらした地獄だ。あの時に、日本はもう死んだんだ。新しい日本?笑わせるな。そんなものは所詮、たくさんの屍の上におっ立てた幻だ」
「そんな、私が知るわけないじゃない、戦争なんて、私が生まれる前のことだもの」
 それに、アメリカのことだってろくに知らない。生まれてずっと日本で過ごしてきたのに。自分はこの国の人間だと信じて疑わずに生きてきたというのに。ただ目が青いから、母がアメリカ人だったというだけで、なぜこの人はこんなにも、私に敵意を向けるのだろう。私自身のことはこれっぽっちも知りやしないというのに――。
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