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蜂蜜と樹海
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「黄色い熊にでも襲われたんじゃないのか、こいつ」
頭の中にWinnie the Poohの、あの音楽が流れてきた。とぼけたキャラクターが素手で蜂蜜をすくったところで、私はあわててそれを振り払う。
「熊ってのはみんな、蜂蜜が好きなもんなのかね?なあ、スパロウホーク」
書類の束を顔から遠ざけ、目を細めた笹塚課長が聞いた。私はその質問に答えずに、パソコンへと発見時の状況を打ち込んでいく。USBに入れられた、写真データも添付する。
所持品は、ロープにガムテープ、何も入っていない紺色のリュックサック、白のスニーカーにポロシャツ、白の帽子、こげ茶のスラックス。
それと、瓶詰の蜂蜜。
「しかしまあ、これから自殺しようって時に、蜂蜜なんて持ってくるもんかね」
変わったやつだな。白髪交じりの頭を無造作に掻きながら、課長が呟いた。
「課長、これは本当に自殺なんでしょうか」
「馬鹿言え」すぐさま、課長は私の発言を否定する。
「青木ヶ原で見つかってんだぞ。自殺に決まってるじゃないか」
すでに興味を失ったのか、課長は書類をデスクに放置して立ち上った。部屋の隅に置かれたポットから茶をコップに注ぎ、茶菓子の入った缶からせんべいを取り出す。
「ですが、遺体の両手両足はガムテープで縛られていたと、資料には書かれています」
「そんなの自殺者の常とう手段だろ。手足が自由だと、苦しくなって助かろうとしちまうからな」
一度自殺を図った事があるかのように、課長は手足を大きく振って見えない縄を振りほどくしぐさをした。下手くそなダンスのような。
「でも、誰かがロープで絞殺してから、自殺に見せかけたとか」
「自殺に見せかけるためだけに、わざわざ危険を冒して樹海に死体を運ぶか?下手したらミイラ取りがミイラだぞ。迷って抜け出せなくなったら犯人も死んじまう」
やれやれと課長が答える。私はそれに構わず、パソコンの画面を指差す。
「それに、この蜂蜜」
画面上に広がるのは、蜂蜜が入った瓶の写真。どこのメーカーの物かはわからない。貼られたラベルは雨風にさらされ、判別は難しい。
「明らかに不自然です。自殺する人間が、蜂蜜なんて持ってきますか?」
「好物だったんじゃないのか」
あの熊みたいにな、と適当に受け答え、課長はせんべいを一かけ口に放り込む。
「好物なら、こんな半端に残しますかね。それに鑑識の見解では、この蜂蜜が頭部に付着していたため、獣にかじられて破損した可能性があると」
身元の判別がつかないよう、犯人がわざと頭に塗ったのではないか。遺体に群がり、死体を貪る熊や鹿を想像して、私は顔をしかめた。
「わからんぞ、美容のために顔に塗ったのかもしれん。生まれ変わったらクレオパトラになれると信じて」
「これから死のうって人間が、そんなことしますか?しかもこの遺体は男性だ」
「顔が潰れてるからわからんが、オカマだったりしてな」
「オカマなら、もっと女性らしい格好をしてませんか?」
「知るか、例えばの話だよ、例えばの」
発見されたのが十月中旬。亡くなったのは恐らく八月頃だろうと資料には書かれていた。
特に暑かった今年の夏。すでに肉体は大地に還り、残されたのは骨のみ。それも獣によって荒らされたようで、枝にぶら下がるロープの下、それは落ちていたという。
身元がわかるものも持ち合わせていない。骨格と、服装から男性だと判断。土と体液で汚れた、ポロシャツとスラックス。格好から恐らく三十から四十代くらいだろう、とひどくアバウトな推定がなされただけだった。
だからこうして、私のところへと資料が下りてきたわけではあるのだが。
「いいか、スパロウホーク。興味本位の余計な詮索はよせ。事件性はないと、我らが山梨署は判断したんだ。それに従うべきだろう」
セリフはもっともらしいが、途中に混じる湿った音が気になって仕方がない。課長が、口の中でせんべいを湿らせているのだ。
「とにかくこの件はこれで終わりだ。さっさとホームページを完成させろ。心当たりのある遺族から連絡があるといいがな」
茶をズルズルとすすり、課長は背を向ける。私は思わず眉を寄せた。やはり、面倒事はごめんらしい。
「他殺遺体を、身元不明死亡者一覧には載せられませんよ」
私の言葉に一度振り向いたものの、課長は再び背を向けると肩をすくめた。
「自殺を他殺だと騒いで、刑事ごっこみたいな真似するのはやめてくれよ。俺たちは警官じゃないんだ。警察署で働いてるからって、勘違いするなよ」
頭の中にWinnie the Poohの、あの音楽が流れてきた。とぼけたキャラクターが素手で蜂蜜をすくったところで、私はあわててそれを振り払う。
「熊ってのはみんな、蜂蜜が好きなもんなのかね?なあ、スパロウホーク」
書類の束を顔から遠ざけ、目を細めた笹塚課長が聞いた。私はその質問に答えずに、パソコンへと発見時の状況を打ち込んでいく。USBに入れられた、写真データも添付する。
所持品は、ロープにガムテープ、何も入っていない紺色のリュックサック、白のスニーカーにポロシャツ、白の帽子、こげ茶のスラックス。
それと、瓶詰の蜂蜜。
「しかしまあ、これから自殺しようって時に、蜂蜜なんて持ってくるもんかね」
変わったやつだな。白髪交じりの頭を無造作に掻きながら、課長が呟いた。
「課長、これは本当に自殺なんでしょうか」
「馬鹿言え」すぐさま、課長は私の発言を否定する。
「青木ヶ原で見つかってんだぞ。自殺に決まってるじゃないか」
すでに興味を失ったのか、課長は書類をデスクに放置して立ち上った。部屋の隅に置かれたポットから茶をコップに注ぎ、茶菓子の入った缶からせんべいを取り出す。
「ですが、遺体の両手両足はガムテープで縛られていたと、資料には書かれています」
「そんなの自殺者の常とう手段だろ。手足が自由だと、苦しくなって助かろうとしちまうからな」
一度自殺を図った事があるかのように、課長は手足を大きく振って見えない縄を振りほどくしぐさをした。下手くそなダンスのような。
「でも、誰かがロープで絞殺してから、自殺に見せかけたとか」
「自殺に見せかけるためだけに、わざわざ危険を冒して樹海に死体を運ぶか?下手したらミイラ取りがミイラだぞ。迷って抜け出せなくなったら犯人も死んじまう」
やれやれと課長が答える。私はそれに構わず、パソコンの画面を指差す。
「それに、この蜂蜜」
画面上に広がるのは、蜂蜜が入った瓶の写真。どこのメーカーの物かはわからない。貼られたラベルは雨風にさらされ、判別は難しい。
「明らかに不自然です。自殺する人間が、蜂蜜なんて持ってきますか?」
「好物だったんじゃないのか」
あの熊みたいにな、と適当に受け答え、課長はせんべいを一かけ口に放り込む。
「好物なら、こんな半端に残しますかね。それに鑑識の見解では、この蜂蜜が頭部に付着していたため、獣にかじられて破損した可能性があると」
身元の判別がつかないよう、犯人がわざと頭に塗ったのではないか。遺体に群がり、死体を貪る熊や鹿を想像して、私は顔をしかめた。
「わからんぞ、美容のために顔に塗ったのかもしれん。生まれ変わったらクレオパトラになれると信じて」
「これから死のうって人間が、そんなことしますか?しかもこの遺体は男性だ」
「顔が潰れてるからわからんが、オカマだったりしてな」
「オカマなら、もっと女性らしい格好をしてませんか?」
「知るか、例えばの話だよ、例えばの」
発見されたのが十月中旬。亡くなったのは恐らく八月頃だろうと資料には書かれていた。
特に暑かった今年の夏。すでに肉体は大地に還り、残されたのは骨のみ。それも獣によって荒らされたようで、枝にぶら下がるロープの下、それは落ちていたという。
身元がわかるものも持ち合わせていない。骨格と、服装から男性だと判断。土と体液で汚れた、ポロシャツとスラックス。格好から恐らく三十から四十代くらいだろう、とひどくアバウトな推定がなされただけだった。
だからこうして、私のところへと資料が下りてきたわけではあるのだが。
「いいか、スパロウホーク。興味本位の余計な詮索はよせ。事件性はないと、我らが山梨署は判断したんだ。それに従うべきだろう」
セリフはもっともらしいが、途中に混じる湿った音が気になって仕方がない。課長が、口の中でせんべいを湿らせているのだ。
「とにかくこの件はこれで終わりだ。さっさとホームページを完成させろ。心当たりのある遺族から連絡があるといいがな」
茶をズルズルとすすり、課長は背を向ける。私は思わず眉を寄せた。やはり、面倒事はごめんらしい。
「他殺遺体を、身元不明死亡者一覧には載せられませんよ」
私の言葉に一度振り向いたものの、課長は再び背を向けると肩をすくめた。
「自殺を他殺だと騒いで、刑事ごっこみたいな真似するのはやめてくれよ。俺たちは警官じゃないんだ。警察署で働いてるからって、勘違いするなよ」
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