90 / 90
終
しおりを挟むなかなか帰って来ない夫を待っていると、彼は酔っ払って帰ってきた。酒のニオイに眉をひそめつつ、水を飲ませる。あっという間に飲み干すと、彼は座れと言った。
小屋とも屋敷とも言えない木組みの家は、一階が食堂件居間で、二階が個室となっている。夫婦であるからベッドは一つだが、偶に喧嘩した時などは別の部屋で眠ることもある。
彼が指定したのは一階のテーブルの椅子だ。いつもの定位置に座ると、彼も定位置の向かいに座った。
「それで?何か話でもあるの?」
「結婚する前、君はラジュリーを見たいと言うから連れて行った」
また懐かしい話を。酔っ払いに付き合ってやろうと、アニーは適当に相づちを打った。
「気球を珍しがって乗りたいというから乗ったら、君は、はしゃぎ過ぎて落ちそうになった」
「火の勢いが強くて驚いただけです」
「違う。真下にある教会を見ようと身を乗り出したから落ちそうになったんだ。俺が掴まえなければ落ちていた」
「悪かったです。反省してます」
「式の時もそうだ」
グレンは机を指でトンと叩く。
「小舟で教会に向かっていたのに、衣装の裾を踏んで川に落ちた」
「頭の飾りが取れてしまったんです。助けていただいて感謝しております」
「邪魔だから頭のベールを取れと言ったのに取らないで、後ろにいた舟の船頭に助けてもらわなかったら二人とも死んでいた」
「だってお気に入りだったんですもの。それに死ぬだなんて大げさな。流れはゆっくりでしたよ」
また指でトントン叩く。こういう時のグレンに逆らわない方がいいのをアニーは知っている。
「すみません。私が悪かったです」
「新婚旅行で、」
「分かってます。たまたま訪れた街の祝祭で私が街の人と一緒に踊ったのを怒ってるんでしょう?」
「いや、とても綺麗だった。踊っている君は美しい」
アニーは嬉しくもなんとも無かった。夫は毎日そんなことを言うから慣れてしまった。
「では何ですか?」
「買ったばかりのミートパイを落とした」
「…あれは、思いのほか熱くてびっくりして」
「二回目も落とした」
「そうですね。私が悪かったです」
悪い話ばかりをして、うんざりしてくる。酔っ払いの相手は面倒だ。
「あなた、もうお休みになっては?」
「本当は、ここに住むのは嫌だった」
「え?そうなの?」
「ここは君が死んでしまった場所だから」
これが、グレンの言いたかったことなのだと気づく。確かに酔っ払っていなければ言えない話題だ。
結婚して、トラドで前と同じ場所で同じ家を建てて、ここで暮らして、もう十年になる。十年経って、やっとグレンはお酒の力を借りて言えたのだ。
「なら反対なされば良かったのに」
「君にとっては良い思い出なのだろうと思ったから、反対しなかった。俺とのかつての生活に満足していたからここにしようと言ったのだろう?逆らえなかった」
「満足したからこそ、終わってもいいと思えたの」
「俺が悲しむと知っていてか」
「あの時の苦しみは、私だけのもの。グレンには分からないわ」
突き放す言葉に、グレンが傷ついているのがよく分かった。あの時の事を振り返ると、アニーは様々な出来事を思い出して今でも胸が締め付けられる。だからアニーはもう結婚式ですら白い靴を履いて来なかった。
「死んでも終われなかった。まさか死んでも追いかけてきてくれるとは思わなかった。まさか、貴方が会いに来てくれるなんて。だから、前と同じこの家で、やり直したかった」
「もう一人で死なないで欲しい」
アニーは笑った。
「何言ってるの?子供も三人いて、私がまだあの時のアニーだと思っているの?」
子供たちは、二階で仲良く眠っている。どの子もよく寝る子だから助かっている。
「言っておかないと怖いんだ」
「お酒の飲みすぎですよ。泣き上戸なんだから」
「アニー」
懇願されて、アニーはやれやれと立ち上がって、グレンの頭を包むようにギュッと抱きしめた。
「はいはい。もう寝ましょうね。私が迷惑かけた分、貴方を甘やかすわ」
額を擦り付けて、グレンからも抱きしめられる。よしよしと頭を撫でる。
「私といて楽しかったでしょう?」
「案外君は活動的だった。大人しい人だと思っていたのに」
「何度も聞きましたよそれ。私がうるさいのがそんなに嫌?」
「ますます好きになった。…アニー」
「何ですか?」
「踊ろう」
「今?子供たちが起きてしまいます」
「踊りたい」
顔を上げて、こちらを見てくる。子供のように笑う顔に、アニーは折れた。
手を取り合って、くるくる回る。狭い部屋だから椅子やら棚にぶつかって、鍋がガシャンと音を立てて落ちる。何事かと子どもたちも降りてくる。家族全員で大きな輪を作って、また回ってはしゃぎ続ける。そんな毎日が、ずっと続いていた。
〈終〉
応援ありがとうございます!
1
お気に入りに追加
2,155
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(109件)
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
途中まで追いかけて拝読していましたが、ある時 読むのが苦しくなり、いったん離脱しまして 今回ようやく完結まで読み終える事が出来ました。
ヒロインの人生が過酷で、なんでこんなに辛い目にあわなくてはいけないのかと切なく、ようやく幸せになれるかと思ったら、ああいう道をヒロインが選んでしまって。。
うるうるしながら 読み通したら、終わりは爽やかで 明るく コミカルでした。幸せになって良かったです。
ドラマチックな物語を有難うございました。
グレンの慟哭に心が震えました。
グレンが1番好きなんですけどね
なんでだかレイナルドも放っておけなくて、もう別枠って感じ!
記憶のないアンとの生活が本当に幸せそうで微笑ましかったからなのかなぁ?
この2人のラブシーンが1番好きだった
傲慢なレイナルドが読み聞かせ寝かしつけるシーンなんてめちゃくちゃ好きでもうどうしようもないどうしたらいい
婚約時代からお互い歩み寄っていればァァァ!
3人目は論外!!
グレンと引き離してレイナルドを失意のどん底に落として殺…なんてやつ( ˙ᒡ̱˙ ®)
あと、アンの性格が段々変わっていくところもすごいなと思いました。
最初どんな嫌がらせしてもスンとしてる人だったのに、死ぬ度に元のアンではない様子になっていっているのがなんとも。
美しいお話をありがとうございます
最初から結ばれるのはグレンだと確信してたし、異論もないんですが
ヒーロー三人の仲でもとんでもない最低人間であろうレイナルドに報われて欲しかった
やり直してきっとまともな道を歩むだろうから、十分報われているんですけどね
ダメ人間のダメっぷりに共感できてしまう自分に気づかされた作品でした