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序
しおりを挟む姉が死んだ。嫁いだその日に亡くなったという。マリアは父に呼ばれ、そこへ嫁ぐことになった。姉が死んで三日目に、身一つで出立した。母だけが哀れんで、見送ってくれた。
姉とは、齢が近く背もそう変わらなかった。屋敷に到着して姉の嫁入り道具を代わりに受け取り、姉の服を着て、伯爵と対面した。
夫となるオリファント伯爵は、姉のことは何一つ語ることなく、初対面でこう言った。
「懸想している男はいるか」
マリアは思いがけない言葉に全く反応できなかった。何を言われているのか、何を意図する問いなのか知れず、ただ黙った。
ここは伯爵の私室。人目をはばかって通されたので、部屋には他に一人、従者と思われる人物が彼の後ろに控えているだけ。先の突拍子のない質問にも顔色一つ変えず、仮面のように表情が見えなかった。
感情が見えないのは伯爵も同じ。金糸のような艶やかな髪に陶器のように白い肌。深い海を思わせる瞳は、じっとマリアを見据えている。整った顔が、一分の隙の無さに拍車をかけた。
圧をかけられているようで、マリアは蛇に睨まれた蛙のように体も口も動かせなかった。実際なんと答えればいいのかも分からなかった。
いくら待っても返事が無いのに焦れて、伯爵は一枚の羊皮紙を見せた。
それは婚姻証明書だった。姉の記名部分が削り取られていた。
「カリナ・アンベルスの名は削り取った」
伯爵はマリアが思ったことと同じセリフを吐く。
「ここに名を書け」
羊皮紙はインクがにじみにくいことから書類の修正がしやすかった。削られた跡が残るから偽造だと疑われないために、本来ならば一から作成した証明書で記入すべきだが、頓着しないのか、他に理由があるのか、判断は不可能だった。姉が死んで直ぐに次を要求するような人物だ。それほど、父との繋がりが欲しいのだろう。
マリアは直ぐに羊皮紙に記名した。伯爵がそれをじっと見つめてくるものだから、手が震えた。服の下ではじっとりと汗をかいていた。
証明書を差し出す。わざわざ後ろの従者が受け取って伯爵に恭しく渡していた。伯爵はそれを一瞥して、従者に返した。従者は丁寧に丸め、金箔の小箱に納めた。
「婚姻は既に成立している」
低い声が部屋によく響く。伯爵は続ける。
「三日前に教会での祝福を受けている。マリア・アンベルスは三日前からオリファント侯爵夫人となっている。姉はここには来なかった。いいな」
有無を言わせぬような威圧感だった。ずっと緊張が続いていたマリアだが、姉へのあんまりな仕打ちに思わず口を開いた。
「姉さまの亡骸に会わせてください」
「埋葬は終えている」
「なぜ、姉さまは亡くなったのですか」
「事故だった」
「仔細を」
「仔細?」
青の瞳が射貫くようにマリアに向けられる。マリアは喉元が引きつるような感覚がした。息が苦しくなり、胸を押さえた。
「仔細など無い。『ここに来なかった』と私は言った。それがすべてだ」
これで話は終わりとばかりに、伯爵は従者に視線を向けた。心得た従者が、手だけで扉へと促す。下がれという合図だと受け取って、マリアは震える足を何とか動かした。しん、と静まり帰った室内で、自分の足音だけがよく聞こえた。心臓は早鐘を打っていた。胸を押さえていた手には汗がにじんでいた。
部屋の外で待機していた侍女に案内され、自室へ入る。姉も入ったであろう部屋。一面、白の壁色に窓枠のみを漆喰で浮き上がらせたような文様が連なっていた。金の布地のカーテンの奥には、壁に埋め込まれるように寝台があり更に出窓まで取り付けられていた。枕やシーツ、長椅子などの調度品は全て金色に金糸で草花の刺繍が施された柄で統一されていた。
侍女の配慮で、ガラスの水差しがテーブルに置かれる。杯に注ごうとするのを止めさせて、部屋を下がらせる。一人になりたいと言うと、素直に従ってくれた。
杯は銀杯だった。マリアは少し注いで、色が変わらないのを確認して口に含んだ。爽やかでまろやかな口あたりだった。おそらく柑橘類を絞ってくれたのだろう。冷たさが喉元を通ると、体中にしみわたって幾分が気持ちが和らいだ。だが伯爵にあの威圧するような瞳を思い出すと身がすくんだ。マリアは自分を抱きしめるように腕を掴んだ。
姉がなぜ死んだのか、父も教えてくれなかった。母は知らないと言った。伯爵は事故だったと。事故というだけでこれほど姉の死が隠され、埋葬が急がれるわけがない。事故ならば、こんなに次の婚姻を急ぐわけがない。
水差しに視線を落とす。どうしようもない悲しみが胸に内に広がる。自分もこの先どうなるか分からない。マリアにはまだ妹がいる。可愛らしい妹を次にさせるわけにはいかない。
でも姉がどうして死ななければならなかったのか。それも知らなければ、姉への弔いも満足にできない。
マリアは一人、波紋の広がる水差しを見続けた。
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