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01. 婚約破棄された公爵令嬢
しおりを挟むバラが咲き誇る美しい庭で、ジェットブラックの髪がさらさらと風に揺れている。
大好きな人を見つけた私は、駆け出したい気持ちをなんとか抑えて、できる限り足を速めた。
そして、大きな声で呼びかける。
「セルヴィオ!」
彼はぱっと振り返ると、サファイアブルーの目を嬉しそうに細めた。
胸がきゅっと締めつけられるように疼き、ソワソワした心地を誤魔化すように、とっておきの秘密を話す。
じゃれあって笑い、美味しそうなチェリーのケーキを食べ――――そして、暗闇に放り出された。
◇ ◇ ◇
「…………お嬢様、エレアノールお嬢様。お目覚めの時間ですよ」
「っは……何!?」
侍女のアンナに揺すられて飛び起きる。
幸せな夢を見ていたのに、急に目の前が真っ暗になって……
もしアンナが起こしてくれなかったら、永遠にそのまま目覚められなかった気がしてぶるりと震えた。
私がセルヴィオの夢を見るようになったのは、半年ぐらい前からだったと思う。
ちなみに彼は、我がイシルディア王国の第一王子であり王太子……という設定の架空の人物だ。
夢の中の私は、セルヴィオのことがとにかく大好きらしい。
……たしかに彼は、すごく格好いい。
艶やかな髪は敬愛する国王陛下と同じ漆黒だし、目は本物のサファイアのようにキラキラ輝いている。優しくて文武両道の、まさに完璧な王子様。
ちなみに年齢は、二歳年上の二十歳だ。
夢の中の私はセルヴィオにべったりで、セルヴィオもそんな「エレアノール」を溺愛し、過保護に守っていた。
おかげで夢の中の私は、ふわふわした砂糖菓子のような、無垢で世間知らずな女の子だ。
もちろん、現実の私はそんなじゃない。
夢の中の私と違って、守ってくれる王子様はいないんだもの。
……その代わり、私を憎々しげに睨んでくる王子様ならいるけれど。
夢と現実の落差を思って地味に落ち込んでいると、アンナが微笑みながらお湯の入った洗面器を差し出した。
「今日の夢もまた『大好きなセルヴィオ』でしたか?」
「ええ、もちろん。よほど彼が好きなのね、夢の中の私は」
「まあ、お嬢様。本当に夢の中だけですか? 毎日、十時間も寝るのに?」
「それはっ……そういうんじゃないわ」
たしかに、セルヴィオの夢を見ると幸せな気持ちになれるし、正直に言うと夢の中の恋心を現実でも引きずっている。
けれど、毎日十時間寝ているのはそれが理由じゃない。
早く夢の続きが知りたかったから。そうしなければならない気がして、どちらかというと追い立てられるような心地だった。
たくさん寝た甲斐もあって、夢でも現実の年齢に追いつき、追い越したところだったのだけれど……やっぱり今日の夢は、なんだか引っかかるのよね。
うんうん考え込んでいると、アンナがテキパキとドレスを準備しながら無情にも現実を突きつけてくる。
「さあさ、今日はマルセル王太子殿下とのお茶会の日ですよ」
「うぅ……その台詞、聞きたくなかったわ」
せめてもの抵抗に、せっかく起こした体を再びベッドへと沈め、枕を抱えたまま陽の光に背を向ける。
我がイシルディア王国唯一の王子、マルセル・イシルディア王太子殿下。
母親譲りの燃えるような赤髪に、父親譲りのダークグリーンの目を持つ、私の婚約者。
以前はずいぶんと慕ってくれているようだったのに、今は蛇蝎の如く嫌われている。
もう、このままベッドに入って、夢の続きを見てはダメかしら。……ダメよね。
抵抗虚しくアンナにベッドから引っ張り出され、ため息をつきつつ身支度を進める。すると、私の髪を梳かしていたアンナが、一本のリボンを手に取った。
「マルセル王太子殿下からお誕生日にいただいた、エメラルドグリーンのリボンをお使いになりますか? お嬢様の目と同じ色ですし、美しいプラチナブロンドにもよく映えますわ」
「侍従に選ばせたやつでしょう? 着けていっても、自分のプレゼントだなんて気づかないわよ」
「では『大好きなセルヴィオ』からお誕生日にいただいた、サファイアの髪飾りにいたしましょう」
アンナのいたずらっぽい笑顔を鏡越しに見て、カーッと顔が赤くなる。
夢の中でセルヴィオからもらったものを再現して作らせてしまうあたり、私もなかなか重症だという自覚はある。
「……じゃあ、それでお願い」
「ふふ。はい、かしこまりました」
アンナは鏡越しににこりと笑うと、緩く波打つ髪を器用にまとめ、するする編み込んでいった。
「はぁ……それにしてもマルセルったら、あれだけ『エレアノール姉様と結婚する!』と言い張っていたくせに、すっかり忘れてしまったのかしら?」
「そうですねぇ。半年前にお会いしたときは、まだ『エレアノール姉様大好き!』なようにお見受けしましたが……」
「そうなのよね……」
マルセルのことは弟のように思っていたし、支え合っていけると信じていた。
もし他に愛する人ができたら、側妃として娶ってもらっても構わない。そう考えていたのだけれど――
「……マルセル殿下にご挨拶申し上げます」
「ネリー、スコーンも食べてみたらどうだ?」
「わぁ、美味しそ~!」
マルセルは、ついに私の目の前であっても堂々と恋人を侍らせるようになった。
ため息を噛み殺しつつ、ちらりとマルセルの隣にいる令嬢を見やる。
ネリー・シャンベル男爵令嬢。
こげ茶色の髪に灰色の瞳という色合いはやや地味だけれど、ぱっちりした垂れ目が特徴の幼い顔立ちは、いかにも男性の庇護欲をくすぐりそうだ。
年齢はたしか、私と同じ十八歳。
ちなみに、教養や礼儀という文字は、彼女の辞書にはない。
何より問題なのは、彼女が男爵と娼婦の間に生まれた庶子で、王命でもない限り側妃にはなれないこと。マルセルもそれは理解しているはずだけれど……
ちらりとシャンベル男爵令嬢が胸元に着けている、ピジョンブラッドルビーのブローチを盗み見る。あれ、いつも着けているけれど、やっぱりどう考えても国宝級の代物よね。
とにかく、いまは婚約者として言わねばならないことがある。一応、私にも立場というものがあるので。
「マルセル殿下、これは私たちが婚約者として親睦を深めるためのお茶会ですわ。シャンベル男爵令嬢を連れてこられては困ります」
「ふん、婚約者同士の茶会に割り込んできているのはお前ではないか」
「……何を仰っているのですか?」
どんなに嫌でも婚約者は私なのに……
恋愛感情はなくとも、大切な家族のように思っていた相手から邪険にされるのは、やっぱり傷つく。
けれど、マルセルは私のそんな気持ちに気づく様子もなく、勝ち誇った顔でニヤリと笑うと、紫のリボンが巻かれた書類を投げてよこした。
紫のリボンは王命の印……嫌な予感がする。
おそるおそる書類を開くと、案の定そこにはとても信じられないことが――私とマルセルの婚約破棄、そしてマルセルとシャンベル男爵令嬢の新たな婚約を認める文言が書いてあった。
ハインリヒ陛下は、いずれ娘になるのだからと、いつも家族のように接してくださった。それなのに、婚約解消ではなく婚約破棄。
私の経歴にあえて傷をつけたいのでなければ、こんなことをする必要はないはずなのに。
「陛下がこんなことをするなんて……ありえないわ」
「えぇ~? 政略結婚の方がありえないでしょ~。愛する人と結婚した方が、いろいろ頑張れるって! ね、マルセル?」
シャンベル男爵令嬢は優越感の滲む表情で、見せつけるようにブローチを撫でながらマルセルにしな垂れかかった。
マルセルはそんなシャンベル男爵令嬢の腰を抱き、私を鼻で笑う。
「ネリーの言うとおりだ。父上もすぐに理解を示してくださった。というわけでお前はもう用済みだ。とっとと失せろ!」
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