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44. マルセルの苦悩
しおりを挟む「ふざけるな! 今さら帰ってきて、王太子の座もエレアノール姉様も譲れなどと、受け入れられるものか!」
とっさに振り返ると、目に涙を浮かべたマルセルが真っ赤な顔で拳を震わせている。
しかしマリアン王妃陛下は、先ほどまでのノックスへの態度が嘘のように、冷たい目でマルセルを睨んだ。
「何を言っているのだマルセル。兄がいつ帰ってきてもいいように心の準備をしておけと言っておいたであろう」
マリアン王妃陛下の様子からして、マルセルはきっと幼い頃よりずっとそう言い聞かせられてきたのだろう。
正直に言うと、私はマルセルがそこまで王太子の座や私に固執しているとは思っていなかった。むしろ、普段の態度から本当は王太子になどなりたくなかったのだろうと思っていたし、私に対しても弟のように接してきたから、このままノックスが立太子することになっても大事にはならないと思っていたのだ。
でも、マルセルの悲しそうな目を見る限り、それは間違いだったのだろう。
「マルセル……」
「こいつの席を守るためだけに生まれて、用なしになったら捨てられて、俺は一体何なんだよ……!」
マルセルの叫び声が胸に突き刺さる。
彼はずっと自分の立場や扱われ方に苦しんでいたのか。事情を知らなかったとはいえ、私は彼の苦しみに少しも気づいてあげられなかった。
私はもうノックス以外と結ばれることなど考えられない。けれど、傷ついたマルセルをこのままにもしたくない。私はどうすればいいのだろう……
「何を言っている? お前は第一王子殿下の席を守るために生まれるか、生まれないかの二択だったのだ。生まれただけ儲けものではないか」
悩む私とは違い、マリアン陛下は何が問題なのかと呆れかえった様子でため息交じりに答えた。
母の冷たい言葉に、マルセルが地団駄を踏んで声を荒げる。
「こんなことなら、生まれないほうがマシだったよ!! エレアノール姉様が他の男のものになるのを見るなんて絶対に嫌だ!!」
生まれないほうがマシだった――その言葉で一気に空気が沈む。
けれど、マリアン王妃陛下は怒髪天を衝く勢いでマルセルを怒鳴りつけた。
「愚か者め! では聞くが、お前は第一王子が戻ってきたとて王太子たり得るのはお前だけだと、周囲が声を上げるほど努力したと言えるのか!!」
マルセルが目を伏せ「わ、わかってるよ、でも……」と小さく呟く。
マリアン王妃陛下は深いため息をつくと、顔を俯かせるマルセルに失望の目を向けた。
「……我々が知らないとでも思ったか。お前はエレアノールなくしては王太子にはなり得ない凡庸な王子だと噂されている。その姿は、お前が意図して作り上げたものであろうが」
マルセルはびくりと肩を揺らし、顔を俯けたまま震え出した。
どうして彼は、マリアン王妃陛下の言葉を否定しないのだろう。
……まさか、本当に?
「お前は勉強を怠り、公務を怠り、エレアノールにすべてを押しつけた。逃したくないからと、必要以上の重荷を課し続けたのだ! 本来ならば支え合うべき立場のお前が!! それで他の男に取られたくないなどと、笑わせるな!!」
マリアン王妃陛下に叱責されたマルセルは、堰を切ったように泣き崩れた。
少なからずショックだった。私のあの苦しい日々は、マルセルが意図して作り上げたものだったのか。
酷い、どうしてとなじりたい気持ちもある。だってマルセルは、忙殺される私の姿を見ていたではないか。
けれど、泣きじゃくるマルセルに幼い頃の泣き虫だった姿が重なり、責める気持ちはみるみる萎んでいった。
そんなことよりも泣き止ませてあげたいと思ってしまう。困ったところもあるけれど、やはり私のかわいい弟だから……
しかし、慰めようと伸ばした手は、マリアン王妃陛下に掴まれてマルセルには届かなかった。
「エレアノール、あやつのためにも甘やかしてくれるな」
マリアン王妃陛下は銀の目に陰りを宿し、静かに私を見つめている。
「そなたには申し訳ないことをした。私は、息子が自身の過ちに気づき、奮起してくれることを信じて待ちたかったのだ。そうして、そなたの苦しみから目を背けた」
マリアン王妃陛下は拳を握り締め、勢いよく頭を下げた。
けれど私は、マリアン王妃陛下が目を逸らしていたとは思っていない。王妃陛下はよく「それは私が後でやっておいてやるから茶に付き合え!」と言って、私を気分転換に連れ出してくれたからだ。そうやって、少しでも私の負担を軽くしようとしてくれたのだろう。
それに今だから言えることではあるけれど、つらい経験からだって得られるものはある。
「私は……たしかに王太子妃教育があらかた終わるまで、睡眠時間もほとんど取れないほど忙しくて、ずっとつらかったです。けれど、王妃陛下にもたくさん助けていただきましたし、何より私は苦しい日々を乗り越えた自分を誇りに思っています。今まで経験したすべてが、王を、民を支える力になるのですから」
マルセルが驚いたように私を見て、くしゃりと顔を歪ませる。彼は手で顔を覆い、再び俯いて涙を零した。
マリアン王妃陛下はそんなマルセルを悲しそうに見つめている。
一方ノックスは、真剣な目でマルセルをじっと見つめていた。自分に憐れむ権利などないとでもいうように。
私も同じだ。マルセルがどんなに傷ついても、私はノックスを選ぶ。その結論を変えるつもりがない以上、私にはマルセルを憐れに思う権利も、慰める権利もないのだろう。
そのとき、不意に王妃陛下の背後から低く落ち着いた声が響いた。
「マルセル……私のわがままで、そなたをずっと傷つけていたのだな。父として申し訳なく思う。だが、そなたも間違いなく私たちの大切な息子だ」
叫び声を上げなかった自分を褒めたい。
何事もなかったかのように起き上がった陛下は、マルセルに近づくと彼を抱いて背中を摩った。
「さあ、サロンで少し話をしよう。そなたの気持ちを聞かせておくれ」
ハインリヒ陛下は私に謝罪が遅れたことを詫びると、公の場で改めて謝罪させてもらうと言い残し、マルセルを連れて去っていった。
遠ざかる背中をマリアン王妃陛下が追う。彼女は落ち込んだ様子のマルセルとハインリヒ陛下を元気づけようとしたのか、陛下の背中をバシバシ叩いて明るい声を出した。
「ハインリヒ、相変わらずの石頭だな! こんなに復活が早い者は、騎士団にもなかなかおらんぞ!」
「そうか。ところで、道を誤ったら殴ってでも止めてくれと言ったのは私だが、すでに正されている場合は言葉でなじる程度にしてもらえると助かるよ」
「そうか? だが、今回の件はエレアノールに我々を一発ずつぐらい殴らせてやったほうがいいのではないか?」
「やめてやれ。エレアノールはか弱い淑女なのだぞ……」
不穏な会話が遠ざかっていく。
かわいいマルセルを殴れるはずもないし、両陛下だってもちろん無理だ。かりに殴ったところで私が負傷して終わりに違いない。
ふふ、と笑い声を上げるけれど、我慢できずぽろりと涙が一粒こぼれる。
ノックスに肩を抱かれるまま、彼の体にそっともたれかかった。
「エレアノール、マルセルに申し訳なく思っているのか?」
「そう、ね……。私はマルセルの願いを叶えることができるのに、そうしないんだもの」
「マルセルの願いを叶えたら、今度は俺の願いが叶わなくなるな」
「ええ、そして私の願いも……」
だから、私はマルセルの願いを叶えてあげられない。
それでも、マルセルの心が救われることを願っている。
私のかわいい弟が「生まれてきてよかった」と笑えますようにと――
この身勝手な願いを、アストリウス神は聞き届けてくださるだろうか……
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