勇者召喚に巻き込まれた家族のサバイバル

ken

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第18話 玄関の向こうの白い部屋

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 最初に現れたのは、扉だった。

 扉、というより――玄関ドア。
 しかも、見慣れすぎたやつだ。実家の、あの玄関。

 茶色の表面。小さな覗き穴。指先で触れれば、少しザラつく塗装の感触まで思い出せる。取っ手の位置も、新聞受けの角度も、靴箱の匂いが染み付いていそうな錯覚も、全部が“懐かしい”のに、ここは異世界だ。

 私の喉が、勝手に鳴った。

「……なんで、これなんだ」

 背後で、父がコハクの耳を押さえた。犬は音に敏感だ。知らない空気の揺れに、すぐ吠える。

 月子が小声で言う。

「悠一郎、落ち着け。触って大丈夫?」

 母は窓辺に立ち、照覧で周囲を確かめていた。視線を閉じたまま、短く答える。

「今のところ、覗きの気配はない。けど、急がないで」

 急がない。
 私も、それは分かっている。分かっているのに、扉が“実家の玄関”だという事実が、胸の奥を妙にかき乱す。

 呼吸を整える。医師として、緊張で手が震える状態を何度も見てきた。自分がその側に回るのは、情けない。だが、情けなさも今は飲み込む。

 私は取っ手に手をかけた。

 冷たい金属の感触が、指先に張りつく。回す。重みがある。実家の玄関は、冬になると少し固かった。その“固さ”まで、忠実に再現されている気がした。

 慎重に、ドアを開ける。

 ぎい、と音がするかと思った。だが、音はほとんどない。静かに、空気が割れるだけ。

 中にあったのは――狭いフローリングの部屋だった。

 白い壁。白い天井。小さな窓がひとつ。
 圧迫感のある広さ。四畳半もない。収納もない。家具もない。けれど、ちゃんと“部屋”の匂いがする。新築の内見で嗅ぐような、接着剤と木材の淡い匂い。外の石の冷たさとは別物の、人工の温度。

 私は、息を吐いた。

「……本当に、部屋だ」

 感動が先に来た。
 あれだけ不気味で、あれだけ信用できない状況で、ようやく一枚の“壁”が手に入ったみたいだった。外界の視線を切れる壁。物音を遮れる壁。家族を、コハクを、ひとまず守れる壁。

 ただし――狭い。

 狭さは、現実を突きつける。ここは理想の避難所ではない。万能の城ではない。最初に与えられたのは、ぎりぎり息ができる箱だ。

 私は振り返った。父と月子と母の顔が並ぶ。父はコハクを抱いたまま、こちらを見ている。母の目は鋭い。月子は、試すような目をしている。

「入るのは、まだ私だけにする」

 私が言うと、月子が頷いた。

「当然。……鍵は悠一郎だけ、だよね?」

「うん。少なくとも、今は」

 私は一歩、中へ入った。

 床は硬い。だが、冷えない。足裏に伝わる感触が“生活”に近い。外の石床の無機質さではない。こういう小さな違いが、人間の心を簡単に騙す。安心してしまう。だから、気を引き締める。

 窓に近づく。小さな窓は、磨りガラスのように曇っていて外が見えない。触れてみると、ひんやりとした硬さがある。外光はあるのかないのか、白い空間は均一に明るい。光源が分からないのは落ち着かない。だが今は、分からないものがある方がいい。分かりすぎると、相手も把握しやすい。

 私は扉を一度閉めてみた。

 ぱたん。

 音が吸われる。
 外の気配が、消える。

 さっきまで背後にいた家族の呼吸が、聞こえなくなる。
 喉が、もう一度鳴った。

「……声、届かないな」

 試しに大きく叫んだ。

「おーい!」

 自分の声が部屋に反響するだけで、外には漏れない。
 自分の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
 安全だ。少なくとも、音に関しては。

 私は扉を開けて、すぐ外の空気を吸った。異世界の空気は香辛料の匂いが混じっている気がする。慣れない匂いに、肺が少し緊張する。

 月子が短く言った。

「次、実験。置いて消えるか」

 用意したのは、金属のカップだ。ヴァレリアがこの家に置いていった備品のひとつ。丈夫で、落としても割れない。だが“所有物”としての価値は低い。失っても生活が詰まない。

 母が照覧で確認する。

「今は安全。急いで」

 私はカップを手に、部屋へ入る。真ん中に置く。床板の隙間に、きちんと底が当たる音がする。

 そして、扉を閉めた。

 私は部屋を出て、扉の外側――つまり現実側に立ったまま、数歩、後ろへ下がる。視線を逸らさない。扉の“存在感”を見失わない。

 ……数秒。

 扉は、消えた。

 消えたというより、最初からそこに無かったかのように、空気が戻った。玄関ドアの輪郭が、ぴたりと消える。周囲の石壁と同じ景色に戻る。幻覚みたいだ。けれど、私は確かに触った。確かに開けた。確かに入った。

 月子が息をのむ。

「……消えるんだ」

 父がコハクの背を撫でながら呟く。

「コハク、吠えないの偉いな……」

 コハクは鼻を鳴らし、消えた場所の匂いを嗅いだ。尻尾がゆっくり揺れる。怖いけど、逃げ出すほどではない――そんな匂いらしい。

 私は、唾を飲んでから、もう一度口にした。

「生活設計」

 空気が折れる。
 玄関ドアが、再び現れる。
 同じ位置。ほぼ同じ角度。微妙な揺らぎすらない。固定された現象だ。

 私は扉を開けた。

 白い部屋は、そのままだった。
 カップも、そこにある。
 倒れていない。傷もない。

「……よし」

 思わず、短く息が漏れた。
 収納というより、保存だ。隔離だ。世界と切り離して置ける。外界の揺れ、移動、衝撃――それらが内部に届いていない可能性が高い。

 私は次の実験に移る。

 扉を開けっ放しにしてみた。

 最初は、普通に開いたままだった。
 だが、時間を測る。月子が手元の砂時計をひっくり返す。異世界の道具だ。精密ではないが、目安にはなる。

 一分。
 二分。
 三分。

 ……三分を少し過ぎたところで、扉が勝手に閉まった。

 ぱたん、と軽い音。
 そのまま、ふっと消える。

「開けっ放しは無理……三分か」

 月子が眉を寄せる。

「制約が明確なのは助かる。逆に言えば、油断すると閉じ込められるってこと」

 母が頷く。

「だから、入る人は必ず合図を決めて。閉まる前に出す」

 父が真面目な顔で言った。

「中にいる間、外の状況が分からないのは不安だな」

 私は返した。

「だから、最初は短時間。慣れるまで。……次、月子」

 月子が一瞬だけ目を見開き、それから笑った。いつもの、挑むような笑い方だ。

「了解。中、体感してくる」

 ただし、順番は守る。

 母が照覧で周囲を確認する。
 月子は靴の紐を結び直し、指輪やアクセサリーを外す。引っかかるものがないように。
 父はコハクを抱き、吠えないよう耳の後ろを撫で続ける。
 私は玄関ドアを出現させる。

 扉が現れた瞬間、月子の表情がわずかに硬くなった。実家の玄関――その“懐かしさ”が、月子にも刺さったのだろう。私だけの錯覚ではない。家族の記憶に触れる形で、技能が表に出ている。

 月子が小さく息を吐き、扉をくぐった。

 白い部屋の中で、月子は一度ぐるりと見回し、それからこちらを振り返った。

「狭い。でも、落ち着く。……外の匂い、消えるな」

「合図があったら開ける」

 私は扉を閉めた。
 閉めた瞬間、外の気配が切れる感覚がある。内側にいる月子の声も、こちらには届かない。
 それでも、不思議と恐怖は少なかった。扉を開けられるのは私だけだ。鍵は私の意思だ。

「移動する」

 私は家の中を歩き、別の部屋へ移動した。足音が石床を叩く。扉が現れていた場所から離れる。距離を取る。ここが重要だ。どこまで離れても、内部が維持されるのか。

 しばらくして、私は止まった。
 母が照覧で周囲を確認し、頷く。

「今、問題なし。開けて」

 私は口にする。

「生活設計」

 扉が現れた。
 同じ玄関ドアが、今度は別の場所に現れる。私が望んだ位置に。望んだ高さに。望んだ向きに。
 それが、ぞくりとするほど自然だった。

 私は扉を開けた。

「月子、大丈夫か」

 月子は、白い部屋の中で腕を組んで立っていた。少し肩を回し、首を傾げる。まるで、エレベーターで移動した後みたいに。

「……何も感じない。揺れもない。音もない。外が動いた気配、ゼロ」

 私は胸の奥で、小さく拳を握った。

 内部にいる者には振動が伝わらない。
 移動先で扉を開けても、異常はない。

 これは――運べる。
 家族を運べる。
 コハクを運べる。

 そして、直から逃げる手段になる。
 この国から逃げる手段にもなり得る。

 月子が一歩、こちらに近づき、小声で言った。

「悠一郎。これ、やばい。便利とかの話じゃない」

 母が、同じく小声で続けた。

「だからこそ、見せない。使うところも、使い方も、最小限に」

 父はコハクを抱いたまま、苦笑した。

「……俺は、ただコハクが安全ならいい」

 コハクが、ふわ、とあくびをした。
 緊張が少しだけ解ける。その瞬間を、私は逃さない。

 現実は、まだ怖い。
 国は信用できない。
 王女は敵だと思って動いたほうがいい。
 でも――手札はある。

 白い部屋は狭い。
 それでも、狭い箱があるだけで、人は生き延びられる。

 私は扉の取っ手に手を添え、静かに決めた。

 この技能を、家族の“逃げ道”にする。
 誰にも見せない。
 誰にも渡さない。
 使い方は、私たちだけが知る。

 そのために、まずは――記録と訓練だ。

 狭い白い部屋が、私たちの命綱になっていく。
 そんな予感が、確信に変わり始めていた。
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