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第1章:チーム結成と混沌
第1話 幽霊マンションと引きこもり探偵
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「……あー、テステス。聞こえてる? みんな、こんばんはー! 『JUN様チャンネル』へようこそ!」
深夜2時。
東京都K区の住宅街から少し離れた場所にある、通称『幽霊マンション』。
その4階の一室で、岡本純は、震える手で自撮り棒を握りしめながら、必死に作り笑顔を浮かべていた。
スマホの画面に映るのは、厚化粧で武装した自分の顔と、背後に広がる漆黒の闇。
そして、画面左下に表示される、残酷な数字だった。
『同時接続者数:12人』
「……少なっ」
思わず本音が漏れそうになるのを、咳払いで誤魔化す。
かつては読者モデルとして雑誌の表紙を飾り、渋谷を歩けばスカウトマンが列をなした私、岡本純も、気付けばアラフォー。
「美のカリスマ」として開設したメイク動画チャンネルは鳴かず飛ばずで、再生数は常に2桁止まり。
起死回生を狙って始めたこの心霊配信も、今のところ完全に空振りだった。
『はよ行けや』
『ババアの厚塗りが見たいわけじゃないんだが』
『ここマジで出るらしいぞ、過去に3人死んでる』
流れるコメントも辛辣だ。これでも「アンチでも反応があるだけマシ」と自分に言い聞かせるあたり、私のメンタルも相当鍛えられているらしい。
「はいはい、焦らないでよ。今から奥の部屋に行くからさ……」
そう言って歩き始めてから、既に10分以上が経過していた。
1階のエントランスから入り、階段を上り、今は4階の廊下を進んでいる。
足元にはゴミやガラス片が散乱し、歩くたびにジャリ、ジャリ、と不快な音が響く。
カビ臭さと、埃っぽさが鼻をつく。
正直、怖い。
霊感なんてこれっぽっちもないけれど、物理的に怖い。不法侵入だし、何より何も起きなさすぎて間が持たないのが怖い。
「……ここね、実は建築中に業者が逃げて、そのまま廃墟になったんだって。で、ホームレスが住み着いて孤独死したとか、女子高生が飛び降りたとか、いわくつきの物件なの」
何度目かの説明を繰り返しながら、私はリビングと思しき広い部屋に足を踏み入れた。
その瞬間だった。
「……ねえ、なんか音しなかった?」
ピチャッ、と水が跳ねるような音が、奥のバスルームの方から聞こえた気がした。
『気のせい乙』
『ビビりすぎw』
『演出乙』
『てか今14分経過。尺稼ぎすぎ』
「いや、違うって! 今マジで聞こえたの! ……誰かいるの?」
ライトを向けるが、そこには剥がれかけた壁紙と、割れた洗面台が映るだけだ。
心臓の鼓動が早くなる。
汗でファンデーションが浮いてくるのがわかる。
これ、本当にマズいかもしれない。
このマンション、電気が止まっているはずなのに、微かにブーンという低い唸り音が聞こえる気がするのだ。
その時だった。
――ドンッ!!
背後のドアが、暴力的な勢いで閉まった。
「キャアアアアアアッ!!」
喉が引き裂かれそうな悲鳴を上げ、私はその場にへたり込む。
スマホを取り落としそうになりながら、必死に周囲を見回す。
風? いや、今日は無風だ。
誰かが閉めた? でも、誰もいなかったはずだ。
『うおおおおおおおお』
『ガチ!?』
『今の音やばくね?』
『逃げろ』
『後ろ! 後ろなんかいる!』
コメント欄が一気に加速する。同接数が30、40と跳ね上がる。
これがバズるということか。
でも、今はそれどころじゃない。
誰かが、いる。
この部屋の中に、私以外の「ナニカ」が。
恐怖で足が動かない。呼吸が浅くなる。
助けを求めなきゃ。警察? いや、不法侵入で捕まるのは私だ。
じゃあ、誰に?
私の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。
世界で一番頼りになり、世界で一番ムカつく、あの引きこもりの顔が。
私は震える指で、LINE通話の履歴の一番上をタップした。
登録名は『Q』。
「……出ろ、出ろ、出ろ……っ!」
コール音は長く感じられた。
背後の暗闇から、ズリ……ズリ……と、何かが引きずられるような音が近づいてくる。
『はい』
5コール目で、スピーカーから不機嫌極まりない低い声が響いた。
「Qちゃん!? 助けて! マジで出たの! 幽霊!」
『……はあ?』
男は、心の底から面倒くさそうに溜息をついた。
『今、鴨のローストがいい具合に焼き上がったところなんだ。火加減が重要なんだよ。切るぞ』
「待って! 切らないで! 殺される! お願いだから!」
私はなりふり構わず絶叫した。
その声が廃墟に反響し、さらに不気味さを増幅させる。
電話の向こうで、カチャリとナイフを置く音がした。
『……お前、今どこにいる』
「幽霊マンション! K区の!」
『ああ、あの事故物件か。……チッ、面倒くさい。URL送れ』
「え?」
『配信のURLだよ。状況を確認する』
私は慌てて配信ページのURLを送信する。
数秒後、Qの声のトーンが変わった。先程までの気だるげな響きが消え、冷徹な事務的な響きになる。
『……ふむ。同接58人。底辺だな』
「うるさい! 今はそんなことどうでもいいでしょ!」
『落ち着け。……いいか、今から僕が言う通りに動け。さもないと、お前は社会的に死ぬか、物理的に死ぬことになる』
「え、何それ怖い」
『カメラを右に30度振れ。床を映せ』
言われるがままに、自撮り棒を動かす。
そこには、ホコリまみれのフローリングが映っているだけだ。
『……やはりな。おい純、そこにある「新しい足跡」が見えるか?』
「足跡?」
目を凝らす。確かに、ホコリの中に、比較的新しい靴の跡が点々と続いている。
私が履いているピンヒールの点のような跡ではない。もっと大きな、スニーカーのようなベタっとした跡だ。
『サイズは約27センチ。メーカーはナイキのエアフォース1だ。ソールのパターンでわかる』
「は? 何で画面越しにそんなことわかんのよ」
『解像度を上げれば見える。……いいか、幽霊はナイキなんて履かない。そこにいるのは、生きた人間だ』
その言葉に、背筋が凍りついた。
幽霊よりも怖いもの。それは、こんな深夜の廃墟に潜んでいる「人間」だ。
『コメント欄の情報も統合するぞ。……おい、リスナー共。聞こえているなら協力しろ。今の足音、タイムスタンプ14分02秒の音声を抽出してノイズ除去できる奴はいるか?』
Qが配信に向かって話しかけた。
私のスマホから聞こえる男の声に、コメント欄がざわつく。
『誰だこの男?』
『彼氏?』
『声イケボすぎワロタ』
『音響解析なら任せろ、フリーソフトでやってみる』
まさかの反応があった。
数秒後、コメント欄にURLが貼られる。
『解析した。これ、人の呼吸音だ。あと、微かに金属音がする』
『採用。……金属音か。純、カメラを天井に向けろ。配管のあたりだ』
Qの指示は矢継ぎ早だ。
私は操り人形のようにカメラを動かす。
剥き出しになった配管の隙間に、何かが光った。
『……ビンゴ。盗聴器だ。いや、小型カメラか?』
「盗撮……?」
『この部屋、ただの廃墟じゃないな。……純、そのままゆっくりと玄関の方へ戻れ。走るなよ、相手を刺激する』
私は言われた通り、抜き足差し足で後退りする。
だが、運命は残酷だ。
私の履いていた10センチのピンヒールが、床に落ちていた空き缶を踏みつけた。
――ガシャアン!!
静寂を引き裂く爆音。
「あっ……」
『馬鹿者』
Qの罵倒と同時に、奥の部屋のドアが勢いよく開いた。
飛び出してきたのは、薄汚れたパーカーを着た大柄な男だった。
手には、バールのような鉄の棒が握られている。
「テメェ! 何見てやがる!」
男が怒号を上げながら突進してくる。
幽霊じゃない。完全にヤバい人だ。
「ギャアアアア! Qちゃん助けてぇえええ!!」
私は廊下を猛ダッシュで逃げる。ヒールが折れそうだが構っていられない。
『走るなと言っただろうが! ……チッ、仕方ない。純、次の角を右だ!』
「右!? 行き止まりじゃなかったっけ!?」
『いいから曲がれ! 窓があるはずだ!』
私は男の怒声を背に、右へ曲がる。
そこは古びた洋室で、突き当たりには大きな窓があった。
しかし、窓には鉄格子がハマっている。
「逃げ場ないじゃん! 嘘つき!」
男が部屋に入ってくる。逃げ場はない。
男はニヤリと笑い、バールを掌で叩いた。
「配信者か? 運が悪かったな。ここにあるモンを見られちゃ、帰すわけにはいかねぇんだよ」
ここにあるモン?
部屋の隅には、段ボール箱が積み上げられていた。
隙間から、乾燥大麻のような植物が見えている。
……あ、これ、完全にアウトなやつだ。
『純、スマホのライトを最大光量にしろ』
Qの声は冷静だった。
「え?」
『ストロボモードだ。相手の目に向けろ』
私は震える指で操作する。
男がバールを振り上げた瞬間、私はスマホを掲げた。
パパパパパパパッ!!
強烈な点滅光が、暗闇に慣れた男の目を直撃する。
「うおっ!?」
男が怯んだ隙に、Qが叫ぶ。
『今だ! その窓の右側の壁を蹴れ! そこは増築部分の継ぎ目で、石膏ボード一枚向こうは隣の棟の非常階段だ!』
「そんな漫画みたいなこと!」
『やれ! 俺の構造計算を信じろ!』
私は覚悟を決めた。
渾身の力を込めて、10センチのピンヒールの踵で壁を蹴り飛ばす。
ドゴッ!
湿気で脆くなっていた石膏ボードが砕け、壁に人が通れるほどの穴が開いた。
穴の向こうには、確かに鉄製の踊り場が見える。
「嘘でしょ!?」
私は穴をくぐり抜け、非常階段へと躍り出る。
後ろから男の悔し紛れの叫び声が聞こえるが、鉄格子のある窓からこちらへ来ることはできない。
階段を転がるように駆け下り、マンションの外へ飛び出す。
夜の冷たい空気が、火照った頬に心地よい。
「はあ……はあ……助かった……」
私は道端にへたり込んだ。
スマホを見ると、通話はまだ繋がっていた。
『……生きてるか?』
「ぐ、偶然よ……。壁があんなに脆いなんて……」
『偶然じゃない。Googleアースの過去画像と、不動産屋の間取り図を照合した結果だ。あのマンションは無理な増改築を繰り返して構造に歪みが出ていたんだ』
淡々と解説するQ。
『それより、純。お前の配信、まだ続いてるぞ』
「え?」
画面を見ると、コメント欄が滝のように流れていた。
そして、視聴者数は――
『同時接続者数:3,800人』
「さ、三千!? なんで急に!?」
『僕がとあるインフルエンサーのアカウントをハックして拡散させた……というのは冗談だが、お前の悲鳴が「ガチすぎる」とSNSで拡散されているようだぞ』
Qが他人事のように言う。
見れば『#JUN様心霊配信』『#ガチ事件』といったタグがトレンド入りしかけている。
『祭りはこれからだ。……リスナー諸君、聞こえるか?』
Qが、私ではなく配信の向こう側にいる数千人に向かって語りかける。
『今映った男の顔、スクショした奴はいるな? 特徴は右頬の傷、パーカーのロゴは2年前の限定モデルだ。そして場所はK区の廃マンション402号室』
コメント欄が呼応する。
『スクショ余裕』
『画質補正かけるわ』
『あの草、どう見てもヤクだよな』
『警察に通報した』
『K区の管轄なら〇〇署だな』
『仕事が早いな。……そうだ、警察はもう向かっているだろうが、念のためだ。あの男が逃走経路に使いそうな裏道の防犯カメラ、あるいはNシステムの位置を知っている奴は?』
『国道沿いに2つある』
『裏のコンビニのカメラ、ライブカメラとして公開されてるぞ』
『リンク貼るわ』
情報の奔流。
ただの野次馬だった視聴者たちが、Qの声に導かれ、一つの巨大な「探偵」へと変貌していく。
『チェックメイトだ。……純、お前はそこで待ってろ。警察が来たら、被害者面して泣いてればいい』
「ちょ、ちょっとQちゃん! あんた何者なの!?」
『……僕はただの、鴨肉が冷めて機嫌が悪い引きこもりだよ。……じゃあな』
プツッ。
通話が切れた。
遠くから、パトカーのサイレン音が近づいてくるのが聞こえる。
私は呆然とスマホの画面を見つめた。
コメント欄には、『Qって誰?』『神回』『チャンネル登録した』の文字が踊っている。
これが、私と彼――『安楽椅子探偵Q』と、顔の見えない共犯者たち『特定班』との、最初の事件だった。
……それにしても、あいつ。
私の命より鴨肉の心配してたわよね?
後で絶対、高い焼肉奢らせてやるんだから。
深夜2時。
東京都K区の住宅街から少し離れた場所にある、通称『幽霊マンション』。
その4階の一室で、岡本純は、震える手で自撮り棒を握りしめながら、必死に作り笑顔を浮かべていた。
スマホの画面に映るのは、厚化粧で武装した自分の顔と、背後に広がる漆黒の闇。
そして、画面左下に表示される、残酷な数字だった。
『同時接続者数:12人』
「……少なっ」
思わず本音が漏れそうになるのを、咳払いで誤魔化す。
かつては読者モデルとして雑誌の表紙を飾り、渋谷を歩けばスカウトマンが列をなした私、岡本純も、気付けばアラフォー。
「美のカリスマ」として開設したメイク動画チャンネルは鳴かず飛ばずで、再生数は常に2桁止まり。
起死回生を狙って始めたこの心霊配信も、今のところ完全に空振りだった。
『はよ行けや』
『ババアの厚塗りが見たいわけじゃないんだが』
『ここマジで出るらしいぞ、過去に3人死んでる』
流れるコメントも辛辣だ。これでも「アンチでも反応があるだけマシ」と自分に言い聞かせるあたり、私のメンタルも相当鍛えられているらしい。
「はいはい、焦らないでよ。今から奥の部屋に行くからさ……」
そう言って歩き始めてから、既に10分以上が経過していた。
1階のエントランスから入り、階段を上り、今は4階の廊下を進んでいる。
足元にはゴミやガラス片が散乱し、歩くたびにジャリ、ジャリ、と不快な音が響く。
カビ臭さと、埃っぽさが鼻をつく。
正直、怖い。
霊感なんてこれっぽっちもないけれど、物理的に怖い。不法侵入だし、何より何も起きなさすぎて間が持たないのが怖い。
「……ここね、実は建築中に業者が逃げて、そのまま廃墟になったんだって。で、ホームレスが住み着いて孤独死したとか、女子高生が飛び降りたとか、いわくつきの物件なの」
何度目かの説明を繰り返しながら、私はリビングと思しき広い部屋に足を踏み入れた。
その瞬間だった。
「……ねえ、なんか音しなかった?」
ピチャッ、と水が跳ねるような音が、奥のバスルームの方から聞こえた気がした。
『気のせい乙』
『ビビりすぎw』
『演出乙』
『てか今14分経過。尺稼ぎすぎ』
「いや、違うって! 今マジで聞こえたの! ……誰かいるの?」
ライトを向けるが、そこには剥がれかけた壁紙と、割れた洗面台が映るだけだ。
心臓の鼓動が早くなる。
汗でファンデーションが浮いてくるのがわかる。
これ、本当にマズいかもしれない。
このマンション、電気が止まっているはずなのに、微かにブーンという低い唸り音が聞こえる気がするのだ。
その時だった。
――ドンッ!!
背後のドアが、暴力的な勢いで閉まった。
「キャアアアアアアッ!!」
喉が引き裂かれそうな悲鳴を上げ、私はその場にへたり込む。
スマホを取り落としそうになりながら、必死に周囲を見回す。
風? いや、今日は無風だ。
誰かが閉めた? でも、誰もいなかったはずだ。
『うおおおおおおおお』
『ガチ!?』
『今の音やばくね?』
『逃げろ』
『後ろ! 後ろなんかいる!』
コメント欄が一気に加速する。同接数が30、40と跳ね上がる。
これがバズるということか。
でも、今はそれどころじゃない。
誰かが、いる。
この部屋の中に、私以外の「ナニカ」が。
恐怖で足が動かない。呼吸が浅くなる。
助けを求めなきゃ。警察? いや、不法侵入で捕まるのは私だ。
じゃあ、誰に?
私の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。
世界で一番頼りになり、世界で一番ムカつく、あの引きこもりの顔が。
私は震える指で、LINE通話の履歴の一番上をタップした。
登録名は『Q』。
「……出ろ、出ろ、出ろ……っ!」
コール音は長く感じられた。
背後の暗闇から、ズリ……ズリ……と、何かが引きずられるような音が近づいてくる。
『はい』
5コール目で、スピーカーから不機嫌極まりない低い声が響いた。
「Qちゃん!? 助けて! マジで出たの! 幽霊!」
『……はあ?』
男は、心の底から面倒くさそうに溜息をついた。
『今、鴨のローストがいい具合に焼き上がったところなんだ。火加減が重要なんだよ。切るぞ』
「待って! 切らないで! 殺される! お願いだから!」
私はなりふり構わず絶叫した。
その声が廃墟に反響し、さらに不気味さを増幅させる。
電話の向こうで、カチャリとナイフを置く音がした。
『……お前、今どこにいる』
「幽霊マンション! K区の!」
『ああ、あの事故物件か。……チッ、面倒くさい。URL送れ』
「え?」
『配信のURLだよ。状況を確認する』
私は慌てて配信ページのURLを送信する。
数秒後、Qの声のトーンが変わった。先程までの気だるげな響きが消え、冷徹な事務的な響きになる。
『……ふむ。同接58人。底辺だな』
「うるさい! 今はそんなことどうでもいいでしょ!」
『落ち着け。……いいか、今から僕が言う通りに動け。さもないと、お前は社会的に死ぬか、物理的に死ぬことになる』
「え、何それ怖い」
『カメラを右に30度振れ。床を映せ』
言われるがままに、自撮り棒を動かす。
そこには、ホコリまみれのフローリングが映っているだけだ。
『……やはりな。おい純、そこにある「新しい足跡」が見えるか?』
「足跡?」
目を凝らす。確かに、ホコリの中に、比較的新しい靴の跡が点々と続いている。
私が履いているピンヒールの点のような跡ではない。もっと大きな、スニーカーのようなベタっとした跡だ。
『サイズは約27センチ。メーカーはナイキのエアフォース1だ。ソールのパターンでわかる』
「は? 何で画面越しにそんなことわかんのよ」
『解像度を上げれば見える。……いいか、幽霊はナイキなんて履かない。そこにいるのは、生きた人間だ』
その言葉に、背筋が凍りついた。
幽霊よりも怖いもの。それは、こんな深夜の廃墟に潜んでいる「人間」だ。
『コメント欄の情報も統合するぞ。……おい、リスナー共。聞こえているなら協力しろ。今の足音、タイムスタンプ14分02秒の音声を抽出してノイズ除去できる奴はいるか?』
Qが配信に向かって話しかけた。
私のスマホから聞こえる男の声に、コメント欄がざわつく。
『誰だこの男?』
『彼氏?』
『声イケボすぎワロタ』
『音響解析なら任せろ、フリーソフトでやってみる』
まさかの反応があった。
数秒後、コメント欄にURLが貼られる。
『解析した。これ、人の呼吸音だ。あと、微かに金属音がする』
『採用。……金属音か。純、カメラを天井に向けろ。配管のあたりだ』
Qの指示は矢継ぎ早だ。
私は操り人形のようにカメラを動かす。
剥き出しになった配管の隙間に、何かが光った。
『……ビンゴ。盗聴器だ。いや、小型カメラか?』
「盗撮……?」
『この部屋、ただの廃墟じゃないな。……純、そのままゆっくりと玄関の方へ戻れ。走るなよ、相手を刺激する』
私は言われた通り、抜き足差し足で後退りする。
だが、運命は残酷だ。
私の履いていた10センチのピンヒールが、床に落ちていた空き缶を踏みつけた。
――ガシャアン!!
静寂を引き裂く爆音。
「あっ……」
『馬鹿者』
Qの罵倒と同時に、奥の部屋のドアが勢いよく開いた。
飛び出してきたのは、薄汚れたパーカーを着た大柄な男だった。
手には、バールのような鉄の棒が握られている。
「テメェ! 何見てやがる!」
男が怒号を上げながら突進してくる。
幽霊じゃない。完全にヤバい人だ。
「ギャアアアア! Qちゃん助けてぇえええ!!」
私は廊下を猛ダッシュで逃げる。ヒールが折れそうだが構っていられない。
『走るなと言っただろうが! ……チッ、仕方ない。純、次の角を右だ!』
「右!? 行き止まりじゃなかったっけ!?」
『いいから曲がれ! 窓があるはずだ!』
私は男の怒声を背に、右へ曲がる。
そこは古びた洋室で、突き当たりには大きな窓があった。
しかし、窓には鉄格子がハマっている。
「逃げ場ないじゃん! 嘘つき!」
男が部屋に入ってくる。逃げ場はない。
男はニヤリと笑い、バールを掌で叩いた。
「配信者か? 運が悪かったな。ここにあるモンを見られちゃ、帰すわけにはいかねぇんだよ」
ここにあるモン?
部屋の隅には、段ボール箱が積み上げられていた。
隙間から、乾燥大麻のような植物が見えている。
……あ、これ、完全にアウトなやつだ。
『純、スマホのライトを最大光量にしろ』
Qの声は冷静だった。
「え?」
『ストロボモードだ。相手の目に向けろ』
私は震える指で操作する。
男がバールを振り上げた瞬間、私はスマホを掲げた。
パパパパパパパッ!!
強烈な点滅光が、暗闇に慣れた男の目を直撃する。
「うおっ!?」
男が怯んだ隙に、Qが叫ぶ。
『今だ! その窓の右側の壁を蹴れ! そこは増築部分の継ぎ目で、石膏ボード一枚向こうは隣の棟の非常階段だ!』
「そんな漫画みたいなこと!」
『やれ! 俺の構造計算を信じろ!』
私は覚悟を決めた。
渾身の力を込めて、10センチのピンヒールの踵で壁を蹴り飛ばす。
ドゴッ!
湿気で脆くなっていた石膏ボードが砕け、壁に人が通れるほどの穴が開いた。
穴の向こうには、確かに鉄製の踊り場が見える。
「嘘でしょ!?」
私は穴をくぐり抜け、非常階段へと躍り出る。
後ろから男の悔し紛れの叫び声が聞こえるが、鉄格子のある窓からこちらへ来ることはできない。
階段を転がるように駆け下り、マンションの外へ飛び出す。
夜の冷たい空気が、火照った頬に心地よい。
「はあ……はあ……助かった……」
私は道端にへたり込んだ。
スマホを見ると、通話はまだ繋がっていた。
『……生きてるか?』
「ぐ、偶然よ……。壁があんなに脆いなんて……」
『偶然じゃない。Googleアースの過去画像と、不動産屋の間取り図を照合した結果だ。あのマンションは無理な増改築を繰り返して構造に歪みが出ていたんだ』
淡々と解説するQ。
『それより、純。お前の配信、まだ続いてるぞ』
「え?」
画面を見ると、コメント欄が滝のように流れていた。
そして、視聴者数は――
『同時接続者数:3,800人』
「さ、三千!? なんで急に!?」
『僕がとあるインフルエンサーのアカウントをハックして拡散させた……というのは冗談だが、お前の悲鳴が「ガチすぎる」とSNSで拡散されているようだぞ』
Qが他人事のように言う。
見れば『#JUN様心霊配信』『#ガチ事件』といったタグがトレンド入りしかけている。
『祭りはこれからだ。……リスナー諸君、聞こえるか?』
Qが、私ではなく配信の向こう側にいる数千人に向かって語りかける。
『今映った男の顔、スクショした奴はいるな? 特徴は右頬の傷、パーカーのロゴは2年前の限定モデルだ。そして場所はK区の廃マンション402号室』
コメント欄が呼応する。
『スクショ余裕』
『画質補正かけるわ』
『あの草、どう見てもヤクだよな』
『警察に通報した』
『K区の管轄なら〇〇署だな』
『仕事が早いな。……そうだ、警察はもう向かっているだろうが、念のためだ。あの男が逃走経路に使いそうな裏道の防犯カメラ、あるいはNシステムの位置を知っている奴は?』
『国道沿いに2つある』
『裏のコンビニのカメラ、ライブカメラとして公開されてるぞ』
『リンク貼るわ』
情報の奔流。
ただの野次馬だった視聴者たちが、Qの声に導かれ、一つの巨大な「探偵」へと変貌していく。
『チェックメイトだ。……純、お前はそこで待ってろ。警察が来たら、被害者面して泣いてればいい』
「ちょ、ちょっとQちゃん! あんた何者なの!?」
『……僕はただの、鴨肉が冷めて機嫌が悪い引きこもりだよ。……じゃあな』
プツッ。
通話が切れた。
遠くから、パトカーのサイレン音が近づいてくるのが聞こえる。
私は呆然とスマホの画面を見つめた。
コメント欄には、『Qって誰?』『神回』『チャンネル登録した』の文字が踊っている。
これが、私と彼――『安楽椅子探偵Q』と、顔の見えない共犯者たち『特定班』との、最初の事件だった。
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