23 / 38
第3章:侵食と誘惑
第23話 幻覚のパーティー
しおりを挟む
アマン東京のスイートルームは、かつてないほどの「異臭騒ぎ」に見舞われていた。
ルームサービスが来たら間違いなく通報されるレベルの、強烈な発酵臭。
下水道の蓋を開けたような、あるいは濡れた古雑巾を煮詰めたような、鼻が曲がりそうな悪臭が充満している。
「……ボス、本気?」
森舞永が鼻をつまみ、涙目で抗議した。
足元では仔猫のハイが、空気を掻くような仕草をして、必死にソファのクッションの下に潜り込もうとしている。猫にとっても緊急事態らしい。
だが、換気扇の下に立つ井上健太郎の表情は、至って真剣だった。
目の前の中華鍋では、黒い液体に浸かった四角い物体が、ジュワジュワと音を立てて揚げられている。
『臭豆腐』。
台湾や香港の屋台で有名な、発酵豆腐料理だ。
井上は、植物性の発酵液を数ヶ月前から密かに仕込み、豆腐を漬け込んでいた。
アマンの最新鋭の換気システムを持ってしても処理しきれないその香りは、まさに「毒ガス」級だ。
「……毒を食らわば皿まで、だ」
井上は揚がった豆腐を油から引き上げた。
表面はカリッと香ばしい狐色。だが、その中心部からは、熱で活性化した発酵臭が立ち昇る。
皿に盛り付け、特製のタレ――醤油、ニンニク、酢、そして大量の豆板醤とパクチーをかける。
付け合わせは、酸味の効いた台湾風キャベツの漬物。
そして、井上が用意した酒は、ワインでもビールでもなかった。
素焼きの器に入った、無色透明な液体。
『ラクシ』。
ネパールの自家製蒸留酒だ。ヒエやアワなどの穀物を発酵させ、蒸留した強い酒。
アルコール度数は50度近い。
野性味あふれる香りと、喉を焼くような強烈な刺激。
「これより、決起集会を行う」
井上はダイニングテーブルに皿を置いた。
そこに座らされているのは、今夜の主役である林優香だ。
彼女は真っ青な顔で、目の前の臭豆腐を見つめている。
「……これを、食べるんですか?」
「そうだ。……今夜、君が飛び込む場所は、これ以上に腐った臭いのする場所だ。今のうちに鼻と胃袋を慣らしておけ」
井上はラクシを高い位置から細く注ぎ入れ、泡立たせた。こうすることで香りが開き、口当たりがまろやかになる。
「いただきます」
井上は自ら手本を示すように、熱々の臭豆腐を口に放り込んだ。
カリッ。
サクサクの皮を噛み破ると、中から熱い汁がジュワッと溢れ出す。
……美味い。
強烈な匂いは、口に入れた瞬間に芳醇な旨味へと変わる。
発酵によって分解されたタンパク質が、濃厚なチーズのようなコクを生み出し、ニンニクと唐辛子の刺激がそれを爆発させる。
そこに、度数の高いラクシを流し込む。
カッ! と喉が熱くなる。
アルコールが脂と臭みを洗い流し、強烈な陶酔感だけを残して消えていく。
「……悪魔的な味だ」
井上は息を吐いた。
腐敗と発酵は紙一重。
毒と薬も紙一重。
今夜の作戦そのものだ。
「……食べます」
優香は覚悟を決めたように箸を取り、臭豆腐を口に運んだ。
最初は顔をしかめたが、咀嚼するうちに目が見開かれる。
「……美味しい」
「だろう? 人間は、綺麗なものだけじゃ生きていけない。たまには泥を啜り、腐ったものを喰らって免疫をつける必要がある」
井上は優香にラクシを差し出した。
「飲め。……今夜の君は『復讐の女神』だ。シラフでやる必要はない」
優香はグラスを受け取り、一気に煽った。
むせ返るようなアルコール。だが、その熱さが腹の底に溜まっていた恐怖を焼き尽くしていく。
彼女の目に、強い光が宿った。
「行けます。……私、あいつを地獄に送ってきます」
六本木、会員制クラブ『バビロン』。
地下にあるその空間は、重低音のビートと紫煙、そして欲望の熱気で満たされていた。
今夜は貸し切り。
主催者は、西園寺猛。
取り巻きの起業家や半グレ、そして金で集められたモデルの美女たちが、シャンパンタワーの周りで踊り狂っている。
猛はVIP席のソファに深々と座り、両脇に美女をはべらせていた。
だが、その表情は優れない。
貧乏ゆすりが止まらず、額には脂汗が浮いている。
時折、胸ポケットを探っては舌打ちをする。
「……クソッ、どこに行きやがった」
精神安定剤がない。
いつも常備しているはずの薬ケースが、どこを探しても見当たらないのだ。
昨日の朝、屋敷を出る時には確かにあったはずなのに。
――『お出かけですか、猛様。上着をお預かりしてブラッシングいたしますわ』
昨日の朝。メイドの池田茉莉が、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたことを思い出す。
あの時か? いや、あんな完璧なメイドがミスをするはずがない。自分がどこかで落としたのか。
イライラが募る。
最近、何をやってもうまくいかない。
リゾート開発は頓挫し、母親からは「無能」と罵られ、謎の投資家・井上にはコケにされ、路地裏では女にボコボコにされた。
フラッシュバックする恐怖。
指の痛みが幻痛として蘇る。
「おい、酒だ! もっと強いのを持ってこい!」
猛は怒鳴り散らし、テーブルのグラスを薙ぎ払った。
美女たちが悲鳴を上げて逃げ出す。
「……久しぶりね、タケルくん」
その時、騒ぎを切り裂くように、凛とした声が響いた。
猛が顔を上げると、そこには一人の女が立っていた。
林優香。
かつて自分が飽きて捨てた玩具。
だが、今夜の彼女は違っていた。
安っぽい服ではなく、体のラインを強調するセクシーな黒いドレスを纏い、プロの手によるメイクで妖艶に彩られている。
その瞳は潤み、どこか儚げで、猛の嗜虐心を強烈に刺激する「弱さ」を演出していた。
「……優香? なんでテメェがここにいる」
「会いたかったの。……やっぱり私、タケルくんじゃないとダメみたい」
優香はゆっくりと近づき、猛の足元に跪いた。
上目遣い。涙ぐんだ瞳。
完璧な演技だ。井上が叩き込み、舞永が度胸をつけさせた、一世一代の大芝居。
「借金取りに追われて、住むところもなくて……。お願い、もう一度私を飼って」
優香は猛の膝に手を置き、すがりついた。
猛の歪んだ自尊心が、満たされていくのを感じる。
そうだ。俺は王だ。女たちは俺に跪き、慈悲を乞う存在なのだ。
井上に受けた屈辱を、この女で晴らせばいい。
「……へっ、都合のいい女だな」
猛は優香の顎を乱暴に掴み、上を向かせた。
「いいぜ。遊んでやるよ。……ただし、代償は高いぞ?」
「何でもするわ。……だから、お祝いさせて」
優香は背後に控えていたウェイターから、一杯のグラスを受け取った。
琥珀色のカクテル。
甘い香りがする。
「復縁の乾杯よ。……私の気持ち、飲んでくれる?」
優香がグラスを差し出す。
そのグラスの中には、山崎桃子が調合した「特製カクテル」が注がれていた。
アルコール度数の高いスピリタスをベースに、興奮剤と、ある種の幻覚作用を持つ成分をブレンドした劇薬。
猛は疑いもしなかった。
目の前の女は、自分に服従しきった弱い生き物だと思い込んでいるからだ。
「……いいだろう。もらい直してやるよ」
猛はグラスを受け取り、一気に煽った。
喉を焼く熱さ。
脳が痺れるような感覚。
「……うぐっ」
グラスが手から滑り落ち、カーペットに転がった。
視界がぐらりと歪む。
心臓の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。
ドクン、ドクン、ドクン。
「……おい、なんだこれ……熱い……」
猛は首元を掻きむしった。
体が内側から燃えているようだ。
そして、それ以上に恐ろしいことが起きていた。
精神の均衡が、音を立てて崩れていく。
普段なら、常用している精神安定剤がこの衝動を抑えてくれるはずだった。
だが、今、猛のポケットには薬がない。
茉莉が巧妙に抜き取ったことによって、猛の脳内には防波堤がなくなっていた。
桃子の薬と、薬の欠如。
二つの要因が重なり、猛の精神は暴走を開始した。
「……あ、あぁ……?」
猛の目に映る景色が変貌する。
目の前にいる優香の顔が、歪んで見える。
いや、優香ではない。泥だらけの作業服を着た男たちの顔だ。
『……お前が殺したんだ』
『コスト削減だと? ふざけるな』
『生き埋めにされた俺たちの痛みが分かるか?』
幻聴が聞こえた。
10年前。トンネル崩落事故で死なせた作業員たちの声。
猛が責任逃れのために、事故ではなく「天災」として処理し、遺族を金で黙らせた事件の亡霊たち。
心の奥底に封印していた罪悪感が、薬の作用でこじ開けられ、溢れ出していた。
「ひっ、く、来るな! お前らは事故だ! 俺は悪くない!」
猛は悲鳴を上げて飛び退いた。
だが、幻覚は消えない。
今度は、優香の背後に、冷ややかに笑う井上健太郎の顔が浮かび上がる。
『無様ですね、西園寺さん』
『貴方は裸の王様だ。誰も貴方を見ていない』
井上の声が脳内に響く。
先日、路地裏で見下ろされた時の屈辱。母親からの冷たい視線。
全てのストレスが混ざり合い、猛の中で爆発した。
「うるさい、うるさい! 俺を笑うな!」
恐怖は、やがて制御不能な攻撃衝動へと変わる。
目の前の女が、自分を嘲笑う悪魔に見えた。
「殺してやる……俺を馬鹿にする奴は全員ぶっ殺してやる!」
猛は叫び声を上げ、優香に飛びかかった。
優香は悲鳴を上げて逃げようとするが、猛の馬鹿力に押さえつけられる。
ドレスが引き裂かれる音。
「キャアァァァ! 誰か助けて!」
会場が騒然となる。
だが、誰も止めようとしない。猛の暴虐には慣れっこだからだ。
だが、今夜は違う。
バァン!!
クラブの扉が蹴破られた。
「……パーティーは終わりだ」
現れたのは、井上健太郎と森舞永。
そして、スマートフォンのカメラを構えた木村心だった。
「撮影開始。……全世界に配信中だよ、変態さん」
心がニヤリと笑う。
モニターには、目を血走らせ、涎を垂らして暴れる猛の醜態が、鮮明に映し出されていた。
同時接続数、10万人突破。
コメント欄には『何これ?』『犯罪じゃん』『警察呼べ』という文字が滝のように流れている。
「……あ、あぁ……?」
猛はカメラの光を見て、さらにパニックに陥った。
無数の目が自分を見ている。
ゴミを見るような目。蔑みの目。
それは、彼が最も恐れ、そして他人に向けてきた視線そのものだった。
「見るな! 見るなぁぁぁ!」
猛は錯乱し、近くにあったシャンパンボトルを振り回した。
破滅のダンス。
幻覚のパーティーは、クライマックスを迎えようとしていた。
井上は静かにその様子を見つめていた。
口の中にはまだ、臭豆腐の濃厚な後味が残っている。
腐りきった男が、自らの腐臭を撒き散らして自滅していく様。
それは、どんな高級料理よりも食欲をそそる、最高のメインディッシュだった。
「……舞永。仕上げだ」
「了解。……かわいそうに、楽にしてあげるわ」
舞永が前に出た。
猛獣使いの鞭が、唸りを上げてしなる時が来た。
ルームサービスが来たら間違いなく通報されるレベルの、強烈な発酵臭。
下水道の蓋を開けたような、あるいは濡れた古雑巾を煮詰めたような、鼻が曲がりそうな悪臭が充満している。
「……ボス、本気?」
森舞永が鼻をつまみ、涙目で抗議した。
足元では仔猫のハイが、空気を掻くような仕草をして、必死にソファのクッションの下に潜り込もうとしている。猫にとっても緊急事態らしい。
だが、換気扇の下に立つ井上健太郎の表情は、至って真剣だった。
目の前の中華鍋では、黒い液体に浸かった四角い物体が、ジュワジュワと音を立てて揚げられている。
『臭豆腐』。
台湾や香港の屋台で有名な、発酵豆腐料理だ。
井上は、植物性の発酵液を数ヶ月前から密かに仕込み、豆腐を漬け込んでいた。
アマンの最新鋭の換気システムを持ってしても処理しきれないその香りは、まさに「毒ガス」級だ。
「……毒を食らわば皿まで、だ」
井上は揚がった豆腐を油から引き上げた。
表面はカリッと香ばしい狐色。だが、その中心部からは、熱で活性化した発酵臭が立ち昇る。
皿に盛り付け、特製のタレ――醤油、ニンニク、酢、そして大量の豆板醤とパクチーをかける。
付け合わせは、酸味の効いた台湾風キャベツの漬物。
そして、井上が用意した酒は、ワインでもビールでもなかった。
素焼きの器に入った、無色透明な液体。
『ラクシ』。
ネパールの自家製蒸留酒だ。ヒエやアワなどの穀物を発酵させ、蒸留した強い酒。
アルコール度数は50度近い。
野性味あふれる香りと、喉を焼くような強烈な刺激。
「これより、決起集会を行う」
井上はダイニングテーブルに皿を置いた。
そこに座らされているのは、今夜の主役である林優香だ。
彼女は真っ青な顔で、目の前の臭豆腐を見つめている。
「……これを、食べるんですか?」
「そうだ。……今夜、君が飛び込む場所は、これ以上に腐った臭いのする場所だ。今のうちに鼻と胃袋を慣らしておけ」
井上はラクシを高い位置から細く注ぎ入れ、泡立たせた。こうすることで香りが開き、口当たりがまろやかになる。
「いただきます」
井上は自ら手本を示すように、熱々の臭豆腐を口に放り込んだ。
カリッ。
サクサクの皮を噛み破ると、中から熱い汁がジュワッと溢れ出す。
……美味い。
強烈な匂いは、口に入れた瞬間に芳醇な旨味へと変わる。
発酵によって分解されたタンパク質が、濃厚なチーズのようなコクを生み出し、ニンニクと唐辛子の刺激がそれを爆発させる。
そこに、度数の高いラクシを流し込む。
カッ! と喉が熱くなる。
アルコールが脂と臭みを洗い流し、強烈な陶酔感だけを残して消えていく。
「……悪魔的な味だ」
井上は息を吐いた。
腐敗と発酵は紙一重。
毒と薬も紙一重。
今夜の作戦そのものだ。
「……食べます」
優香は覚悟を決めたように箸を取り、臭豆腐を口に運んだ。
最初は顔をしかめたが、咀嚼するうちに目が見開かれる。
「……美味しい」
「だろう? 人間は、綺麗なものだけじゃ生きていけない。たまには泥を啜り、腐ったものを喰らって免疫をつける必要がある」
井上は優香にラクシを差し出した。
「飲め。……今夜の君は『復讐の女神』だ。シラフでやる必要はない」
優香はグラスを受け取り、一気に煽った。
むせ返るようなアルコール。だが、その熱さが腹の底に溜まっていた恐怖を焼き尽くしていく。
彼女の目に、強い光が宿った。
「行けます。……私、あいつを地獄に送ってきます」
六本木、会員制クラブ『バビロン』。
地下にあるその空間は、重低音のビートと紫煙、そして欲望の熱気で満たされていた。
今夜は貸し切り。
主催者は、西園寺猛。
取り巻きの起業家や半グレ、そして金で集められたモデルの美女たちが、シャンパンタワーの周りで踊り狂っている。
猛はVIP席のソファに深々と座り、両脇に美女をはべらせていた。
だが、その表情は優れない。
貧乏ゆすりが止まらず、額には脂汗が浮いている。
時折、胸ポケットを探っては舌打ちをする。
「……クソッ、どこに行きやがった」
精神安定剤がない。
いつも常備しているはずの薬ケースが、どこを探しても見当たらないのだ。
昨日の朝、屋敷を出る時には確かにあったはずなのに。
――『お出かけですか、猛様。上着をお預かりしてブラッシングいたしますわ』
昨日の朝。メイドの池田茉莉が、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたことを思い出す。
あの時か? いや、あんな完璧なメイドがミスをするはずがない。自分がどこかで落としたのか。
イライラが募る。
最近、何をやってもうまくいかない。
リゾート開発は頓挫し、母親からは「無能」と罵られ、謎の投資家・井上にはコケにされ、路地裏では女にボコボコにされた。
フラッシュバックする恐怖。
指の痛みが幻痛として蘇る。
「おい、酒だ! もっと強いのを持ってこい!」
猛は怒鳴り散らし、テーブルのグラスを薙ぎ払った。
美女たちが悲鳴を上げて逃げ出す。
「……久しぶりね、タケルくん」
その時、騒ぎを切り裂くように、凛とした声が響いた。
猛が顔を上げると、そこには一人の女が立っていた。
林優香。
かつて自分が飽きて捨てた玩具。
だが、今夜の彼女は違っていた。
安っぽい服ではなく、体のラインを強調するセクシーな黒いドレスを纏い、プロの手によるメイクで妖艶に彩られている。
その瞳は潤み、どこか儚げで、猛の嗜虐心を強烈に刺激する「弱さ」を演出していた。
「……優香? なんでテメェがここにいる」
「会いたかったの。……やっぱり私、タケルくんじゃないとダメみたい」
優香はゆっくりと近づき、猛の足元に跪いた。
上目遣い。涙ぐんだ瞳。
完璧な演技だ。井上が叩き込み、舞永が度胸をつけさせた、一世一代の大芝居。
「借金取りに追われて、住むところもなくて……。お願い、もう一度私を飼って」
優香は猛の膝に手を置き、すがりついた。
猛の歪んだ自尊心が、満たされていくのを感じる。
そうだ。俺は王だ。女たちは俺に跪き、慈悲を乞う存在なのだ。
井上に受けた屈辱を、この女で晴らせばいい。
「……へっ、都合のいい女だな」
猛は優香の顎を乱暴に掴み、上を向かせた。
「いいぜ。遊んでやるよ。……ただし、代償は高いぞ?」
「何でもするわ。……だから、お祝いさせて」
優香は背後に控えていたウェイターから、一杯のグラスを受け取った。
琥珀色のカクテル。
甘い香りがする。
「復縁の乾杯よ。……私の気持ち、飲んでくれる?」
優香がグラスを差し出す。
そのグラスの中には、山崎桃子が調合した「特製カクテル」が注がれていた。
アルコール度数の高いスピリタスをベースに、興奮剤と、ある種の幻覚作用を持つ成分をブレンドした劇薬。
猛は疑いもしなかった。
目の前の女は、自分に服従しきった弱い生き物だと思い込んでいるからだ。
「……いいだろう。もらい直してやるよ」
猛はグラスを受け取り、一気に煽った。
喉を焼く熱さ。
脳が痺れるような感覚。
「……うぐっ」
グラスが手から滑り落ち、カーペットに転がった。
視界がぐらりと歪む。
心臓の鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。
ドクン、ドクン、ドクン。
「……おい、なんだこれ……熱い……」
猛は首元を掻きむしった。
体が内側から燃えているようだ。
そして、それ以上に恐ろしいことが起きていた。
精神の均衡が、音を立てて崩れていく。
普段なら、常用している精神安定剤がこの衝動を抑えてくれるはずだった。
だが、今、猛のポケットには薬がない。
茉莉が巧妙に抜き取ったことによって、猛の脳内には防波堤がなくなっていた。
桃子の薬と、薬の欠如。
二つの要因が重なり、猛の精神は暴走を開始した。
「……あ、あぁ……?」
猛の目に映る景色が変貌する。
目の前にいる優香の顔が、歪んで見える。
いや、優香ではない。泥だらけの作業服を着た男たちの顔だ。
『……お前が殺したんだ』
『コスト削減だと? ふざけるな』
『生き埋めにされた俺たちの痛みが分かるか?』
幻聴が聞こえた。
10年前。トンネル崩落事故で死なせた作業員たちの声。
猛が責任逃れのために、事故ではなく「天災」として処理し、遺族を金で黙らせた事件の亡霊たち。
心の奥底に封印していた罪悪感が、薬の作用でこじ開けられ、溢れ出していた。
「ひっ、く、来るな! お前らは事故だ! 俺は悪くない!」
猛は悲鳴を上げて飛び退いた。
だが、幻覚は消えない。
今度は、優香の背後に、冷ややかに笑う井上健太郎の顔が浮かび上がる。
『無様ですね、西園寺さん』
『貴方は裸の王様だ。誰も貴方を見ていない』
井上の声が脳内に響く。
先日、路地裏で見下ろされた時の屈辱。母親からの冷たい視線。
全てのストレスが混ざり合い、猛の中で爆発した。
「うるさい、うるさい! 俺を笑うな!」
恐怖は、やがて制御不能な攻撃衝動へと変わる。
目の前の女が、自分を嘲笑う悪魔に見えた。
「殺してやる……俺を馬鹿にする奴は全員ぶっ殺してやる!」
猛は叫び声を上げ、優香に飛びかかった。
優香は悲鳴を上げて逃げようとするが、猛の馬鹿力に押さえつけられる。
ドレスが引き裂かれる音。
「キャアァァァ! 誰か助けて!」
会場が騒然となる。
だが、誰も止めようとしない。猛の暴虐には慣れっこだからだ。
だが、今夜は違う。
バァン!!
クラブの扉が蹴破られた。
「……パーティーは終わりだ」
現れたのは、井上健太郎と森舞永。
そして、スマートフォンのカメラを構えた木村心だった。
「撮影開始。……全世界に配信中だよ、変態さん」
心がニヤリと笑う。
モニターには、目を血走らせ、涎を垂らして暴れる猛の醜態が、鮮明に映し出されていた。
同時接続数、10万人突破。
コメント欄には『何これ?』『犯罪じゃん』『警察呼べ』という文字が滝のように流れている。
「……あ、あぁ……?」
猛はカメラの光を見て、さらにパニックに陥った。
無数の目が自分を見ている。
ゴミを見るような目。蔑みの目。
それは、彼が最も恐れ、そして他人に向けてきた視線そのものだった。
「見るな! 見るなぁぁぁ!」
猛は錯乱し、近くにあったシャンパンボトルを振り回した。
破滅のダンス。
幻覚のパーティーは、クライマックスを迎えようとしていた。
井上は静かにその様子を見つめていた。
口の中にはまだ、臭豆腐の濃厚な後味が残っている。
腐りきった男が、自らの腐臭を撒き散らして自滅していく様。
それは、どんな高級料理よりも食欲をそそる、最高のメインディッシュだった。
「……舞永。仕上げだ」
「了解。……かわいそうに、楽にしてあげるわ」
舞永が前に出た。
猛獣使いの鞭が、唸りを上げてしなる時が来た。
11
あなたにおすすめの小説
ダンジョンでオーブを拾って『』を手に入れた。代償は体で払います
とみっしぇる
ファンタジー
スキルなし、魔力なし、1000人に1人の劣等人。
食っていくのがギリギリの冒険者ユリナは同じ境遇の友達3人と、先輩冒険者ジュリアから率のいい仕事に誘われる。それが罠と気づいたときには、絶対絶命のピンチに陥っていた。
もうあとがない。そのとき起死回生のスキルオーブを手に入れたはずなのにオーブは無反応。『』の中には何が入るのだ。
ギリギリの状況でユリアは瀕死の仲間のために叫ぶ。
ユリナはスキルを手に入れ、ささやかな幸せを手に入れられるのだろうか。
クラス転移したからクラスの奴に復讐します
wrath
ファンタジー
俺こと灞熾蘑 煌羈はクラスでいじめられていた。
ある日、突然クラスが光輝き俺のいる3年1組は異世界へと召喚されることになった。
だが、俺はそこへ転移する前に神様にお呼ばれし……。
クラスの奴らよりも強くなった俺はクラスの奴らに復讐します。
まだまだ未熟者なので誤字脱字が多いと思いますが長〜い目で見守ってください。
閑話の時系列がおかしいんじゃない?やこの漢字間違ってるよね?など、ところどころにおかしい点がありましたら気軽にコメントで教えてください。
追伸、
雫ストーリーを別で作りました。雫が亡くなる瞬間の心情や死んだ後の天国でのお話を書いてます。
気になった方は是非読んでみてください。
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
最上級のパーティで最底辺の扱いを受けていたDランク錬金術師は新パーティで成り上がるようです(完)
みかん畑
ファンタジー
最上級のパーティで『荷物持ち』と嘲笑されていた僕は、パーティからクビを宣告されて抜けることにした。
在籍中は僕が色々肩代わりしてたけど、僕を荷物持ち扱いするくらい優秀な仲間たちなので、抜けても問題はないと思ってます。
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
薬師だからってポイ捨てされました!2 ~俺って実は付与も出来るんだよね~
黄色いひよこ
ファンタジー
薬師のロベルト=グリモワール=シルベスタは偉大な師匠(神様)とその脇侍の教えを胸に自領を治める為の経済学を学ぶ為に隣国に留学。逸れを終えて国(自領)に戻ろうとした所、異世界の『勇者召喚』に巻き込まれ、周りにいた数人の男女と共に、何処とも知れない世界に落とされた。
『異世界勇者巻き込まれ召喚』から数年、帰る事違わず、ロベルトはこの異世界で逞しく生きていた。
勇者?そんな物ロベルトには関係無い。
魔王が居るようだが、倒されているのかいないのか、解らずとも世界はあいも変わらず巡っている。
とんでもなく普通じゃないお師匠様とその脇侍に薬師の業と、魔術とその他諸々とを仕込まれた弟子ロベルトの、危難、災難、巻き込まれ痛快世直し異世界道中。
はてさて一体どうなるの?
と、言う話のパート2、ここに開幕!
【ご注意】
・このお話はロベルトの一人称で進行していきますので、セリフよりト書きと言う名のロベルトの呟きと、突っ込みだけで進行します。文字がびっしりなので、スカスカな文字列を期待している方は、回れ右を推奨します。
なるべく読みやすいようには致しますが。
・この物語には短編の1が存在します。出来れば其方を読んで頂き、作風が大丈夫でしたら此方へ来ていただければ幸いです。
勿論、此方だけでも読むに当たっての不都合は御座いません。
・所々挿し絵画像が入ります。
大丈夫でしたらそのままお進みください。
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる