黄金の融資実行(ファイナンス) ―2043年から戻った元銀行マン、15歳の経済覇道―

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第9話 古都の残照、あるいは情報の巡礼

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 1998年、6月。八王子の街は、梅雨特有の重く湿った空気に包まれていた。
 朝の葛石家のリビング。キッチンの窓から見える紫陽花が、雨粒を受けて鮮やかに色づいている。

「任三郎、しおりはちゃんとバッグに入れた? 忘れ物はないわね」

 朝食を並べ終えた母・美津子が、背伸びをしながら声をかけてきた。
 ノースリーブのサマーセーターに、膝丈のタイトな白スカート。30代後半という年齢を感じさせない彼女の肢体は、適度なトレーニングによって引き締まり、しなやかな曲線を際に見せている。パート先のスーパーでは、彼女がレジに立つだけで売り上げが数%上がると店長が真顔で豪語していた。近所の主婦たちが彼女の若々しさに嫉妬の視線を向け、通り過ぎる男たちが無意識に足取りを緩める。その「八王子の至宝」とも言うべき美貌は、朝の光の中でいっそう眩しく輝いていた。

「……ああ、確認済みだ。母さん」

 俺は、冷徹で理知的な貌をパンの香りに向けながら答えた。

「修学旅行くらい、もう少し楽しそうな顔をしたらどう? せっかくの京都・奈良じゃない。お父さんなんて、当時撮った写真を今でも大切に書斎に飾っているのよ」

「……歴史的建造物の維持管理状況と、観光地としての収益モデルには興味があるよ。それを見に行くという意味では、十分に有意義なイベントだ」

「もう、理屈っぽいわね。……でも、雨が降らないといいわね。はい、いってらっしゃい」

 美津子が屈託のない笑顔で送り出してくれる。
 俺はバッグを背負い、家を出た。2043年の未来では、この街の若者の姿は消え、紫陽花だけが荒れ果てた庭に咲き誇っていた。その光景を書き換えるための戦いは、修学旅行という日常の延長線上にも存在している。

 学校に到着すると、教室はいつになく騒がしかった。
 中学3年生にとっての最大行事、修学旅行が1週間後に迫っているのだ。

「いいか、静かにしろ。これから修学旅行の最終確認を行う」

 担任の先生が教壇を叩き、印刷されたばかりの『修学旅行のしおり』を配り始めた。
 手書きのイラストと、ガリ版刷り特有のインクの匂い。1998年、インターネットが普及し始めたとはいえ、学校現場の情報の共有は依然としてこの「紙の束」が主役だった。

「行程を確認するぞ。1日目と2日目は京都だ。清水寺、金閣寺、二条城……。観光地が多いから2日間に分けてじっくり回る。3日目は奈良。東大寺や奈良公園がメインだ。そして最終日は、伊勢志摩と大阪方面に向かう。志摩スペイン村で遊んだ後、新大阪から新幹線で戻る。いいな?」

 生徒たちの間から、歓声と溜息が漏れる。

「志摩スペイン村か! 去年オープンしたばかりの話題のスポットじゃねーか!」
「大阪の海遊館も行きたかったなー」

 1998年。大阪にはまだユニバーサル・スタジオ・ジャパンは影も形もないが、それでも関西方面への旅行は、地方の中学生にとって「都会と歴史の融合」を体験する最高のステージだった。

「おい任三郎! 見たか、このタイトなスケジュール! サッカーの遠征よりハードだぜ」

 隣の席で、門廻邦彦がしおりをパタパタと仰ぎながら笑いかけてきた。
 4月の朝日を受けたかのように爽やかなルックス。日焼けした肌と、常に前向きなエネルギーを放つ瞳。彼はまさに1998年という時代の「光」そのものだった。

「……邦彦。サッカーの試合は結果がすべてだが、観光はプロセスがすべてだ。行程が詰まっているのは、それだけ日本という国が『過去の遺産』の切り売りで稼ごうとしている証拠だよ」

「また難しいこと言ってる。……なぁ、3日目の奈良ってさ、ぶっちゃけ大仏以外に何があるんだ? 鹿にせんべいあげるだけで1日潰れるのかよ」

「鹿だけじゃないわよ、門廻くん」

 会話に入ってきたのは、東鶴襟華だった。
 弾けるような笑顔と知的なショートカット。
 彼女が席を立ってこちらへ歩いてくるだけで、教室の淀んだ空気が浄化されていくような錯覚を覚える。非の打ち所がない愛らしい顔立ちと、15歳らしい瑞々しさ。だが、本を愛する彼女の瞳には、同級生たちとは一線を画す深い知性が宿っていた。

「奈良には法隆寺や興福寺、それに春日大社もあるわ。法隆寺なんて世界最古の木造建築物なのよ。1000年以上も形を保っていることの凄さ、あなたなら分かるでしょ?」

「……あー、まぁ、サッカーゴールが1000年もつなら凄いと思うけどさ」

 邦彦が頭をかき、襟華がクスリと笑う。

「任三郎くんはどう思う? 奈良の鹿について」

「……鹿は一種の『生きている観光資源』だな。彼らは野生でありながら、人間が提供する『鹿せんべい』というエコシステムに完全に組み込まれている。あれは、ある種の理想的なプラットフォームビジネスの形態だよ。管理コストを鹿自らが負担し、利益を観光協会が吸い上げる」

「……鹿を見てそんなこと考えるの、世界であなただけよ」

 襟華が呆れたように、しかし楽しそうに目を細めた。

「でも、基本はクラス全員でバス移動でしょ? 二条城も金閣寺も、先生の後ろをついて歩くだけなんて、ちょっと不自由よね」

 襟華がしおりの『団体行動』の文字を指先でなぞった。
 1998年。修学旅行のスタイルは、まだ大規模な団体旅行が主流だった。各班の自由行動も限られ、学校が決めたルートを大型観光バスが数珠つなぎになって巡る。

「移動は基本、新幹線だしな! 300系か、運が良ければ最新の500系に乗れるかもしれないぜ。あの戦闘機みたいな鼻先、一度近くで見てみたかったんだよ」

 邦彦は乗り物への憧れを無邪気に語るが、襟華は少し嫌そうな顔をした。

「新幹線は速くていいけど、3時間も4時間もあの狭い座席に座っているのは嫌だわ。本を読むにしても、隣がうるさいと集中できないし。……葛石くんはどう? 移動時間」

「……移動時間は、情報の整理に充てる。1998年の新幹線は、まだモバイル環境が貧弱だ。座席にコンセントもないし、トンネルに入れば通信は途絶える。だが、だからこそ『遮断された環境』で思考を深める価値がある」

 俺は話題をさらに広げた。

「京都の景観条例についても、実際に見る価値があるな。マクドナルドの看板を茶色に変えさせ、高いビルを建てさせない。あれは、都市の利便性を犠牲にしてでも『ブランド価値』を維持しようとする、極めて高度な経済戦略だ。だが、その裏で伝統産業である西陣織や京友禅が、後継者不足と安価な輸入品に押されて死にかけている。観光地としての『ハリボテの美しさ』と、実産業の衰退。そのギャップを確認しておきたい」

「……京都がハリボテ?」

 襟華が驚いたようにこちらを見た。

「さらに言えば」

 俺は続けた。

「今回最終日に行く大阪。あそこは今、必死に脱・工業都市を図っている。2001年にはユニバーサル・スタジオ・ジャパンが開業する予定だが、今の大阪はまだ、バブル期の無秩序な開発の後遺症に苦しんでいる。海遊館周辺のウォーターフロント開発が、どれだけ市民に利益をもたらしているか。……それも興味深いな」

「……お前、本当に観光しに行く気あるのか?」

 邦彦が苦笑しながら、俺の肩を叩いた。

「あるよ。……この目で見ておく必要があるんだ。失われる前の、あるいは新しく生まれようとしている『日本の価値』をな。2043年の未来……いや、私のシミュレーションによれば、20年後の日本は、こうした観光資源すら維持できなくなっている可能性がある。今のうちに、その成功と失敗のフラグを立てておくのさ」

 放課後の予鈴が鳴り、生徒たちが部活動へと散っていく。
 俺と邦彦、そして襟華は、校門まで一緒に歩いた。

「まぁ、理屈はともかくさ。任三郎、夜の旅館は楽しみだろ? 枕投げとか、好きな奴の話とか……。俺、お前が誰を好きなのか、この旅行中に絶対聞き出すからな!」

 邦彦がいたずらっぽく笑う。

「……枕投げの運動エネルギーと、騒音による就寝時間の毀損については……」

「はいはい、わかったわよ。葛石くんは枕を投げる代わりに、計算機を投げるんでしょ?」

 襟華がチャーミングな笑顔でツッコミを入れる。
 彼女のその笑顔が、夕暮れの校門に彩りを添えていた。

「……修学旅行そのものは、観光地を見て回る良い経験になりそうだ。邦彦、お前のサッカーのスタミナが、京都の石段でどれほど通用するか試してやろう」

「おう! 望むところだぜ!」

 俺は邦彦と拳を合わせ、静かに、しかし冷酷なまでの決意を胸に秘めた。
 1998年、初夏の京都と奈良。
 それは俺にとってのノスタルジーではない。
 古都という名の「情報の集積地」へ向かう、黄金の巡礼だ。

(白金凛子の家の工場救済のための軍資金……。この旅行中に、マーケットの大きな『揺らぎ』が来るはずだ。新幹線の車中で、私はそのフラグを買い叩く)

 冷徹で底知れぬ野心を湛えた瞳を、俺は暮れゆく八王子の空に向けた。
 平和な学生生活の皮を被りながら、俺は虎視眈々と、日本の未来を救うための「レバレッジ」を探し続けている。
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