王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。

Wataru

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何も終わっていない

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扉が閉まったあと。

 男は、その場に立ち尽くしていた。

(……何なんだ)

 泣いた理由が、分からない。

 自分の言葉か。
 外套か。
 それとも――別の何かか。

 分からないことが、腹立たしかった。

 泣かせて喜ぶはずだった。
 そういう遊びのはずだった。

 相手が傷ついて、迷って、
 それでも自分から離れられなくなる。
 いつも通りの、よく知った展開。

 なのに。

(……気に入らない)

 胸に残る、このざらついた感覚が。

 男は、グラスを乱暴に置いた。
 酒の味が、いつもより薄く感じる。

(次は……)

 次に会うとき、
 同じ顔をされるとは、思えなかった。

 怯えるのか。
 距離を取るのか。
 それとも、何事もなかったように振る舞うのか。

 どれでもいいはずだった。
 なのに――

 その答えが分からないこと自体が、
 苛立ちよりも強く、意識に残っていた。

――

 その場を離れても、胸の奥のざわめきは消えなかった。

 泣くつもりなんて、なかったはずなのに。

 外套の重さが、まだ肩に残っている気がする。
 布越しに触れた指の感触も、
 低く落とされた声も。

(……どうして、あんなに苦しかったんだろう)

 捨てろと言われたから?
 それとも、返しに来た自分を否定されたから?

 どちらも、違う気がした。

 もっと、根の深いところで、
 何かがずれてしまった感覚。

 分からない。
 分からないのに、胸だけが痛む。

 泣いた理由が分からないことが、
 いちばん怖かった。

 エリナは、ぎゅっと唇を噛みしめる。

 これ以上、何かを期待してはいけない。
 もう、十分だ。

 そう思おうとするたびに、
 心のどこかで、静かに否定する声がする。

 ――終わっていない。

 その感覚に、
 ほんの一瞬だけ、胸の奥が緩んだ。

(……ほっと、してる?)

 自分でも驚いて、エリナは小さく息を詰める。

 終わらせたはずなのに。
 距離を取ると決めたはずなのに。

 それでも、
 完全に切れていないと思えたことに、
 安心してしまった自分がいる。

(……だめ)

 そんなふうに感じてはいけない。
 期待してはいけない。

 分かっているのに、
 心は、正しい方を選んでくれなかった。

 外套を返したはずの夜に、
 なぜか“何も終わっていない”気がしてしまった。

 ――終わりにしたくない、なんて。

 そんなふうに考えるのは、
 あまりにも都合がよすぎる。

 エリナは、首を振った。

 終わらせたのは、形だけで。
 本当に置き去りにされたのは――
 自分の気持ちのほうだったのかもしれない。

 ――今夜だけは。

 ほんの一晩くらい、
 期待してしまっても、いいだろうか。

 明日になったら、
 またちゃんと距離を取ろう。
 妃候補として、正しく振る舞おう。

 だから今夜だけは、
 この胸の奥の温度を、
 見なかったことにしなくていい。

 そう思った瞬間、
 胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。
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