王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。

Wataru

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頭上からの悲鳴

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午後の王宮は、穏やかな光に包まれていた。

 中庭に面した回廊では、植え替えを終えたばかりの鉢植えが整然と並び、侍女たちが行き交っている。
 エリナは、頼まれていた香草の確認を終え、籠を抱えたまま歩いていた。

 ――そのとき。

 ふいに、頭上で不穏な音がした。

 きしり、と。
 嫌な軋み。

(……?)

 反射的に顔を上げた瞬間――

「危ない!」

 鋭い声が響いた。

 次の瞬間、強い衝撃とともに、エリナの視界が大きく揺れる。
 身体が突き飛ばされ、石畳に尻もちをついた。

 ――ガシャッ!

 割れる音。
 土と陶器の破片が、飛び散る。

 少し遅れて、ざわりとした空気が広がった。

「きゃっ!」
「誰か、怪我を――!」

 エリナは、息を詰めたまま目を見開いた。

 自分のすぐ前に、倒れ込む人影。

「……ルシアン様!」

 第二王子が、地面に膝をついていた。

 額から、赤いものが流れている。
 床に落ちた雫が、はっきりと見えた。

「……っ」

 心臓が、嫌な音を立てる。

(……私の、せい)

 エリナの身体が、震えた。

 もし、庇ってくれなければ。
 もし、声をかけてくれなければ。

 あの植木鉢は――

「誰か、医師を!」
「すぐに医務室へ!」

 周囲は一気に騒然となる。

 数人の従者が駆け寄り、ルシアンを支えた。
 エリナは、立ち上がることもできず、その場に縫い止められたように立ち尽くす。

 ――今なら。

 ほんの一瞬、そんな考えがよぎった。

 触れれば。
 祈れば。

 この傷は、きっと――

(……だめ)

 喉の奥が、ひくりと鳴る。

 ここには、たくさんの人がいる。
 妃候補も、侍女も、従者も。

 誰かが、必ず見る。

(……使えない)

 エリナは、唇を噛みしめた。

 助けたい。
 今すぐ、助けたい。

 それなのに。

 足が、動かない。
 声も、出ない。

「エリナ様、大丈夫ですか?」

 誰かに肩を支えられて、はっと我に返る。

「……はい」

 返事は、かすれていた。

 担架が運ばれ、ルシアンは医務室へと急いで運ばれていく。
 その背中を見送りながら、エリナの胸の奥に、重たいものが沈んでいった。

(私のせいで……)

 使えたはずなのに。
 使わなかった。

 それが正しい判断だったのかどうか――
 今は、分からない。

 割れた鉢植えの土が、まだ床に散らばっている。
 その中に、赤い染みが混じっているのを見た瞬間、視界が揺れた。

(……私が、治せば)

 その思いを、必死で押し込める。

 今ここで動けば、何かが取り返しのつかないところへ進んでしまう。
 そんな予感だけが、はっきりとあった。

 エリナは、ぎゅっと両手を握りしめた。

 ――今は、まだ。

 そう、自分に言い聞かせる。

 けれど。

 その夜。
 医務室の灯りが消えたあと。

 エリナの胸の奥で、
 「それでも」という声が、静かに息をし始めていた。
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