王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。

Wataru

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夜の医務室

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夜の王宮は、昼間よりも音が少ない。

 回廊を照らす灯りは落とされ、遠くで時計の針が進む音だけが響いている。
 エリナは、その静けさの中を、息を殺すように歩いていた。

 向かう先は、医務室。

 分かっている。
 今さら行っても、何も変わらないかもしれない。

 それでも――

(……私のせいだから)

 昼間の光景が、何度も蘇る。

 割れる音。
 倒れ込む身体。
 床に落ちた、赤い雫。

 あの瞬間、使えたはずだった。
 それなのに、使わなかった。

(……怖かった)

 見られるのが。
 知られるのが。

 でも。

 その恐怖よりも、
 助けられなかった後悔のほうが、ずっと重く胸に残っていた。

 医務室の扉の前で、エリナは足を止める。

 中からは、微かな薬草の匂い。
 昼間の慌ただしさはもうなく、今は医師も侍女も下がっている時間だ。

(……今なら)

 誰もいない。
 見られない。

 手が、震える。

(使うつもりじゃなかった)

 ただ、様子を見に来ただけ。
 それだけのはずだった。

 そう自分に言い聞かせて、そっと扉を押す。

 軋む音を立てて、扉が開いた。



 ベッドの上で、ルシアンは眠っていた。

 額には白い布が当てられ、血はもう止まっているように見える。
 けれど、その顔色は昼間よりも青白かった。

 エリナは、ゆっくりと近づいた。

(……こんなに)

 近くで見ると、痛々しさがはっきり分かる。

 自分を庇ったせいだ。
 その事実が、胸を締めつけた。

 指先が、無意識に伸びる。

(……触れたら、だめ)

 分かっている。
 触れたら、もう引き返せない。

 それでも。

 そっと、布の端に触れた瞬間――

 胸の奥が、熱を持った。

(……あ)

 驚いて手を引こうとした、そのとき。

 熱は消えなかった。

 むしろ、ゆっくりと、確かに広がっていく。

 エリナは、息を呑んだ。

(……止まらない)

 祈ったわけでもない。
 呪文を唱えたわけでもない。

 ただ――

 「治ってほしい」と、思っただけ。

 次の瞬間。

 指先から、淡い光が滲んだ。

 強くも、眩しくもない。
 夜の灯りに紛れるほど、淡く、静かな光。

 エリナは、目を見開いた。

(……私)

 額に当てられていた布の下で、何かが変わっていく感覚が伝わる。
 触れていなくても、分かる。

 血の気が引いていた肌に、少しずつ温度が戻っていく。

 光は、数秒もしないうちに消えた。

 静寂。

 まるで、何事もなかったかのように。

 恐る恐る、布を少しだけずらす。

 そこにあったのは――

 傷の痕が、ほとんど分からない額。

 赤みすら、消えかけていた。

「……っ」

 声にならない息が漏れる。

(……治ってる)

 理解した瞬間、足から力が抜けた。

 椅子に手をついて、なんとか立っている。

(やってしまった)

 助けたかった。
 助けなければ、と思った。

 それだけなのに。

 取り返しのつかないことをした気がして、胸がざわつく。

(知られたら……)

 王子に。
 王宮に。

 何が起きるか、分からない。

 エリナは、布を元の位置に戻し、深く息を整えた。

「……ごめんなさい」

 眠るルシアンに、そう囁く。

 謝る理由も、感情も、整理できないまま。

 扉の前まで戻り、もう一度だけ振り返る。

 穏やかな寝顔。

 昼間の血の気のなさは、もうない。

(……良かった)

 それだけは、本心だった。

 エリナは、静かに扉を閉めた。

 ……終わった。

 そう思った瞬間だった。

 こめかみに、ずきりとした痛みが走る。

「……っ」

 思わず、頭を押さえた。

 まるで、さっきまで彼の頭にあった痛みが、
 そのまま移ってきたような――
 そんな感覚。

(……やっぱり)

 治した場所と、同じ。

 いつものことなのに、
 今回は少し、強い。

 気づいていないと、信じて。

 この夜に起きたことが、
 まだ誰にも知られていないと――
 信じながら。

 けれど。

 医務室の天井近く、わずかに開いた換気窓の向こう。

 そこに、
 “誰かの視線”があったことを――

 エリナは、まだ知らない。
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