2 / 42
学校へ行かない兄と妹の朝食
しおりを挟む
□
ベッドに戻っても暫くは眠れず、ようやくうとうとしてふと目を覚ますと、もう昼時のようだった。
スマートフォンを見る。
十一月六日、月曜日。十三時十六分。
もう、高校は昼休みも終わっている。
スマートフォンをぼとりと枕の横に投げ出し、一度起こした体を、また仰向けにしてひっくり返った。
母さんの気配は、階下から伝わってこない。もちろん、もう会社へ行ったのだろう。
本棚から、適当に文庫本を引っ張り出す。お気に入りの本はもう何度も読み返しているものだから、大抵表紙が傷んでいた。ページをぱらぱらとめくり、やることが見つからないでいる自分を認めて、本棚に戻す。
パジャマから部屋着に着替え、台所へ降りる。
余っていた野菜を適当に炒め、冷凍庫に入れてあったトマトスープを温めた。
階段の下まで出て、二階へ声をかける。
「咲千花。起きてるか? 何か食べる?」
返事は聞かずに台所へ戻り、パンをトースターに入れた。
野菜の香ばしい香りと、トマトらしい酸味を湛えた空気が満ちて、台所はちょっとした楽園のようだった。
外は晴れており、雨上がりの陽光は、秋らしい穏やかさで差し込んできている。
紅茶がちょうどいい水色になった時、咲千花がリビングへやってきた。モノトーンの部屋着に、長い黒髪を適当に押さえつけただけの頭。それでも、僕と違って元々愛嬌のある顔立ちのおかげで、リビングの明るさが更に増したように思えた。
「……起きてる。食べる」
上目遣いに言ってきたその言葉が、さっきの僕の問いかけへの答なのだということに、一瞬遅れて気づいた。
「じゃあ、皿を出して、野菜をトマトスープに入れてくれ。それにもう昼時だから、パンとスープだけじゃなくて卵も焼こう」
僕と妹は、これが今日一番のおお仕事だと言わんばかりに、朝食――だか昼食だか――の準備をした。
実際、今の僕たちが生活の中で受け持つ役割というのは、とても少なかった。目の前の作業に頭と体を尽くさなくては、持て余した時間に押し潰されそうだった。
リビングのテーブルに食器と料理を並べると、白い器が日の光を反射し、卵の黄色、トマトの赤、トーストの褐色が鮮やかに食卓を彩った。
ティーバッグの紅茶は安っぽいけどいい匂いで、いつもは朝だと面倒でやらないのに、この日はレモンなど切って添えてみる。
当たり前のような料理。当たり前のような時間。
向かいには咲千花が座り、小さな仕草でいただきますと唱える。
どこまでも平和で、穏やかな光景だった。
けれどそのすぐ裏側には、僕たちの罪悪感と無力感が常に漂っていた。
トーストの上にバターを伸ばし、黄金色の雫をこぼさないように気をつけてかじる。
じゅわっとした感触。小気味よい音。
こんなにも満ち足りているはずの景色の中で口にしたそれは、けれど、味があまりしなかった。
□
昼食を済ませると、僕と咲千花はそれぞれの部屋に戻った。
僕は自分の分のコーヒーを大ぶりのマグに入れて部屋に持ち込み、勉強机について読みかけの本を開く。
母さんは、僕が今年の七月に登校拒否になってから、晩秋の今日まで、小説や随筆は望んだだけ買ってくれる。ただそれが分かると、むしろ無心しづらくなった。
図書館が、夜中でもやっていればいいのに。
そう思ってしまうのは、筋違いだと分かっているけれど。
ページをめくる度に、時計の針はねじを回すように勢いよく回っていく。日が暮れ、空が夜に向かっていくのは、心地よかった。それが朝に近づいていくと、胸がざわつき始める。
今まで手をつけていなかった歴史小説は、思ったよりも読みやすく、僕は平安末期の戦乱にどんどん引き込まれていった。平家物語を下敷きにしたテンポのいい展開に、源義経を真横で見ているような感覚に陥った。
読書の合間にスマートフォンでニュースを見て、十九時過ぎに母さんが帰ってきたので咲千花と三人で夕食をとり、再び部屋に戻って本を開く。
さすがに読み疲れてうとうとし、ふと時計を見ると、十一時を回っていた。二度ほど入れ直したマグの中のコーヒーは、あと一口分を残して、すっかり冷えきっている。
そろそろ母さんが寝る頃だろう。僕は本を閉じてベッドに座り、目を閉じた。
この頃は、すっかり「いつものこと」になっていた。
体から、もう一人の自分が浮き上がっていく様子をイメージする。
最初に「これ」が起きたのは、登校拒否になった次の週の、新月の夜だった。
ここではないどこかに行きたい、知っている人が誰もいないところに行きたい、と願っていた。そうしたら、いきなり、あんなことになった。
今はもう、夜であれば、自分の意志でこの現象を制御できる。
意識がすうっと遠のいていく。
頭のてっぺんから、ただ一筋流れ落ちているか細い滝が逆流するような、体から僕の精神が上空へ抜け出す感覚。
なぜか、これは、昼間ではできない。
むき出しの魂が、天井を突き抜け、夜の空へ落下していく。
そういえば、昨日は、僕以外の「これ」をやれる人に会ったんだな。
そう思った瞬間に、僕の意識は途切れた。幽体離脱を起こして。
ベッドに戻っても暫くは眠れず、ようやくうとうとしてふと目を覚ますと、もう昼時のようだった。
スマートフォンを見る。
十一月六日、月曜日。十三時十六分。
もう、高校は昼休みも終わっている。
スマートフォンをぼとりと枕の横に投げ出し、一度起こした体を、また仰向けにしてひっくり返った。
母さんの気配は、階下から伝わってこない。もちろん、もう会社へ行ったのだろう。
本棚から、適当に文庫本を引っ張り出す。お気に入りの本はもう何度も読み返しているものだから、大抵表紙が傷んでいた。ページをぱらぱらとめくり、やることが見つからないでいる自分を認めて、本棚に戻す。
パジャマから部屋着に着替え、台所へ降りる。
余っていた野菜を適当に炒め、冷凍庫に入れてあったトマトスープを温めた。
階段の下まで出て、二階へ声をかける。
「咲千花。起きてるか? 何か食べる?」
返事は聞かずに台所へ戻り、パンをトースターに入れた。
野菜の香ばしい香りと、トマトらしい酸味を湛えた空気が満ちて、台所はちょっとした楽園のようだった。
外は晴れており、雨上がりの陽光は、秋らしい穏やかさで差し込んできている。
紅茶がちょうどいい水色になった時、咲千花がリビングへやってきた。モノトーンの部屋着に、長い黒髪を適当に押さえつけただけの頭。それでも、僕と違って元々愛嬌のある顔立ちのおかげで、リビングの明るさが更に増したように思えた。
「……起きてる。食べる」
上目遣いに言ってきたその言葉が、さっきの僕の問いかけへの答なのだということに、一瞬遅れて気づいた。
「じゃあ、皿を出して、野菜をトマトスープに入れてくれ。それにもう昼時だから、パンとスープだけじゃなくて卵も焼こう」
僕と妹は、これが今日一番のおお仕事だと言わんばかりに、朝食――だか昼食だか――の準備をした。
実際、今の僕たちが生活の中で受け持つ役割というのは、とても少なかった。目の前の作業に頭と体を尽くさなくては、持て余した時間に押し潰されそうだった。
リビングのテーブルに食器と料理を並べると、白い器が日の光を反射し、卵の黄色、トマトの赤、トーストの褐色が鮮やかに食卓を彩った。
ティーバッグの紅茶は安っぽいけどいい匂いで、いつもは朝だと面倒でやらないのに、この日はレモンなど切って添えてみる。
当たり前のような料理。当たり前のような時間。
向かいには咲千花が座り、小さな仕草でいただきますと唱える。
どこまでも平和で、穏やかな光景だった。
けれどそのすぐ裏側には、僕たちの罪悪感と無力感が常に漂っていた。
トーストの上にバターを伸ばし、黄金色の雫をこぼさないように気をつけてかじる。
じゅわっとした感触。小気味よい音。
こんなにも満ち足りているはずの景色の中で口にしたそれは、けれど、味があまりしなかった。
□
昼食を済ませると、僕と咲千花はそれぞれの部屋に戻った。
僕は自分の分のコーヒーを大ぶりのマグに入れて部屋に持ち込み、勉強机について読みかけの本を開く。
母さんは、僕が今年の七月に登校拒否になってから、晩秋の今日まで、小説や随筆は望んだだけ買ってくれる。ただそれが分かると、むしろ無心しづらくなった。
図書館が、夜中でもやっていればいいのに。
そう思ってしまうのは、筋違いだと分かっているけれど。
ページをめくる度に、時計の針はねじを回すように勢いよく回っていく。日が暮れ、空が夜に向かっていくのは、心地よかった。それが朝に近づいていくと、胸がざわつき始める。
今まで手をつけていなかった歴史小説は、思ったよりも読みやすく、僕は平安末期の戦乱にどんどん引き込まれていった。平家物語を下敷きにしたテンポのいい展開に、源義経を真横で見ているような感覚に陥った。
読書の合間にスマートフォンでニュースを見て、十九時過ぎに母さんが帰ってきたので咲千花と三人で夕食をとり、再び部屋に戻って本を開く。
さすがに読み疲れてうとうとし、ふと時計を見ると、十一時を回っていた。二度ほど入れ直したマグの中のコーヒーは、あと一口分を残して、すっかり冷えきっている。
そろそろ母さんが寝る頃だろう。僕は本を閉じてベッドに座り、目を閉じた。
この頃は、すっかり「いつものこと」になっていた。
体から、もう一人の自分が浮き上がっていく様子をイメージする。
最初に「これ」が起きたのは、登校拒否になった次の週の、新月の夜だった。
ここではないどこかに行きたい、知っている人が誰もいないところに行きたい、と願っていた。そうしたら、いきなり、あんなことになった。
今はもう、夜であれば、自分の意志でこの現象を制御できる。
意識がすうっと遠のいていく。
頭のてっぺんから、ただ一筋流れ落ちているか細い滝が逆流するような、体から僕の精神が上空へ抜け出す感覚。
なぜか、これは、昼間ではできない。
むき出しの魂が、天井を突き抜け、夜の空へ落下していく。
そういえば、昨日は、僕以外の「これ」をやれる人に会ったんだな。
そう思った瞬間に、僕の意識は途切れた。幽体離脱を起こして。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
わたしのことがお嫌いなら、離縁してください~冷遇された妻は、過小評価されている~
絹乃
恋愛
伯爵夫人のフロレンシアは、夫からもメイドからも使用人以下の扱いを受けていた。どんなに離婚してほしいと夫に訴えても、認めてもらえない。夫は自分の愛人を屋敷に迎え、生まれてくる子供の世話すらもフロレンシアに押しつけようと画策する。地味で目立たないフロレンシアに、どんな価値があるか夫もメイドも知らずに。彼女を正しく理解しているのは騎士団の副団長エミリオと、王女のモニカだけだった。※番外編が別にあります。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
結婚前夜に婚約破棄されたけど、おかげでポイントがたまって溺愛されて最高に幸せです❤
凪子
恋愛
私はローラ・クイーンズ、16歳。前世は喪女、現世はクイーンズ公爵家の公爵令嬢です。
幼いころからの婚約者・アレックス様との結婚間近……だったのだけど、従妹のアンナにあの手この手で奪われてしまい、婚約破棄になってしまいました。
でも、大丈夫。私には秘密の『ポイント帳』があるのです!
ポイントがたまると、『いいこと』がたくさん起こって……?
『 ゆりかご 』
設楽理沙
ライト文芸
- - - - - 非公開予定でしたがもうしばらく公開します。- - - -
◉2025.7.2~……本文を少し見直ししています。
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
――――
「静かな夜のあとに」― 大人の再生を描く愛の物語
『静寂の夜を越えて、彼女はもう一度、愛を信じた――』
過去の痛み(不倫・別離)を“夜”として象徴し、
そのあとに芽吹く新しい愛を暗示。
[大人の再生と静かな愛]
“嵐のような過去を静かに受け入れて、その先にある光を見つめる”
読後に“しっとりとした再生”を感じていただければ――――。
――――
・・・・・・・・・・
芹 あさみ 36歳 専業主婦 娘: ゆみ 中学2年生 13才
芹 裕輔 39歳 会社経営 息子: 拓哉 小学2年生 8才
早乙女京平 28歳 会社員
(家庭の事情があり、ホストクラブでアルバイト)
浅野エリカ 35歳 看護師
浅野マイケル 40歳 会社員
❧イラストはAI生成画像自作
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる