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ゴーストたちは言葉をかわす
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昨夜とは打って変わって、町の空は晴れていた。
市立病院は夜の黒々とした世界に、白亜の壁を高々とそびえさせている。
病院の敷地へ入った。
正面玄関の、ガラスでできた自動ドアに近づく。
僕の鼻先がガラスの表面に触れるほどに接近し、そして、そのまま自動ドアをすり抜けた。
更に歩を進めて、全身を建物の中に入れる。
幽体である僕の体は、全ての物質をすり抜けることが出来た。
その気になれば、床を下へ抜けて地下へ行くこともできるし、上方へ浮かび上がって二階へも行ける。
それでも僕は、階段を使って、生身のように進むのが好きだった。
足音は立たないし、室内灯に照らされても影もできない。誰もいない受付を通り過ぎ、病室が並ぶ二階へ上がると、すぐにナースステーションがあった。
僕の姿は人からは見えない。
静かに澱みなく手を動かして仕事をしている看護師さんの、すぐ脇を歩いて、病室へ向かった。
この市立病院は内科から外科まで幅広く見てくれる大きな病院で、この辺りの地域医療の中心地だと、小さい頃からよく聞かされている。
僕のいる病棟は、外科のそれだった。
整然と居並ぶ病室の扉の向こうには、体のどこかに大きな怪我をした人たちが寝ている。
既に僕には、勝手知ったる光景だった。
今までに入ったことのない病室のドアを選んで、またすり抜けて中に入る。
四人部屋のベッドには、それぞれ一台ずつを仕切るように長いカーテンが下ろされていた。左手前にあるベッドに近づき、カーテンをすり抜けて首を伸ばす。
僕と変わらない歳の、高校生らしい短髪の男子が、寝息を立てていた。右足に、野太いギプスが巻かれている。
僕はこの世界の物質を通り抜けることができるけれど、その気になれば触れることもできる。自分でも都合のいい話だけれど、できるのだから仕方がない。
ギプスの表面を、右手の指先でなでた。ざらついた、硬質な感触。
思い切って、指に力を込める。手のひらがギプスをすり抜けて、男子の足に届いた。
どうやら複雑骨折のようだった。彼の体の内側だけでなく、筋肉と皮膚が外側へと突き破られて、生命力の流れが滞っているのが分かる。
ダメージを負った生体ならではの不快さが、僕にも伝わってきた。
僕はその不快さを、手のひらから吸い取った。
腕の骨の中心を流れる、汚れた水を流し込まれたような、ぞっとするほど不愉快な感覚。それと引き換えに、男子の右足には、正常に生命力が循環していくのを感じた。そのまま、集中を維持して、数十秒――数分。
もう充分だろう。僕は右手を引っ込める。
右足に、鋭い痛みを感じた。
今日はここまでにしておこう。僕は病室を出た。
足の痛みのせいでうまく歩くことができず、やむなく幽霊のように(見たことはないけど)、床を滑るように移動した。
ナースステーションの前でつい頭を下げながら、階段室を下へ降りた。
自動ドアを出ると、ちょうど雨が降ってきた。今日もか、と思ったけれど、今日は幽体の僕には、濡れる心配がない。
そのまま家路につく。
これが僕が、幽体離脱して行っている日課だった。
僕は、人の怪我や病気を治すことができる。
引き換えに僕の体がダメージを負うことになるのだけど、どうした仕組みか、反動として僕が請け負う痛みは、「本家」のものよりもだいぶ軽減されることが多かった。
今日の複雑骨折も、体に戻らないと正確なところは分からないけど、ちょっと強い打ち身くらいのものになると思う。
霧雨の中を、しばらくふわふわと夜の道を進んでいると、家が見えてきた。
この時の違和感には、幽体離脱を初めてから何ヶ月も経つというのに、いまだに慣れなかった。
いつもの家と、屋根の色が違う。門扉の形が違う。
ここは、僕の家であって、僕の家ではない。
二階には僕の部屋があり、そこではきっと今頃、「僕」が眠りについているだろう。でもその体は、幽体であるこの僕が入っていた体ではない。
しばらく立ち尽くしてから、門をくぐろうとした。
その時、いきなり声をかけられた。
「ねえ。……そこに、いるの?」
振り返ると、深夜の路上で折り畳み傘を差した、高校生らしいセミロングの髪の女子が一人、はっきりと僕を見据えて立っていた。
驚いたなんてものじゃなかった。
僕が幽体離脱して町をうろつくのは決まって深夜だったけど、それなりに通行人とすれ違うことはある。それでも今までただ一人として、僕を見咎める人はいなかった。
しかも彼女は、部屋着のような格好をしている。もしかしてパジャマなのだろうか。襟と袖口から、ほっそりとした首と手首が覗いている。
「ぼんやりだけど、見えるんだよ。……あなたはもしかして、昨日の夜、病院の前にいた人?」
あ、と思わず声が出た。でもそれは、彼女には聞こえていないようだったけれど。
この人はもしかして、昨夜市立病院の横にいた、あの人影の正体なのではないか。
いや、待て、ということは。
女子高生は、小さなバッグを開けた。中からメモ帳とボールペンを取り出すと、僕に差し出した。
「……いるの? そこに」と彼女は繰り返す。
メモ帳の表紙が、霧雨に濡れていく。街灯の明かりを細かく細かく反射する粒は、彼女の顔を弱々しい光で照らしていた。
幽体の僕は、その気になれば、ものに触れることができる。――触れないこともできる。
どうする。家の中に入ってしまうか。そうすれば、さすがに追っては来ないだろう。
このペンを取れば、この人と、何らかの繋がりを持ってしまう。
そうしたらその後は、どうなるのだろう。
他人の存在は、必ず僕の世界の形を変えてしまう。今までがそうだったように、これからも。
この人は、何を考えていて、何をしようとしているのだろう。
学校に行けなくなった僕が手に入れた、僕だけが自由に歩き回れる自由な場所を、ともすれば失ってしまうのではないか。
それは今の僕にとって、言い知れぬ恐怖だった。
皆には学校がある。僕には、代わりに、この夜の世界がある。
なぜか僕に与えられた、自分だけの、不可思議な自由。他人の介入なんて考えもしなかった、僕だけの特別。その変質は、考えてもいなかっただけに、ことさらに恐ろしかった。
それでも――
僕は、おずおずと、両手を彼女の方へ伸ばした。
その理由を、言葉ではうまく説明できない。でもきっと、僕は、何かを変えたかったのだと思う。
僕がメモ帳とペンを受け取ると、彼女の体が軽く緊張した。
僕は白紙のページを開け、そこに、ゆっくりと文字を書いた。
『いる。あなたも同じなんですね』
メモ帳を返すと、彼女は息を飲んだ。それから控えめな声で、
「……で、昨夜の病院の?」
僕は一度頷いて、そこまでくっきりとは見えていないかもしれないと思いいたり、まだ手に持っていたボールペンを頭の代わりに縦に揺らした。
「やっぱり。うっすらだけど、背格好が似てると思ったんだ。……さっき、病院から出ていくところが見えた。雨が降ると、少し見えやすくなるんだね。……病院に来たのは、あなたも、入院患者を治してあげるため? 昨日はよく見えなかったけど、高校生くらいだよね?」
再びメモ帳を渡され、僕は順に答を書いていく。やはり、彼女も他人の「治療」をしているんだな、と胸中でひとりごちた。
『そうです。病気はなかなか治しにくいので、主に怪我の人をですけど』
『高校一年生です』
彼女は、渡したメモに、ゆっくりと目を通した。
「そっか。そっか。私は二年生。いっこ先輩だね」
その時、僕は、雨粒が彼女の傘を避けて少しずつ体を濡らしているのにようやく気づいた。
放っておくわけにはいかない。かといって、家に上げることはできない。深夜ということもあるけれど、それ以前に――
「私は水葉由良。……君の名前も、聞いていい?」
「五月女奏です」
「確認だけど、五月女くんも、私と同じなんだよね? つまり――」
そう。
「――つまり、自分が暮らしてるのとよく似た、でも別の世界に、幽体離脱することができるんだよね」
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