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第47話 第九章 センドウヒワコ 1
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眠れなくなってから、もうどれくらい経つだろう。
兄さんが死んでから、もうどれくらい経つのだろう。
私の家族の形は、以前とは比べ物にならないほど変わってしまった。
引っ越したからじゃない。兄さんがいなくなったからじゃない。それは、とても大きい理由の一つだけど、問題なのは、兄さんの死に方だった。その中身だった。
兄さんの死は、自殺だと報道された。自分で手首を切ったのだから、当たり前ではある。
テレビも、新聞も、週刊誌も、兄さんの死を報道はしたけれど、その取り上げ方はとてもとても小さかった。
夜煌蟲による死は、今では、交通事故とほとんど同じ扱いをされている。未成年や社会的弱者が夜煌蟲のせいで死んでしまった場合はそれなりに騒がれるけれど、それでも「よくある事故の中では悲劇性の高い出来事」という程度で、――当然ではあるけれど――殺人事件とは比べ物にならないくらい人々からの注目は弱い。
でも、兄さんは、蟲のせいで自殺したんじゃない。
殺されたのだ。
私に酷いことをした人達と、兄さんの死が蟲によるものだという噂を吹聴していた人達が同じだと知った時、私は確信した。
兄さんに夜煌蟲が取り憑いたのだとしても、それは偶然ではなく、あの人達がそう仕向けたんだ。
夜煌蟲が取り憑いていなかったのなら、それは私の身に起きたことを気に病んで、兄さんは自殺したんだ。
何の証拠もなかったけれど、私はそう信じ込んだ。そしてそれを、誰にも話はしなかった。お父さんにも、お母さんにも。決して、誰にも。
傍から見れば、危険で一方的な思い込みに過ぎないことは、私自身がよく分かっていた。人に話した途端、私は要注意人物として見られるだろう。身内に不幸のあった多感な年頃の子供が極端な妄想に取りつかれたとして、おかしな真似に走らないよう、一挙手一投足に注意を払われることになる。
それでは――困る。
今の私自身から見ても、あの時の私はおかしくなっていたと思う。
二度と思い出したくないほどおぞましいことなのに、夜眠る度に、あの日のことは悪夢の中でよみがえる。
私も浅はかだった。浮かれていた。油断があった。それは分かる。
その愚かさがいけないことだと言うのなら、そのバチくらいは当たったって構わない。でも、……もういいはずだ。もう充分、苦しんだ。
耐えられないのは、私がこんなに苦しんでいるのに、悪いことをしたはずのあの人達は、今も平気で学校に通っているのだろうということだった。
そして、私の身に何が起こったのか、それを最もよく知る私の一番の味方、兄さんがもうこの世にはいないのだということが、私の苦しみに輪をかけた。しかもその兄さんをこの世から追い出したのは、間違いなく私を手にかけたあの人達。
この絶望を、誰にも知られたくない。でも、私達に起こったことを、誰かに聞いてもらいたい。
身を切られるような辛さを打ち明けられるただ一人の味方さえ奪われて、正気でいろと言う方が無理だった。
叫び出したくなるのを無理やり抑えつけながら日々を送り、部分的に記憶を失う方法というのはないのだろうかと半ば本気で調べ始めた頃、私の家の電話に連絡が入った。
父さんも母さんも出かけていて、昼間の家には、学校を休み続けている私しかいない。あまり出たくなかったけど、仕方なく受話器を取り上げた。
「あー、ヒワコちゃんだよね。元気?」
相手は、名前も名乗らなかった。けれど、その声を忘れられるはずがなかった。
今朝もまさに私の悪夢の中に現れた、あの男の人達の中の一人。どうやって新しい家の電話番号を知ったんだろう。
一気に手のひらの中に汗が噴き出し、危うく受話器を落としそうになった。
「ヒワコちゃん引っ越しちゃってさあ、寂しいよ。良かったら、また会えないかな。もう乱暴なことはしないからさ」
喉に爪を立てて、私は込み上げる吐き気を抑えた。
何だ。
何なんだ。
なぜこの人は、平気でこんなことが言えるんだ。
私が今日まで、どんなに苦しんで来たか、分かっているのだろうか(そんなはずは無い!)。
噴き上がる感情に、私は思考能力を無くしかけたけれど、頭の片隅にほんのひとかけら残った冷静さが、ひとつの考えを私の脳に閃かせた。
――なぜこんな電話ができるのか。
――それは、つまり、味をしめているから――……だ。
私の家族は、兄さんの死をきっかけにして引っ越した。両親は、私が彼らにされたことを知らない。
彼らは、私と兄さんへの仕打ちが明るみに出て、自分達が何らかの社会的な罰を受けることに怯えたはずだ。なのに、何日過ぎても、引っ越していった家族からの告発によって警察が自分達に向かって動き出す気配が無い。
危機感が喉元を過ぎて、安堵に変わった後、彼らはこう見当をつけたに違いない。
あの千堂の妹は、泣き寝入りするたちだ――と。
だから、もう一度同じことが出来るはずだと。
自分達が何をしてやっても、あの妹はそれを親に言いつけるようなことはしない。妹と距離が近く、普段は大人しいけれど意外に気が強くて、妹を助けてしまうかも知れない兄は、もういない。そう高をくくっている。
「な、いいだろ? 今ヒワコちゃんがどこに住んでるんだか、俺らもう知ってるんだよ。何なら、明日だってそこに会いに行けるんだぜ。それよりは、家の外で会った方が良くねえ?」
嫌悪感でえづきそうになるのを、必死にこらえた。
涙声になるのを、聞かれたくなかった。
そして私は、自分の頭の中で、感情を起こすための機能を司る脳の部屋が、分厚いドアに閉ざされていくのを感じた。あの時私は、私ではなくなったんだと思う。
「……俺ら、って言いましたよね。皆さん、一緒なんですか」
「おっ? 俺と二人で会いたい?」
そのふざけた声に、私はもう腹が立つことは無かった。頭の中で瞬間的に組み上げた考えを実行に移すことだけを考えて、淡々と言葉を唇からこぼす。
「いえ、皆さん一緒の方が良いです。二人っきりで会ったら、あなたは私に、悪いことをするかも知れませんから……」
少しの間、電話の向こうの声が止まった。
彼がどうしているのか、目に浮かぶようだった。笑いをこらえているに違いない。頭の悪い女が、まんまと蜘蛛の巣に引っかかって来たので、おかしくてたまらなくて。
他にも仲間がいたら「悪いこと」なんてしないはずだと、なぜ思い込んでいるんだ。前に、俺達皆にどんな目に遭わされたか忘れたのか。ばかなガキだ――そう思っている。
「そうか、そうだよね。この間はごめんね。じゃあ、俺ら皆で待ってるからさ、どっか出て来なよ。いつにする?」
この日は、火曜日だった。必要な準備をするのに、数日はかかるだろう。私は土曜日の夜はどうかと提案し、彼はそれを――笑いながら――承諾した。
兄さんが死んでから、もうどれくらい経つのだろう。
私の家族の形は、以前とは比べ物にならないほど変わってしまった。
引っ越したからじゃない。兄さんがいなくなったからじゃない。それは、とても大きい理由の一つだけど、問題なのは、兄さんの死に方だった。その中身だった。
兄さんの死は、自殺だと報道された。自分で手首を切ったのだから、当たり前ではある。
テレビも、新聞も、週刊誌も、兄さんの死を報道はしたけれど、その取り上げ方はとてもとても小さかった。
夜煌蟲による死は、今では、交通事故とほとんど同じ扱いをされている。未成年や社会的弱者が夜煌蟲のせいで死んでしまった場合はそれなりに騒がれるけれど、それでも「よくある事故の中では悲劇性の高い出来事」という程度で、――当然ではあるけれど――殺人事件とは比べ物にならないくらい人々からの注目は弱い。
でも、兄さんは、蟲のせいで自殺したんじゃない。
殺されたのだ。
私に酷いことをした人達と、兄さんの死が蟲によるものだという噂を吹聴していた人達が同じだと知った時、私は確信した。
兄さんに夜煌蟲が取り憑いたのだとしても、それは偶然ではなく、あの人達がそう仕向けたんだ。
夜煌蟲が取り憑いていなかったのなら、それは私の身に起きたことを気に病んで、兄さんは自殺したんだ。
何の証拠もなかったけれど、私はそう信じ込んだ。そしてそれを、誰にも話はしなかった。お父さんにも、お母さんにも。決して、誰にも。
傍から見れば、危険で一方的な思い込みに過ぎないことは、私自身がよく分かっていた。人に話した途端、私は要注意人物として見られるだろう。身内に不幸のあった多感な年頃の子供が極端な妄想に取りつかれたとして、おかしな真似に走らないよう、一挙手一投足に注意を払われることになる。
それでは――困る。
今の私自身から見ても、あの時の私はおかしくなっていたと思う。
二度と思い出したくないほどおぞましいことなのに、夜眠る度に、あの日のことは悪夢の中でよみがえる。
私も浅はかだった。浮かれていた。油断があった。それは分かる。
その愚かさがいけないことだと言うのなら、そのバチくらいは当たったって構わない。でも、……もういいはずだ。もう充分、苦しんだ。
耐えられないのは、私がこんなに苦しんでいるのに、悪いことをしたはずのあの人達は、今も平気で学校に通っているのだろうということだった。
そして、私の身に何が起こったのか、それを最もよく知る私の一番の味方、兄さんがもうこの世にはいないのだということが、私の苦しみに輪をかけた。しかもその兄さんをこの世から追い出したのは、間違いなく私を手にかけたあの人達。
この絶望を、誰にも知られたくない。でも、私達に起こったことを、誰かに聞いてもらいたい。
身を切られるような辛さを打ち明けられるただ一人の味方さえ奪われて、正気でいろと言う方が無理だった。
叫び出したくなるのを無理やり抑えつけながら日々を送り、部分的に記憶を失う方法というのはないのだろうかと半ば本気で調べ始めた頃、私の家の電話に連絡が入った。
父さんも母さんも出かけていて、昼間の家には、学校を休み続けている私しかいない。あまり出たくなかったけど、仕方なく受話器を取り上げた。
「あー、ヒワコちゃんだよね。元気?」
相手は、名前も名乗らなかった。けれど、その声を忘れられるはずがなかった。
今朝もまさに私の悪夢の中に現れた、あの男の人達の中の一人。どうやって新しい家の電話番号を知ったんだろう。
一気に手のひらの中に汗が噴き出し、危うく受話器を落としそうになった。
「ヒワコちゃん引っ越しちゃってさあ、寂しいよ。良かったら、また会えないかな。もう乱暴なことはしないからさ」
喉に爪を立てて、私は込み上げる吐き気を抑えた。
何だ。
何なんだ。
なぜこの人は、平気でこんなことが言えるんだ。
私が今日まで、どんなに苦しんで来たか、分かっているのだろうか(そんなはずは無い!)。
噴き上がる感情に、私は思考能力を無くしかけたけれど、頭の片隅にほんのひとかけら残った冷静さが、ひとつの考えを私の脳に閃かせた。
――なぜこんな電話ができるのか。
――それは、つまり、味をしめているから――……だ。
私の家族は、兄さんの死をきっかけにして引っ越した。両親は、私が彼らにされたことを知らない。
彼らは、私と兄さんへの仕打ちが明るみに出て、自分達が何らかの社会的な罰を受けることに怯えたはずだ。なのに、何日過ぎても、引っ越していった家族からの告発によって警察が自分達に向かって動き出す気配が無い。
危機感が喉元を過ぎて、安堵に変わった後、彼らはこう見当をつけたに違いない。
あの千堂の妹は、泣き寝入りするたちだ――と。
だから、もう一度同じことが出来るはずだと。
自分達が何をしてやっても、あの妹はそれを親に言いつけるようなことはしない。妹と距離が近く、普段は大人しいけれど意外に気が強くて、妹を助けてしまうかも知れない兄は、もういない。そう高をくくっている。
「な、いいだろ? 今ヒワコちゃんがどこに住んでるんだか、俺らもう知ってるんだよ。何なら、明日だってそこに会いに行けるんだぜ。それよりは、家の外で会った方が良くねえ?」
嫌悪感でえづきそうになるのを、必死にこらえた。
涙声になるのを、聞かれたくなかった。
そして私は、自分の頭の中で、感情を起こすための機能を司る脳の部屋が、分厚いドアに閉ざされていくのを感じた。あの時私は、私ではなくなったんだと思う。
「……俺ら、って言いましたよね。皆さん、一緒なんですか」
「おっ? 俺と二人で会いたい?」
そのふざけた声に、私はもう腹が立つことは無かった。頭の中で瞬間的に組み上げた考えを実行に移すことだけを考えて、淡々と言葉を唇からこぼす。
「いえ、皆さん一緒の方が良いです。二人っきりで会ったら、あなたは私に、悪いことをするかも知れませんから……」
少しの間、電話の向こうの声が止まった。
彼がどうしているのか、目に浮かぶようだった。笑いをこらえているに違いない。頭の悪い女が、まんまと蜘蛛の巣に引っかかって来たので、おかしくてたまらなくて。
他にも仲間がいたら「悪いこと」なんてしないはずだと、なぜ思い込んでいるんだ。前に、俺達皆にどんな目に遭わされたか忘れたのか。ばかなガキだ――そう思っている。
「そうか、そうだよね。この間はごめんね。じゃあ、俺ら皆で待ってるからさ、どっか出て来なよ。いつにする?」
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