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第50話 第九章 センドウヒワコ 4
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結果から言えば、それから何日経っても、警察が私の元に来ることはなかった。
五人の死は、普段から夜平気で外をふらついて回っている不良達が、不運にもまとまった夜煌蟲に襲われて入水自殺を図ったのだ、というストーリーで世の中に解釈された。
私は罰を受けなくて済んだことに安堵して、日々、徐々に五人の死の記憶が街から薄れて行くのを見つめていた。
でも、それで全てが解決したわけじゃなかった。
一人静かに部屋に閉じこもっているように見えても、私の頭の中では、罪悪感と強迫観念が毎日激しく渦を巻いていた。
あの五人は、私のせいで死んだ。でもそれが世間に知られることは、このままだと永遠にない。
私は、永遠に裁かれることはない。
それは、――あの五人が兄さんにしたことと、同じじゃないのか。
新しい苦悩が、私の頭蓋骨の中に誕生してしまった。
これまでに私が抱えていた無念は、あの五人という敵がいることで、明確な攻撃対象を見据えていた。けれど、今は違う。
あの五人は、私のせいでこの世から消えた。他の誰の手も加わっていない。真実が知られないのなら、このことを知っているのはこの世でただ一人、私だけということになる。
辛い。
誰かに聞いて欲しい。
あの夜の公園での出来事を、余談や先入観無しで、とにかく私の口からことのあらましを聞いて欲しい。
何のアドバイスも、手助けも、解釈も、理解も、何ひとつしてくれなくて構わない。ただ、聞いて欲しい。私の話を、ただ。
ほとんど登校出来ていない新しい学校には、気を許せるクラスメイトなんていない。ろくに顔も覚えていない担任の先生になんて、とても頼れない。前に通っていた中学なら仲の良い子はいたけど、今更、こんな話を聞いてもらう気にはなれない。ただでさえ兄さんを失った私に、どう接して良いか分からないだろうし、更に余計な負担をかけたくない。
誰か。
誰か。
お父さんとお母さんには、特にこんなことを打ち明けるのは無理だ。自分の親を信用していないんじゃない。でもやっぱり、子供と大人は違う生き物だと思う。私の告白を聞いて、私のためを思うからこそ両親が取る行動は、私が望むものとは決定的に違う気がする。それで私と両親との間に溝が生まれてしまったら、もう私の居場所は無くなってしまう。
それに、今回のことを話すには、私がどうしてあの五人に呼び出されて出て行ったのか、それを説明しなくちゃならなくなる。どうしても、自分の口で、その原因を説明するのは嫌だった。これからもすぐ傍で生き続けて行く家族だからこそ、あんなことは知られたくなかった。絶対に。
二人は、私の告白を正面から受け止めてくれるだろう。心から悲しんで、これからの私の人生が理不尽に不幸なものにならないように、全力を尽くして私を助けてくれるはずだ。
でも、毎朝目が覚めておはようを言う度に、午後のリビングで顔を合わせる度に、一日の終わりにお休みを言う度に、二人の頭には私が何をされた人間なのか、嫌でも思い浮かぶ。そして私は、それを痛いほど知りながら、何も見なかった振りをして日常めいたかりそめの日常を過ごすのだ。
そんな生活が平気で続けられる気がしない。何日もしない内に、私の精神は限界を迎えるに違いない。
私には、他人が必要だった。
私の話を聞いてくれて、面白がるでも好奇心をうずかせるでもなく、ただ受け止めて、悲しんでくれる他人が。
毎日隣で生活を送る家族ほど近くなく、日々の学校生活を分かち合うような関係でもなく、でもお互いにどうでも良いというほど遠くもなく、信頼を抱き合って、私が弱っている時には傍に来てくれて、一人でも大丈夫な時には距離を空けて見守ってくれる。そんな、他人が。
都合が良過ぎる。
そんな人が、そうそういるはずがない。
充分過ぎるくらい、私にだってそれくらい分かってる。
でもこのまま、私が一人で真実を抱えながら生きて行くのは不可能だということも、同じくらい目に見えていた。
誰か。
誰か。
私と、真実を分かち合ってくれる人。
一人でなんて生きて行けない。
どうか。
どうか。
両親がいても、家があっても、自分さえ頑張って学校に行けば友達も作れるとしても、今のままじゃ、どこまでも私は一人のままだ。
誰か。
誰か――……
それから、自分の抱えた膝で窒息しそうなくらい、苦しい日々が続いた。
学校には、ぽつりぽつりと通い始めた。現状を打破しようなどという前向きな気持からではなくて、このまま引きこもってしまえば、いよいよ私の未来は閉ざされてしまうという恐怖がその動機だった。
でも特別親しい友達を作る気にもなれなくて、機械的に登校しては、ほとんど人と口をきかずに下校する。そして、一週間に一日か二日は自主休校した。
何日。
何週間。
何カ月。
段々月日の感覚も薄れて来た頃。
夜、布団にくるまりながら携帯電話でニュースを見ていた私の目に、以前住んでいた街での大事件が飛び込んで来た。
いつもはニュースなんて見ていても表示されるヘッドラインを目でなぞるだけで、その中身なんて大して意識したりしない。ただ、何もしないでいるのに耐えられないから、光る液晶画面を操作して無為に時間を潰しているだけだ。
でもこのニュースはさすがに、気になった。事件の舞台になった高校は、兄さんの通っていたところだった。
夜煌蟲の大発生による、学校内の大量死。当時学校の中にいて助かった人間はほんのわずかだったらしい。
あの人は――大丈夫だったのだろうか。
兄さんと仲の良かった、優しくて心の強そうなあの人。
久し振りに思い出すと、兄さんの生きていた、楽しかった日々の記憶も蘇って来た。
私の目から、もういつ以来だかも思い出せないくらいの、涙が流れた。
私はまだ、生きている。でもやっぱり、死んでいないだけでもある。
夜煌蟲の騒ぎのついでに、五人の死の真相を世の中に伝えて、私も死んでしまおうか。
でも今の私には、そんな力も残っていなかった。
それから更に数週間が過ぎた頃、季節は冬になっていた。
ある平日の昼間に、リビングで電話が鳴った。
お父さんもお母さんも出かけていて、家には学校を休んだ私しかいない。その私はもちろん、自分の部屋にこもっている。
誰にも取られない電話は、随分長い時間鳴り続けた。
一旦切れ、やれやれと思っていたら、すぐにまた鳴り出す。
延々と無視しても良かったけど、何となく放っておけない気持ちになって、私はのろのろとリビングへ入ると、受話器を取り上げた。
ふと、前に電話を取って、あの五人と会うことになったのを思い出す。
鳥肌が、ふくらはぎから肩まで一息に走った。喉の奥から、胃液の匂いがこみ上げる。
このまま切ってしまおうかと思った。けれど、腕の筋肉が凍り付いたように動かなかった。
ハイとも何とも言わないで私が立ち尽くしていると、受話器の向こうで、相手が名乗った。
聞き覚えのある声だった。
聞いたことのある名前だった。
何かの間違いではないかと思った。夢を見ているのか、とうとう幻聴が聞こえ出したのではないかと疑った。
その人は、私を今まで一人にしていて申し訳なかったと謝って来た。
私は震える声でかろうじて、両親もいますし一人ではなかったですよ、と答えた。
「でも、大人には聞いてもらえない話だってあると思う。僕は男だし、君とは全然性格も違うから、何が分かるわけでもないかもしれないけど、それでも――」
――君を助けたいんだ。僕なりに。どうしても。
電話の声は、はっきりとそう言った。
ああ。やっぱり私は、夢を見てるんだ。そうに、そうに決まってる。
その人は、私さえ良ければ、近いうちに会えないだろうかと伝えて来た。
私は「全然問題ありません大丈夫です」と早口に答える。
待ち合わせは、次の日曜日に決まった。電話の横に置いてあるメモ用紙に場所と時間を書きつけ、復唱し、頬を高潮させながら、私の携帯電話の番号を伝え、向こうのそれも教えてもらう。
私は久し振りに――随分と久し振りに、普通の中学生に戻っていた。
私はふと気になり、夜煌蟲の事件のことを聞いてみた。
驚くべきことに、その人は事件の当事者で、あの夜学校の中にいた、数少ない生き残りだった。
「同じ事件で生き残った、僕のことを助けてくれた人がいるんだ。一度は蟲に取り憑かれた僕をね。そうでなければ、僕はあのまま死んでいた」
この人にも、私の知らない大切な繋がりがあるんだ。当たり前のことだけど、改めてそう意識した時、私を取り巻く世界は今の私が感じているよりも、ずっと広いんだと思った。
今日この電話が無ければ、私の世界はまだ閉じたままだった。この人を――一坂さんを助けることで、私の世界との繋がりも救ってくれた人がいる。
不思議な感覚だった。他人に興味が湧くことなんて、学校さえ機械的に通っている私には、もう無いんじゃないかとさえ思っていた。
「あの、……私」
「うん?」
「その人に、会ってみたいです。どんな人なんですか」
「え、その人? どんなって、えーとね、そう、とっても良い奴なんだけど、あんまり人付き合いは得意じゃない子で、初対面だと誤解されがちな程度には無愛想だけど……ああ、でも最近はましになったかな……」
子?
「女子なんですか」
「ああ、そうだよ。同じ部の子」
「仲が良いんですか」
「まあ、そこそこ……のつもり。僕はね」
「やっぱり、会って、みたいです」
一坂さんが、高校でどんな女子と仲が良いのか、さっきまでとは別の興味が湧いて来た。
「可愛い感じですか」
「女子力的な意味で聞いてるんならあんまり期待しないほうがいいけどでも僕がそう言ったってことは内緒にしといてお願い」
それから他愛のないやり取りをして、結局三人で会うことを約束し、電話は終わった。
時間にして、十分くらい。珍しく人と長く話したので、喉が少しひりひりした。
電話の後半は、ほとんど内容の無い、しなくてもいい話だった。
でも、楽しかった。
そういえば、日常って、こういうものだったかもしれない。
部屋へ戻る足取りは、体重が何キロか減って小さな羽でも生えたみたいに軽い。
何かを待ち遠しく感じるということが、とても新鮮に感じた。
早く日曜日が来るといい。
早く、早く。
五人の死は、普段から夜平気で外をふらついて回っている不良達が、不運にもまとまった夜煌蟲に襲われて入水自殺を図ったのだ、というストーリーで世の中に解釈された。
私は罰を受けなくて済んだことに安堵して、日々、徐々に五人の死の記憶が街から薄れて行くのを見つめていた。
でも、それで全てが解決したわけじゃなかった。
一人静かに部屋に閉じこもっているように見えても、私の頭の中では、罪悪感と強迫観念が毎日激しく渦を巻いていた。
あの五人は、私のせいで死んだ。でもそれが世間に知られることは、このままだと永遠にない。
私は、永遠に裁かれることはない。
それは、――あの五人が兄さんにしたことと、同じじゃないのか。
新しい苦悩が、私の頭蓋骨の中に誕生してしまった。
これまでに私が抱えていた無念は、あの五人という敵がいることで、明確な攻撃対象を見据えていた。けれど、今は違う。
あの五人は、私のせいでこの世から消えた。他の誰の手も加わっていない。真実が知られないのなら、このことを知っているのはこの世でただ一人、私だけということになる。
辛い。
誰かに聞いて欲しい。
あの夜の公園での出来事を、余談や先入観無しで、とにかく私の口からことのあらましを聞いて欲しい。
何のアドバイスも、手助けも、解釈も、理解も、何ひとつしてくれなくて構わない。ただ、聞いて欲しい。私の話を、ただ。
ほとんど登校出来ていない新しい学校には、気を許せるクラスメイトなんていない。ろくに顔も覚えていない担任の先生になんて、とても頼れない。前に通っていた中学なら仲の良い子はいたけど、今更、こんな話を聞いてもらう気にはなれない。ただでさえ兄さんを失った私に、どう接して良いか分からないだろうし、更に余計な負担をかけたくない。
誰か。
誰か。
お父さんとお母さんには、特にこんなことを打ち明けるのは無理だ。自分の親を信用していないんじゃない。でもやっぱり、子供と大人は違う生き物だと思う。私の告白を聞いて、私のためを思うからこそ両親が取る行動は、私が望むものとは決定的に違う気がする。それで私と両親との間に溝が生まれてしまったら、もう私の居場所は無くなってしまう。
それに、今回のことを話すには、私がどうしてあの五人に呼び出されて出て行ったのか、それを説明しなくちゃならなくなる。どうしても、自分の口で、その原因を説明するのは嫌だった。これからもすぐ傍で生き続けて行く家族だからこそ、あんなことは知られたくなかった。絶対に。
二人は、私の告白を正面から受け止めてくれるだろう。心から悲しんで、これからの私の人生が理不尽に不幸なものにならないように、全力を尽くして私を助けてくれるはずだ。
でも、毎朝目が覚めておはようを言う度に、午後のリビングで顔を合わせる度に、一日の終わりにお休みを言う度に、二人の頭には私が何をされた人間なのか、嫌でも思い浮かぶ。そして私は、それを痛いほど知りながら、何も見なかった振りをして日常めいたかりそめの日常を過ごすのだ。
そんな生活が平気で続けられる気がしない。何日もしない内に、私の精神は限界を迎えるに違いない。
私には、他人が必要だった。
私の話を聞いてくれて、面白がるでも好奇心をうずかせるでもなく、ただ受け止めて、悲しんでくれる他人が。
毎日隣で生活を送る家族ほど近くなく、日々の学校生活を分かち合うような関係でもなく、でもお互いにどうでも良いというほど遠くもなく、信頼を抱き合って、私が弱っている時には傍に来てくれて、一人でも大丈夫な時には距離を空けて見守ってくれる。そんな、他人が。
都合が良過ぎる。
そんな人が、そうそういるはずがない。
充分過ぎるくらい、私にだってそれくらい分かってる。
でもこのまま、私が一人で真実を抱えながら生きて行くのは不可能だということも、同じくらい目に見えていた。
誰か。
誰か。
私と、真実を分かち合ってくれる人。
一人でなんて生きて行けない。
どうか。
どうか。
両親がいても、家があっても、自分さえ頑張って学校に行けば友達も作れるとしても、今のままじゃ、どこまでも私は一人のままだ。
誰か。
誰か――……
それから、自分の抱えた膝で窒息しそうなくらい、苦しい日々が続いた。
学校には、ぽつりぽつりと通い始めた。現状を打破しようなどという前向きな気持からではなくて、このまま引きこもってしまえば、いよいよ私の未来は閉ざされてしまうという恐怖がその動機だった。
でも特別親しい友達を作る気にもなれなくて、機械的に登校しては、ほとんど人と口をきかずに下校する。そして、一週間に一日か二日は自主休校した。
何日。
何週間。
何カ月。
段々月日の感覚も薄れて来た頃。
夜、布団にくるまりながら携帯電話でニュースを見ていた私の目に、以前住んでいた街での大事件が飛び込んで来た。
いつもはニュースなんて見ていても表示されるヘッドラインを目でなぞるだけで、その中身なんて大して意識したりしない。ただ、何もしないでいるのに耐えられないから、光る液晶画面を操作して無為に時間を潰しているだけだ。
でもこのニュースはさすがに、気になった。事件の舞台になった高校は、兄さんの通っていたところだった。
夜煌蟲の大発生による、学校内の大量死。当時学校の中にいて助かった人間はほんのわずかだったらしい。
あの人は――大丈夫だったのだろうか。
兄さんと仲の良かった、優しくて心の強そうなあの人。
久し振りに思い出すと、兄さんの生きていた、楽しかった日々の記憶も蘇って来た。
私の目から、もういつ以来だかも思い出せないくらいの、涙が流れた。
私はまだ、生きている。でもやっぱり、死んでいないだけでもある。
夜煌蟲の騒ぎのついでに、五人の死の真相を世の中に伝えて、私も死んでしまおうか。
でも今の私には、そんな力も残っていなかった。
それから更に数週間が過ぎた頃、季節は冬になっていた。
ある平日の昼間に、リビングで電話が鳴った。
お父さんもお母さんも出かけていて、家には学校を休んだ私しかいない。その私はもちろん、自分の部屋にこもっている。
誰にも取られない電話は、随分長い時間鳴り続けた。
一旦切れ、やれやれと思っていたら、すぐにまた鳴り出す。
延々と無視しても良かったけど、何となく放っておけない気持ちになって、私はのろのろとリビングへ入ると、受話器を取り上げた。
ふと、前に電話を取って、あの五人と会うことになったのを思い出す。
鳥肌が、ふくらはぎから肩まで一息に走った。喉の奥から、胃液の匂いがこみ上げる。
このまま切ってしまおうかと思った。けれど、腕の筋肉が凍り付いたように動かなかった。
ハイとも何とも言わないで私が立ち尽くしていると、受話器の向こうで、相手が名乗った。
聞き覚えのある声だった。
聞いたことのある名前だった。
何かの間違いではないかと思った。夢を見ているのか、とうとう幻聴が聞こえ出したのではないかと疑った。
その人は、私を今まで一人にしていて申し訳なかったと謝って来た。
私は震える声でかろうじて、両親もいますし一人ではなかったですよ、と答えた。
「でも、大人には聞いてもらえない話だってあると思う。僕は男だし、君とは全然性格も違うから、何が分かるわけでもないかもしれないけど、それでも――」
――君を助けたいんだ。僕なりに。どうしても。
電話の声は、はっきりとそう言った。
ああ。やっぱり私は、夢を見てるんだ。そうに、そうに決まってる。
その人は、私さえ良ければ、近いうちに会えないだろうかと伝えて来た。
私は「全然問題ありません大丈夫です」と早口に答える。
待ち合わせは、次の日曜日に決まった。電話の横に置いてあるメモ用紙に場所と時間を書きつけ、復唱し、頬を高潮させながら、私の携帯電話の番号を伝え、向こうのそれも教えてもらう。
私は久し振りに――随分と久し振りに、普通の中学生に戻っていた。
私はふと気になり、夜煌蟲の事件のことを聞いてみた。
驚くべきことに、その人は事件の当事者で、あの夜学校の中にいた、数少ない生き残りだった。
「同じ事件で生き残った、僕のことを助けてくれた人がいるんだ。一度は蟲に取り憑かれた僕をね。そうでなければ、僕はあのまま死んでいた」
この人にも、私の知らない大切な繋がりがあるんだ。当たり前のことだけど、改めてそう意識した時、私を取り巻く世界は今の私が感じているよりも、ずっと広いんだと思った。
今日この電話が無ければ、私の世界はまだ閉じたままだった。この人を――一坂さんを助けることで、私の世界との繋がりも救ってくれた人がいる。
不思議な感覚だった。他人に興味が湧くことなんて、学校さえ機械的に通っている私には、もう無いんじゃないかとさえ思っていた。
「あの、……私」
「うん?」
「その人に、会ってみたいです。どんな人なんですか」
「え、その人? どんなって、えーとね、そう、とっても良い奴なんだけど、あんまり人付き合いは得意じゃない子で、初対面だと誤解されがちな程度には無愛想だけど……ああ、でも最近はましになったかな……」
子?
「女子なんですか」
「ああ、そうだよ。同じ部の子」
「仲が良いんですか」
「まあ、そこそこ……のつもり。僕はね」
「やっぱり、会って、みたいです」
一坂さんが、高校でどんな女子と仲が良いのか、さっきまでとは別の興味が湧いて来た。
「可愛い感じですか」
「女子力的な意味で聞いてるんならあんまり期待しないほうがいいけどでも僕がそう言ったってことは内緒にしといてお願い」
それから他愛のないやり取りをして、結局三人で会うことを約束し、電話は終わった。
時間にして、十分くらい。珍しく人と長く話したので、喉が少しひりひりした。
電話の後半は、ほとんど内容の無い、しなくてもいい話だった。
でも、楽しかった。
そういえば、日常って、こういうものだったかもしれない。
部屋へ戻る足取りは、体重が何キロか減って小さな羽でも生えたみたいに軽い。
何かを待ち遠しく感じるということが、とても新鮮に感じた。
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