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第四章 5
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次の日。
目が覚めると、アルトは、のろのろと制服に着替た。
父親は、いつもアルトが目覚める前に出掛けている。制服を汚さないように気を付けながら目玉焼きをかじり、トーストを飲み込んで、アルトは家を出た。
昨日はどうかしていた。ハムスターはすぐに治した。でももうあの小さな生き物は、アルトのことを嫌悪すべき敵を見る目でしか見なくなっていた。おかげで、アルトは今日も朝から寒々しい気分を抱えている。
ハムスターを傷つけると、必ず思い出す嫌な記憶がある。あれはアルトがまだ、小学二年生の頃だった。初めてハムスターの外傷を治す訓練をすることになり、手ごろな一匹を、父親がアルトに渡した。初めての生物は施術の前によく対象を観察した方がよいという
ことで、その一匹は飼育室でなく、アルトの部屋で飼うことになった。
アルトはそのハムスターにアムという名前を付け、普通のペットのように扱い、撫で、手に乗せ、餌をやって喜び、糞の掃除を楽しんだ。
そのハムスターが、一週間後、いよいよ訓練に使われることになった。父親に見立てでは、メスで背中に入れた傷くらい、当時のアルトならば余裕をもって治せるはずだった。
しかしアルトは、血を流すアムの名前を呼び、動転して、繭を扱うどころではなかった。
結局訓練は失敗し、アムは死んでしまった。
「治療対象を、一個の生命体以上のものと意識するな」
父親はそうアルトに諭した。それは今後アルトが繭使いとしての能力を収めていくにあたって、必要な概念だったかもしれない。しかし、手のひらの上で冷たくなっていくアムの感触に打ちのめされていたアルトに、それが届いたとは言えなかった。
この時のことを思い出し、アルトの気分はますますふさぐ。
「学校って、行かなかったらどうなるのかな。どうってことないか」
そう口に出すと、もう登校する気がしない。
目的地があるわけではないので、冷えた朝の空気の中をふらふら歩いていると、始業時間がやって来て、そしてあっさりと過ぎた。
平日午前中の町中というのはあまり歩いたことがなかったので、ありふれた住宅街もそれなりに新鮮ではある。気が付けば、歩き慣れた道をなぞり、アルトはクツナの家の近くまで来ていた。
「アルト君?」
いきなり名前を呼ばれ、振り向くと、クツナの母親、御格子キクノが道に立っていた。
歩道があるような大きな道路ではないので、道端の塀に寄りながら歩いてきたキクノは、手にコンビニの袋を提げている。
「学校は、サボりました。生まれて初めて」
何か聞かれる前に、そう言ってやる。するとキクノは驚くでもなく、
「行くところがないなら、うちにでも来る? クツナもおじさんもいないけど」
と言って、すたすたとアルトに歩み寄り、いたずらっぽい口調で耳打ちした。
「おじさんね、今日は会社を休んで、繭使いの仕事に行ってるの。午前中には帰ってくる予定だから、いないうちの方が気楽でしょう」
そろそろ、アルトの足も疲れ始めていた。特に何を考えるでもなく、歩き出したキクノに着いていく。
勝手知ったる御格子家の中、居間のソファに、二人は向かい合って腰かけた。
「お茶でいいかな」
「ええ。コーヒー、飲めないので」
「私もなの。うちの男二人は、すっかりコーヒー党だけど」
テレビもつけず、他に人もいないので、家の中は妙に静かだった。暖房がつき、快適なはずの部屋が、奇妙な圧迫感を持っている。
「どうして今日は学校を休んだの。なんて、聞いてもいいかな」
「特に理由はないです。ただ、必ずしも行かなくてもいいものなんじゃないか、と思っただけで」
「気になっているのは、何かもっと別のことなのね」
そう言われて、アルトは今までになく激しく、クツナの母親に対して嫌悪を覚えた。なぜ――と自問するが、分からない。
最近の自分はおかしい。今までずっと、クツナの両親には親しみを感じこそすれ、不快に思ったことなどなかったのに。
「アルト君、クツナよりずっと大人びていると思う。だから、あの子には思い至らないような悩みがあるんじゃない?」
キクノの顔には、慈しむような表情が浮かんでいた。そこには善意しかなかった。それなのに、アルトの感情はさらに、負の方向に高ぶった。
――知ったようなことを言うな。
――僕のことも、クツナのことも。
――親だからって、大きな顔をして。
アルトは昨夜のハムスターを思い出した。眼に力を込めて、キクノの繭を可視化する。あのネズミと同じくらい、無防備だ。今すぐにでも、どうにでもできてしまう。なぜこんなに油断しているのか。
「キリちゃんもいい子だけど、男の子と女の子じゃ、分からないこともあると思うから。
クツナが、アルト君のことを助けてあげられるといいんだけど」
アルトは、生まれてから今までの中で、この頃が最も不安定だった。
だから、何を言われても素直に受け取ることは難しかった。しかしキクノの、クツナの無力を訴えるような言い方と、結局はクツナを手中に収めている親としての余裕のようなものが、とりわけアルトを胸中で激昂させた。
表には出さなかったが、既にこの時、アルトの精神は荒波に揉まれる難破船のようだった。
ふと思いつく。
目の前にいる母親、それに父親とキリ。
この三人がいなくなったら、クツナはどうなるだろうか。アルト以外に、心を許せる人間のいなくなったクツナは。
アルトは幼少の頃から、生き物の繭に触れてきた。父親の手伝いとして、この頃には何例も人間の繭も繰っていた。それを通じて、人間の心や体の変質は、あまりにも容易なものなのだと感じていた。アルトは、父親が人間のありようを直接的に変化させる様を見慣れ過ぎていた。そして、父親譲りの技術も身につきつつあった。
少年は感情的になっていた。それぞれの人間関係が作る孤独の中で、失うものに、取り残されることに、怯えていた。屈辱に怒っていた。欲しいものを求め、飢えていた。必要なものとそうでないものとの間で、半ば自暴自棄になっていた。
そこに、こうしてやったらどうなるだろうという好奇心が噴出した。
自制心は、不安定さの中で、あまりにも無力だった。
お茶のお代わりを入れようと、キクノが席を立つ。その背中の無防備さが、最後の後押しをした。
アルトは立ち上がった。異変を察したキクノが振り向く前に、アルトの両手がキクノの繭に突っ込まれた。
十指が弾け飛びそうな激痛が、アルトの神経に突き刺さる。しかし、痛覚から生理反応を遮断する技術を、アルトは父親から与えられていた。どんなに強い痛撃があろうと、指は何の影響もなく動く。アルトは、周囲の誰もが思っていた以上に、繭使いとして優れていた。そうでなければ、この時、ことは全く違う結果になっていたかもしれない。
息子の友人を相手に油断しきり、心を開いていたキクノには、アルトにとって防御などないも同然だった。
硬直しているキクノの、その繭の中枢に、ものの数秒でアルトはたどり着く。
まず、精神の防衛機構を解除する。これの調節次第で、どんなに精神的にタフな人間であっても、偶然聞いた陰口ひとつで膝を屈するようになる。アルトはキクノのそれを、調節どころか、ゼロにした。
どんな人間にも、人生の中での後悔、失敗による哀切、人間関係による痛苦がある。それらが、心の傷に対抗する術を失ったキクノの精神に流れ込んでいくのが、アルトには見えた。
キクノがどんなに楽天家でも、強靭な気力があっても、明朗な性格でも、もはや何の関係もない。
この状態に陥った人間がたどる道は、ひとつだった。
汚物で汚れた手袋を脱ぎ捨てるかのように、アルトはキクノの繭から手を引き抜いた。
指は切れていないようだったが、凄まじいダメージがある。普通なら、一本や二本は失っていてもおかしくない施術だった。
「過去には、直接心臓すら止められる繭使いもいたそうですが、僕などでは、これが限界ですね」
荒い息をつきながらアルトが吐き捨てても、その場にただくず折れたキクノは、起き上がるそぶりも見せない。
それ以上は言葉も告げず、アルトは居間を出た。気分が悪い、どころではない。視界が揺れ、まっすぐ歩けず、壁に手をつく。
吐き気がこみ上げ、そのまま胃液が口からこぼれた。
――何をした。
涙も出ている。胃液には、泡になった唾液が混じった。
今はまだ興奮状態にあるからいい。しかし、これから少しして落ち着いた時、アルトは、自分のしたことに自分が耐えられる気がしなかった。
自分の繭を見る。
痛みの残る指で、それに触れた。
まず、罪悪感を感じるための糸を切ろうとした。しかし、今の疲弊した指ではそう簡単に切れそうになかったので、ひとまず結紮した。これで、この糸はマヒ状態になるはずだ。
次に、クツナ以外の人間への思いを束ねた糸を、ひとまとめにしてつかむ。元から大した量ではない。
自分には、キクノを治すことはできない。ああなってしまえば、クツナはもちろん、クツゲンやアルトの父親にもどうしようもないだろう。取り返しのつかないことをした。
しかし、これはどこかで、アルトが望んでいたことでもあった。クツナには自分だけ。
自分にもクツナだけ。そうやって生きていくことを、ずっと望んでいた。
現実にはそんなことは不可能に近い。なら、クツナ以外の人間との繋がりに、何の価値も見出せなくなればいい。そういう人間に、自分でなってしまえばいい。
今までに考えつきはしても、実行することはなかった。
だが、その一歩目を、今まさに踏み出したのではないのか。己の望むままの生き方を求める、その端緒に立ったのではないのか。
「お父さん、僕はね、あなたが嫌いだった! お母さんのことも、好きじゃなかった!」
指が切れることも覚悟して、アルトは、まとめて持った繭のうちから、両親を想う糸を結紮した。もう、指が痛いのか痛くないのか、それすらも分からない激痛の中にいた。
次にキリへの想いの糸を、同じように縛った。
それ以外の人間は、元々とるに足らない人々だったが、クツナ以外の誰にも興味が向かないように己の繭を次々に処置していく。
まだ指は全て残っていた。一本も切れていない。繭使いは、被術者が望んでいないことをすると、その気持ちが強ければ強いほど、指に跳ね返ってくるダメージが倍加する。無事でいる十本の指を見て、アルトは、どんな自分がこの日が来ることを望んでいたかを思い知った。
その時、キクノがゆらゆらと立ち上がった。その顔は、かつて見たことがないほどの悲壮感に満ちていた。
キクノは居間の隅の戸棚を開け、中から荷造り用のロープを取り出した。そして無言で台所に向かう。アルトはその後ろ姿を追った。所作は静かだったが、キクノの脳の中は今、激しい絶望に蹂躙されているはずだった。
台所の天井近くに、太い横木が渡されている。キクノは脚立を立てて上がり、そこへロープをかけた。輪になった一方に、自分の首を通す。
キクノが脚立を蹴った。その細い体が宙に浮く。その両目からぼろぼろと落ちた滴が、台所の古い床板を叩いた。つい十数分前、アルトをこの家に招いたのと同じ人間とは思えない、生気の抜け落ちた表情。アルトはそれを見た。
いきなり、玄関の戸が開いた音がした。
続いて、帰宅を告げるクツゲンの声。出かける前と同じ日常が続いていることを疑わない響き。アルトは、底知れない苛立ちを感じた。
アルトは、台所の戸棚の陰に身を潜めた。
クツゲンの廊下を踏む音が、段々と近づいてくる……
アルトは知らないことだったが、この日、クツナとキリもまた、学校には行っていなかった。
「昨日の今日で、会いたいなんて連絡をよこすとはなあ」
キリの携帯電話に、昨日の少女からメッセージが届いたのは今朝のことだ。
「いいじゃない、一日くらい学校さぼっても大丈夫よ。先生には病欠って連絡はしておいたし」
この日は、二人とも一台ずつの自転車に乗っていた。冷静に考えればこの間はなぜわざわざ二人乗りで行ったのか、クツナは自分の状況判断能力に疑問を抱かざるを得なかったが、キリが関わるとこういうことは多かったので、それ以上考えるのはやめた。
「二人乗りだったら、私漕がなくても済んだのに」
「人がせっかく考えまいとしてるってのに」
朝の風を浴びながら、二人はペダルを漕ぐ。はた目には、登校の途中にしか見えないだろう。実際には、学校とはまるで逆方向へ疾走しているのだが。
ふとクツナが脇を見ると、キリの表情が優れなかった。
「どうした?」
「ごめんね、巻き込んで。私が勝手にやり出したことなのに」
「今さらだろ、そんなの」
「私、最近、親のことで結構悩むことが増えて。やっぱり親が、その、個性的だと、周りとは違うことが増えるじゃない?」
クツナは、回数は少ないが、キリの母親を何度か見たことはある。見た目で人を判断するのはよくないというものの、奇抜な髪の色や他で見たことのない装身具を前にすると、
あまり自分が積極的にコミュニケーションを取りたくなる外見とは言えなかった。繭使いの才能を見せたキリをクツナたちに引き合わせてくれたことに感謝はしているので、特に嫌いというわけではないが。
「どうして私だけがこんな思いをしなくちゃいけないのかって、そんなの考えることもあるのね。だから、親のことで悩んでる子供見ると、つい」
「できる範囲でなら、いいんじゃないのか。キリがそうしたいんだろ。僕だって別に、自分よりも小さい子供を見捨てたいわけじゃないし」
ふっと、キリがクツナを見る。すぐに前を向きなおすが、その顔は憑き物が落ちたようだった。
「……ねえ、クツナ。そこの空き地で、ちょっと休憩しようか」
目が覚めると、アルトは、のろのろと制服に着替た。
父親は、いつもアルトが目覚める前に出掛けている。制服を汚さないように気を付けながら目玉焼きをかじり、トーストを飲み込んで、アルトは家を出た。
昨日はどうかしていた。ハムスターはすぐに治した。でももうあの小さな生き物は、アルトのことを嫌悪すべき敵を見る目でしか見なくなっていた。おかげで、アルトは今日も朝から寒々しい気分を抱えている。
ハムスターを傷つけると、必ず思い出す嫌な記憶がある。あれはアルトがまだ、小学二年生の頃だった。初めてハムスターの外傷を治す訓練をすることになり、手ごろな一匹を、父親がアルトに渡した。初めての生物は施術の前によく対象を観察した方がよいという
ことで、その一匹は飼育室でなく、アルトの部屋で飼うことになった。
アルトはそのハムスターにアムという名前を付け、普通のペットのように扱い、撫で、手に乗せ、餌をやって喜び、糞の掃除を楽しんだ。
そのハムスターが、一週間後、いよいよ訓練に使われることになった。父親に見立てでは、メスで背中に入れた傷くらい、当時のアルトならば余裕をもって治せるはずだった。
しかしアルトは、血を流すアムの名前を呼び、動転して、繭を扱うどころではなかった。
結局訓練は失敗し、アムは死んでしまった。
「治療対象を、一個の生命体以上のものと意識するな」
父親はそうアルトに諭した。それは今後アルトが繭使いとしての能力を収めていくにあたって、必要な概念だったかもしれない。しかし、手のひらの上で冷たくなっていくアムの感触に打ちのめされていたアルトに、それが届いたとは言えなかった。
この時のことを思い出し、アルトの気分はますますふさぐ。
「学校って、行かなかったらどうなるのかな。どうってことないか」
そう口に出すと、もう登校する気がしない。
目的地があるわけではないので、冷えた朝の空気の中をふらふら歩いていると、始業時間がやって来て、そしてあっさりと過ぎた。
平日午前中の町中というのはあまり歩いたことがなかったので、ありふれた住宅街もそれなりに新鮮ではある。気が付けば、歩き慣れた道をなぞり、アルトはクツナの家の近くまで来ていた。
「アルト君?」
いきなり名前を呼ばれ、振り向くと、クツナの母親、御格子キクノが道に立っていた。
歩道があるような大きな道路ではないので、道端の塀に寄りながら歩いてきたキクノは、手にコンビニの袋を提げている。
「学校は、サボりました。生まれて初めて」
何か聞かれる前に、そう言ってやる。するとキクノは驚くでもなく、
「行くところがないなら、うちにでも来る? クツナもおじさんもいないけど」
と言って、すたすたとアルトに歩み寄り、いたずらっぽい口調で耳打ちした。
「おじさんね、今日は会社を休んで、繭使いの仕事に行ってるの。午前中には帰ってくる予定だから、いないうちの方が気楽でしょう」
そろそろ、アルトの足も疲れ始めていた。特に何を考えるでもなく、歩き出したキクノに着いていく。
勝手知ったる御格子家の中、居間のソファに、二人は向かい合って腰かけた。
「お茶でいいかな」
「ええ。コーヒー、飲めないので」
「私もなの。うちの男二人は、すっかりコーヒー党だけど」
テレビもつけず、他に人もいないので、家の中は妙に静かだった。暖房がつき、快適なはずの部屋が、奇妙な圧迫感を持っている。
「どうして今日は学校を休んだの。なんて、聞いてもいいかな」
「特に理由はないです。ただ、必ずしも行かなくてもいいものなんじゃないか、と思っただけで」
「気になっているのは、何かもっと別のことなのね」
そう言われて、アルトは今までになく激しく、クツナの母親に対して嫌悪を覚えた。なぜ――と自問するが、分からない。
最近の自分はおかしい。今までずっと、クツナの両親には親しみを感じこそすれ、不快に思ったことなどなかったのに。
「アルト君、クツナよりずっと大人びていると思う。だから、あの子には思い至らないような悩みがあるんじゃない?」
キクノの顔には、慈しむような表情が浮かんでいた。そこには善意しかなかった。それなのに、アルトの感情はさらに、負の方向に高ぶった。
――知ったようなことを言うな。
――僕のことも、クツナのことも。
――親だからって、大きな顔をして。
アルトは昨夜のハムスターを思い出した。眼に力を込めて、キクノの繭を可視化する。あのネズミと同じくらい、無防備だ。今すぐにでも、どうにでもできてしまう。なぜこんなに油断しているのか。
「キリちゃんもいい子だけど、男の子と女の子じゃ、分からないこともあると思うから。
クツナが、アルト君のことを助けてあげられるといいんだけど」
アルトは、生まれてから今までの中で、この頃が最も不安定だった。
だから、何を言われても素直に受け取ることは難しかった。しかしキクノの、クツナの無力を訴えるような言い方と、結局はクツナを手中に収めている親としての余裕のようなものが、とりわけアルトを胸中で激昂させた。
表には出さなかったが、既にこの時、アルトの精神は荒波に揉まれる難破船のようだった。
ふと思いつく。
目の前にいる母親、それに父親とキリ。
この三人がいなくなったら、クツナはどうなるだろうか。アルト以外に、心を許せる人間のいなくなったクツナは。
アルトは幼少の頃から、生き物の繭に触れてきた。父親の手伝いとして、この頃には何例も人間の繭も繰っていた。それを通じて、人間の心や体の変質は、あまりにも容易なものなのだと感じていた。アルトは、父親が人間のありようを直接的に変化させる様を見慣れ過ぎていた。そして、父親譲りの技術も身につきつつあった。
少年は感情的になっていた。それぞれの人間関係が作る孤独の中で、失うものに、取り残されることに、怯えていた。屈辱に怒っていた。欲しいものを求め、飢えていた。必要なものとそうでないものとの間で、半ば自暴自棄になっていた。
そこに、こうしてやったらどうなるだろうという好奇心が噴出した。
自制心は、不安定さの中で、あまりにも無力だった。
お茶のお代わりを入れようと、キクノが席を立つ。その背中の無防備さが、最後の後押しをした。
アルトは立ち上がった。異変を察したキクノが振り向く前に、アルトの両手がキクノの繭に突っ込まれた。
十指が弾け飛びそうな激痛が、アルトの神経に突き刺さる。しかし、痛覚から生理反応を遮断する技術を、アルトは父親から与えられていた。どんなに強い痛撃があろうと、指は何の影響もなく動く。アルトは、周囲の誰もが思っていた以上に、繭使いとして優れていた。そうでなければ、この時、ことは全く違う結果になっていたかもしれない。
息子の友人を相手に油断しきり、心を開いていたキクノには、アルトにとって防御などないも同然だった。
硬直しているキクノの、その繭の中枢に、ものの数秒でアルトはたどり着く。
まず、精神の防衛機構を解除する。これの調節次第で、どんなに精神的にタフな人間であっても、偶然聞いた陰口ひとつで膝を屈するようになる。アルトはキクノのそれを、調節どころか、ゼロにした。
どんな人間にも、人生の中での後悔、失敗による哀切、人間関係による痛苦がある。それらが、心の傷に対抗する術を失ったキクノの精神に流れ込んでいくのが、アルトには見えた。
キクノがどんなに楽天家でも、強靭な気力があっても、明朗な性格でも、もはや何の関係もない。
この状態に陥った人間がたどる道は、ひとつだった。
汚物で汚れた手袋を脱ぎ捨てるかのように、アルトはキクノの繭から手を引き抜いた。
指は切れていないようだったが、凄まじいダメージがある。普通なら、一本や二本は失っていてもおかしくない施術だった。
「過去には、直接心臓すら止められる繭使いもいたそうですが、僕などでは、これが限界ですね」
荒い息をつきながらアルトが吐き捨てても、その場にただくず折れたキクノは、起き上がるそぶりも見せない。
それ以上は言葉も告げず、アルトは居間を出た。気分が悪い、どころではない。視界が揺れ、まっすぐ歩けず、壁に手をつく。
吐き気がこみ上げ、そのまま胃液が口からこぼれた。
――何をした。
涙も出ている。胃液には、泡になった唾液が混じった。
今はまだ興奮状態にあるからいい。しかし、これから少しして落ち着いた時、アルトは、自分のしたことに自分が耐えられる気がしなかった。
自分の繭を見る。
痛みの残る指で、それに触れた。
まず、罪悪感を感じるための糸を切ろうとした。しかし、今の疲弊した指ではそう簡単に切れそうになかったので、ひとまず結紮した。これで、この糸はマヒ状態になるはずだ。
次に、クツナ以外の人間への思いを束ねた糸を、ひとまとめにしてつかむ。元から大した量ではない。
自分には、キクノを治すことはできない。ああなってしまえば、クツナはもちろん、クツゲンやアルトの父親にもどうしようもないだろう。取り返しのつかないことをした。
しかし、これはどこかで、アルトが望んでいたことでもあった。クツナには自分だけ。
自分にもクツナだけ。そうやって生きていくことを、ずっと望んでいた。
現実にはそんなことは不可能に近い。なら、クツナ以外の人間との繋がりに、何の価値も見出せなくなればいい。そういう人間に、自分でなってしまえばいい。
今までに考えつきはしても、実行することはなかった。
だが、その一歩目を、今まさに踏み出したのではないのか。己の望むままの生き方を求める、その端緒に立ったのではないのか。
「お父さん、僕はね、あなたが嫌いだった! お母さんのことも、好きじゃなかった!」
指が切れることも覚悟して、アルトは、まとめて持った繭のうちから、両親を想う糸を結紮した。もう、指が痛いのか痛くないのか、それすらも分からない激痛の中にいた。
次にキリへの想いの糸を、同じように縛った。
それ以外の人間は、元々とるに足らない人々だったが、クツナ以外の誰にも興味が向かないように己の繭を次々に処置していく。
まだ指は全て残っていた。一本も切れていない。繭使いは、被術者が望んでいないことをすると、その気持ちが強ければ強いほど、指に跳ね返ってくるダメージが倍加する。無事でいる十本の指を見て、アルトは、どんな自分がこの日が来ることを望んでいたかを思い知った。
その時、キクノがゆらゆらと立ち上がった。その顔は、かつて見たことがないほどの悲壮感に満ちていた。
キクノは居間の隅の戸棚を開け、中から荷造り用のロープを取り出した。そして無言で台所に向かう。アルトはその後ろ姿を追った。所作は静かだったが、キクノの脳の中は今、激しい絶望に蹂躙されているはずだった。
台所の天井近くに、太い横木が渡されている。キクノは脚立を立てて上がり、そこへロープをかけた。輪になった一方に、自分の首を通す。
キクノが脚立を蹴った。その細い体が宙に浮く。その両目からぼろぼろと落ちた滴が、台所の古い床板を叩いた。つい十数分前、アルトをこの家に招いたのと同じ人間とは思えない、生気の抜け落ちた表情。アルトはそれを見た。
いきなり、玄関の戸が開いた音がした。
続いて、帰宅を告げるクツゲンの声。出かける前と同じ日常が続いていることを疑わない響き。アルトは、底知れない苛立ちを感じた。
アルトは、台所の戸棚の陰に身を潜めた。
クツゲンの廊下を踏む音が、段々と近づいてくる……
アルトは知らないことだったが、この日、クツナとキリもまた、学校には行っていなかった。
「昨日の今日で、会いたいなんて連絡をよこすとはなあ」
キリの携帯電話に、昨日の少女からメッセージが届いたのは今朝のことだ。
「いいじゃない、一日くらい学校さぼっても大丈夫よ。先生には病欠って連絡はしておいたし」
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「二人乗りだったら、私漕がなくても済んだのに」
「人がせっかく考えまいとしてるってのに」
朝の風を浴びながら、二人はペダルを漕ぐ。はた目には、登校の途中にしか見えないだろう。実際には、学校とはまるで逆方向へ疾走しているのだが。
ふとクツナが脇を見ると、キリの表情が優れなかった。
「どうした?」
「ごめんね、巻き込んで。私が勝手にやり出したことなのに」
「今さらだろ、そんなの」
「私、最近、親のことで結構悩むことが増えて。やっぱり親が、その、個性的だと、周りとは違うことが増えるじゃない?」
クツナは、回数は少ないが、キリの母親を何度か見たことはある。見た目で人を判断するのはよくないというものの、奇抜な髪の色や他で見たことのない装身具を前にすると、
あまり自分が積極的にコミュニケーションを取りたくなる外見とは言えなかった。繭使いの才能を見せたキリをクツナたちに引き合わせてくれたことに感謝はしているので、特に嫌いというわけではないが。
「どうして私だけがこんな思いをしなくちゃいけないのかって、そんなの考えることもあるのね。だから、親のことで悩んでる子供見ると、つい」
「できる範囲でなら、いいんじゃないのか。キリがそうしたいんだろ。僕だって別に、自分よりも小さい子供を見捨てたいわけじゃないし」
ふっと、キリがクツナを見る。すぐに前を向きなおすが、その顔は憑き物が落ちたようだった。
「……ねえ、クツナ。そこの空き地で、ちょっと休憩しようか」
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