棘を編む繭

クナリ

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第四章 6

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 キリが促したその場所は、何に使われているのか、「空き地」としか表現できないような場所だった。むき出しの荒れた土の上に、何に使われるものなのか不明の巨大なコンクリートの塊が置かれ、何かに使われる予定があったのかもしれない壊れた木組みが、大小無数にそこに寄りかかっている。
 一戸建ての家一二件分ほどの敷地だったが、屋外の物置とでも表現するのが似つかわしかった。
 二人は自転車を止め、コンクリートの構造物の裏へ回り込んだ。周囲からは、覗き込まれなければ見つからないだろう。
 キリは適当なコンクリートの凹凸に腰かけた。クツナも隣に座る。夜の間にすっかり冷やされたそれは、朝日も届かない物陰で、氷のように冷たい。
「何だよ、こんなとこで。休むにしても、もうちょっと」
「あのさ、この間二人乗りした時、私に抱きつかれてたわけじゃない? 何か思った?」
 両手の指を組んだキリが、地面を見ながら言ってきた。クツナは少し面食らう。
「二人乗りで、二人でペダル漕ぐ方法ってのを聞いたことがあったなあと思ったかな」
「あれ加速つきすぎて危ないからダメ。いやそうじゃなくて、ほら、男子と女子じゃない、一応」
「まあ、ちょっとはな。そろそろ色々気を遣わないといけない年頃かな、とは」
「私、クツナが好きだよ。アルトのことも好き。男子として、二人ともすごくいいと思う」
 言うが早いか、キリはクツナに抱きついた。
「おい!?」
「こうして、抱きしめたいって思うこともある。抱きしめられいって思うことも。寂しいからだと思うんだけど、誰でもよくなんかない、クツナとアルトだから」
 ごわごわとした制服用のコートの向こうに、女子ならではの体の柔らかさと、自分よりも少し高い体温が、クツナに伝わってきた。
「でも、……」
「ああ」
「キスとか、それ以上のことがしたいとは、思えないの」
 クツナの肩にうずめたキリの声は震えている。
「何があった?」
「クラスで、何人か、彼氏ができたって子がいて。友達だったのが、いつの間にかって」
 そういえば、クツナの中学でもそんな話が湧きつつある。
「男子と女子で仲良くなれば、その方が自然だって。私も、全然それはおかしくないし、そういうものだと思う。でも私は、クツナとアルトと、今のままでずっといたい。あんなお母さんもいらない。繭使いの力もいらない。どっちも、今日なくなっても、私は平気。ただ、二人だけは、なくしたくないの」
 キリはそこまで言うと、ぱっとクツナから離れた。真正面からクツナの目を見る。
「ダメかな」
「全然ダメじゃないだろ。僕だってそうだ」
 キリの繭の形が、クツナの目には見えている。怯えながらうごめく部分に、安心を得て落ち着いている部分。スイッチで切り替えるように、どちらか一色というわけにはいかない。これを抱えながら、誰もが生きていく。
「僕らに、キスは必要ない。彼氏や彼女でいる必要もない。ただ大切なだけだ。それでいいだろ、少なくとも僕らは」
 再び自転車にまたがると、二人は、他愛ない話をしながら先へ進んだ。
 吐息が白い。その白の向こうの冬の空には鉛色の雲が広がっており、雨の気配があった。自転車だから降り出しては困るのに、キリと顔を見合わせると少し笑えてしまう。心を許せる人というのは、不思議だった。
 しかし、そんな気分も、すぐに消え去ることになる。
「この辺りみたいなんだけど」
 少女が指定してきたのは、昨日話をした公園とは違う、住宅街から少し離れた場所だった。通勤や通学途中の人もまばらで、そもそもの人通りがあまり多い場所だとは思えない。目につくのは、つぶれた店、柵の張られた空き地、ずいぶん古そうな木造の家がぽつぽつと。人はあまり住んでいないようだった。
「こんなところなのか?」
「うん。ええと、このポスターの貼ってある木の電柱の先の路地、ここに入る……と」
「本当かよ」
 キリは、自転車を道端に停めると、路地裏に入っていく。クツナもやむなくその隣に駐輪し、すぐに取りに来ますからと、誰にともなく胸中で言い訳する。
 前を行くキリの異変に、クツナは気づいた。明らかに歩みが遅くなっている。地面を見ながら歩いているせいだ。クツナも下を見る。黒っぽい染みのようなものが点々と続いていた。

 裏路地の先、木造の建物と建物の間に、わずかに開けた空間があった。キリの中学の女子トイレが、ちょうどこれくらいの広さだったが。
 そこに、昨日の少女が立っていた。右手に、果物ナイフを握っている。ランドセルは背負っておらず、身ひとつだったが、その服には赤いしぶきが散っていた。目の焦点が合っていない。
 数瞬、クツナとキリは硬直していた。クツナは少女の繭を見る。
 あのナイフはなんだ。あれは誰の血だ?
 それから二人は同時に、少女の服の前面、胸と腹の辺りに、切れ目があるのに気付いた。少女は受傷している。それに、手にした凶器でこちらを攻撃する意志がないことも、繭を見れば読み取れる。
 キリが叫んだ。 
「ケガしてるのね!?」
 びくんと少女の体が震え、目に生気が戻る。そして、泣き始めた。
「何があった!? いや、言わなくていい。ごめんね。いいからこっちにおいで!」
 そう言いながら、キリは自分から少女に歩み寄った。少女はナイフを持った自分の手に、ゆるゆると視線を送る。
「手を見なくていい! 怖いでしょう? そう、こっち。大丈夫、君は大丈夫だから。連絡ありがとう、本当にありがとうね」
 キリに抱きしめられると、少女はナイフを取り落とした。
 繭を見る限り、少女の傷は浅い。しかし、放っておいていいことでもないはずだ。クツナは携帯電話を取り出し、救急車を呼んで人も呼ぼうと、路地裏から出ようとした。
「待って、行かなくていいよ、先にこの子を!」
「だから、ケガしてるんだろ!?」
「この子は、自分の家で何が起きたのか、自分が何をしたのか、大勢の人に知られることに怯えてる。体の傷よりもずっと」
 直に繭に触れているキリは、既にクツナよりも多くの情報を得ている。それはクツナにも分かった。しかし――
「だからってな! キリが言ってたんだろう、感情で処理はしないって!」
「感情で優先順位をつけて何が悪い! 優しさは――」
 キリの繭はほぐされ、糸となり、少女に接続されていた。
「――優しさは、絶対でも無限でもない……。足りなかったんだよ、全然。私も、ずっと一人でいたら、同じだったかもしれない」
 キリは、少女をその場に寝かせ、すぐ脇に膝をつくと、服を胸の上までたくし上げた。
「傷は大したことない。私がきれいにふさげる。そうでなければ、救急車だったんだけど」
 言いながら、キリの手が動き出す。その手腕に、クツナは改めて舌を巻いた。
 外傷の施術に、キリが長けているのは知っていた。しかし目の前に進行する技は、クツナの想像を超えていた。クツナやアルトのように、親が師であるならばまだ分かる。だが、キリはほとんど自己流であるはずだった。動きには無駄が多いのだが、それを上回る速さは、クツナとは比べ物にならなかった。スピードだけなら、クツゲンに勝るとも劣らない。
 少女の繭は、最初は頑なだったが、キリの繭とつながった部分からどんどん柔らかくなっていった。むしろ自分の安否をゆだねるように、塊からひも状へ、そして糸状へとたやすく形を変えていく。

 クツナは手伝おうとはしたものの、キリの動きがあまりに我流であったため、手を出せずにいた。下手をすれば互いの手技が衝突して、邪魔になりかねない。
 出血が止まり、少女の胸と腹にあった一筋ずつの切り傷が、両端から段々とふさがっていく。
 浅いといっても、流血するほどの深さではあった。それがやがて、か細いあざのような跡を残して、傷はふたつとも消えた。
「次だよ。こっちが大変」
「こっちって?」
 少女は目を閉じている。意識もあるのかないのか分からないが、繭使いの程度によっては、こうしたことは珍しくない。むしろ大人しくしてくれていたほうが助かるので、僥倖といえた。
「心の傷の方。この子には今まで、誰にも言えなかったことがあって……このケガは、それが原因なんだね」
 キリは繭を通じて、少女の記憶にアクセスしていた。
 これは一旦つながった以上、相手のことなど知りたくなくてもある程度起きてしまう現象だった。
 しかもたった今起きた「事件」は、あまりにも今の少女の精神の大部分を占め、その原因となった人間関係は繭に強く表出している。
「この子を傷つけたのは、お父さんなんだよ。こんな小さなナイフじゃない、包丁みたい……。今までにも暴力は頻繁にあったけど、刃物を使われたのは今朝が初めて。この子は、母親と、弟を守るために……今まで父親が暴発しないように、ずっと耐えてた。そうすれば、家族は一応形を保ったままいられるから。でも今日、刃物で傷つけられた時、その怖さと痛みは、この子に我慢できる限界を超えた。この子こそ、とっくに暴発してもおかしくなかったのに。それで自分もナイフを手に取った」
 キリは、十本の指を動かして、少女の繭を整えていく。乱れを戻し、しかし戻しすぎず、これから始まる施術に適した形に変えていく。
「この子は果物ナイフで、父親のお腹を刺した。手ごたえからすると、あまり深くはない。でも、父親は叫びながら逃げていった。この子は、どうしたいいか分からなくなった。母親も弟も、家の外では、父親の暴力を内緒にしてた。この子もそう。家族として一応は作り上げられていた形を、壊してしまうのが怖かった。でも、お腹から血を流して走り回る父親が、騒ぎにならないわけはないから。今までとは変わっちゃうね、とても」
 クツナの目に見えている少女の繭は、異様な動きをしている。断末魔の虫か貝のように、もんどりうってねじれるのを、キリがなおもなだめるように整える。
「自壊しようとしている……のか」
「自分さえ頑張れば、今まで通りに耐えれば、家族はバラバラにならずに済んだ。そう思ってるね。強い恐怖感と自責の念があって、そのせいで、なんだっけ、炎天下じゃなくて」
「厭世感か」
「それそれ。凄く、ここからいなくなりたがってる」
 少女の繭の動きが大人しくなってきた。ようやくキリが施術に入れる。
「でも、君は、私を呼んでくれた。どこかで、助けてほしいって……まだここにいたいって、少しは思ってくれてもいるんだって、信じて、いいよね」
 キリの指が踊り出す。活力を失いつつある少女の繭を励ますように、支え、汲み上げ、補強する。
 横で見ているクツナにも、少女の精神は、繭に露わに映った。なぜそこまでして父親の横暴に耐えていたのかといえば、愛情のためではない。そんなものはとっくに尽きていた。ただ――……
「『普通』に、憧れてたんだよね」
 キリが、端的な言葉にする。
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